幼稚園に馴染めない
排泄も食事も全て大人任せにしていた地獄の幼児期を超えた。手先の発達は年齢通りなので、最近、ようやくお箸を上手く使えるようになってきた。それまで凄く苦痛だった。
これでも、四学年上の兄と比べて発達が早いと母がいっていたのだが。トイレもすぐ出来たしおねしょもしてないし話し始めるのも早かったと。うーん、まあそうだろうね。中身成人してるのに、もし同年代と比べて遅かったら泣く。いやまぁ身体能力は発達が遅れる可能性は十分あるけど。
ちなみに栞っていうのが私の今生の名前。三滝栞。可愛いくて知的でいいよね。気に入ってる。昭和な名前じゃなくて良かった。この時代にしてはハイカラ(?)な名前なんじゃ無かろうか?
DQNネームでもなくて良かった。DQNネームつける人は昔からいるからね、織田信長とか。知ってる?信長は、子供の幼名に、奇妙丸だの茶筅だの大洞だの小洞だの、極めつけには九男の名前は、「人」だ。誤字でも脱字でもない。「人」だ。令和でもいないよ、そんな名前つける人。
私は前世で、スマホが手放せない生活を送っていたけど、この時代そんなものはない。じゃあ本や新聞を読むかっていうと、それも無理がある。絵本くらいならともかく、幼稚園に入ってもいない幼児が新聞読むとか、どうよ。今生の家庭は裕福なのだ。気味悪がられて放り出されたら困る。俗物的?まあね。私が就職するころは就職氷河期だからね!
・・・・・・ということで。ドラえもん、ちびまる子ちゃんとかがちょうど放送始まっていたので、ずっとテレビにかじりつき。テレビって偉大な発明だったんだね。感動。
そんなふうに時間を過ごしているうちに、3歳の春が来た。幼稚園に入ることになった。
無理だこれ。
今日から幼稚園よ、と言われて車で送られた。幼稚園に足を踏み入れた瞬間理解した。
あっちでギャン泣きする子、こっちでは喧嘩してる子、ドロドロの子、お漏らししてる子、鼻ほじくってる子。
無理。ほんとにむり。汚いしうるさい。
幼児の泣き声は、人間の耳に不快な周波数なのだ。わんわん泣いている声が頭の中で響く。
しかも汚い。お漏らししてる子とかいるし。それだけならともかく、鼻ほじくってる子もいるし。正直気持ち悪いというか。いや、子供だから仕方ないとは分かってるんだよ?
でも、生理的に、無理。
「よろしくね、しおりちゃん」
だから私は、手を繋ごうとしてか、差し出してきた幼稚園の先生の手を、ついうっかり振り払ってしまったのだ。固まる空気。ごめんね。でも、鼻ほじくってる子と繋いだ手で、私と手を繋がないで欲しい。潔癖と言うなかれ。普通だ。
ということで私は見事に腫れ物扱い。
前提として私は、人に触れられるのが得意ではない。今生の母を含めて。だから、着替えもトイレも、出来るだけ早く自分で出来るようにしたし、出来るだけお行儀よくして、手を繋がなくてもどっかに走ってはいかない、というのを印象づけている。
実の母でさえそうなのだ。他人とはもっと無理。肩とか頭とか撫でられるのも、無理。
自分から触れる分には大丈夫なんだけどね。
この時代、かどうかは分からない。けれど、私が前世で通っていた幼稚園より自由時間が多い気がする。あと、運動会やらお遊戯会やらが多い気がする、多分。良く覚えてないけど。
結論:すごく暇。
仕方ない。今さらおままごととか、する気になれない。積み木とかの玩具も、人と共用はちょっと気持ち悪い。
かといって外遊びは、頭痛くなるから嫌。晴れた日はなんかこうほら、運動場が白く光ってる感じがして眩しくて頭痛くなる。サングラス欲しい。目の露出、下げれないかな。しんどい。
これでも一週間くらいは我慢した。幼稚園の絵本を何周もした。でも、もう無理。
ということで、家にあった父の本、『The Soul of a New Machine』(日本語版では、超マシン誕生)を持って行くことにした。マイクロコンピューター開発初期(なお、今は最先端技術)の、エンジニアたちの情熱がたっぷり入っている、素敵な本だ。なお、英語版である。日本語版は前世で読んだことあったけど、英語版は無かったので、読むことにした。
ドン引いてた周囲には、「むずかしい本をよんで、あたまよくなる!」と宣言している。子供っぽい言い訳は、これが限界かなって。コンピューターに興味があるから、よりはマシに違いない。