第1話 戦闘力F級の勇者
プロローグ 普通の営業マンの最後の一日
午前6時。アラームが鳴る。
うるさい。でも起きる。
田中和也、26歳。中堅商社の営業マン。今日もまた、地獄の一日が始まる。
コーヒーを飲む。苦い、人生みたいに。電車に乗って満員電車に揺られる。圧迫感がすごい。毎朝これだ。慣れない。
会社に到着して挨拶する。「おはようございます」
誰も返してくれない。つらい。
デスクに座ってパソコンを起動。メールチェックしたら45件。全部クレーム。なぜ?昨日、完璧に仕事したはずなのに。
「田中君」
課長が近づいてくる。やばい。絶対にやばい。
「例の件、どうなった?」
例の件?何のことだ。
「あの……どの件でしょうか?」
「昨日頼んだやつ」
昨日?思い出せない。課長の指示なんて、一日に20個は飛んでくる。覚えてられない。
「申し訳ございません。確認します」
「早めに頼む」
課長が去る。結局、何の件かわからない。
午前中は会議が3つ。すべて無駄。結論の出ない会議って、日本の伝統芸能だ。
「田中さんの意見は?」
急に振られる。何について聞かれてるのかわからない。
「えーっと……検討が必要かと」
万能の回答。「そうですね」ってみんな納得してる。よかった。
午後はクライアント訪問。
「今回の提案、厳しいですね」
厳しい?何が厳しいのか説明してほしい。
「どの部分でしょうか?」
「価格です」
価格か。でも、これ以上下げたら赤字だ。
「検討いたします」
また検討。営業マンの必殺技だ。
夕方、会社に戻ると残業確定。今日も帰れない。
「田中君、明日のプレゼン資料は?」
明日?プレゼン?聞いてない。
「いつまでに?」
「明朝一番で」
無理。物理的に無理。でも、やるしかない。
夜10時。まだ会社にいる。PowerPointと格闘中。これだけは得意分野だ。自信がある。でも、眠い。めちゃくちゃ眠い。
コーヒーを飲む。6杯目。胃が痛い。
夜中12時。ようやく完成。でも、明日朝一で修正が入る。絶対に入る。
「お疲れ様です」
警備員のおじさんが声をかけてくれる。優しい。この人だけが優しい。
終電に間に合った。電車で寝る。乗り過ごす。最悪。
タクシーで帰る。金がない。でも、背に腹は代えられない。
午前1時。ようやく帰宅。疲れた。本当に疲れた。
「こんな人生でいいのか?」
独り言。誰も答えてくれない。
ベッドに倒れ込む。このまま眠りたい。永遠に。目を閉じる。意識が遠のく。
そして。
気がつくと、知らない天井があった。
白い石造りの、やたら高い天井。
「おお、お目覚めになられましたか」
知らない声。振り返ると、白いローブの老人。長い白髭に杖を持ってる。ファンタジー小説みたいだ。
「ここは……?」
「ようこそ、アストリア王国へ」
異世界?まさか。でも、現実逃避としては悪くない。
「君が我々の救世主、勇者様ですね」
勇者?俺が?さっきまで資料作成で死にそうだった営業マンが?
冗談だろ。
でも、もしかして本当に異世界転生?よくある話だ。最近読んだなろう小説みたいに。
なら、せっかくだから、やってみるか。
勇者。
田中和也、26歳。人生最大の転機である。
目が覚めると、知らない天井があった。
白い石造りの、やたら高い天井だ。まるで教会みたいな。
「おお、お目覚めになられましたか」
振り返ると、金色の装飾が施された豪華な部屋に、白いローブを着た老人が立っていた。長い白髭に、杖を持っている。
ファンタジー小説に出てきそうな、典型的な大魔法使いって感じだ。
「あの、ここは……?」
「ようこそ、アストリア王国へ。私は宮廷魔法使いのマグヌスと申します」
はい、来ました。異世界転生パターン。
最近読んだなろう小説とまったく同じ展開だ。まさか自分がこんな目に遭うとは思わなかった。
「君が我々の救世主、勇者様ですね」
勇者?俺が?
田中和也、26歳。中堅商社の営業マン。趣味は読書とExcel作業の効率化。運動音痴で、体力測定はいつも下から数えた方が早い。
そんな俺が勇者?
「えーっと、何かの間違いじゃ……」
「いえいえ、間違いございません。聖なる召喚陣が選んだのですから」
マグヌス爺さんは満面の笑みで言い切った。
こういう時、なろう小説の主人公なら「チート能力で無双してハーレム作るぞ!」とか思うんだろうけど、俺の感想は違う。
やばい。めちゃくちゃやばい。
「あの、勇者って具体的に何をすればいいんですか?」
「魔王討伐です。第7代魔王ベルゼブールが復活し、我が国に災いをもたらしております」
魔王討伐って。
俺、虫も殺せない男なんですけど。
「期限はございますか?」
営業マンの習性で、つい納期を確認してしまう。
「できれば1年以内に。それ以上かかると、国が持ちません」
1年で魔王討伐。無茶な案件だ。
「他に勇者候補はいないんですか?」
「申し訳ございませんが、召喚できる勇者は一度に一人だけなのです」
完全に詰んだ。
「わかりました。とりあえず、現状把握から始めさせてください」
こういう時こそ冷静になろう。仕事と同じだ。まずは情報収集から。
「さすが勇者様。では、あなたの戦闘力を測定いたしましょう」
マグヌスが魔法陣を描き始める。光る円が床に浮かび上がった。
「この上に立ってください」
言われるまま、魔法陣の中央に立つ。
暖かい光に包まれる。これが戦闘力測定か。なろう小説でよく見るやつだ。
「おお……これは……」
マグヌスの顔が青ざめた。
嫌な予感しかしない。
「いかがでしょうか?」
「F級……ですね」
「F級?」
「一般的な農民と同レベルです」
終わった。
完全に終わった。
勇者なのに一般人レベルって、どういうことだよ。
「大丈夫ですよ」マグヌスが慌てて付け足す。「きっと隠された力があるはずです。勇者様は戦闘以外にも得意なことがおありでしょう?」
戦闘以外で得意なこと。
「営業とか……マーケティングとか……」
「マーケティング?」
「市場調査です。どういう商品が売れるか分析したり、効率的な営業戦略を立てたり」
マグヌスの目がキラリと光った。
「それです!軍師として活躍していただければ!」
軍師って。
俺、部下の管理すらまともにできないのに。
「でも、戦えないんですよ?勇者が戦えないって致命的じゃないですか?」
「大丈夫です。優秀な仲間をお付けします」
そう言うと、マグヌスが手を叩いた。
扉が開き、一人の女性が入ってきた。
銀髪に青い瞳。清楚な美人のシスターだ。
「シスター・ルナです。勇者様の専属として派遣されました」
ルナと呼ばれた女性は、深々と頭を下げる。
「はじめまして、勇者様。私はルナと申します。回復魔法が得意です」
「あ、えーっと、田中です。田中和也」
「タナカ様ですね。覚えました」
純粋そうな笑顔だ。この人を危険な目に遭わせるのは申し訳ない。
「ルナさんの戦闘力はどのくらいですか?」
「回復魔法はS級です」マグヌスが答える。「ただし、攻撃魔法は使えません」
なるほど。完全にサポート特化か。
「戦闘経験は?」
「ありません」ルナが小さく答える。「教会で修行ばかりしていましたので」
つまり、戦闘力F級の俺と、戦闘経験ゼロの回復専門シスター。
これで魔王討伐しろって?
無理ゲーすぎる。
「他にも仲間は集まるんですよね?」
「もちろんです。冒険者ギルドで募集をかけております」
「どんな人たちが応募してるんですか?」
「それが……少し問題がありまして」
マグヌスが苦い顔をする。
「どんな問題ですか?」
「集まってくるのが、いわゆる問題児ばかりで……」
問題児。
営業でも一番厄介なタイプだ。
「具体的には?」
「元傭兵のバーサーカーと、自称天才アーチャーです」
バーサーカーって、暴走するタイプの戦士か。自称天才っていうのも地雷臭しかしない。
「他に候補はいないんですか?」
「優秀な冒険者は皆、高報酬の依頼に行っております。残念ながら、勇者パーティの報酬は……」
「低いんですね」
「国の財政が厳しいもので……」
要するに、安い給料で危険な仕事をやってくれる人材を探してるわけだ。
そりゃ問題児しか集まらない。
「わかりました。とりあえず、その二人に会ってみます」
こうなったら、持ち前の営業スキルで何とかするしかない。
部下の管理も営業の一部だ。問題のある部下をまとめるのは慣れてる。
多分。
「ありがとうございます、勇者様」
ルナが嬉しそうに微笑む。
「あの、田中でいいですよ。勇者様って呼ばれるのは慣れなくて」
「でも、神に選ばれし方ですから」
「いや、これ多分手違いだと思うんですよね」
「そんなことありません。神様は間違いを犯されません」
純粋すぎる。
この子を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「とりあえず、冒険者ギルドに行ってみましょうか」
「はい!タナカ様についていきます!」
ルナの目がキラキラ輝いている。
完全に俺を英雄だと思い込んでる。
申し訳なさすぎる。
城を出ると、中世ヨーロッパ風の街並みが広がっていた。
石畳の道に、木造の建物。馬車が行き交い、商人たちが声を張り上げている。
「あ、勇者様だ!」
「本当に若いのね」
「大丈夫なのかしら……」
街の人たちがひそひそと話している。
期待と不安が入り混じった視線が痛い。
「皆さん、とても心配されてますね」
「第6代魔王の時は、勇者様がとても強くて、3ヶ月で討伐されたそうです」
3ヶ月って早すぎる。
前任者のハードルが高すぎる。
「今回の魔王は強いんですか?」
「前回より遥かに強力だと聞いています」
絶望的だ。
戦闘力F級で、歴代最強の魔王と戦えって?
無理に決まってる。
でも、やるしかない。
この世界の人たちも、ルナも俺に期待してる。
営業マンとして、期待に応えるのが仕事だ。
「冒険者ギルドはあそこです」
ルナが指差す先に、大きな木造の建物があった。
「GUILD」と書かれた看板が掲げられている。
いよいよ、問題児たちとの出会いだ。
うまくマネジメントできるだろうか。
不安しかないけど、やってやろうじゃないか。
田中和也、26歳。
異世界で管理職デビューである。