4 ベクトル(Vector)
講義が終わり、教授がホログラムを消すと、教室内は一気に現実に引き戻されたかのようだった。学生たちは各々のナノコンピュータをスムーズに閉じ始める。
俺は、いつものように思考の渦に巻き込まれていた。何かを考え出すと、ついつい深みにハマってしまう性格だ。周囲の喧騒に気づかず、ぼんやりと自分の考えに没頭していることが多い。
「光、お前、また深く考え込んでる顔してるぞ」
ヒデがこちらを向いて、親しみのある笑顔を見せた。この男はいつも明るく、エネルギッシュで、そのポジティブなエネルギーが周囲にも伝染する。
「何かあったのか?」
「いや、特に何も……」
「次の講義はAIとロボティクスだよな?」
「ああ。自律型ロボットの開発について、最新の研究を紹介するらしい」
自律型ロボットは、自律的に動作し、外部からの指示や計画を最小限にして、自己判断でタスクを遂行するロボットである。ユニバーサルアシスタントロボット(UAR)という、家庭、職場、公共空間など、さまざまな環境で幅広いタスクをこなすことができる汎用型の自律ロボットの開発が近年盛んに行われている。
「幕内くん、カンニングなんかで笑われちゃって、不運だったわね」
一人の女が教室の後方からゆっくりとした足取りで近づいてきた。
「須黒か……」
彼女の名前は須黒真理。長い黒髪が光を受けて絹のように輝き、その青い瞳は知性と冷静さを映し出していた。清潔感のある白いラボコートに包まれ、ナノテクノロジーのアクセサリーが彼女の存在をさらに際立たせる。教室の全員が彼女に目を奪われ、その瞬間、教室内は息を呑むような静けさに包まれた。
ただでさえカンニング疑惑で目立っているのに、これ以上注目を浴びるのは勘弁だ。この女の登場はさらに状況を悪化させる……。
「マイクロイヤホンは翻訳で使うのが正しい使い方よ?」
須黒はまっすぐ俺を見つめ、その瞳には疑念が浮かんでいる。そのまっすぐな視線に、俺は内心少し焦る。
「そ、そんなの知ってる……」
マイクロイヤホンは、異なる言語を話す人々が即座に意思疎通を図るためのツールだ。耳介に装着する小型イヤホンで、国籍問わず自然な会話ができる。
「だから、なんでこんなところで使ってるのか聞いてるのよ」
教室の天井に設置されたLED照明が、彼女の艶やかな黒髪を照らしている。まるでステージのスポットライトみたいで、その光に照らされる彼女は一層美しく見える。だが、その美しさに見惚れられるほど今の俺には余裕がない。。
「た、ただ、ちょっと試してみたかっただけだ……」
言い訳にもならない言葉を口にしながら、視線を逸らす。須黒の強気な態度は、まるで心の奥底まで見透かしているかのようだ。
「本当に?」
「あ、ああ……」
「なーんだ、つまらない。じゃあ、移動しましょう。次の講義も始まるしね」
須黒の提案に従って、俺たちは教室の喧騒から離れ、廊下の端にある少し静かな場所へと移動した……。
◇
「ははははは!なんだよさっきのやりとり。あんな借りてきた猫みたいな光、おもしろすぎんだろ」
ヒデが笑いを抑えきれずに言った。
「にしても、珍しいな。真理が講義に出席してるなんて」
笑いすぎて泉のように溢れる涙を拭いながらヒデは須黒に指摘した。
「ちょっとした気まぐれよ。相変わらず退屈な授業だったけどね。」
須黒は肩を竦めて答えた。
須黒は理論物理学を専攻しているが、基本的に講義は面倒だと言ってほとんど出席しない。しかし、彼女は非常に優秀で、成績は常にトップクラスだ。そんな彼女にとって、ほとんどの講義は釈迦に説法だろう。
「にしても面白かったわね、さっきの幕内くんの反応」
「ああ、最高だったぜ!」
ヒデが楽しそうに相槌を打つ。その笑顔は、かつて存在したと噂の夏祭りの夜のようにキラキラと輝いていた。ムカつくぜ……。
「お前ら、うるせえ……」
そう……、俺が焦ったのは須黒の圧力に屈したからではない。この女のせいで周りの注目を浴びたことが原因だ。俺の心臓は、祭りの太鼓のように激しく打ち鳴らされていた。
「だって、幕内くんってたくさんの人に見られるの恥ずかしがるタイプでしょ?」
「それを分かってて、わざと目立つような立ち回りをしたってことか?」
「ええ。強い口調も、立ち位置も、全部、あなたが脚光を浴びるため。そして、その反応を見て私が楽しむため」
「悪魔め……」
俺は唇をかみしめた。
「まあまあ、光。そんなに怒るなって。俺たち、友達だろ?」
ヒデが間に入り、軽く肩を叩いた。
「次の試験はせいぜい一人で頑張ることだな」
「そ、それはないぜ光さん……」
◇
ヒデと須黒と一緒に次の教室に向かう途中、俺たちはキャンパス内の庭園を通り抜けた。空中庭園には、さまざまな植物が植えられていて、高層ビルの間に自然の癒しを提供している。その光景は、まるで都会の喧騒を忘れさせるために、誰かがわざと配置したかのようだ。
「この庭園、本当に落ち着くよな」
と、ヒデがふと口にする。その視線は緑の茂みの奥に隠れるように咲く色とりどりの花々に向けられている。
「そうか?俺は人工物を自然で無理やり誤魔化している感じがして、あまり好きになれないがな」
この場所がどれだけ自然に見えようと、やはり人の手が加わっているという感覚が拭えなかった。
「相変わらず捻くれてるわね……。でも、それがこの都市の魅力なんじゃないの?」
その言葉には、彼女なりのこの場所への愛着が垣間見えた。
高層ビルのガラスに反射する陽光が、庭園の木々を煌めかせ、俺たちの会話に一瞬の静寂をもたらす。この都市の景観は自然とテクノロジーが奇妙なバランスで共存しているが、そのバランスの中で、俺たちもまた1つのピースとして存在しているのだと再認識した。
「次の講義が始まっちまう。急ごうぜ!」
ヒデが俺たちに声をかける。現実に引き戻された俺と須黒は教室へと再び歩みを始めた。
◇
教室に到着し、次の講義が始まるのを俺たちは席に座って待っていた。すると、ヒデが再び話しかけてきた。
「光、お前が作ってるドローンだけどさ……、あれ、ハードの構造めっちゃ複雑じゃねーか?」
「できないか?」
「いや、正直言って燃えるぜ!」
ヒデの心の中で大きな炎が燃え上がるのを感じた。
「なになに何の話?」
「二人でドローン作ってんだよ。光がソフト担当で、俺がハード担当。」
ヒデは少し得意げに答えた。やめておけ。この女に得意げになっても鼻で笑われて終わるだけだ。
「へぇー。どんなドローンを作ってるの?」
「俺たちは非探知ステルスドローンを作っているんだ」
「非探知ステルスドローン?」
須黒は首をかしげた。
「俺も詳しくは知らねーよ。光に聞いてくれ。」
「それって、スパイでもするつもり?」
「まあ、そんな感じだ」
「今すぐ通報していい?」
須黒は冗談半分でホログラムウォッチの通報画面を表示した。
「じょ……冗談だ……。監視システムの理解を深めるためだ。最近のセキュリティ技術は急速に進化しているから、それを理解するために逆に突破する技術を作るってのは実に合理的だろ?」
須黒は呆れたように溜息をついた。
「はあ……、ガキのいたずらじゃないんだから……」
「そっ、それにドローンって男としてのロマンがあるんだよ。空を自由に飛び回るって、ちょっとした冒険みたいだろ?」
「いいこと言ったぜ、光!」
「やれやれ、男のロマンってのも大変ね……」
須黒は肩を竦め、ますます呆れた様子だった。
「女に男の夢を理解できるなんて思ってないさ。」
「あら、幕内くんは夢なんてクソ喰えってタイプの人間だと思ってたけど」
と須黒は冷ややかに言い放った。
(よく分かってんじゃねーか……)
俺は心の中でそうつぶやきながら、須黒の観察眼に無駄に感心した。
「ところで、困ってるなら私も協力しようか?」
「必要ない。というかお前の得意分野は理論物理学だろ?」
「理論物理学も応用次第では役に立つわよ。特に非探知ステルスドローンなら、物理的な特性を最大限に活かす必要があるでしょう?」
「確かにそうだな。でも、理論だけじゃなくて、実際に動かすためのプログラムが必要なんだ。それにお前がいたらダメ出しばかりしてくるだろ?作業効率が落ちる」
「たしかに……。私と幕内くんだと、毎分言い争いになるのは避けられないわ……」
須黒は顎に手を当てて、いろいろなシナリオを頭の中でシミュレートしたご様子だ。
「ところで、次の実験はいつやるの?」
「えーっと、それはな……」
とヒデが言いかけた瞬間、俺が代わりに答えた。
「来週末にやる予定だ。新しいセンサーを試す。それに、非探知ステルスのアルゴリズムも改良するつもりだ」
「へー、面白そうね。見に行こうかしら」
「勝手にしろ……」
「……」
須黒はしばらく黙り込んだ。彼女の目はどこか遠くを見つめており、その瞳に映る景色は、俺には見えないもので溢れているようだった。俺も黙ってその様子を見守った。彼女の心の中で何かが動いているのを感じ取った。
その瞬間、教室のドアが開き、次の講義の教授が入ってきた。
「じゃ、私は自分の研究室に行くわ」
と須黒が立ち上がりながら言った。彼女の長い髪が揺れ、その姿が一瞬、天井の光で輝いた。
「ん?講義受けないのか?」
「えぇ。やっぱり退屈そうだからやめることにする」
「そうか……。じゃあまたな、真理!」
「うん。またね、秀明くん。あとついでに幕内くん。」
「うるせえ。さっさと行きやがれ、このクソ女……」
「あらあら、大衆の前でもそのくらい大きな態度でいればいいのに」
「ほっとけ」
俺はぼそりとそう呟き、目を逸らした。
「それじゃあ、ごきげんよう。あ、あのカンニングはそういうことだったのね……」
最後の方は何を言っているかよく聞こえなかったが、教室にはしばらく彼女の残り香が漂っていた。
◇
須黒の後ろ姿が小さくなって見えなくなるくらい遠くまで行くと、ヒデが俺に尋ねてきた。
「明日も実験するんじゃなかったっけ?」
「明日、あいつに来られたら困る……」
「なんで?」
「まだ未完成のプログラムを見られるの……、恥ずい……。」
「はぁ?ったくガキかよ……。」
俺の言葉に、ヒデは一瞬驚いた顔をした後、額に手を当てて深い溜息をついた。
「あの女のことだ。いろいろダメ出ししてくるだろうからな」
「だから、真理に見せるなら完成した後の方がいいと?」
「ああ。来週にはアイツに見られても恥ずかしくないレベルにできるだろう」
「でも、本当にそれでよかったのか?真理はかなり優秀だろ?メンバーに加われば、頼りになるんじゃないか?」
「あいつはあいつで自分の研究で忙しいんだ。邪魔するわけにはいかない」
「それもそうだな……」
ヒデは納得したようにうなずいた。
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