2 質量(mass)
珈琲の最後の一滴がカップから消えたとき、俺は重い腰を上げた。
部屋を見回すと、散乱した書類やガジェットの山が目に入る。自力で片付けなきゃとは思うものの、今回はリサに任せるとしよう。
ホログラムディスプレイに目をやり、大学までの道のりを脳内でシュミレーションする。急がないと、またあの退屈な午前の講義に遅れちまう。
「リサ、俺が出かけてる間に修正後のプログラムのデバッグを頼むよ」
俺はリサに話しかけながら、手早くバッグの中身を確認する。
「了解しました、マスター。デバッグを開始します。ついでに部屋の掃除もしておきますね」
リサの音声はどこか親しみが感じられる柔らかさがある。
「本当に優秀なAIアシスタントだな……。さて、準備を始めるか」
クローゼットを開けて、適当に手に取った服を素早く身にまとった。スマートミラーがピカッと光り、いつものように今日の服装に対するコメントが表示される。
「カジュアルながらもセンスの良い選択です、マスター。少しアクセサリーを加えると、さらに印象が良くなりますよ」
「余計なお世話だ……。今日は急いでいるから、これでいい」
俺は鏡に向かってぼやきながら、シワを伸ばすために服の裾を引っ張った。スマートミラーの提案に乗る気はなかったが、その指摘が的確なのが悔しい。毎朝このやり取りが続いている。
バックパックじゃなくて、肩にかけるのは軽量のホバーバッグ。このバッグはすごい。中に超伝導コイルが仕込まれてて、外部の磁場と連動して浮遊する仕組みになってるから、荷物の重さなんて全然感じない。まるで無重力空間にいるみたいに、ふわっと浮いてる感じがする。
中身は、折りたたみ式のナノコンピュータや、薄い透明なフィルム状のディスプレイデバイス、そして電子ペーパーの書類が入ってる。ナノコンピュータは、サイズは小さいけど性能は抜群で、大学の授業でも大活躍である。ディスプレイデバイスは、パッと広げるとどこでも使えるし、電子ペーパーの書類は、ちょっとしたメモや重要なデータを保存するのに便利だ。
ふと立ち止まり、肩のホバーバッグを軽く持ち上げてみると、その軽さに思わず笑みがこぼれる。日常の中に潜む未来感、それが俺の心を少しだけワクワクさせてくれるのだ。
俺は左手首に装着したホログラムウォッチを軽く叩いた。透明なディスプレイが鮮やかに光り、エアカーの運行状況が表示される。表示された情報を一瞥し、少し安心した。今日はスムーズに移動できそうだ。
家を出ると、冷たい風が頬を撫でた。空気は澄んでいて、微かに人工花の香りが漂ってくる。玄関の扉は、俺の背中を見送るようにゆっくりと閉まり、その音が静寂の中に響く。そして、ドアノブのあたりが青く光り、バイオメトリックロックがかかったことを知らせる。これで、俺の家はまた鉄壁の要塞に戻った。
◇
西暦2110年5月。かつての面影を少しばかり残す街並みは、今やテクノロジーに彩られた未来都市へと変貌していた。ビルの壁にはまばゆいホログラム広告が映し出され、街を見下ろすように無数のドローンが静かに空を舞っている。
「ほら、また新しい広告だよ!」
と、近くにいた子供が指さして言った。
巨大なホログラムには最新のファッションアイテムや、バーチャルアイドルのライブ告知が次々と映し出されている。
10年前に始まった『あの計画』が、この日本を根本から変えてしまった。かつての穏やかな街は急速に進化を遂げ、テクノロジーの中心地となった。人々の生活も一変し、昔のような静けさや奥ゆかしさは、今ではほとんど見かけない。
俺は街の喧騒の中でふと立ち止まり、遠い昔の記憶を辿っていた。新しい時代の波に乗り遅れないようにと必死に追いかける毎日。けれど、時々、穏やかな日々が恋しくなることもある。
(昔は、公園という場所で子供たちが野球をしている姿が見られたらしいな……)
と、心の中で呟く。
しかし、この新しい世界で生きるために、俺たちは前を向いて進んでいくしかない。未来の都市生活がどんなに変わろうとも、その変化を受け入れ、順応していく。それが、愚かな人類が選んだ道なのだ。
「はぁ……、今日も忙しい日になりそうだな」
と呟きながらエアカー乗り場に向かって歩き出す。
エアカーは、未来的なデザインのボディが光を反射して輝いている。完全自動運転システムを備えたこの車両は、目的地を入力するだけでスムーズに連れて行ってくれる便利な代物だ。乗り場に到着すると、エアカーが静かに降りてきて、ドアがスライドするように開いた。
「NSAキャンパスまで」
そう指示を出すと、エアカーはエンジン音1つ立てずに静かに浮かび上がった。まるで魔法の絨毯に乗っているかのような浮遊感に、思わずシートに深く身を沈めた。窓の外には、高層ビル群と青々とした人工的な緑が奇妙に調和する街の景色が、スローモーションのように流れ始めた。
「今日は一段と静かだな……」
通りの慌ただしさとは違う、この静寂が不思議と心地よかった。視線を前方に移すと、NSAキャンパスの高層タワーが徐々に近づいてくるのが見えた。エアカーは滑らかに降下し、キャンパスの近くに到着した。
エアカーを降りると、再び心地よい風が頬を撫でた。キャンパスへ向かって歩き出すと、緑豊かな並木道が目の前に広がる。空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。心の中に静かな決意が湧き上がるのを感じながら、今日の一歩を踏み出した。
「今日もちょっとばかし頑張るか……。試したいこともあるし……」
自分に言い聞かせるように呟くと、自然と口元に微笑みが浮かんだ。キャンパスの賑わいが徐々に近づいてくる。学生たちの笑い声や、デバイスの操作音が混ざり合う中、自分の存在が少しずつ溶け込んでいくのを感じた。
俺が通う大学の名前は「日本科学アカデミア」、通称NSA。未来のテクノロジーと見事に融合したこの場所は、世界屈指の研究機関として知られている。ここでは、世界中から集まった優秀な学生たちが、未来の技術と人類の課題を解決するために日夜奮闘している。
キャンパスに一歩足を踏み入れると、広大な敷地にまず圧倒される。都市の中心に位置し、周囲には最先端のインフラが整備されている。その光景はまるで、未来の都市そのものだ。広々とした緑地に囲まれた校舎群は、ガラスと金属が織りなす洗練されたデザインで、見るだけで心が躍る。
キャンパス内には、いくつかの主要施設が点在している。それぞれの施設では、各分野の最先端研究が行われている。例えば、最新のAI技術を研究するラボや、バイオテクノロジーに特化した研究棟、そして宇宙工学の実験施設など、どれもが世界トップレベルの設備を誇っている。
俺たち学生は、こうした環境で日々切磋琢磨している。未来の技術を自分たちの手で生み出し、未知の課題に挑むことは、興奮と不安が入り混じった特別な経験だ。
キャンパスの門をくぐると、湯川秀明――通称ヒデ――が待っていた。こいつも俺と同じようにホバーバッグを背負っている。
「よ、光!」
ヒデが俺の背中をバシッと叩いた。相変わらず熱血的だな、この男は。
「なんだよヒデ、痛ってえな……。」
「光、昨日のドローンのプログラムどうなった?」
「結構進んだ。新しい自律飛行アルゴリズムに深層強化学習を組み込んだ。これでドローンが障害物を避けながら最適なルートを自己学習するようになった。」
「具体的にどんな手法を使ったんだ?」
ヒデの目は輝いている。この男の熱量には、いつも感心させられる。
「主にDDPG(Deep Deterministic Policy Gradient)アルゴリズムをベースにした。連続的な行動空間での最適化に強いからな。センサーからのリアルタイムデータを元に、障害物を認識して回避するだけじゃなく、最短ルートを見つけるための方策も自己学習するようにした。」
「ん……、すまんよくわからん」
と、ヒデは頭を掻きながら答えた。俺の感心を返せ。
「そんなことで次の試験は乗り越えられるのか?」
「いやー、それはちょっと……。また、光さんの力を借りたいというか、なんというか……。」
ヒデは視線を逸らしながら、しどろもどろに答えた。その頼りなさに、思わず俺は深い溜息をついた。
「ったく……。」
◇
量子コンピューティングの講義が行われる教室に到着すると、教授がすでに空中ホログラムに図を描き始めていた。まるで魔法のように浮かび上がる光の線が、複雑な概念を鮮やかに描き出していく。
教室内は不思議な雰囲気に包まれ、学生がナノコンピュータを展開する音が静かに響いている。透明なディスプレイに講義内容が映し出され、教室の隅々までその光が広がっていく。
一部の生徒が、今日はどんな新しい知識が俺たちを待ち受けているのだろうか、などと期待に胸を膨らませながら、メモを取る準備を始めていることは想像に難くない。
現代、人間は生物としてかなり劣化している。それは疑いようのない事実だ。しかし、俺たち科学者にとっては、悪くない時代かもしれない。なぜなら、テクノロジーの進化が進む中で、解決すべき課題や問題はむしろ単調に増加しているからだ。探究心旺盛な俺たちにとって、この時代はまさに挑戦と発見の宝庫といえよう。
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