27 遠心力(Centrifugal force)
「俺は……」
一瞬の躊躇を挟んで、決意を固めた。
「取引を断る」
男は動じた様子もなく、ただ静かに頷いた。
「そうか。後悔することになるだろう」
ヘッドセットを外した瞬間、薄暗い部屋の静寂が再び俺を包み込んだ。冷たい床と朽ちかけた壁の存在が、現実世界に引き戻してくれる。その仮想空間でのやり取りが現実のものではないという安心感と、しかしその内容が現実以上に重大であるという重圧が胸に重くのしかかる。
ビルを出て、街の灯りが僅かに差し込む通りに戻る。歩きながら、俺は頭の中で今回の出来事を整理し始めた。
まず、気になるのはわざわざ回りくどい真似をしてここに呼び出した理由だ。VRを使った理由に関してはいくつか思いつく。
1つは匿名性。男は自分の正体を隠すためにVRを利用した可能性が高い。現実の世界で直接接触することで、自分の身元が特定されるリスクを避けたいと考えている。VRならば、顔を隠し、声も変調することができるため、自分のアイデンティティを完全に保護することができる。
次に安全性。VRを利用することで、物理的な接触や暴力を回避できる。直接対面して強行手段を取る場合、物理的なリスクや証拠が残る可能性があるが、VRならばそのようなリスクを最小限に抑えることができる。
他には心理的プレッシャーをかけるといった目的の可能性もある。VRを利用することで、相手に与える環境や状況を自由に操作できる。俺が体験した薄暗い森や不気味なアバターは、心理的なプレッシャーを与えるために設計されたものであり、恐怖や不安を感じさせることで、取引を有利に進めることを狙ったのかもしれない……。
だが、やはり一番気掛かりなのは断ってもこちらに不利益が生じないという点だ。大体こういうのは一方的な脅迫や取引といったものになるのだが、あくまで向こうは決定権を俺に委ねてきた。
(リサを手に入れることが本当の目的ではない……のか?)
普通、リサを手に入れたいなら取引なんてせずにもっと他にやりようはあったはずだ。だとすると、リサが欲しいというのは嘘で、俺の反応を探り、何か情報を引き出したかったとか……。じゃあ、最初からその情報を引き出すために行動するはずだ。
単なる戯れ……にしては趣味が悪すぎる。俺の親父を引き合いに出すのは俺の恨みをかう可能性がある。リスクしかない非合理的な行動だ。
「くそっ!いくら考えても相手の目的がわからねぇ……」
今は優先順位をつけて物事を考えるべきだ。
まずは誰が……。
俺の家の出入り口には監視カメラが設置されており、それは常に訪れる者を見張っている。映像を確認しても、ヒデと須黒の二人しか映っていないだろう。じゃあ、二人のうちどちらか、あるいは両方があの自律型ロボットが俺の家に忍び込んだのだろうか。
ヒデと須黒にはリサを手に入れる動機が見当たらない。彼らは俺の友人であり、共に研究やコンテストに励んでいる仲間だ。リサの存在を知っていたとしても、それを盗む理由はないだろう。それに犯人が呑気に被害者の家で呑気に作業するのも解せない。
となれば、彼らを利用した第三者がいるということだ。誰かがヒデか須黒のバックにロボットを潜り込ませた。この仮説が真実ならば、犯人は彼らの意図しない形で自律型ロボットを運び込ませたことになる。
その第三者としてパッと思い当たるのはエンゲルハートだ。彼は過去に不正行為の疑惑があり、ロボティクス分野での技術力も高い。彼がリサの存在を知っていれば、その技術を手に入れることで自身の研究を飛躍的に進展させることができるだろう。エンゲルハートが計画的に犯行を行い、ヒデや須黒のバックにロボットを忍び込ませたと考えるのが自然だ。
だが、ここで1つの疑問が浮かび上がる。もしエンゲルハートが犯人ならこんな回りくどい方法を選ぶだろうか?俺はあのとき賭けを持ちかけた側だ。あの流れならば合法的にリサを賭けの対象にすればいい。エンゲルハートがリサのことを知っているとは思えないし、やつを犯人とするならば、いろいろ合点のいかない部分が多い。
それに、ヒデか須黒に接触した人物が全員が容疑者となるならば、エンゲルハートを疑うのは早計すぎる。ここは1度、情報を整理して犯人を特定することにしよう。
今回の件はあの二人にはとりあえず伏せておこう。親父とリサが関わっている以上、あいつらが巻き込まれる可能性もある。




