19 保存則(Conservation laws)
翌朝、俺は再び大学へ向かう準備を整えていた。昨日のエンゲルハートとの一件が頭から離れず、彼の行動の真意を探るために、彼が普段出入りしているというロボティクス研究所へ向かうことにした。
ホバーバッグを背負い、エアカーに乗り込むと、街の景色を眺めながら今日の計画を練っていた。エンゲルハートの何かを掴むために、やつの活動を詳しく調べる必要がある。そして、そのためにロボティクス研究所での情報収集しようと思っていた。
キャンパスに到着し、ロボティクス研究所に向かって歩いていると、ふと目の前に不思議な光景が広がった。芝生の上に座り込み、空中に浮かんだ無数のホログラムスクリーンに囲まれながら、何やら熱心に作業をしている少女がいた。
彼女は長い黒髪を無造作に束ね、少し古めかしいデザインの白いワンピースを着ていた。その姿はどこか幻想的で、周囲の風景とは対照的だった。彼女の大きな瞳はキラキラと輝き、まるで別の世界を見ているかのようだった。
なんとなく興味を引かれた俺は、彼女の近くまで歩み寄り、声をかけた。
「おい、こんなところで何をしてるんだ?」
少女は一瞬顔を上げると、輝く大きな目で俺を見つめた。そして、突然にこりと笑うと、全く見当違いの答えを返してきた。
「クォークがダンスしてるの、見える?」
「は……?」
その言葉に、一瞬頭の中が混乱した。会話が全くかみ合わない。彼女は再びホログラムに向き直り、今度は難解な数式を描き始めた。
「私は今、ロボットの意識について考えてるんだ。シュレディンガーの猫がティーパーティーに参加しているんだよ」
彼女はさらに突飛なことを言い出し、再びホログラムに向き直った。その言葉には、まるで日常的なことのように話す軽さがあったが、その内容を理解するにはかなりの読解力が必要と思われる。
「ロボットの意識?君の専門はロボティクスなのか?」
エンゲルハートのことを知っているかもしれないと思い質問すると、彼女はにっこりと笑った。
「ううん、サイエンスは万有引力みたいに相互作用しあってるの。だから、違うよ」
何を言っているのかは1ミリも理解できないが、どうやら違うらしい。
「じゃあ君の専門は?」
「専門なんてないよ。ただ、その日にやりたいことを勉強するだけ」
彼女はホログラムに表示された複雑な数式を指差しながら俺に説明を始めた。その姿は、一見無邪気な少女のようでありながら、その話す内容は明らかに異才のそれだった。
「なぜこんな場所で勉強してるんだ?」
「んー、ここだと集中できるんだよ。人があまり来ないし、フェルミオンとボソンが交差する瞬間を見逃さないためには、自然の中で計算するのが一番なの」
少女は嬉しそうに答えた。その姿を見て、俺は彼女の不思議な魅力に引き込まれた。事象の地平線を越えたかと思えるほどに、彼女の周りには不思議な重力が働いている。
「そういえば、君の名前は?」
「私はクレア。あなたは……ディラックかな?」
全然違う。
「クレア……、悪いがお前の言ってることはよくわからん。お前は一体何者なんだ?」
俺の問いに、クレアは微笑みながら答えた。
「私はただの科学が好きな女の子だよー。でも、君もかなりのおもしろいサイエンティストみたいだね。もし、ハイゼンベルクの不確定性原理について話す時間があるなら教えてほしいな」
まだ少し話しただけなのに俺の何がわかったのだというのだろうか。
「……わかった。俺に理解できるとは思えんが、そんな機会があればまた……」
俺はそう言い残し、ロボティクス研究所に向かって歩き出した。クレアという不思議な存在との出会いが、俺の未来に何をもたらすのかはまだ分からない。しかし、彼女の天才的な能力と奇妙な発想が、さながらカオス理論の蝶のように、予測不可能な変化をもたらすことに疑う余地はなかった。




