18 力積(Impulse)
家に帰ると、玄関が自動的に開き、リサの穏やかな声が迎えてくれた。
「おかえりなさい、マスター。今日もお疲れ様です」
俺は一言も返さず、靴を脱ぎ散らかしてリビングに向かった。頭の中は、今日の出来事でいっぱいだった。エンゲルハートの挑発的な態度と、その背後にある真意が気になって仕方なかった。
「リサ、このメッセージログを解析してくれ」
俺はソファに腰を下ろしながら指示した。リサはすぐに反応し、部屋のホログラムディスプレイにメッセージの履歴を映し出した。
「了解しました、マスター。解析を開始します」
リサの声が静かに響き、ディスプレイにはエンゲルハートからのメッセージが詳細に表示された。
エンゲルハートの態度はどうにも不可解だった。あのように挑発的な振る舞いを敢えてする必要などあろうはずもなく、仮にそれがやつの常の性格であるならば、食堂での紳士的な振る舞いとはどうにも相容れない。やつの行動には、どうにも腑に落ちぬ点が多々ある。
メッセージには、一見すると挑発的な言葉が並んでいるだけだったが、背後には何かもっと深い意図が隠されているように感じた。
「エンゲルハート……。やつの態度がここまで一変するのは、どんな理由があったのだろうか……。」
俺は、思考の迷宮を彷徨いながら、ふと独りごちた。
「マスター、まずはメッセージの送信元と送信経路を解析します」
リサが提案してきた。
「そうだな、頼む」
リサが検索を開始すると、ディスプレイに解析の進捗が表示された。まずは送信元の位置情報を追跡し、その後に送信経路を詳細に解析する。この解析は、量子通信ネットワークを使用しており、瞬時に膨大なデータを解析できる。
量子通信ネットワークは、情報を送受信するための最先端の技術だ。このネットワークでは、量子力学の原理を利用してデータを伝える。簡単に言えば、量子通信は非常に高速で安全な情報伝達を可能にする仕組みだ。
従来の通信方法では、情報は光や電波を使って伝えられるが、量子通信では「量子ビット」(キュービット)というものを使う。キュービットは0と1の両方の状態を同時に持つことができる特別なビットで、これにより、同時に大量の情報を処理することができる。
さらに、量子通信の大きな利点は、その高いセキュリティだ。量子力学の性質により、通信が盗聴されるとすぐにわかるため、データの安全性が非常に高くなる。
次に、メッセージの暗号化レベルと使用されたプロトコルを解析し、セキュリティレベルの評価を行う。
「マスター、メッセージの送信元は大学内の一般ネットワークからです。送信経路も特定できましたが、QuantumRSA4096で、本来は解読困難ですが、送信者が意図的に暗号鍵の一部を公開しているため、容易に解読可能です」
リサの報告を耳にした瞬間、俺の眉間には深い皺が刻まれた。
QuantumRSA4096とは、量子コンピューターの進化に対応した次世代の非常に強力な暗号化方式だ。量子力学の原理を利用して、情報を「鍵」を使って暗号化し、その鍵がないと元の情報に戻せない仕組みだ。この「鍵」は非常に複雑で、従来のコンピューターでは解読に数十億年かかるとされている。
しかし、今回のケースでは、送信者がその「鍵」の一部をわざと公開している。例えて言えば、非常に複雑なパズルの一部を見せて、残りの部分を完成させるヒントを与えるようなものだ。このため、本来なら解読が困難な情報も、比較的容易に解読できるようになっている。つまり、送信者は解読されることを前提にメッセージを送っているというわけだ……。
「なんでわざわざこんなことを……。意図的に情報を漏らしているのか、それとももっと別の理由があるのか」
俺はディスプレイを見つめながら、エンゲルハートの真意を考えた。なぜこんな回りくどいことをするのか……。そこには何か別の意図が隠されているに違いない。
「リサ、エンゲルハートの過去のデータを検索してくれ。そして、やつに関係する他の人物の情報も洗い出してくれ」
「了解しました、マスター」
リサがさらに詳細な情報を表示すると、エンゲルハートに関する情報が次々とディスプレイに浮かび上がった。彼の学術的な背景や、過去のプロジェクト、さらには他の学生たちとの交流記録まで、詳細な情報が明らかになった。
「ん……、優秀な成績とともに、特異な人間関係も見受けられるな」
俺はディスプレイを眺めながら、眉をひそめた。エンゲルハートは確かに優秀だったが、その人間関係は複雑で、しばしばトラブルを引き起こしていたようだ。
「マスター、過去にエンゲルハートさんが関与したプロジェクトの一部に、不正行為の疑惑があるとの報告も見つかりました」
リサの報告に、俺は思わず身を乗り出した。
「不正行為?詳しく教えてくれ」
リサがさらに詳細な情報を表示すると、エンゲルハートが過去にいくつかのプロジェクトで不正な手段を使って成功を収めていたことが明らかになった。彼の成功は、単なる努力や才能だけではなく、裏で手を回すことで成り立っていた可能性が高かった。
「やっぱり、ただの優秀な学生じゃないってわけか……」
俺はディスプレイを見つめながら考え込んだ。エンゲルハートの態度の豹変には、何かもっと大きな理由があるに違いない。彼が何を企んでいるのか、その真意を見極める必要があった。
「リサ、エンゲルハートの最近の動向を監視するのは難しいが、彼の周囲の人物とのやり取りをもう少し掘り下げて調べてくれ。彼が一人で動いているとは思えない」
「了解しました、マスター」
リサの返答を聞きながら、俺は深く息を吐いた。エンゲルハートの挑戦は、単なる学生間の競争ではなく、もっと深い陰謀が隠されているように思えた。俺はその真相を突き止めるために、さらに情報を集め、対策を練る必要があると感じた。
「さて、次に何をすべきか……」
俺は頭を整理しながら、次の一手を考え始めた。エンゲルハートとの対決は避けられない。だが、その前に確認すべきことがある。




