第三章 回想
第三章 回想
— ナナセ —
名前を呼ばれた気がして振り返ると、そこにいたのはハルだった。
普段なら挨拶程度なのに、こんなところで声をかけてくるなんて面倒に巻き込まれるに決まっている。そそくさとその場を立ち去ろうとしたら、ものすごい力で腕を掴まれた。
「何?」
振りほどこうとしたら目が合いそうになり、瞬時に逸らす。
「悪いけどちょっと付き合って」
掴んだままの腕を引っ張られ、駅ビルの中へと連れ込まれた。周囲を見渡して人目を避けるような場所に来たかと思ったら、そのまま壁に押し付けられる。
「で、どこに行くの?」
不躾な問いだな。顔だけはどうにか逸らしているが、ハルが手の力を緩める様子はない。答えなければ離してくれないようだ。ほらやっぱり面倒に巻き込まれたじゃないか、と息をつく。
「美容院の予約まで、時間を潰そうかと思って……」
そこでハルのお腹が鳴った。思わず目が合い、不覚にも吹き出してしまう。
「ちょうどいいから付き合うよ」
何がどうちょうどいいのかまったく理解できなかったが、これ以上歩くのは諦め駅ビルの中のコーヒーショップで手を打とうと思っていたところだ。
「ついてくるならご勝手に」
そう言い捨てると掴まれていた腕がようやく解放された。ほとんど脅しのようなものだ。
〈お先に席の確保をお願いします〉
店の入口にはそう書かれた案内が掲げられていた。二階の一角に入っていたそのコーヒーショップは、ランチともお茶ともつかない時間帯にも関わらず混み合っていた。とにかく座って休みたい。ハルにカプチーノと伝えて並んでもらい、席を探すことにした。窓際の二人掛けのテーブル席が空いているのが見え、これはついていると一目散に向かった。
「ふう」
こんなに歩き回ったのは久しぶりだった。服の入った紙袋を一旦向かいの椅子に置くと、深く腰を下ろした。目の前の大きく取られた窓からは先程歩いていた街並みが見える。分厚い雲に太陽の光は完全に遮られ、艶のない景色が広がっている。古い街だからだろうか、高い建物はあまりない。下がロータリーになっていて、車や人が多いのが見て取れる。上から見るとこんな感じなんだな、と頬杖をついて眺めていると、不意に視界が遮られた。
「おまたせ」
その声に、紙袋を自分の横へと移動させる。テーブルに視線を戻すと、そこに置かれていたのはこれでもかとたっぷりクリームが乗った、冷たくて甘ったるそうな飲み物だった。
「……どういうつもり?」
「期間限定なんだって。美味しそうだったからさ」
そういうことじゃないだろうと頭を抱える。ほんのり甘くて温かい飲み物でゆっくりしようと思っていたのに。ハルに注文を任せた自分に呆れ果てた。こういう性格だったことをすっかり忘れていた。疲れ切っていて言い返す気にもなれず、そのなんちゃらとかいう期間限定の飲み物を口に含む。
「……美味しい」
「でしょ?」
そうやって誇らしげに微笑みかけるのはやめてくれないか。うんざりしながらも、冷たい甘さが疲れていた身体に染み渡り、あっという間に飲み干した。最後に残った部分はさすがに甘かったな。
特に会話するわけでもなく、持ってきていた読みかけの文庫本を読んでいる間、ハルは飲み物と一緒に頼んでいたサンドイッチやカップケーキを頬張っていた。こんな時間によくそんなに食べられるものだと感心する。
窓の外が陰ってきた頃、自分の飲み物の代金をテーブルに置いて立ち上がった。
「時間?」
慌ててテーブルを片付けまだ付いて来ようとするハルに構うことなく、店を後にした。
— ジュン —
〈動画が送信されました〉
テーブルに置いていた携帯電話の画面が明るくなり、短い着信音とともにポップアップが表示された。レイからだ。
『あはははは!』
何も考えずに開いたのが間違いだった。突然大きな笑い声が流れ、慌てて音量を最小にして周囲の他の客に頭を下げる。音に驚いて顔を上げたマコトは、たちまち大きな口を開けて声を押し殺しながら笑い始めた。
「レイでしょ」
わざとらしく呆れた顔を向け笑い返した。この特徴的な笑い声は誰が聴いても一発で分かるからたいしたものだ。
「またユキと一緒にいるのかぁ。仲良いなー」
「どうせまたレイの暇つぶしに付き合わされてるんだろうね」
ふたりで動画を観ていると、またメッセージが入った。次に送られてきたのは写真だった。
「え?」
二人で顔を見合わせた。そこに映っていたのは今まさに食べているビリヤニだった。
「すごい偶然」
「どこのお店に行ったんだろうね」
番組で紹介されていたとはいえ、本格カレー店でも出しているところは少ないらしいと話していたところだったのだ。しかも同じ日に食べているのだから驚きだ。
食べ終わる頃にはすでにピークは越えたようで、待っている客はいないようだった。ゆっくり旅の話でもしたいところだったが、駐車料金のことも考えてすぐに店を後にした。とりあえず車を出すと、来た道を戻る。さっき通った交差点の空き地の前に差し掛かった。
「あ!」
「何、大きな声出して」
そこが古びた本屋だったことを思い出した。見る角度が変われば不意に当時の様子が浮かんでくるのだから不思議なものだ。
混雑の流れから外れることが出来なかったのか、いつの間にか車は駅前のロータリーへと入っていく。
「お、このまま電車に乗って、旅にでも出ちゃう?(笑)」
「この駅、新しくなったばかりみたいだからさ、ちょっと近くから見てみようかと思って」
「ふーん」
駅などに興味がなかったので、シートの背もたれに深く体重を預けた。車の窓から人の流れをぼうっと眺めていたら、そこにあった姿に思わず二度見し、飛び起きた。
「どうしたの?」
「あれ、ナナセとハルじゃない?」
「え?」
身体を起こし、窓に張り付くようにしてもう一度確認する。車が動いている方向と反対に向かって歩いていった二人はあっという間に後ろ姿になってしまったが、間違いない。あれはナナセとハルだ。
「あの二人が一緒にいるわけないでしょ」
運転しているマコトの視界には入らなかったようで、まだ信じていないようだ。
「間違いないよ、あれはナナセとハルだった!」
興奮気味にマコトの肩を掴む。
「危ないから」
ふたりは犬猿の仲だったはずなのに、いったいどういう心境の変化だろう。マコトも気になったようで、ロータリーをもう一周し始めた。珍しいものを見た高揚感と相まってぐるぐる回るアトラクションに乗っている気分になり、助手席で飛び跳ねるように動く。
「危ないから(笑)」
マコトはもう一度そう窘めると、ゆっくりと車を動かしながらハンドルにもたれかかるようにして行き交う人をじろじろと眺め始めた。その運転の仕方こそ危ないじゃないかと言いたくなる。獲物を探すような目で物色するように見ているものだから、それに気づいた人達は皆、視線を逸らして逃げるように足早に歩いていく。
「いないなぁ」
「もう行っちゃったみたいだね」
「つまんないの」
ロータリーを抜け、当てもなく車を走らせる。
「二人で何してたんだろう」
「意外な組み合わせだよね」
「ジュン、ちょっとメッセージ送ってみてよ」
あーあ、これはもう逃げられないな――。にやりと笑ったマコトの横顔は、獲物を見つけたハンターそのものだった。
— ユ キ —
走り慣れた街までやってくると、混み合っていて思うようには進まなくなった。レイは助手席で小さくなって携帯電話を触っている。
「来ないなぁ、返信」
「え、まさかさっきの動画、誰かに送ったわけじゃないよね?」
「ジュンに送った」
「……だからさぁ」
そういうことは了承を取ってからにしてほしいものだが、レイにそんな概念は存在しない。レイがSNSの類いに興味がなくて本当に良かったと心の底から思う。
レイはいつでも楽しいことばかり考えている。隙あらば冗談を放り込んで自分ひとりでも笑っているくらいだ。同じように純粋に楽しさを体現するジュンと共有したかったのだろう。
ジュンとレイは笑いの感覚が似ていて、顔を合わせればどちらからともなくふざけ始め、お互いにそれをどんどん膨らませていつも楽しそうにしている。それでもその場を離れれば他の皆と同様の距離感のようで、そのあっさりした関係がとても不思議だった。
レイは当たり前のようにまた自分の好きな音楽をかけ、上半身を思う存分に使ってその音楽を表現している。道路の段差で車が跳ねればその動きまで見事に取り入れて上機嫌だ。対向車や歩行者から変な目で見られているんだろうなと思うが、どうせ印象に残るのはレイの姿だけだろう。
「家の前でいいの?」
「えー! まだいいじゃん!」
「夜、予定があるんだって」
「知ってる。でもまだ時間あるし」
どうして予定があることを知っていて、なぜ正確な時間まで把握してるんだ。
だがここでまたレイの思い通りにさせるわけにはいかない。さすがに今日の予定の相手がマコトだとは知らないはずだ。それを知ったら一緒に行くと言い出しかねない。たまにはレイと離れて、マコトと二人で落ち着いて話がしたいと思っていた。
有無を言わさず、レイの家の前に車を付けた。辺りはもう薄暗くなってきている。
「じゃあね」
そう言ってレイはあっさりと車を降りた。切り替えが早く素直なのがレイの良いところだ。
実際のところ、待ち合わせの時間までまだ余裕があった。車を停めたまま、今日やっておくべきことは他になかったかメモを確認しようと、携帯電話を開いた。すると間髪入れず、短いバイブレーションとともにポップアップが表示された。レイからのメッセージだ。今度こそ迂闊に開かないようにしないと。どうせまたくだらないことを送ってきたに決まっている。携帯電話の画面を消し、とりあえず車を出そうとシフトノブに手をかけた。
「うわっ! ……いったっ!」
背中の左側が攣りそうになる。運転席側の窓に張り付くようにしていたレイの顔に驚かされ、変な方向に身体を捻ってしまった。
「びっくりした……」
ため息をついてハンドルにもたれかかると、クラクションを鳴らしてしまって今度は後方に仰け反った。外でレイの高らかな笑い声が響き渡っているのが車内にいても聞こえてくる。
「何してんの(笑)」
そう言いながら再び助手席に乗り込んできたレイは、小さく前を指差して綺麗に発音した。
「Let′s go!」
その声に呼応するように、道路の両脇の街灯が一斉に灯る。
もういいや、とふっと息を零す。暮れ始めた街にぴったりな音楽とそれに合わせて揺れるレイを乗せ、再び当てもなく車を走らせていく。
レイは幼い頃からダンスを習っていて、歌も上手だ。カラオケに行けばその手足の長さを活かして即興で踊りながら、高音域の曲でも見事に歌い上げる。たいていは洋楽で、本場仕込みの流暢な英語と優しく響くレイの甘い声がとても合っていて、それを聴いているのが好きだった。
不意に隣のレイの動きが止まった。赤信号で停止する。横を見ると、レイがじっとこっちを見ていた。目が合うとまたあの特徴的な笑い方をしておどけて見せる。
選曲だけは文句の付け所がないんだよな、と小声で呟いたが、首を振りながら窓の外を見ているレイには聞こえていないようだった。
— ハ ル —
「ねぇ、あれマコトの車じゃない?」
ロータリーから出て行く車の中に、黒々とした光を放つ一台の車があった。いつでも洗車したてのように綺麗な状態のマコトの車は、遠くからでも一目で分かる。出て行くのかと思いきや、なぜかもう一度ロータリーに入ろうとしている。
「何やってるんだろうね?」
「ていうか、何でいつまでも付いてくるわけ?」
コーヒーショップから出るナナセを追いかけて、再び駅前に戻っていた。足早に歩くナナセの後ろに隠れるように付いて歩いていたら、不意に視界の端にマコトの車を捉えたのだ。ナナセは鬱陶しそうな顔を前に戻すと、また早足で歩き始めた。せめてこの人混みから抜けるまでは。どんなに振り払われようとも、後を付いていくつもりだった。
そこでナナセの携帯電話の通知音が短く鳴った。立ち止まってポケットから取り出し、開いたと思ったら振り返って言い捨てた。
「やっぱり面倒なことになったじゃないか」
開いた画面をこちらに向けてくる。映し出されているのがメッセージ画面だということは分かったが、どうしてそんなに細かい字に設定しているんだと目を細める。
〈ハルと二人で、何してるの?〉
画面に思いっきり顔を近づけてようやく読むことが出来た。そこに表示されていたのはジュンからのメッセージだった。
すぐに察しがついた。さっき見かけたマコトの車に乗っていたのか。ロータリーを何度も回っていたのは、ナナセと一緒にいるところを見かけて面白がってもう一度確認しようとでも思ったのだろう。
「いいじゃん、別に。悪いことしてるわけじゃないんだから」
ナナセの機嫌が悪くなろうと、二人でいるところをからかわれようとどうでも良かった。お腹を満たすというミッションが果たされたことですっかり満足していた。残すミッションは、声をかけられずに人混みを抜けることだけだ。
浴びせかけるように大きなため息をついて、ナナセが再び歩き出した。慌てて後ろを付いていく。するとまた短く通知音が鳴った。今度はこっちの携帯電話だ。
〈いつの間に、仲直りしたの?(笑)〉
「ナナセが返信しないから、こっちにも来たじゃないか」
ナナセの口調を真似て言い返した。聞こえているはずのナナセは無視を決め込んで歩き続けている。
皆は喧嘩でもしたのだと思っているようだが、ナナセが勝手に避けているだけで別に何かあったわけじゃない。現にこうして自然に話すことだって出来ている。
すっかり冷え切ってしまった身体をさすりながら、さっき飲んだ冷たい飲み物を少し後悔する。
「おっと」
前を歩いていたナナセが突然立ち止まり、ぶつかりそうになった。
「美容院、着いたから」
そう言い残してナナセはビルの中へと消えていった。辺りを見渡すと、どうやら人混みからは抜けることが出来たようだ。
「……ここ、どこ?」
知らない場所でひとり取り残され、立ち尽くした。ナナセが入っていったビルを見上げると、薄暮の曇り空と同化するような石造りの壁に、等間隔に並んだ縦に細長い窓から漏れる暖色の灯りが際立っている。雨はなんとか持ち堪えているようだ。
「さてと……、どうやって帰ろうかな」
新たなミッションが追加された。
「あのー」
うっかりしていた自分に呆れ返る。どうしてこんなにも話しかけられやすいのだろう。
— マコト —
夜の予定まではまだ時間があったが、ジュンとは別れ一度アパートに帰ることにした。
ジュンは、レイのメッセージに返信していなかった。今日起きた出来事は、レイとユキは知らないだろう。
ナナセとハルはいったい何をしていたんだろうか。二人ともジュンへ返信してこなかったから、どんないきさつがあったのかわからないままだ。
歩きながらひとり笑みを浮かべる。次はいつ皆で会えるだろう。
皆すでに必要な単位をほぼ取り終えていて、大学で会う機会はほとんどなかった。たまにジュンが招集をかけ何人かで食事をしたりすることはあったが、最後に全員が顔を揃えたのはいつだったか。
「一年の時は、毎日一緒にいたなぁ」
アパートに着き、鍵を開ける。薄暗いワンルームに温度は感じられない。合格発表から入学式まで一か月もなかったため慌てて決めた部屋だったが、大学にも近く使い勝手の良い部屋で気に入っていた。
部屋の灯りを点け、アウターを椅子にかける。ふと、本棚の隅に立てかけられた大学の封筒が目に入った。入学式が終わって一週間ほどは大学に通わなくていいことを知って驚いたものだ。任意参加のレクリエーションや必要単位の履修についての説明会などはあったものの、講義が始まるのはそこから数日経ってからだった。
入学式には出席したが、レクリエーションには参加しなかった。入学式で渡された封筒に資料と共に入っていたレクリエーションの案内には、体育館でミニゲームをして交流しようといった内容のことが書かれていて、あまり興味を惹かれなかった。
履修説明会へは出席した。資料の中にも単位に関するようなものは見当たらず、何も分からない状態だったからだ。学部ごとに会場が分かれていて、受験の時以来の大学の講義室に少し緊張しながら、空いていた窓側の席に着いた。周りはすでに会話をしている人達も見受けられ、やっぱりレクリエーションに出ておいた方が良かったかなとわずかな後悔が過った。入口で受け取った資料を机に置き頬杖をついて窓の外を眺めていると、前の席の人が振り向いた。
「どこから来たの?」
それがジュンだった。明るく軽快な声と笑顔が印象的だった。体格のいい身体を揺らしながら顔を近づけてくるので最初は戸惑ったが、履修内容をしっかり理解できるか不安を感じていたので相談する相手が出来たのはありがたかった。
ジュンは出会った当初からよく喋った。説明会を終えると顔見知りを見つけたようで、ちょっと待ってて、と言い残して声をかけに行った。肩を叩かれ振り向いたのがナナセだった。前髪が長く俯き加減のその姿がジュンとは対照的で、不思議な取り合わせだなと思った。
そうだ、ナナセに電話をかけてみるか。しばらく鳴らしたが、出ない。珍しいな、もしかしてまだハルと一緒にいるのか。
ハルとの出会いはまったく違うものだった。講義が始まって幾日も経たないうちに、とても目立つ新入生がいるらしいと噂を耳にした。興味はなかったが、それが誰のことを指しているのかはすぐに分かった。服装は無頓着そうだが、美しい金髪に色白で整った顔をしているその新入生が歩くたび、多くの学生たちは珍しいものでも見るかのように道を開け、遠くから観賞するような眼差しを向けていた。髪が風になびく度に歓声ともとれる声が漏れ、止んだと思えば興味本位故か声を掛けられている。大変そうだな、と他人事のように思っていたら、次の日の講義で隣に座ってきたので驚いた。他の学生がちらちらと視線を向けてくるので、まるで自分が見られているような気がして鬱陶しくなり、席を移ろうとしたその時だった。
「ねぇ、ペン貸してくれない?」
金髪がさらりと机にかかるほどに顔を傾け、覗き込むようにして話しかけてきたその視線にはなぜか逃れられない雰囲気があり、浮かせた腰をそっと椅子に戻した。それからハルはその講義で必ず隣に座ってくるようになった。
話してみると案外気さくで、見た目通りの浮世離れした部分もあったが思いのほか話も合った。講義が終わり一緒に歩いていると周囲の視線が痛いほど刺さったが、当の本人は気にかけていない様子でふわりふわりと歩いているので、気にしないことにした。
レイとユキがどう知り合ったのか、聞いたような気もするが覚えていない。出会ったときにはすでに二人は一緒にいた。見るからに海外由来のレイと平凡そうなユキの組み合わせは最初不思議だったが、レイの突拍子もない行動に、文句を言いながらもにこやかに付き合うユキの姿を見てすぐに納得した。
気がつけば予定の時間が近づいていた。ひとり思い出に浸っていることが急に気恥ずかしくなる。
「何してるんだか」
椅子にかけたアウターを再び手に取り、部屋の灯りを消した。
— レ イ —
運転免許は持っていない。車にも特に興味はなかった。都会で生まれ育ち、常に誰かと行動していたから不便を感じたこともなかった。
ハルは、免許は持っているようだが運転しているところを見たことはない。ナナセは車を持っていないから運転を代わる程度で、普段あまり運転はしないようだ。ユキは穏やかな性格とは裏腹に意外と運転は荒っぽく、どちらかと言えばマコトやジュンの方が安全運転だ。運転技術に関してはよく分からないが、三人とも駐車は上手だと思う。
運転しているユキの横顔を見るのが好きだった。ユキは、困っていても怒っていてもその表情はどこか笑っているようで、運転している時は常に口角が上がっていた。ユキの車に乗せてもらうようになった当初、助手席に乗るたびに横顔を眺めていたら煙たがられてしまい、今は隙を見て眺めるようにしている。
「綺麗な色だね」
入学してすぐ、そう話しかけてきたのがユキだった。あの時はグリーンにしていたんだっけ。やわらかそうな髪質で羨ましいと、ユキはいつも髪だけは褒めてくれる。髪の色は飽きたらガラッと変える。今はブルーだが、その前はピンクだった。インターナショナルスクールに通っていた自分にとって鮮やかな髪の色はごく自然なことで、他のこともたくさん褒めてくれても構わないのだが、ユキに褒められるのは素直に嬉しかった。
自分から話しかけることは多いが話しかけられることは珍しく、それがとても嬉しかったのを覚えている。明るくよく笑うユキと打ち解けるのに時間はかからなかった。物腰はやわらかいがはっきりと物を言うユキは、一緒にいて気が楽だった。驚かせると大袈裟なほどに驚き、突然ふざけて始めても一緒になってふざけてくれたり突っ込んでくれたりと、必ず反応してくれる。同じ学科だったため、大学でのほとんどの時間を一緒に行動していた。友達はたくさん出来たが、中でもユキは特別だった。
〈今、何してる?〉
趣味が多く、誰かと行動を共にすることが少ないユキは、休日になれば朝早くからひとりで出かけてしまうことが多い。暇を持て余して連絡するとたいてい出かけた後で、行った先の様子を撮っては送ってくれた。どこか遠くの自然豊かな公園で、ひとりでのんびりしているユキにテレビ電話をかけ、話しながら過ごしたこともある。
でも最近は、なかなか返信がこないことが多くなっていた。しばらくして返ってきたと思えば、ぶっきらぼうな状況説明の一言だけ。それが今日は珍しくすぐに既読になった。これを逃す手はないと、急いで誘いをかけた。
〈これから出かけようと思ってたところ。一緒に来る?〉
こっちはそれを期待してすでに家を出たところだ。足取り軽く、待ち合わせ場所に向かった。
夜の予定までは一緒に過ごせると思っていたのに、暗くなる前に帰されてしまった。素直に従うふりをして車を降りてすぐに携帯を取り出すと、笑いを堪えながらユキにメッセージを送る。
〈今、何してる?(笑)〉
ユキの車はまだ停まったままだ。すぐに反応が返ってくるかと思ったら既読にすらならない。おかしいな、何してるんだろう、と運転席側に回り込んで窓から覗き込んだ。
驚いたユキは運転席いっぱいにのたうち回った挙句、クラクションを鳴らしてぐったりとシートに倒れ込んだ。こっちが驚かされるほどの反応に、お腹が痛くなるほど笑いながら何とか助手席に乗り込んだ。
呆れ返った表情を見せたユキは、すっかり諦めた様子で再び口角を上げて運転を始めた。その横顔の向こうを、やわらかな灯りを点した街灯が後方へと流れていく。
「ん?」
ユキがこっちを向いた。信号が青に変わる。
「Let′s go!!」
さっきよりも大きな声で、今度は大袈裟に前を指差した。
窓の外では、いつものコンビニが煌々と自己主張している。あの段ボールの中から、ダークグレーのキジトラの頭が覗いているのが見えた。その隣で、オレンジに近い茶トラの耳が見え隠れしていた。