感情論じゃ語れない2
彼女の一言に僕の手から今までに感じたことも無いほどの汗があふれ出す。雫となって手のひらからあふれ出しそうな感覚になる。ど、どうしてそんなことを言うのだろうか?
「長篠さん…わ、悪い冗談はやめて欲しいかな…あ、あそこは僕の席だよ」
苦し紛れの言い訳むなしく、彼女は自身のスマホをこちらに見せつける。そこには夕日に照らされながら机の中を漁っている数分前の『僕』の姿があった
「窓際右から二番目は園田君の席、その隣は坂登さん。そしてさらにその前は足立君。これはどういうことかしら?」止まらない汗がよりいっそ加速する。急なこと過ぎて頭の整理が追いていかない。口を開きかけるも次に繋がる確かな答えが出てこない…かといって本当のことだけは絶対に言いたくない。
「…そ、それは…ほら!昨日、昨日さ!席替えをしたから、じ、自分の席が分からなくって!…」都合よくつながる言葉をなんとかして引きつなぐ。我ながらいい回答である、そんな気がしたのもつかの間『長篠明美』の冷静さの前で、自分の浅はかな考えと答えは瞬間崩れ落ちることになる。
「窓際前から三番目、そんな分かりやすい場所、間違えるかしら?」
鋭い指摘にまたもや思考停止する。今の僕の席は窓際、前から三番目。中途半端な列の中途半端な場所じゃない。
「ぐっ…」
「反論は、出来なさそうね…」
「いや…その…」漫画で見たことがある無様な犯人、紙越しに馬鹿にしていた哀れな姿がまさに今の自分と重なる。アリバイにおいて、最初にぼろが出てしまっては全く意味がない。必死に頭を巡らせ取り繕おうと試みる。
「た、頼まれたんだ!」
「ふーん、何を?」
「それは…そ、園田君から!きょ、教科書を持ってきて欲しいって言われたんだ!」
否、当然嘘である。しかし、とっさに出た『嘘』にしては穴がない。長篠さんと園田君には接点らしい接点がない。故に彼女と彼の間ですぐに確認を取れるわけもなく、当然、事前の情報を得ることもできない。この場をやり過ごすには都合がいい。もっとも、後日、園田君に確認を取られてしまうとこれは破綻してしまう。が、今はこれでいい。仮に確認されたとしても「園田君じゃなかった☆」「席間違えちゃった☆」「長篠さんが言いがかりをつけてきた☆」この三つで容易に交わすことができる。なんとなく口角が上がっていくのを感じる。まずいまずい。
「少し、状況を整理しましょうか?」オレンジ色に染まった彼女は振り返ると前の席へと歩き出していた。通りがかる机にそっと手をかざす。まるでやわらかい絹のように、水平を保とうとする波のように彼女の手先は大切なものを触れるかのようにとてもやさしくて何よりも不気味だった。
「まず今日は何月何日かしら?」
「5月22日、火曜日?ゴールデンウィークも終わって普通に授業が始まっているただの…」
「そうよね?だったら当然、部活動も始まるわよね?2年4組1番の阿久津君に何か入っているのかしら?」
「僕は何も入っていない…帰宅部だよ、な、長篠さんは何か入っているの?」
「私も何も入っていないわ。クラブ活動、部活動、研究会、同好会…なんにしても3年間一瞬の何かを求めるために入ることは私にとって味がしないガムを噛んでみるようなことよ」
「味のしないガムを噛んでみる…面白い例えだね、長篠さん。でもありきたりかもしれないけど、『味がしないガムかどうか』は『そのガムを食べてみるまで』分からない…つまり、君がそれを知らないだけなんじゃないの?」
「ふふっ、確かにそうかもね、でも阿久津君も入っていないじゃない」
「僕は僕なりに勉強したいことがあって…」
「ピアノかしら?いいえ、作曲と言った方が正しいのかしら?」
僕は彼女の一言に思わず息を飲みこんだ。クラスメイトの誰も知らない秘密。誰にも言えなかった秘密。それをいとも簡単に、彼女は告げた。
「そ、そんなわけないじゃないか!僕が、ピアノ!?」またしても誤魔化そうと試みるが水を得た魚=彼女は意気揚々と僕の近くに近づいてくる。
「別に無理して隠すことも無いわ、ピアノ、私も親から習わされたもの…それに男の子がピアノをしていることは何も隠すことも恥じるべきものでもないわ」
それは少し意外だ。彼女がピアノをしている話は聞いたことがなかった。否、僕と同じで隠しているのかも知れない。ただ、今はそんなことはどうでもいい。それよりも気になるのは…
「どうして、そう…思ったの?」
「簡単な推理よ…」その一言と同時に軽やか足取りで、机の影と影をまたぐ。バレエで見たことあるような軽快な足取りで着地と同時に彼女は一回転を見せる。セミロングの髪の毛が後を追いかける。
「まず昨日始まった音楽の授業。最初はドレミファソラシドと音符に記号をふるだけの簡単なものだった。少し違うかしら。正確には『私達にとって』は簡単な話だった。」
「別にドレミファソラシドと音階を書くだけなら、容量いい人もできると思うけど?」
「それもそうね、現に私とあなた以外にも早く終わっているクラスメイトは何人かいたもの…たしか、山根さんに石田君、須藤さん…ほかにも何人も」
「そ、それが僕がピアノをやっている証拠にはならないと思うけど!?」
彼女の考えはあくまでも想像と仮定の域を出ない。ピアノの話に繋ったとは言えない。足元を見ながら彼女はまた口を開く
「裏紙に落書きしたことない?」
「落書き?なんのこと?」
「いいえ、私ね昔からの癖なのよ、終わったプリントやノートの端、付箋や手のひらに小さく花を描くの。私だけ…なんて思った時期もあったわ」
「花、いいね。長篠さんは花が好きなの?」
「いいえ好きじゃないわ」
そこは好きであってくれ-
「じゃあなんで花を描いているの?」
「下手でも上手でも誰からも触れられないからよ」
「あぁなるほど?」
「ほら阿久津君も小学生の頃とかよく見かけなかったかしら?輪郭も目の大きさもぐちゃぐちゃなデフォルメにもなれない絵を描く女の子とか…私ねあの絵を評価する女の子もあの絵を描く女の子も理解できなかったのよ」人の心が分からないと言った彼女の声が頭の中で勝手に再生された。単なる年相応…というかそうであるのなら困った話だが不思議とそのような痛々しさは感じられない。ただ、それはそこまで重要な話ではない。今まさに僕が一年間隠していた秘密が暴かれようとしているからだ。
「続けるわね、まぁ時間があるときとかに描くことが癖になってしまったのよ…」
「なるほど!」
「で、阿久津君はプリントの下で何を描いていたのかしら?」
ゴクン、文学書を読んだことがある人間なら誰しも一度は見たことがある言い回しがある『固唾を飲む』だ。文字通り、固まった唾を喉の奥に流し込む…という汚い感じもするがとても印象的な言葉だ。一見、人や動物の反芻を指すだけにも思えるこの言葉にはとても有名な意味もある。呼吸できないほどの衝撃だ。僕は深く息を吸い込んで必死に嘘を考える。
「ただのぉ…落書きだよ~」
彼女はまっすぐとこちらを見つめている。大きな瞳が僕を突き刺す。
「落書きねぇ…」
彼女は自身の机の前で立ち止まり、机に手を入れる。そこから三枚のプリントが出てくる。