決心
「おかえりなさい、優愛さん。……大変!直ぐにお風呂に入らなきゃ!」
「いえ、大丈夫です。……くしゅっ!」
「ダメよ。このままだと風邪をひいてしまうわ」
桃花さんはグイグイと私を脱衣所に押し込む。見た目よりは力が強くされるがままになる。……いや子どもの私の力が弱すぎるんだ、きっと。
「お洋服は持ってきておくから、ゆっくり入ってね」
お言葉に甘えびちょびちょに濡れた服を脱ぎ、ガラリと浴室の扉を開ける。湯船の蓋を動かせば白い湯気が立ち上った。
私は近くのよくあるプラスチックの手桶を取り、お風呂の湯を自身にかけてからゆっくりと湯船に浸かる。
冷たく冷えた体が温まっていくのを感じながら、ぼおーっと白い壁を見つめた。
何も考えたくない。このままでいたい。逃げられると思ってたのに。
生きていることで世界が歪んでしまうと思ってた。でも洋太と颯介が仲を深めるエピソードは原作通りに起こっていて、私が関わりさえしなければちゃんと原作をなぞっていくのだと考え直していた。だから生きていても大丈夫だと。
桜也が原作通りに、洋太達と利害の一致から協力する関係になるかは怪しいけど。でもそれもきっと大丈夫だろうと勝手に決めつけていた。
私は本当に自分勝手だ。自分の宿命から逃げようとしていた。
やっと気づいた、私は逃げられない。
生きている限り、錠を持つ限り、私が錠乃優愛である限り。私はこの運命から逃げられない。
下を向けばお湯に自分の顔が映り込む。泣きそうな顔だ。でも泣く訳には行かない。泣きたいのは私に巻き込まれた桜也と桃花さんだ。
二人は見ず知らずの私に沢山優しくしてくれたいい人たち。だから巻き込む訳にはいかない。
でもあんな奴に錠を渡す訳にもいかない。この錠を守るのは私の、錠乃家の使命だ。
アイツに錠を渡さずに、この家を守るにはどうしたらいい。考えなきゃ。確実に成功する方法はない。だからできるだけ可能性の高い方法を。
私はもう生きたいなんて望まない。この命を賭けなきゃ錠とこの家を守ることなんて出来ない。
錠乃優愛の記憶は未だない。けれど使命を果たさなくてはいけない。その意識がいつの間にか目覚めていた。これは錠乃家の人間として生きていた優愛の――私のものだ。
私は勢いよく立ち上がる。涙を堪えて進んでみせる。その先が崖だと分かっていても。錠乃優愛には、私には進むしかないのだ。
髪と体を洗い、タオルで水分を拭き取り浴室を出る。桃花さんが置いていってくれた衣服を身にまとい脱衣所を出れば、桜也が目の前にいた。
「あ、おかえりなさい桜也」
「ただいま」
桜也は私をじっと見て何故か私の手元にあったタオルを掴み、頭に被せる。
「ほら、じっとしてて。拭いてあげる」
その言葉の後、髪に残った水分を吸わせるように優しく拭き始めた。
「え……だ、大丈夫だよ」
「駄目。ちゃんと拭かないと風邪ひくよ。苦い薬飲みたくないでしょ」
「苦い薬ぐらい平気だよ!」
苦い薬を飲みたくないのは桜也でしょ。という言葉は飲み込んだ。桜也を傷つけたくなかったから。
桜也の中の優愛は、彼を傷つける存在で終わりたくなかった。これは私のわがままだけど。いい思い出とまではいかないけど、そんな子もいたなぐらいの思い出であってほしい。嫌な子で別れるのは嫌だった。
「優愛、どうかしたのかい?」
「……何か変かな」
「泣きそうだよ。嫌なことでもあったの?」
「……何にもないよ」
強がり笑顔で誤魔化す。バレる訳にはいかない。私は決めたんだ。
錠乃家の人間として錠を、そして雨宮桜也に救ってもらった人間として桜也と桃花さんを――守る、と。
たとえ自分が死ぬのだとしても。