第2話 石炭とエンジン
恐る恐る足を踏み入れた清二郎は、並べられた高価そうな機材の迫力もさることながら、床を埋め尽くさんばかりに散らかったガラクタに困惑した。
元来几帳面な彼の性格からして、うずうずしてたまらない。
後ろを振り返ると執事服に身を包んだがっしりとした体格の中年男性が、お恥ずかしい限りです、と言わんばかりにため息をついていた。
ここまで運転手をしてくれた人だ。
あの行動派お嬢様に付き従い、この研究所という場所を人に見せてしまう、使用人として苦労しているのだろうと清二郎は苦笑するしかなかった。
「さあ、こっちに座ってお話ししましょう」
声を弾ませこずえが奥を指さした先には、この金属だらけの空間からそこだけ浮いて見えるくらい立派な装飾のセンターテーブルと遠目でも上質とわかる布張りのソファを並べた応接セットがあった。
ここで断ってもどうにもならないので、高価そうなソファに気後れしながらも座らせてもらう。
対面にこずえも腰掛け、顎に手を当てて思案顔になる。
「さて、色々説明したいことはあるけれど、あなた、財閥五家って分かるかしら?」
「それはまあ、有名な話ですから」
財閥五家とは、江戸時代中期から明治期にかけて創業し今や各分野でこの大日本帝国の経済を支える五つの大財閥だ。特徴は、どの家名にも色が一字入ること。爵位を持たないながら、影響力はお世辞抜きで国を揺るがすと噂される。
目の前のお嬢様、緋之坂の家もその一つ。
「緋之坂と言えば、海運貿易で聞かないことのない名家ですね」
「ええ、そして私は宗主一族の娘で、経営の跡目とかは兄が二人いるから好きにやらせてもらっているというわけ」
清二郎はそれだけでもう帰りたくなった。
恩義もあればこそ、ここまで来てしまったが、このお嬢様は予想を遙かに超えるとんでもない大物だ。
「それほどの立場の方が、俺をここに連れてきたということは、ここでの研究に関係が?正直、一介の学生に頼らずとも、もっと優秀な人材を引っ張ってくることもできると思いますが」
すると、こずえは楽しげに目を細めた。
「こちらにも事情があるのよ。でも、本気であなたには私の共同研究者になっていただきたいと思ってる。そして、一つ謝っておくと、私は今日あなたに会う前からあなたのことを知っていたわ。正確には、適格な人材を調査して見つけたところに例の小火が起きていたのだけど」
ますます分からない。財力と人脈からして、わざわざお嬢様本人が手間をかけてこんな学生一人手駒にする理由は何だろうか。
こずえが右手を挙げると後ろに控えていた執事が紙の束を手渡した。
「地方の農村から独学で物理学を修め、入学から常に帝国大学工学部の首席を争うまでになるのは並大抵のことじゃないわ。一ヶ月前のあなたの論文を読ませてもらって確信したの。『蒸気タービン機関の有用性』という課題に対して否定的な見解を返してかなり教授がご立腹だったらしいけど、私は楽しく読ませてもらったわよ?」
「やめてください。やり過ぎたと反省してます。教授をなだめるのに大変だったんですから」
あれは若気の至りと言うべきか、調子に乗った自分を振り返って赤面しつつ頭を抱える。
課題の目的は分かっていた。海軍兵力増強はこの島国の生き残りを左右する。技術者候補たちに艦艇の心臓部である機関について理解させたい。それだけだったのに。
「でも、私はこれであなたという人間が分かったのよ。将来的にこの国が直面する問題、特にこの国の立ち位置と工業技術について見えている。これは得た知識を見極める視点を、ついでに言えば私の科学者であり貿易商としての見解と同じものを持っている。だからあなたの協力が欲しいのよ」
「買いかぶりです。俺はそんなに優れた人間じゃない。論文の結論だって想像に過ぎない」
所詮は農家にたまたま生まれた変わり者でしかないというのに、分不相応な役割を期待されても困る。
生まれた環境からして目の前のお嬢様は別世界の人間だ。
将来は実家に仕送りできる程度の仕事をして、近所から奇異の目で見られて苦労をかけた家族に許してもらおうというささやかな願いしか持っていないただの庶民とは違う。
それなのに、緋之坂こずえという少女はまっすぐに清二郎を見つめ、心底楽しそうに問うのだ。
「なら、石炭式の蒸気機関はあと二十年主力で船の動力になり得るかしら?技術は使い古されて新しい波に消えていく。それは当たり前よ。あなたの口から、あなたの描いたその『想像』を聞かせて頂戴」
軽く首をかしげる仕草も計算ではないのかと疑いたくなるくらい似合っていて、綺麗で、ドキリとした。
そして清二郎は理解する。
そもそも、この状況は彼女の手の平の上なのだ。あがいても仕方が無いし、話す以外の選択肢は存在しない。
始まる前に答えは決められていて、そのための準備をしてあった。
さすがは商家の娘、欲しいものを手に入れるには抜け目がない。
こうなったらお望み通りぶつかってやろう、そう思うと清二郎は胸の奥に熱い何かを感じどうとでもなれ、と腹が決まった。
「・・・では、俺の個人的な見解として。我が国の蒸気機関はすでに壁に突き当たっていると考えています」
まずは人差し指を立てる。
「一つに、燃料です。石炭は国産で大量に採掘でき、着火すると高温を発する優れた燃料ではありますが、固体であるために採掘、積載、輸送の手間がかかる上に、火にくべる作業が必要で効率的とは言えません。海外、特に欧米諸国ではすでに石油の研究に移行しています。石油は精製の手間以外は採掘、積載、輸送が液体のため容易。すでに自動車の動力として実用化されています。燃えさかる火の前で高温にさらされながら燃料を放り込む作業も要らず、密閉式の設計が可能です。必ず動力機関としての石炭使用は近い将来廃れるでしょう」
続いて中指を立てる。
「二つに、蒸気機関は大きすぎるという問題があります。動力部の他に蒸気を生み出す釜、補給用に専用の水が入ったタンク、燃料貯蔵庫を必要としますが、内燃機関ならその部分がほぼ燃料貯蔵庫のみで空間を圧迫しません。これは船舶に搭載する場合非常に大きな利点です」
そして薬指を立てる。
「三つに、停止から再始動までの時間です。蒸気機関は火を落として水が冷えると再沸騰させるまで一切動けません。対して、内燃機関は火が入ればすぐに回転を上げられます」
清二郎がそこまで一息に語り、こずえの顔色をうかがう。
「続けて」
それで終わりではないでしょう?
もっと続けて。
目がそう訴えかけてくる。
資料は渡っているのだから分かっているというのに、この熱量は何なのだろうか。
「・・・内燃機関は欧米先進国が開発で先を行っています。それに追い付け追い越せと我が国は躍起になっていますが、課題が山積みなのはご承知でしょう?」
「ええ。だからあなたの目から見て、何が大きな課題なのか教えてくださる?」
「この小さな島国で本格的に先進的な機関の開発をするためには、最も大きいのは燃料を始めとする資源の調達方法でしょうか。国内には大規模油田がない現状、採掘が盛んな国から輸入するしかありません。エジプト方面でも発見の記録はありますが欧米の植民地地域を横切るのは穏やかでない。正直、俺個人としては石油を当てにして技術発展することは反対です」
「つまり?」
「石油貿易をきっかけに戦争に発展するする未来もあり得るのでは、と」
状況からしての推論だが、十分可能性はあると清二郎は考えていた。
恐らくそれには内燃機関の小型化、航空機への搭載、戦車の一定数の量産が求められるだろうが、どう考えても勝負できないし、しばらく先の話と見積もってはいるのだが。
「・・・・・・・・・」
正面のこずえは無言で顔を覆い、
「くくっ、・・・あははははははは!そうよね。そんなこと論文に書いたら泡吹いて慌てるわよね!」
最高の喜劇を見ているかのように腹を抱えて笑いだした。。
そんなにおかしなことを言っただろうか。
傍らの執事に視線を移すと眉間にしわを刻んで瞑目している。
「笑ってごめんなさい。実は、私も戦争の可能性は同意見なのよ。先の世界大戦の時、物資供給で甘い汁を吸った商人が、恐慌と震災で落ち込んだ経済を復活させたいとかわめいているけれど、自国で戦争なんてしたら消費側に回って貿易ルートも少なからず失うのだから、愚策としか思えないわ。日露戦争が勘違いの希望を与えたとしか思えないわ。戦後賠償があったからいいけど、砲弾なんて札束をばらまいているのと同じなのに賠償金で浮かれちゃって馬鹿みたい」
「俺は経済や外交の専門ではないので、お嬢様がそうおっしゃるなら――――」
瞬間、こずえの目が細まり、清二郎を睨みながらセンターテーブルに手を着いて詰め寄った。
「慣れない言葉使わないで。あなたにお嬢様なんて呼ばれたらむずがゆくてたまらないわ。名前で呼んで。私はあなたのことを森山君と呼ぶから」
「いや、それは対等な相手ならまだしも恐れ多いと言いますか・・・」
こずえの眉がピクリと跳ね上がる。
それを見て、清二郎もまずいとは思ったがなんと呼べば正解なのか言葉に詰まる。
「いいから呼んでみなさい」
「緋之坂のお嬢さん」
「全然駄目」
「緋之坂さん?」
「名字は味気ないわ」
自分は名字で呼んでおいてですか、と言い返したくなったが、徐々に迫る麗しの美貌に勝てるはずもなく。
「・・・こ、こずえ・・・さん?」
「まあ、許してあげるわ」
目前に迫ったこずえがどっかりとソファに座り直し、紅茶を片手に破顔した。
それはもう嬉しそうで、本当にいいのだろうかと清二郎が迷う余地を与える隙さえなく決定事項となってしまった。
このお嬢様はずるいなぁ、と思いつつもどうにも憎めないから困ったものだと清二郎は苦笑する。
「ごめんなさい、話が途中だったわね。それで、内燃機関の開発上の課題点は他に何を考えているのかしら?」
「設計するだけなら先進国の研究を参考に図面を引くことはできると思いますが、恐らくピストン式は構造上頑丈なので試作を繰り返すことさえできれば。ただ、タービンを作りたいなら高回転域で稼働に耐えられる硬度と耐熱性に優れた金属が無ければ出力を上げた途端に壊れますよ」
「そして研究室で個人的に図面を集めて行き詰まったと、そういうことよね?」
「仰るとおりですが、なぜそれを?」
「今日、研究室に入ったときに水浸しになったデスクの上にあったからよ。書きかけの図面の隅に試算と大きなバツを付けてあったでしょう?遅くまで格闘した結果は、何度やってもタービン翼が耐えられず求める出力を出せない事が分かったという事よね?」
「すべてお見通で悔しいですが、その通りです」
「ニッケル、コバルト、チタン」
こずえの発した名称に清二郎は驚いた。
耐熱合金の素材としてもし試せればと思っていた希少金属だった。
清二郎の反応を楽しみつつ、こずえは続けた。
「もし、その鉱脈が突然現れた、と言ったらどうかしら?」
「もしや、それもあの島の隆起で?大事ですよ、それは・・・」
「そう、大事よ。もうあの島そのものが宝の塊」
そう言ったこずえは何故か苦い複雑そうな笑みを浮かべていた。
先ほどまでの嬉々とした様子とは一変し、真剣な眼差しでこずえは清二郎に問う。
「あなたの力が欲しいというのは本気よ。できればこの研究所の空き部屋を使っていいから住み込みで。給金も出すし、卒業までは大学に通えるよう配慮するわ。最低半年だけでもお願いできないかしら?」
「急に言われましても、下宿先の親父さんたちにはずいぶんお世話になっているので、俺だけで決められませんよ」
「分かったわ。今日のところはここまでにして、帰ってよく考えてみて。明日また迎えをよこすわ。ついでに会って欲しい人もいるから」
こずえが立ち上がり、執事に目配せすると彼は清二郎に出口を指し示した。
「こちらへ」
促されるまま車に乗り込むと、それはなめらかに滑り出した。
研究所の前で手を振るこずえの表情が寂しげだったのは気のせいだろうか。