第1話 邂逅
子どもの頃、なぜ火は熱いのだろうか、なぜ魚は水の中で息ができるのか、なぜ鳥は飛べるのか不思議でならなかった。
大人に聞いてみたけれど、わからないか、神様の話ではぐらかされて納得がいかなかった。
農村部で読み書きができる人の方が少ない時代の中、科学の理屈など知っている人がいるはずもなかった。
そんなことを何度か繰り返して、少年は考えた。
そうだ。東京へ行こう。
帝都・東京という場所には何でもあると皆が言う。
あの都なら自分の不思議の答えがあるはずだ。
どれだけわからないことがあっても探せば見つかるだろう。
そんなことを両親に話したら、田舎者が行ったところで悪いやつに騙されて帰ってくるに決まっていると田舎の良さを延々と聞かされた。
当時数えで6歳の子どもが言い出したことなのだから当然の反応だった。
半分うんざりした気持ちを抱きつつ、しかし少年は一つの決心をする。
騙されないくらい賢くなればいい。東京へ行くには勉強をしなければ。
幼い胸に秘めた決意に突き動かされるまま、学問の扉をたたき破る勢いで頼れる限りの知人から学問書を借りて、墨も紙も無いので土に木の棒で字を書いて練習をした。
そして時は過ぎ、あの日の少年・森山清二郎は東京のとある大学の工学部に籍を置くまでとなっていた。
始まりは太正十三年春のこと――――
「いや、刑事さん、何度も言いますが、俺には全く身に覚えが無いんです」
清二郎は警察の取調室で頭を抱えていた。
角田と名乗った対面に座る男は、何を言うか、と聞こえてきそうな深いため息と覇気の無いねっとりとした目で返す。
「うちも暇じゃないんでね。しらばっくれて時間を取らせないでくれ」
角田は手帳を開いて読み上げる。
「いいか?昨日研究室に最後まで残って鍵を閉めたのはキミ、そして今朝8時過ぎに最初の学生が研究室の戸を開けると天井がボヤになって燃え広がるところだった。幸い近くにいた学生も多く消火が間に合って事なきを得たが、その時キミは構内にいた。つまり、前の晩に何か仕掛けをしたにしても朝に火を付けたにしてもキミが犯人ということだ。早く発火方法の説明を付けて自白してくれると手間が省ける」
理屈が穴だらけだ。あまりの理不尽さに顔が赤くなるのを自覚しながら、清二郎は言葉を絞り出そうとする。
ここで言い方を間違えちゃだめだ。
角田の背後に控えた警官がのそりと棒を取り出したあたり、下手を打てば実力行使に出る。
そういうことだろう。
落ち着け、冷静になれと必死に自分の心に言い聞かせる。
「現場検証の立ち会いって、必要ですよね」
「あ?まあなあ。キミが自白してくれればそれも済ませたことにして書類を作るが?」
もう怒りで顔が引きつりそうな中、無理やり口角を上げる清二郎。
「いやいや、さすがにそうはいかないでしょう?」
「仕方ない。面倒だが。逃げないように手は縛っておくからな」
贅肉の乗った腹を揺らし、億劫そうに角田が立ち上がる。
* * *
大学構内で拘束された時点では清二郎は人だかりに阻まれて研究室の中を見ていなかった。
ようやく直に見られたのだから、どうにか無実を証明できないかと手の縄ごと布を巻き付けられた姿で現場に目をこらす。
後ろに張り付いている角田から離れるわけにも行かず、見物人まで集まってきた。
何かないか、手がかりは。
焦りばかりが募っていく。
天井から数十センチほど下までの範囲が均等に焦げていて、下で何かを燃やしたような跡は見つからない。
消火のために水をかけられたせいで壁紙の縁は剥がれたところがあるし、その下のデスクに至っては、趣味で集めた図面やら研究資料がずぶ濡れ状態だ。
現場を保存するためとはいえ、あまりにもったいない惨状だった。
それにしても、この燃え方は一カ所の火元から広がったようには見えないような――
清二郎が思案していたその時だった。
「この泥棒野郎!」
人だかりから怒声が聞こえ振り向くと、同じ研究室の林だった。
彼は規制線を飛び越えると清二郎の胸ぐらをつかむ。
「あの水晶みたいなやつ、どこへやった!?叔父貴が珍しいもんだって土産にくれたのによ!」
とんでもない誤解だと叫びたかった。
ただでさえ冤罪を被っている上に窃盗まで着せられるなんて。
「待ってくれ、そんなわけ無いだろう!」
清二郎には理解のできないことばかりが起きている。
神も仏も俺に何か恨みでもあるんだろうか。
その時だった。
「面白そうね!私も混ぜてくださる?」
場違いなほど楽しげで凜とした声が響いた。
さすがの林も手を止め、声の主を見る。
清二郎もその視線を追い、目にしたのは鮮烈な赤だった。
十代後半くらい、恐らくここの学生ではない。
何より、好奇心に光る瞳を縁取る切れ長の目、流れるように整った鼻梁、不適に弧を描くしっとりとした唇、栗色の腰ほどまである長髪、身を包むのは赤を基調とした気品を感じさせるドレス――こんなに目立つ容姿、一度見たら絶対に忘れないだろう。
その存在はそれまでの陰鬱な空気を吹き飛ばし、時間が止まったような錯覚さえ覚えた。
悠然と少女は歩み寄り、
「私は緋之坂こずえ、科学に魅せられた研究者です」
そう名乗った。
角田を見ると、面倒くさいのがやってきた、と言わんばかりの顔をしている。
面識があるのか止めるつもりは無いらしい。
「あなた」
「・・・あ、はい?俺ですか?」
呆然と固まっていた林が我に返る。
「ええ。なくなった水晶みたいなものとは、具体的にどういうことかしら?」
「あー、叔父貴は漁師をしていてあの新島が見つかったって噂が流れたときに上陸して拾ったって」
「結構いたらしいわね、そういう人。それで、どこに置いていたの?」
「デスクのここに」
林が指さしたところにはガラスのケースの中になぜか窪んだ皿のような石が残されていた。
このくぼみに乗っていたとすると拳ほどだろうか。
「なるほど。角田さん、あなた、また適当な捜査したわね。原因がわかりました。これは偶然の事故です」
あきれたと言わんばかりに半目で角田を睨むこずえ。
その発言を聞いていた見物人は騒然となった。
「いやいやお嬢、ことは放火犯の案件。そんな重大な事を遊び気分で――」
「私は科学には誠実が信条です。それ以外にこの状況を作れない現象があるから言っています」
少女――こずえの声はとてもよく通ってまっすぐで、力強い信念があった。
言っても引かないことがわかっているのだろうし、おそらく敵に回すとやっかいなところのお嬢様なのだろう。
角田も言葉を飲み込む。
「ここは東に面した2階、大きな窓があって外に遮蔽物はない。朝日が昇って部屋全体を照らし、徐々に光量が上がっていく。そしてその中で密閉されたガラス容器なんて温室状態よ。さらに光の熱が収束するはず。そこで重要なのが水晶のような物体の正体なのだけれど、これはあの(・・)島特有の物質と考えれば説明が付きます」
「あれが何だったか知っているのか?!」
林がぎょっとした様子で問う。
恐らく、研究室に持ってきたのも成分を調べるためだったのだろう。
「一般にはまだあまり知られていないから仕方ないけれど、あれは固体の可燃ガス、正確にはメタンガスです」
「へ?」
林が間抜けな声を出す。
清二郎も角田も、その気持ちには同意した。
液体ならまだしも、ガスが固体になるなんて聞いたこともない。
「私もちょうど分析中なのよ。あの結晶、常温なら安定しているけれど、熱に弱いわ。ガラス容器の中で熱せられたりしたら構造が崩壊して容器の隙間から室内に流出するわよ。だから、盗まれたんじゃなくて『溶けて見えなくなった』、が正しいわね。さて、漏れ出したメタンガスはどこへ行くでしょうか?角田さん」
「俺に聞くなよ。おいどうなんだ?」
「ええと、メタンガスは比重が軽いので上に・・・ああ、なるほど」
肘でつつかれ慌てて答える清二郎だが、それで彼も理解した。
「そう。天井にたまっていたはずよ。そこに火が付いた。だから天井部分ばかり焦げたと推測できるわ」
「ならなんで火が付いたんですかね?誰かが火を付けたことに変わりないのでは?」
角田が、やれやれ、といった様子でボリボリと後頭部をかく。
「あら、可燃性のガスに着火するのは簡単よ?金属がこすれて出る小さな火花で十分だから。第一発見者はドアを開けるまで火に気づかなかったようだから、鍵を開けたときか、ドアを動かした瞬間に着火したのよ。ちゃんと油を差しているかも怪しい扉ならあり得るし、木造建築が初期消火できるくらい早く発見できたことも着火直後だったからでしょうし」
しばしの静寂が流れ、
「おいおい、上にどう報告すりゃいいんだよ!」
「ちなみに、あの結晶についての分析資料は政府から箝口令を受けているので頑張ってくださいね」
「だからどうしろってんだ。あんたの言ったとおりだとホシ上げてももみ消されるじゃねぇか。まったくこれだからこのお嬢に関わるとろくな事にならん・・・」
「だから、偶然薬品に火が付いただけの事故。犯人は無し。修繕はウチが理事としてやってあげるから後腐れも無し。そうしとけばみんな幸せでいいじゃない」
角田が頭をかきむしり、力なく肩を落とす。
容疑が晴れて安堵した清二郎だったが、ここで驚くことが続いた。
こずえ嬢がそれはもう一瞬の早業で清二郎の被っていた布を剥ぎ、手縄を外し腕を絡めて出口へ引っ張っていったのだ。
「じゃ、そういうことだからこの人は無罪放免!ついでにもらっていくわ」
「え?ええええええええええ!?」
何が何だかまたしてもわからないまま引きずられていく清二郎が見たのは、死んだ魚の目をした角田と、よくわからないけれどうらやましいと訴える林ほかその場にいた男性陣の視線だった。
* * *
ふかふかの椅子だなぁ。
大学の正門前に止まっていた自動車に押し込まれてよくわからないまま思った感想だった。
状況について行けないにしろ、目の前に座っている赤い服のお嬢様がただ者ではないことだけはよくわかった。
自動車、しかも初の国産と一時期大騒ぎになっていた型ではなかろうか。
「あの、俺、自動車に乗るなんて初めてで―――」
「すごいでしょう!しかも、このコは初の国産量産車として出したA型が不幸にも二二台しか作れなくて試作で頓挫しちゃった幻のB型ちゃんよ!乗り心地とか負荷がかかる部品の洗い直しとか整備性、衝突安全性の向上のバランス!ああっ、某国が恐慌と急成長繰り返して経済を振り回された上にあの震災。試練なんてレベルじゃないわよぅ!」
科学に魅せられて云々は伊達ではなかった。
これはかなり突き抜けている。愛情というか、病気というか…。
それにしても綺麗なお嬢様だな、と見ていると熱弁がひと段落したのか。
「そういえばあなたの名前をまだ聞いてなかったわね。さっきも自己紹介したけれど、私は緋之坂こずえ。ご覧の通り科学を愛してやまない十八歳よ」
「帝国大学工学部の学生で森山清二郎です。二十歳です。助けていただいて感謝しています」
こずえが指し出した手をぎこちなく清二郎が握り返す。
学問ばかりの青春を送っていた彼にとってはこの状況自体がどうにも落ち着かず、むずがゆい。
握手なんて、ドレスといい西洋文化になじみが深いのだろうか。
そうしている間にも景色は上り坂に変わり、火の手が及ばなかった洋館風の家が並ぶようになっていく。
「ところで、なぜ俺なんかを連れて?それに気になっていたのですが、緋之坂というともしかして・・・」
「それは着いてからちゃんと説明するわ。ほら、見えてきた」
そう言ってこずえが視線を向けた先には長く続く高い壁と、その上から覗くお城のように立派な洋館があった。
精緻な意匠が刻まれた門を抜け、見えてきた屋敷の正面は開けた大きな庭になっており、脇には大きな池まであった。
正面玄関へ向かうかと思いきや、脇道へ逸れ、レンガ造りの離れらしき建物の前で停車した。
大きさは本館より二回り小さいだろうか。
庶民にはそれでもあまりに立派過ぎて前に立つだけで気後れして居心地が悪いのだが。
そんな清二郎の戸惑いを華麗なまでに無視して、大好きなおもちゃを見せるような、年相応以上の無邪気さでこずえは言った。
「ようこそ、私の先進科学研究所へ!」
そして開け放たれた扉の向こうに広がっていたのは、鉄と油の匂いと蒸気が充満した金属の山だった。