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EXPLODE  作者: 綾稲 ふじ子
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EXPLODE

 目を覚ましたとき、なんとなくいつもより寝心地が悪い気がした。ゆるゆると意識を取り戻しながら理由を考えて、瑞貴は自分が服のまま寝ていることに気が付いた。

 なんで着替えずに寝ちゃったんだっけ、と記憶を探り、すぐに思い出す。

フチベ リュウノスケが龍泉寺淵だった可能性が高いこと、洸に抱きしめてほしいと言ったこと。

 がばっと起きあがって頭を抱える。普通ではない状態だったとはいえ、なんていうことを言ってしまったのだろう。恥ずかしすぎて全身が熱い。

 どうしてあんなことを言ってしまったのか、自分でもわからない。目が合った瞬間、ただ洸に抱きしめてもらいたいと思って、それが口からぽろりと出てしまった。

 抱きしめてもらっているうちに、めまぐるしく頭を巡る考えや様々な感情がゆっくり治まって、眠たくなってきたのは覚えている。それ以降は覚えていない。眠っていたのだから当たり前だ。

 室内はまだ真っ暗だ。立ち上がって電気を点け、壁時計を見ると四時半だった。

 掛け布団を丁寧にたたんでから着替えを持ってバスルームに向かい、歯みがきをしてからシャワーを浴びた。身繕いを終えてリビングに戻っても室内はまだ薄暗かった。布団を収納にしまい、瑞貴はソファに腰掛けた。

 これからどうしよう、と考える。洸に打ち明けるべきなのだろうか。

 そうするべきだ、と即答する自分がいる一方で、話す必要はないのでは、と躊躇う自分がいる。

フチベ リュウノスケ=龍泉寺淵であると、完全に言い切れるわけではない。ほんの少しでも違う可能性があるのなら、まだ口にしなくてもいいのではないだろうか。

図書館に行って調べてみよう、と思いつく。過去何年分かはわからないけれど、新聞が資料として所蔵されていることは、図書館にほぼ日参しているから知っている。

もしも龍泉寺淵がフチベ リュウノスケでなかった場合、全ては降り出しに戻る。ここにいることに後ろめたさを感じることもなくなる。

ずるい考えだろうか? だとしても、今はそれ以外の選択肢を選べない。

ふいに龍泉寺淵が実父だった場合、亡くなったのは母を誑かした神罰が下ったからなのだろうか、と思った。

やっぱり神罰が存在するのなら、きっと自分も同じような目に遭う。それがいつなのかはわからない。何か月後かもしれないし、三日後かもしれない。

 もしもそれが避けられないのなら少しでも先であるよう、ほんの少しでも長く洸といられるよう、瑞貴は祈った。


悶々とたぎる欲望のせいで、洸はよく眠れなかった。いつもの時間に振動するスマートフォンに手を伸ばして目覚ましを止め、ずるずるベッドから這い出る。

ドアを開けると瑞貴はきちんと着替えて朝食の用意をしていた。

「おはようございます、瑞貴さん」

声を掛けると、瑞貴は気まずそうな顔でゆっくりと振り返った。

「おはようございます。あの、昨日は色々すみませんでした。あと、お布団を掛けてくれてありがとうございました」

 言うべきことを頭の中で繰り返していたのだろう。それだけ言うと瑞貴は目を伏せた。

「体調はよくなりました?」

「ええ、おかげさまで。ご心配をおかけしてすみませんでした」

「それならよかった。ちょっとシャワーしてきます」

 そう言ってバスルームに向かう。瑞貴がほっとしたように表情を緩めるのが視界の隅に入った。昨夜のことは触れないほうがいいのだろうか、と思いながらシャワーをすませて着替える。

 キッチンに入ると、ちょうどフレンチトーストが焼きあがるところだった。

「お、旨そう。なにか手伝いますか」

「じゃあ紅茶をついでいただけますか」

 紅茶、と洸は思った。昨日の夜、もやもやした気持ちとともに飲み干した微かに苦い味を思い出す。

 揃ってテーブルに着き、朝食を摂っているあいだ、洸は努めて普段通りの自分でいた。瑞貴もいつも通りに見えた。

 朝食が終わるのを見計らって、洸は思い切って口を開いた。

「ところで、昨日はどうしたんですか」

 紅茶を飲んでいた瑞貴は、マグカップをテーブルに置いて静かに答えた。

「ちょっと眩暈がしただけです」

「抱きしめてほしいって言ったのは?」

 この際、全部訊いておいたほうがいい、と洸は問いを重ねた。そうしないと、これから瑞貴にどう接したらいいのかわからない。瑞貴の顔は瞬時に朱に染まった。

「ごめんなさい。変なことを言って、反省してます。自分でもなんでかわからないんですけど、抱きしめてほしいって思って、つい……」

 顔を覆い隠すように手のひらを当てても、真っ赤な耳や首筋まではカバーできていない。瑞貴はか細い声で言い足した。

「清水さんに抱きしめてもらっていたら、すごく落ち着いて、安心できたんです。そのうちだんだん眠たくなってきて、気が付いたら寝てました。本当にごめんなさい」

 恥じらって平謝りする瑞貴は尋常じゃないほど可愛らしく、洸は完全にノックアウトされてしまった。ずぶずぶと沼にはまっていくように、どんどん瑞貴に溺れていく。

抱きしめて安心されるなんて、無条件に信頼されている以外の何物でもないだろう。

誘惑に負けて手を出さなくて本当によかった、と安堵する反面、この状態は蛇の生殺しすぎる、と心中で嘆いた。

「そんなに謝らなくてもいいですけど。他の男にあんなこと言ったら勘違いされちゃうかもしれないので……」

 瑞貴は手のひらを外し、きょとんと洸を見た。

「清水さん以外の人に、あんなこと言ったりしません。清水さんだからお願いしたんです」

瑞貴の言動で容易く一喜一憂し、翻弄されている自分に気づき、いい歳してなにを、と洸は自嘲する。もしかしたら瑞貴はとんでもない小悪魔なのだろうか、と思った。

「それならいいんですけど。今日の予定は?」

 これ以上この話を続けると瑞貴に対する感情が高まりすぎて危険だ、と、洸は話を変える。このままだと仕事も瑞貴の気持ちを無視してソファもしくはベッドに連れ込んで押し倒し、きっちり留められた白いシャツのボタンを上から一つずつ外して、自分のものにしてしまう。洸の具体的な葛藤を知るべくもない瑞貴はマグカップに手を掛けながら応じた。

「いつも通りです。図書館に行って、夜はバイトに行ってきます」

「昨日の今日だし、念のため病院に行ったほうがいいんじゃ……」

 気遣う洸に瑞貴は首を振る。

「本当にもう平気だし、体調が悪くても休んでいれば治ります。一度も病院に行ったことないですけど、今までずっと大丈夫でしたから」

「え? 一度も病院に行ったことないんですか」

 不思議に思って尋ねると、瑞貴はわずかに慌てた顔をした。

「ええ、あの、健康だけが取り柄なので。あ、そろそろ仕事に行く時間じゃありませんか」

 そう言われて壁時計を見上げると八時半になるところだった。

「そうですね。とにかく無理はしないで、バイトも行けそうになかったら連絡を入れて休んだほうがいいですよ。母の電話番号は知ってましたっけ?」

「ええ。でも、きっとバイトには行けると思います。本当に心配しないでください」

 瑞貴は静かに微笑んだ。


 仕事に出る洸を玄関先で見送ってドアを閉めたあと、瑞貴は大きく息を吐いた。

洸の、優しいけれど熱を持った視線を受けると、妙な気分になる。決して不快ではなく、今まで感じたことのない感情が湧きあがる。できることならずっと抱きしめていてほしいし、他の女性に触れてほしくない。

昨日の夜、もしも自分が眠ってしまわなかったら、あれからどうなっていたのだろう。

あのときは全く考えなかったけれど、一晩眠って冷静になった今なら、誰も見咎める者のない密室で抱き合っていたら起こるであろうことは想像できる。

世の恋人たちがどういうことをするのかは知っている。そして自分が洸とそうなるのが許されないことも。人の目はなくとも、神から逃れることはできない。

掟を破ったために神罰が下って死んだという母の存在が脳裏をよぎる。そして、もしも龍泉寺淵が父親であるのなら、彼もそのために死んだのだろうか。

瑞貴はぶるんと頭を振った。まだわからない。限りなく黒に近いグレイは黒ではない。

よく調べたら、龍泉寺淵とフチベ リュウノスケは全くの別人物であるという確証を得られるかもしれない。

手早く洗濯をすませて家を出る。十一月の中旬に差し掛かるこの時期は空気がからりとして、青々と晴れた空は高い。美容室の前を通りかかって中を覗き込むと、光江よりもすこし歳上と思しき女性の髪にカーラーを巻いているのが見えた。なんとなくホッとしながら早足で図書館に向かう。

足繁く通ううちに顔見知りになった司書の女性に二十年前の新聞を閲覧したいと伝えると、新聞の保存期間は一年間で、代わりに新聞を縮小コピーした縮刷版という本が書庫にあると言われた。一ヶ月単位でまとめられているというので、一九九六年の二月と三月を頼む。まもなく司書が縮刷版を手に戻ってきた。A4サイズで厚みは辞書くらいある。手にするとずしりと重い。

閲覧スペースに陣取り、ぱらぱらページをめくってみる。縮刷版という名の通り、新聞が四分の一サイズに縮小されて印刷されていた。虫メガネが欲しい、と思いながら、瑞貴は食い入るように一九九六年二月二十四日以降の記事を探す。

人気作家だったというだけあり、龍泉寺淵の事故死は比較的大きく紙面を飾っていた。


【龍泉寺淵氏が交通事故死】

 二十四日早朝、鹿児島県薩摩郡下甑村の山中で、人気作家の龍泉寺淵(本名淵辺龍之介=ふちべ・りゅうのすけ)さんの乗用車が炎上しているのを近所の男性が見つけ、110番した。車内には龍泉寺さんが乗っていて、搬送先の診療所で死亡が確認された。三十三歳だった。葬儀・告別式の予定は未定。調べによると現場付近の山道はゆるい右カーブ。事故当時は数日前の雪が残って路面が凍結していた。県警では現場の状況から龍泉寺さんが車の運転を誤ったものとみて捜査している。龍泉寺さんは友人宅に滞在し、仕事で東京に戻る予定だったという。

 東京都文京区生まれ。一九八四年、大学在学中に書いた「禁じられた果実」で××文学賞を受賞し、作家生活に入った。スマートな文体と緻密に計算された謎解きで若い世代からの支持を得て、人気を不動のものとした。数十冊の作品群の中で、代表作に「舞い散る桜」「約束の地の先に」などがある。映像化された作品も多い。


 記事を読み終えた瑞貴は大きくため息を吐いた。やはり淵辺龍之介はふちべ・りゅうのすけと読むのか、と思った。となるとやはり、フチベ リュウノスケ=龍泉寺淵の可能性は極めて高い。限りなく黒に近いグレイというより、ちょっとだけグレイがかった黒だ。

 だけど洸にスマートフォンでフチベ リュウノスケと検索してもらったときには、そんな情報は一切出てこなかった。

しばらく考えて、図書館内にある検索用のパソコンで確かめてみることを思いつく。パソコンの使い方は光江の店で予約客の確認をするために覚えた。

パソコンの使用には図書カードを提示する必要がある。他人のカードを借りていることが発覚したら、と案じたけれど、案ずるより産むが易しということわざもある。

 素知らぬ顔で洸のカードを提示し、インターネットの利用申し込みをする。幸運なことに、見咎められずにすんだ。

 検索エンジンを開いて“フチベ リュウノスケ”で検索をかけてみる。それらしき情報は一切出てこない。首を傾げ、今度は平仮名で検索する。今度はウィキペディアの龍泉寺淵が出てきた。漢字で検索しても、やはり出てくる。どうやら片仮名だと検索に引っかからないようだ。

 今度は“龍泉寺淵”で検索してみる。著作に関する情報などがずらりと出てきた。事故に関するものもあり、瑞貴はそのうちのひとつを開いてみた。内容は新聞の記事とほとんど同じだったけれど、少し引っかかるものがあった。

“龍泉寺淵は事故死する数年前から足繁く甑島に通っていた。次回作の舞台に選び、そのための取材旅行だったらしい。気になるのは彼が通っていた集落で信仰されているというクロ宗という密教だ。キリスト教が基盤になっていると言われているが、長く続いたキリスト教の禁教時代を経て、土着の民間信仰と結びついて本来の形からは大きく変わっているという。龍泉寺淵なら、それをどう描いたのか。あらためてその死が惜しまれる”

 それで龍泉寺淵が甑島に来た理由がわかった。おそらくは取材をするうえで母と知り合い、やがて結ばれたのだろう。

 滞在していた友人宅とはどこなのだろうか。そして第一発見者という近所の男性とは誰だろう。

後者はわからないけれど、龍泉寺淵が母と関係があったのだとしたら、滞在していたのは大倉家の別宅なのではないだろうか。となると、詳細を知るには大倉家に戻って訊くしかない。

 瑞貴は無意識に首を振る。戻ったらきっと洸のもとに帰ってこられない。それは絶対に厭だった。小さくため息を吐くと、瑞貴は席を立った。

 図書館を出て帰路を辿る。コンビニの前の公衆電話を目にしたとき、蒼海はどこまで知っているのだろう、と不意に思った。それほど詳しいことは知らないにしても、自分より情報を持っている可能性がある。現に最後に電話で話した際、フチベ リュウノスケの名前を出したら、すぐに自分の父だと教えてくれた。

 迷いながらも、瑞貴は公衆電話に手を掛けた。財布の中にあった百円玉は四枚で、それを全て入れて番号をプッシュする。数回のコール音のあと、今ではすっかり懐かしく感じるようになってしまった声が聞こえた。

「……はい?」

「瑞貴です。いま話せる?」

「瑞貴ちゃん? いまどこにいるの。大丈夫なの?」

 いつも落ち着いている蒼海の慌てふためいた声に、瑞貴は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「大丈夫だよ。心配かけて本当にごめんね。あのね、訊きたいことがあるんだけど」

「ああそうだ。瑞貴ちゃん、淵辺龍之介さんはもう亡くなっているんだよ。だから見つけることなんか絶対に出来ない」

 蒼海は知っていたんだ、と瑞貴は思った。

「うん、知ってるよ。知ってるっていうか、昨日知った。蒼海くん、龍泉寺淵っていう小説家は知ってる?」

 戸惑うような数秒の沈黙のあと、蒼海が応じた。

「……龍泉寺淵? 推理作家だっけ? 読んだことはないけど名前は知ってる。それがどうかした?」

「龍泉寺淵っていうのはペンネームで、本名は淵辺龍之介っていうの。つまり私の探していた人。龍泉寺淵の本を貸してもらって、それがきっかけでわかったんだけどね。二十年前に車の事故で亡くなっていて、その場所が甑島だったんだって」

 さっきより長い沈黙が訪れた。通話が切れたのかな、と瑞貴が心配になったころ、ようやく蒼海の声がした。

「ちょっと待って、情報量が多すぎる。え? 淵辺龍之介さんって龍泉寺淵だったの? しかも島で亡くなってたの? そういえば昔、事故を起こして亡くなった物書きがいたって聞いたような覚えがあるけど、もしかしたらその人のことかな。っていうか、推理小説が好きな知り合いってどういう人? 島を出てから一か月半くらい経つけど、今どこでどうやって暮らしてるの?」

「新聞の記事によると、一九九六年の二月二十四日に事故を起こして亡くなったんだって。何日か前に降った雪で路面が凍結していて、警察では淵辺さんが運転を誤ったって判断したみたい。そのときの第一発見者が男性だったらしいんだけど、誰だと思う?」

 後半の質問は全てスルーして、瑞貴は蒼海に尋ねた。

「そんなこと訊かれても……。事故の話自体、いま知ったばっかりだし」

「そうか。そうだよね。あとね、淵辺龍之介さんは甑島の友人の家に滞在していて、仕事で東京に戻る予定だったんだって。それってもしかして大倉家じゃないかなって思って、蒼海くんなら何か知ってるかもって電話してみたんだけど。それもわからないよね」

「もちろんわからない。それで瑞貴ちゃんはどうするつもり? 東京に行く前の電話では、フチベ リュウノスケさんが見つかったら必ず島に帰るって言ってたよね。亡くなってるってわかったってことは、見つかったのと同じでしょ。所在がはっきりしたんだから」

 今度は瑞貴が黙り込む番だった。蒼海の言う通りで、見つかったら必ず帰ると約束した。

「もしかして帰りたくない理由でもできた? 例えば龍泉寺淵の本を貸してくれた人とか」

「違うよ。その人は関係ない」

 的を射た言葉に、瑞貴は思わず嘘を吐いてしまった。

「じゃあなんで? 島ではみんな瑞貴ちゃんを心配してるよ。神隠しにでもあったのか、とか、海に落ちたのか、とか、誰かに誘拐されたのか、とか。もちろん僕が一番疑われてる。シラを切り通してはいるけど、なにぶんあのタイミングだからね」

「迷惑を掛けて本当にごめん。でももう少し時間をちょうだい。一生のお願い」

「いつまで?」

「……それはわからない。本当にごめんね。また電話する」

 そう言うと、瑞貴は静かに受話器を置いた。

いつものスーパーで食料品を買い、美容室の前を早足に通り過ぎる。今はなんとなく姿を見られたくない。

 家に戻って買ってきた物を冷蔵庫にしまうと、ソファに座り込んだ。なんだかとても疲れていた。思いがけず知ってしまったフチベ リュウノスケの消息は、これまた思いがけないものだった。

 洸に打ち明けなければ。そう思うだけで、胸の中に重苦しいものが満ちてくる。島に戻ることを考えるとそれはさらに増して、息苦しさすら覚えた。

 こんなに身勝手な人間だったなんて、と瑞貴は自分自身に失望する。

集落の中で信仰を守りながら蒼海と子を為し、一生を終える。それが自らに課せられた義務だったのに、その全てを放棄したくなっている。全てを捨てても洸とずっと一緒にいたいと願っている。神罰が下って当然だ。

 過去に、クロ宗を抜けると言ったあと、急死した者がいると聞いたことがある。他教に改宗しようとした直後に重い病にかかった者や、クロ宗について他言した者は口がきけなくなったという話もあった。神罰によって命を落とした者は神の国に行くことを許されず、地獄に落ちるという。

実際、瑞貴の母はそれで亡くなったと思われているし、実父の淵辺龍之介も車の事故で亡くなっている。島を出ようとしたのが神罰が下った理由なら、実際に島を出て、数えきれないほど多くの人の目に触れてしまった自分は確実に許されないだろう。

今から島に帰って義務を果たせば帳消しになるのか、すでに手遅れなのかはわからない。

いずれにしても、この先どうするかはまだ決められない。フチベ リュウノスケのことを洸に伝えるかどうかも躊躇いがある。

島を出たあと、神罰が下って死ぬのならそれもやむを得ないと何度か思った。今は違う。少しでも長く生きて、洸との時間を過ごしたい。ほんの一日でも多く一緒にいたい。

 どうすればいいのかわからないことばかりの中、はっきりしているのはそれだけだった。


 それからまた、表面上は変わりのない穏やかな日々が続いた。

季節はすっかり変わって、二週間後に控えたクリスマスのため、街中の至るところにきらびやかな飾りつけがなされている。

洸と瑞貴の関係性はなにも変わっていない。進展はなにもなく、瑞貴はいまだにフチベ リュウノスケの話をできずにいた。隠し事を抱えた後ろめたさはあるけれど、深く追及されることのない状態に、瑞貴は甘んじていた。一線引いてはいるものの、二人の仲は良好で、たまに一緒に出かけることもあった。

その夜もそうだった。瑞貴は洸に誘われて、家から徒歩圏内にある氷川神社の十日市の参拝に来ていた。光江に、店に飾るように熊手を買ってくるよう頼まれたのだ。

毎年十二月十日に行われる十日市は、他の神社では酉の市とも呼ばれる。

門前にずらりと熊手の露店が立ち並び、参道には食べ物などの屋台もひしめき合って、夕方になると歩くこともままならないほど参拝客が押し寄せる。

 洸の仕事が終わったあと、連れ立って様々な屋台を物色して、歩き食いしながら活気に満ちた参道を歩いた。はぐれないように、いつもより二人の距離は近い。

十二月の冷え切った夜にもかかわらず人出は多い。東京駅の雑踏をはるかに上回る混雑具合に、瑞貴は目を瞠った。瑞貴は集落の小さな神社を思い出す。キリスト教が禁制だった頃、周囲の目を慮って建てられたものだ。集落の人間は外の目を憚りつつ、そこで自分たちの信じる神に祈っていたと聞いた。

「それにしても、あんなにたくさん人がいるとは思いませんでした。みんなどこから来るんでしょう」

 目当ての熊手を買い、参道から外れて光江の店に向かう途中で、瑞貴は思わず呟いた。

いつもより人の行き来が多いとはいえ、住宅街の路地は静かだ。さっきまでの喧騒が嘘のようだった。熊手を掲げた洸はちょっと笑った。

「僕らもその一部だったんですけどね。この辺りの人以外だけでなく、遠方から来る人も少なくないみたいです」

「あそこにいた人たちはみんな、神様を信じているんでしょうか」

 瑞貴の疑問に、洸太は首を傾げる。

「ただ楽しむために来る人が大多数だと思いますよ。僕もそうだし。瑞貴さんは神様を信じているんですか」

 即答できず、瑞貴は口ごもる。答えるかわりに尋ね返した。

「神様ってなんなんでしょうね。信じていれば、本当に幸せになれるんでしょうか」

「どうなんでしょう? 僕も含め、日本人のほとんどは無宗教なのに、正月とか今日みたいなお祭りのときは神道、クリスマスはキリスト教、葬式は仏教と節操がないですから。だけどそれはそれでアリなんじゃないかと僕は思います。もちろん、ストイックに神様を信じていて幸せになれるんならそれもいいし。価値観と同じく、宗教観はそれぞれです」

 果たして自分は幸せなのだろうか、と瑞貴は自問する。

 神様を信じている。だけど幸せよりも畏れを感じることのほうが多い。とくに禁忌を破った今は、いつ罰が下るのかと心のどこかでずっと怯えている。

「信じていても幸せじゃない場合は?」

 思わず漏れた瑞貴の問いに、洸は首を傾げる。

「神様を信じていて幸せじゃない場合って、たとえばどんな?」

「えーと、神様を信じているために行動が制限されたり、とか? よくわかりませんけど」

 なるべく他人事に聞こえるように瑞貴は言う。

「ああ。宗教によっては食べ物に制限があったり、輸血を禁じられたり、他にも色々あるみたいですもんね。傍目にはどう見えても、当人たちはそれで幸せなのかもしれませんよ。正しい事をして、いずれは報われると信じているから」

 あまりこの話を続けると、言ってはいけないところまで踏み込んでしまうかもしれない。そう思ったけれど、胸の奥に長いあいだわだかまっているものが溢れ出してくる。

「正しくないことをしたら? それで神様が怒って罰が当たったら?」

 重ねて問われて、洸は首を捻った。

「そういや子どものころ、お地蔵さんに立ちしょんした同級生が、すっ転んで骨折したことがあったなあ。この罰当たりが! って怒られてましたけど。でも立ちしょんと骨折に因果関係があるかなんて誰にもわからないことですよね。悪いことをしたあと、たまたま悪いことが起きただけで。瑞貴さんの言う正しくないことって、そういうことですか?」

 瑞貴は大倉家に祀られているご神体を意図的に穢すことを想像して身震いした。そんなことは決して許されない。

「そこまでいかなくても、神様に背くようなことです。決まり事を破ったり、欺いたり」

「欺くって嘘を吐くとか騙したりとかですか。それは神様は関係なく、人間関係にも支障をきたすから良くないと思います。でも、嘘じゃなくて、隠し事くらいなら、あって当たり前じゃないですか。言いたくないことを言わない自由は誰にでもありますから」

 洸は一度言葉を切って、思い切ったように言う。

「たとえば、フチベ リュウノスケさんが龍泉寺淵だったこととか」

 不意打ちで言い当てられて、瑞貴は立ち止まった。

「清水さんも知ってたんですか? なんで? いつから?」

 隠し事がばれた後ろめたさより、知っていても洸が変わらずいてくれたことに、瑞貴は自分でも驚くほど安堵する。

「瑞貴さんの様子がおかしくなった翌日からです。仕事の合間に、龍泉寺淵のウィキペディアを見た直後に、急に具合が悪くなったなって思い出して。最初に気付けなかったのは本当に迂闊でした。新幹線で検索したとき出てこなかったのはなんでだろうって、もう一度片仮名で検索してみたら、やっぱり出てきませんでした。なんでなんですかね」

 そう言うと、洸は瑞貴を見た。

「どうして黙っていたんですか」

「ごめんなさい。フチベ リュウノスケさんが見つかったら帰るって言ったのに、消息がわかったとき、最初に清水さんから離れたくないって真っ先に思いました。だからどうしても言えなかった。ずるいのはわかっていたんですけど、それでも……」

 洸は静かに笑った。

「ここにいていてほしいって言ったの覚えてますか。フチベさんが見つかっても、ずっと」

 瑞貴は胸がいっぱいになるのを感じた。ずっと一緒にいたいと思う相手が、同じことを望んでいる。このままずっとここにいたい。心からそう思った。

 自分はもう戻れない。島での生活にも、決められていた未来にも。

子どもを作るのなら相手は洸以外は考えられない。蒼海と結婚することはできない。

 光江の店を経由して家に帰るあいだ、瑞貴はどうするべきかずっと考えていた。

 店で軽く夕食をとっているあいだもずっと考え続けて、ようやく解決策が閃いた。


 家に着いたのは二十二時過ぎだった。リビングに入るなり瑞貴は振り返って、背後に立っていた洸に向き合った。

「ひとつお願いがあるんですけど」

 フチベ リュウノスケの話をしてから言葉数が減った瑞貴を気にしていた洸は、問い返すように色素の薄い瞳を見返す。

「私を清水さんのお嫁さんにしてもらえませんか」

 洸は無言でまばたきした。この子は一体何を言っているんだろう、という雄弁な沈黙に、瑞貴は耐えられなくなる。

「ごめんなさい、なんでもありません。忘れてください。なにか飲みますか? 外寒かったし」

 早口にそう言ってキッチンに向かおうとする瑞貴の手首を、洸は反射的に掴んだ。

「ちょっと待ってください。どういう意味か考えてて、フリーズしていただけです。お嫁さんになりたいってどういうことですか?」

 瑞貴は洸の手をほどき、ゆっくりコートを脱いで床に落とす。それからカーディガンのボタンを全部外して、同様に床に落とす。エアコンの点いていない部屋はひんやりしているのに、瑞貴は首筋まで赤い。手は小さく震えている。それでも止めようとしない。ブラウスのボタンに手を掛けようとしたとき、洸に遮られた。

「意味はよくわかりました。でもなんで、いきなりこんなことを」

 瑞貴は洸をじっと見つめる。やっぱりこの人とずっと一緒にいたい、と強く思った。

そのために一度だけ島に戻って、外の世界で新しい生活を始めたいと伝える。黙って消えたままでは、今まで育ててもらった恩義に反する。きちんと向き合って、自分の考えを認めてもらいたい。

反対されて、蒼海との結婚を強いられる可能性もある。それを避けるために、こういう方法しか思いつけなかった。

 離婚はクロ宗で禁じられている。つまり洸と結婚してしまえば、蒼海と結婚することはできなくなる。戸籍がなく公には存在しない自分にとって、結婚は既成事実が全てだ。

「清水さんが好きだからです」

 嘘偽りのない真実だった。思惑があるから抱かれたいわけではない。洸が好きで、一緒にいるためには、どうしても必要だからだ。

「本当にいいんですか? なにかヤケになっているとか、僕に気を遣ってのことなら……」

 目を逸らすことなく、瑞貴は微かに首を振った。視線が絡まり合って熱を帯びてくる。

 洸は手を引いて瑞貴を寝室に導く。瑞貴の身体を抱き寄せ、それから小さく笑う。

「あんまり抱きしめてたら、また眠っちゃいそうだな」

 洸の肩に顔を埋めていた瑞貴は、顔を上げた。

「こんなにどきどきしてたら、とてもじゃないけど眠れません」

「それならよかった。今夜は寝かせません」

 そう言うと、洸は瑞貴をゆっくり押し倒し、ブラウスのボタンに手を掛ける。

 そうして一晩かけて愛し合った。初めての行為に瑞貴は戸惑いと痛みを覚えたけれど、喜びがそれをはるかに上回った。洸の導くまま身体を開いて結びつき、ひとつになった。互いの身体で気持ちを確かめ合う。

わずかにうとうとして明け方に目を覚ましたとき、瑞貴は愛しい人の体温を感じて胸がいっぱいになった。手を伸ばして、眠っている洸の髪にそっと触れる。洸は身じろぎし、目を開けた。

「……眠れないの? 身体は大丈夫?」

 瑞貴の手をとらえながら、洸は寝起きの掠れ声で尋ねた。寝ぼけているのか、口調はいつもより砕けている。瑞貴は微笑んだ。初めて身体が溶け合った瞬間の痛みは和らいでいて、今は鈍く痺れた感じが残るだけだ。

「大丈夫です、もう痛くないし。起こしてごめんなさい」

「そう……」

 洸は身体をずらして瑞貴の上にのしかかり、優しい手つきで瑞貴の頬を撫でた。

「もう一回、いい?」

 瑞貴が答える代りに、ほんの少し身を起こしてくちびるを重ねた。

 ほとんど眠らないまま、二人は朝を迎えた。洗濯乾燥機にシーツ類を入れてスイッチを入れてから一緒にシャワーを浴びる。それから瑞貴はいつものように朝食を作った。今日は日曜日で、洸は仕事に行かなければならない。

頭はぼんやりするし、結びついた部分に痺れる感覚が残っているけれど、気持ちは満たされて言い様のないほど幸せな気分だった。洸も一緒にキッチンに立ち、瑞貴を手伝った。

 向かい合って朝食を食べ終えるころ、洸が何気ない口調で尋ねた。

「瑞貴さん、指のサイズは?」

 紅茶を飲んでいた瑞貴は不思議そうな顔になる。

「指のサイズ?」

「知らないんですね。じゃあ計ってもらいましょう。指輪を買いに行くときに」

 瑞貴はマグカップをテーブルに置き、まじまじと洸を見た。

「僕と結婚してください」

 洸を見つめ返す瞳から、一筋の涙が出た。やわらかく微笑んで、瑞貴は頷いた。

「はい」

 短い返事に様々な気持ちが籠っていた。定めに背いて愛する人の妻になることに、今でも少し恐れがある。それでも、この先の人生をこの人と一緒にすごしていきたい。洸もそれを望んでくれるのなら、全部を捨てても構わない。瑞貴は涙を拭った。

「一度鹿児島に戻ります。こちらで暮らすことを報告しないといけませんから」

 洸は、もっともだ、という顔になる。

「そうですね。一緒に住んでいるっていう親戚の人に言わないと。僕も一緒にご挨拶に行きましょうか」

 瑞貴は首を振った。

「大丈夫です。とりあえず、私一人で行ってきます」

「いつ行くんですか」

「今日、これから。清水さんと一緒にここを出て、その足で駅に行きます」

洸は目を丸くする。

「ずいぶん急ですね」

 瑞貴は曖昧に微笑む。たしかに急だが、先延ばしにしたら決心が鈍ってしまいそうだ。

できることなら島にはもう二度と帰らず、このままずっとここにいたいという気持ちもある。

大倉家に戻って、外の世界で愛する人と暮らしていきたいと言ったら、どんな反応が返ってくるのかわからない。意外とあっさり認めてくれる可能性もあるし、認められずに引き止められる可能性もある。それが怖かった。

とはいえ、子どものころからずっと世話になっていた身としては、ひと言もなく姿を消して心配をかけるような恩知らずな真似はできない。我儘を通すのも心苦しいけれど、なんとかわかってもらうしかない。

「一人で鹿児島まで行けますか? 仕事がなければ一緒に行けるのに……」

 手を伸ばして、心配そうに瑞貴の手のひらを撫でながら洸は言った。瑞貴は笑って指を絡める。

「大丈夫、新幹線の乗り方はもうわかりますから。時間だけ調べてもらっていいですか」

 洸は名残惜しそうに手を離し、スマートフォンのアプリで時間を調べて紙に書く。自分の電話番号もそこに書いた。

「なにか困ったことになったら連絡してください。必ず迎えに行きます」

 瑞貴は微笑んだ。

「ありがとうございます。帰ってくるとき連絡します」

 なるべく早くここに戻ってこられるといい。心の底からそう願った。

 洸はいつもより早く家を出て、大宮駅行のバス停まで瑞貴を送った。

瑞貴は島を出た日に買ったジーンズに図書館のそばにあるショッピングモールで買ったダウンコートを羽織ったカジュアルな服装で、荷物は小さなショルダーバッグだけだ。

いつの間にか増えてしまった衣類は残していった。すぐここに戻ってくるつもりだし、荷物は少ないほうがいい。

バスが来て、それまで繋いでいた手を離すとき、洸は素早くキスをした。

「気を付けて。なるべく早く帰ってきてくださいね」

 瑞貴は頬を赤く染めてバスに乗り込んだ。車窓から洸を見る。バスが走り出して、その姿はすぐに見えなくなった。

 大宮駅の券売機で鹿児島中央駅行の切符を買う。改札口付近で公衆電話を見つけて、蒼海にかける。数回の呼び出し音のあと、眠たげな声が応じた。

「……はい?」

「蒼海くん? 起こしちゃった?」

「瑞貴ちゃん? どうしたの」

 蒼海の声は瞬時にしゃっきりする。

「うん。あのね、私これから帰る。十六時五十四分に鹿児島中央駅に着くんだけど、迎えに来られる? 無理なら、なんとか一人で島に帰るようにがんばるけど……」

「え? ちょっと待って、今日の十六時五十四分ってこと? なんでそんな急なの。迎えには行けるけど、その時間に着いても明日の十一時二十分まで島へのフェリーは出ないよ」

 フェリーに乗らないと島には帰れない。当たり前なのに、そこまで思い及ばなかった。

「まあいいや。今日は僕の家に泊まって、明日一緒に島に帰ろう。もうだいたい冬休みで、授業はほとんどないし」

 寛容な蒼海に、瑞貴は心から感謝した。

「迷惑をかけたり、色々と振り回してごめんね。蒼海くんには本当に申し訳なく思ってる」

 殊勝な瑞貴の言葉に、蒼海はちょっと笑った。

「いいよ、そんなの。それよりちゃんと帰ってきてね。そのくらいの時間に鹿児島中央駅の新幹線改札の前で待ってるから」

「わかった。本当にありがとう」

 通話を終えた瑞貴は、急ぎ足でホームへと向かった。


 移動中の新幹線ではほとんど眠っていた。なにしろ昨夜はあまり眠っていないし、日ごろ使わない筋肉を動かしたので疲れている。

東京駅を十時十分に出発し、ちょうど五時間後の十五時十分に博多駅に着いた。そこから十五時十八分発の鹿児島中央駅行に乗り換えるのだけが少し不安だったけれど、とくに問題なく乗れた。

定刻通りの十六時五十四分鹿児島中央駅に到着して改札口を出ると、瑞貴はすぐに蒼海の姿を見い出した。

「蒼海くん、急で本当にごめん。来てくれてありがとう」

「おかえり。なにはともあれ無事でよかった。なにか食べてからうちに行こう」

 蒼海はそう言うと、まじまじと瑞貴を見た。

「三ヶ月しか経ってないのに、なんか雰囲気変わったね」

「そう? どのへんが?」

「どのへんだろう? なんか大人びたかも」

 瑞貴は苦笑した。

「大人びたって。二十一歳は立派な大人でしょ」

「それもそうか。この三か月なにをしていたのか訊いてもいい?」

「もちろん。でも長い話なの。食べながらにしない?」

「そうだね」

 二人は駅から程近い二十四時間営業のファミリーレストランまで歩いて行った。夕食にはまだ少し早い時刻なので、客の入りはまばらだ。蒼海はハンバーグのセット、瑞貴はパスタを注文して、どちらもドリンクバーを付けた。

「さっきの話に戻るけど。この三か月間どうしてたの」

 ドリンクバーの飲み物を取ってきてから、蒼海は瑞貴に尋ねた。

「色んなことがあったよ。あとね、私、結婚した」

 コーラを飲んでいた蒼海は危うく吹き出しそうになった。辛うじて堪え、むせてしまう。しばらくして落ち着きを取り戻すと、心配そうな顔を瑞貴を凝視した。

「ごめん、もう大丈夫。ところで今なんて言った? 結婚したって聞こえたんだけど」

「うん。そう言った」

「……最初から話して。どういう経緯でそうなったのかわかるように、全部」

 言われるがまま、瑞貴は別宅で百万円が入った出版社の封筒を見つけたところから話し始めた。洸との偶然の出会い、大宮での生活、やがて互いに惹かれあっていったこと。

蒼海はほとんど口を挟まずに耳を傾けていた。たまたま洸が持っていた本が龍泉寺淵のもので、そこからフチベ リュウノスケの身元がわかったところに差し掛かると、軽く眉をあげた。

「そんな偶然ある? っていうか本を持ってるほど好きな作家の本名を知らないって」

「でも私も、好きな作家さんが本名かペンネームかなんて知らないよ。よっぽど変わった名前ならともかく、普通の名前ならペンネームかどうかなんて気にしなくない?」

 そこまで言うと、瑞貴はオレンジジュースをひと口飲んで補足する。

「清水さんが龍泉寺淵の本をよく読んでたのは中学生くらいの頃で、そこまで熱心な読者っていうわけでもなかったって言ってた。フチベ リュウノスケが誰だかわかるきっかけになった本も、好きな女優さんが龍泉寺淵の小説が原作の映画に出るから買ったんだって」

「ああ、まあ、たしかに映像化された作品が多かったみたいだからね。この前の電話のあと、僕も龍泉寺淵について調べてみたよ。事故の新聞記事も大学の図書館で読んだ」

 そう言うと、蒼海は思い出したように言葉を継ぐ。

「瑞貴ちゃんが気にしてた第一発見者って誰なんだろうね。友人宅っていうのはたぶん、うちの別宅だと思うけど」

「うん。母親は別宅で暮らしてたらしいから、きっと淵辺さんもそこに住んでたんだと私も思う。ってことは、伯父様とかおじい様とか、大倉家の誰かが第一発見者なのかな」

「でもさ。だったら滞在していた家の住人が発見した、とか書きそうなもんじゃない」

 蒼海がそう言い終えるころ、料理が来た。二人はしばらく食事に専念する。

「それで、結婚したって誰となの」

 食事を終えてから話は再開された。瑞貴は紙ナプキンで口元を拭いながら目を伏せた。

「……龍泉寺淵の本を貸してくれた人。島を出てからずっと一緒に暮らしてて、気付いたら好きになってた。電話でウソ言ってごめん」

 蒼海は苦笑した。

「たぶんそうだと思ってた。でも集落の人にどう説明するつもり」

「説明っていうか、ありのままを話すつもり。島を出て、そこで出会った人を好きになったから、その人と一緒になるって。昨日の夜、その人のお嫁さんになったから、蒼海くんとはもう結婚できないし。クロ宗で離婚は許されていないでしょ」

 秘められた信仰を憚って、瑞貴は小声で言った。蒼海もつられて小声になる。

「お嫁さんになったって、そういうこと? いや、親しき仲にも礼儀ありっていうから、詳細は聞かないでおくけど。だけど、そもそも他宗教の人との結婚も許されてないよ」

「知ってる。だから全部捨てる」

 きっぱりとした短い答えに、蒼海は目を瞠った。それから静かな声で尋ねる。

「本当にそれでいいの。罰が当たる可能性は考えない?」

「もちろん何度も考えたよ。でもさ、私が島を出てから三か月だよ? もしも神罰が実際にあるのなら、とっくになにかあってもいいと思わない?」

「縁起でもないこと言うと、これからあるのかもしれない。瑞貴ちゃんのお母さんとか、淵辺さんが亡くなったことについてはどう思う?」

 二十年近く一緒にいたのに、蒼海と母について話すのは初めてだ、と瑞貴は思った。

「私の母親が亡くなったのは島の外から来た男との間に子どもを作ったうえ、益田の人間は集落の人間以外の目に触れちゃいけないっていう禁忌を破って外に出ようとしたから、神罰が下ったってこと? そして外の男……つまり淵辺さんも、そのせいで亡くなったって思うの?」

「じいさんはそう言ってた。死ぬ直前に」

 瑞貴は十日市の帰り道で洸と交わした会話を思い出しながら言った。

「でも、私の母親と淵辺さんが亡くなったのと、母親が島を出ようとしていたのに、因果関係があるかどうかなんてわからないじゃない。益田の人間は早死にすることが多いって聞いたことあるよ。実際、私のおばあちゃんも出産してすぐ亡くなったみたいだし。それに路面が凍結した道路で事故を起こすことって、珍しくないんでしょう?」

「二人とも亡くなったのは偶然ってこと?」

「そういう可能性もあるってこと。蒼海くんはどう思う?」

 尋ねられた蒼海は、考え込むように宙に目をあてる。

「どうかな? たしかに神罰に関してはバーナム効果が当てはまりそうだし、神様がいるともいないとも証明できないし。こういうのを悪魔の証明っていうんだね、きっと」

「なにそれ」

「バーナム効果は、どうとでも解釈できる占いを、当てはまっていると思わせる心理学。悪魔の証明は、ある物事の有無を百パーセント確定するのは不可能に近いって話」

 そこまで言うと、蒼海は瑞貴を見た。

「そうだね。先祖代々の信仰を否定するつもりはないけど、そのせいで自分の人生を限定する必要はない。クロ宗がどうなるかはさておき、瑞貴ちゃんには自分の生きたいように生きる権利がある。僕は瑞貴ちゃんの意思を尊重する。明日、うちの両親に一緒に言おう。最初は反対されるかもしれないけど、話せばきっとわかってもらえる」

「ありがとう、蒼海くん」

 瑞貴の言葉に、蒼海は首を振った。


 その夜は蒼海のアパートに泊まり、翌朝のフェリーで二人は帰島した。今度は後部座席に隠れることなく、瑞貴も一緒に乗船する。乗船名簿には清水瑞貴と記入した。法律的にどうであれ、気持ちはもう洸の妻だ。

 フェリーは定刻通りの十四時二十分に到着した。船内で知り合いに見咎められることもなかった。瑞貴を知る者はごく限られている。

 蒼海は瑞貴を助手席に乗せ帰路を辿る。瑞貴は初めて見る島の景色に目を奪われる。

 二十一年間もここに住んでいたのに、あの限られた空間しか知らなかったことを、あらためて思い知らされた。

 十五時前に家に着く。蒼海に続いて玄関の前に立った瑞貴は深呼吸をした。帰ることは事前に連絡してあるけれど、瑞貴を伴うことはあえて言っていない。

出迎えた瑠衣子は、思いがけない姿を見い出して目を見開き、大きく喘いだ。

「み、瑞貴ちゃん……。どうしたの? 今までどこにいたの」

「母さん、その話は父さんが帰ってきてからにしよう。長い旅で、瑞貴ちゃんも疲れてると思うし」

島の小学校で教員をしている恭二は夜まで帰らない。

「長い旅って。瑞貴ちゃんがどこにいたのか、あなた知ってたの。ひょっとして、ずっとあなたのところにいたの?」

「その話もあとで。僕もちょっとひと休みさせて」

 蒼海はそう言うと、自室に引き上げる。取り残された瑞貴は深々と頭を下げた。蒼海と同じく、瑠衣子のことも好きだ。瑠衣子はずっと、瑞貴を我が子のように大事にしてくれた。黙って姿を消して、どれほど心配をかけたことか、と思うと胸が痛んだ。

「伯母様。長い間ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」

 神妙な態度の瑞貴に、瑠衣子は気を取り直したように優しく微笑んだ。

「そんなこと。なにがあったかはあとで聞くとして、瑞貴ちゃんが無事で本当によかった」

 自分はこの人のことも切り捨てようとしている。我儘が認められたら、ここに来ることはもうできなくなるかもしれない。実の親子なら勘当されても文句は言えない。

 だけどもう選んでしまった。誰も傷つけても、どんな犠牲を払っても、どうしても洸と一緒にいたい。

 自室に入って一人になった瑞貴は、ここで過ごした二十年間を思った。単調な日々だったけれど、幸せではあった。それでも洸と暮らせないのなら、自分のいるべき場所はここではない。

 母の気持ちがわかった気がした。きっと母も、父である淵辺龍之介を愛していた。だからここを出て行こうとしたのだろう。望みを果たせず早逝した母を、初めて身近に感じて切なくなる。ましてや子ども……つまり自分を遺して逝くのは、どれほど辛かっただろう。

 ふと、母はなぜ亡くなったのだろう、と思った。祖母が出産直後に亡くなったことは知っているけれど、母の死因については誰も語らない。

短命な家系的だから、やはり病を得て亡くなったのだろうか。それなら祖母と同じで、神罰は関係なく、ただの寿命だ。

 瑠衣子から連絡を受けた恭一は、早めに帰宅した。いつも浮かんでいる穏やかな表情はなりを潜め、固い顔をしている。瑞貴は玄関で恭一を出迎えた。

「伯父様。勝手なことをして、本当に申し訳ありませんでした」

 殊勝な謝罪に、恭一はわずかに表情を緩める。

「いや、今ここにいるならそれでいい。私が帰ってから話をすると、蒼海が言っていたそうだね。どういう話かな」

 瑞貴は口ごもる。玄関先で話すような内容ではないし、蒼海の助勢も必要だ。

「すみません。ここではお話しできません。蒼海くんにも同席してもらっていいですか」

 恭一は眉をあげた。

「それなら誠志も呼ぼう」

 サカヤである恭一を補佐する剃刀役の誠志を呼ぶのは理解できる。瑞貴は頷いた。

 誠志が来る前に四人そろって早めの夕食をとる。三か月ぶりの団欒は当然ぎこちないものになったけれど、瑞貴は懐かしさを覚えた。ここでの生活が厭になって出て行ったわけではない。だけどどうしても気持ちは洸へと傾いていく。

洸は今なにをしているのだろう。まだ十八時だから、美容院で働いているのだろうか。今日の夕飯はどうするのか、自分のことを少しでも考えているのか、そんなことばかり気になってしまう。

 夕食の片付けを手伝ってひと息ついたころ、作業着姿の誠志が訪ねてきた。瑞貴を目の当たりにし、感極まった表情になる。

「ああ、瑞貴さん。よかった、ご無事で。いったい今までどこにいたんですか」

 今年で五十一歳の誠志は益田家の血筋に敬意を表して、三十歳も年下の瑞貴に常に慇懃な口を利く。誠志だけでなく集落の人間の誰もがそうで、例外は大倉家の人間だけだ。

大柄な体を屈めて手を取らんばかりの誠志に、瑞貴は頭を下げた。

「心配をかけてごめんなさい。でも、元気にしていましたから」

「誠志も来たことだし、瑞貴さんの話を聞こう」

 その様子を見ていた恭一が誰にともなく言い、祭壇の祀られた和室へと歩き出す。皆それについていった。

 上座に恭一、その脇に誠志が控え、瑞貴は恭一の前に正座した。蒼海と瑠衣子はその後ろに座った。

「さて。三か月もの間、どこでなにをしていた」

 瑞貴は大きく息を吸い込み、気持ちを整える。それから言った。

「順を追って話させてください。発端は、おじい様の葬儀の日、別宅でショルダーバッグを偶然見つけたことです。中には百万円の束とキャッシュカードが入っていて、それにはフチベ リュウノスケという名が記されていました」

 瑞貴を注視していた恭一と誠志は息を呑んだ。瑞貴は言うべきことを頭の中でまとめながら話を続けた。

「もしもあの別宅で暮らしていたのなら、フチベ リュウノスケさんは私の父親なんじゃないかと思いました。名前も、存在すらはっきりしなかった父親の情報らしきものを初めて目にしたとき、会ってみたいと思いました。母をどう思っていたのか、どうして今ここにいないのか、私の存在を知っているのか。それで蒼海くんに頼んで島の外に連れて行ってもらって、フチベ リュウノスケさんを探し始めたんです」

 そこまで言ったとき、蒼海が口を挟んだ。

「瑞貴ちゃんは嘘を言っています。島の外に出ないかといったのは僕です。瑞貴ちゃんはずっと外に出たがっていた。だから言ったんです。瑞貴ちゃんはそれに乗っただけです。フチベさんの件に関しては、僕も知りませんでした」

「蒼海。お前、なんでそんなことを……」

 呻くような恭一の言葉に、蒼海は臆さず応じた。

「おかしいと思っていたからです。いくら昔からの風習だって、誰かをひと所に閉じ込めて、他の選択肢を与えないのは今の時代にそぐわない。瑞貴ちゃんが外に行きたいのなら行かせてあげたい。そう思ったんです」

「ただの風習ではない。益田の人間が外に出ようとしたら、神は必ず罰を与える。それで聖恵さんは亡くなった。聖恵さんに妙な気を起こさせた淵辺も同罪で罰せられたのだろう」

 その抗弁に、瑞貴は恭一をひたと見据えた。

「ひとつだけ教えてください。母はどうして亡くなったんですか」

 真っ直ぐな瑞貴の視線に、恭一はわずかに目を逸らした。

「事故だ。聖恵さんは誑かされて島を出ようとしていた。そして淵辺が運転する車は山道でスリップした」

 瑞貴は愕然とした。

「淵辺さんが事故死したのは、消息を調べているときに知りました。あの事故で母も亡くなっていたんですか」

 尋ねながら、自分の声が震えていることに気付く。

「そうだ。島を出ようとしたその日に事故死した。これを神罰と思わずしてなんと思う」

「ちょっと待ってください。淵辺さんの事故の記事は僕も読みました。だけど同乗者がいたなんて一言も書かれてなかったし、ましてや亡くなっただなんて」

 蒼海に問われた恭一は淡々と答えた。

「聖恵さんのご遺体は私と誠志が密かに墓所に運んで埋葬した。聖恵さんと瑞貴さんを下ろしたあと、父が車に火をつけた。聖恵さんの痕跡を、警察や外の人間の目に触れさせるわけにはいかない。そう思ってやったそうだ。事故車が炎上するのは珍しくない」

「第一発見者は父さんだったんですか」

 恭一は首を振った。

「いや、誠志だ。淵辺の車からいつもと違う音がしたように感じて気になっていたそうだ。淵辺が東京へ立つ日の朝、様子を見に行ったら事故に居合わせた。そうだな、誠志」

 脇に控えていた誠志は無言で頷いた。

「そのとき、私も一緒に乗っていたんですか」

 次々に明かされる事実に、瑞貴はむしろ冷静になった。というより、想像を越える出来事ばかりで、実際に自分の身に起こったこととは思えない。

「父さん。それは犯罪です。事故現場に故意に手を加えるなんて」

 蒼海の指摘に、恭一はゆっくり首を振る。

「父はサカヤとして、守るべきものを守っただけだ」

 重々しく言うと、瑞貴に視線を戻す。

「それで、瑞貴さんは三か月間ずっと淵辺の消息を辿っていた、と」

「正確に言うと先月の半ばごろには、淵辺さんが亡くなっているのを知っていました。すぐに帰ってこなかったのは、離れがたい人がいたからです」

 そこまで言うと、瑞貴は大きく息を吸い、吐き出しながらひと息に言った。

「私は、外で知り合った人の妻になりました。その人が改宗することや、ここに住むことはないと思います。長い間お世話になったご恩は決して忘れません。ですが、私は全てを捨てるつもりです。それを言うためだけに、ここに戻ってきました」

 和室の中はしんと静まり返った。恭一でさえ言うべき言葉が思いつかないようで、食い入るように瑞貴の顔を見ている。

 沈黙を破ったのは、それまで黙って恭一の隣に控えていた誠志だった。胡坐をかいた両膝に、軽く結んだこぶしを乗せている。

「瑞貴さん。おっしゃっていることがよくわかりません。全てを捨てるというのはどういう意味ですか。あなたは蒼海さんと一緒にこの地を守っていく人です。外に出るだけでも禁忌に触れるのに、そのうえ、ご自分の義務を放棄するつもりですか」

 瑞貴は誠志を直視した。

「無責任と罵られても仕方ありません。神罰のことは、もちろん考えました。だけど、どんなことがあっても、その人と一緒に生きていきたい。それに蒼海くんと結婚することはもうできないんです。その人と結ばれて妻となり、正式にプロポーズを受けたので。了承を頂けたら、すぐにその人のもとに帰ります。ここに戻ることはもうないでしょう」

 きっぱりとした宣言に、誠志のこぶしは固く結ばれ、ぶるぶると震えた。

「なるほど。よくわかった」

 やがて恭一が口を開いた。わかってもらえたか、と顔をほころばせた瑞貴は、次の言葉に耳を疑った。

「瑞貴さんは神隠しに遭い、その間ずっと夢を見ていた。だけどようやく帰ってこられた。せっかくこうして蒼海もいることだし、今日をもって瑞貴さんと蒼海は夫婦になり、今後はこの集落を守っていく。そういう話でいいか」

「そんなの正式な結婚と認められない」

 蒼海の反論に、恭一は眉をあげた。

「正式な結婚とはなんだ? 婚姻届を出して周囲に認められることか。だけど瑞貴さんは誰ともそんなことはできない。存在しない人間なのだから。瑞貴さんは夢の中で男と情を交わしただけで、それは正式な結婚とは認められない」

「いいえ。夢の中でなく、現実の男性の妻になりました。クロ宗で離婚が許されていない以上、蒼海くんと一緒にはなれません。それに、私はクロ宗を抜けるつもりでいますが、蒼海くんはそうじゃない。他宗の人間との婚姻も、認められていないはずです」

 必死に言い募る瑞貴に、恭一は微笑みかけた。

「まだ夢から醒めきっていないのか。よろしい、それならもしもそれを許したとしよう。瑞貴さんはこれからどうやって生きていくつもりか。戸籍も住民票もない、社会的に存在しない人間は、婚姻届を出すことができない。子どもができても出生届を出すこともできない。存在しない人間の子どもは存在しない子どもになる。真っ当な職を得ることもできない。できることはただひとつ、蒼海と子を為して、この先もずっと集落で生きて、信仰を守り通すことだけだ」

 そう言うと、恭一は瑠衣子を見た。

「別宅のブレーカーをあげて、簡単に掃除してきてくれ。今日から蒼海と瑞貴さんは夫婦としてそこに住む」

 急に水を向けられた瑠衣子は、困惑したように夫を見て、それから蒼海を見た。

「父さん。なにを勝手なことばかり。そんな言いつけに僕らが従うと思いますか。僕は厭です。瑞貴ちゃんの気持ちを無視することはできません」

 蒼海はそう言うと、おもむろに立ち上がった。

「明日の朝一番で、瑞貴ちゃんを連れて鹿児島に帰ります。僕もしばらくここには戻りませんので、そのつもりで。行こう、瑞貴ちゃん」

 促された瑞貴が立ち上がろうとしたとき、誠志がぽつりと言った。

「お二人が島を出たら、私は死にます」

 瑞貴はその場で固まった。蒼海すら立ち止まって誠志を見た。誠志は誰を見ることもなく、宙に視線を定めたままで言葉を継いだ。

「瑞貴さんは先祖代々守ってきた益田家の末裔です。クロ宗を存続するために、決して失ってはいけない人だ。その人を引きとめられなかったとあれば、祖父や、信仰に身を捧げた人たちに顔向けできません。潔く命を絶ちます」

 そう断言すると、わずかに微笑みを浮かべた。不思議なほど穏やかな笑みだった。

「なにを馬鹿なことを。僕らが出て行ったら自殺するなんて、本気で言っているんですか」

 絞り出すような蒼海の声に、誠志の笑みは濃くなる。

「自殺ではありません。これは殉教です」

 その場の空気から逃れるように、瑠衣子は和室を出て行った。残された四人は無言で互いの顔を見合った。

 ふいに蒼海は壁を強く蹴りつけた。日ごろ穏和な蒼海にあるまじき行為に、瑞貴は身を弾ませる。蒼海は唸るように呟いた。

「馬鹿げてる。本当に本当に馬鹿げてる」

 蒼海がみせた激しさに、恭一は一切動じなかった。

「それなら瑞貴さんを連れてここを出て行くか。誠志は一度口にしたことは決して曲げない。お前たちの我儘が誠志を殺す。それでいいと思うなら好きにしろ。私は止めない」

「父さんはずるい。そんなことを言われて出て行けると、本気で思っているんですか」

 ぎりぎりとくちびるを噛みしめる蒼海に、恭一は慈愛に満ちた笑みを向ける。

「思っていない。そんなことができるわけはないな。それならさっき言ったとおり、瑞貴さんを妻に迎えて子どもを作れ。それまで別宅を出ることは許さない。あまり強情を張るなら、大学は休学させる」

「……夫婦になったとしても、必ず子宝に恵まれるとは限りません。その場合はどうするつもりですか」

 ぽつりと尋ねる瑞貴にも、恭一は微笑みかけた。

「それはそのとき考えればいい。大丈夫、益田の家系に石女はいない。すぐには無理でもきっと授かるはずだ。瑞貴さんと同じように、これから集落を守っていく子どもをな」

 瑞貴はがくりと頭を垂れた。


 瑠衣子の行動は手早かった。掃除は行き届いていないけれど、別宅はとりあえず人の住める状態になった。辞去する誠志は、二人を別宅まで送っていくと申し出た。それを断る気力は、蒼海にも瑞貴にもない。死んだ魚のような目で、追いやられるように別宅に入る。

「ここを出たかったら、一刻も早く子どもをお作りなさい。そんなに難しいことじゃないでしょう。そうすれば蒼海さんはここを出て行けるし、瑞貴さんも今までどおり集落の中を自由に歩けます」

 そう言うと、誠志は頭を下げる。

「それでは失礼します。どうぞ、末永くお幸せに」

 誠志の言葉に蒼海は思い切り眉をひそめ、力任せに扉を閉めた。

「犬や猫じゃあるまいし。一緒にしとけば子どもができるなんて本気で思ってるのかね」

 蒼海はぷりぷりしながら居間に入った。瑞貴は畳張りの居間の隅で膝を抱え、自分の身体を守るように両腕を巻き付けて座っていた。

「私は厭だからね。蒼海くんは嫌いじゃないけど、あの人じゃないと絶対に厭なの」

 こわばった顔の瑞貴に、蒼海は苦笑する。

「心配しなくていいよ、そんなつもりないから。昨日は言わなかったけど、じつは僕もいるんだ、好きな人」

 思いがけない告白に、瑞貴は目を丸くする。長く一緒にいるけれど、蒼海がそんな話をするのは初めてだ。

「ほんとに? 誰? 私の知ってる人?」

「大学の先輩。今は全然特別な関係じゃないけど、いつかそうなりたいって思ってる」

 優しい口調が蒼海の気持ちを物語っているようで、瑞貴は緊張がほどけるのを感じた。

「どういう人なの」

「いるだけで、その場の空気が明るくなる人。一つ歳上で、すごく可愛い人」

 生まれてからずっと婚約者という立場にいたのに、嫉妬心は全く湧いてこない。それよりも、思い出すだけで表情が和らぐ存在に蒼海が出会えたことを心から嬉しく思った。

 きっと洸の話を聞いたとき、蒼海も同じような心境だったのだろう、と瑞貴は推測した。自分たちは良くも悪くも近くにいすぎて、姉弟のような関係にしかなれない。

蒼海を好きだし、洸と出会っていなければ疑問を持つことなく、なんとなく夫婦となっていたかもしれない。だけど恋を知った今となっては、好きの違いがはっきりとわかる。

「そうなんだ。その人とうまくいくといいね。いつか会ってみたいな」

「いいよ、いつか会わせてあげる。だから、いつまでもこの状態でいるわけにはいかない」

 瑞貴は深々と頷く。それから眉を寄せた。

「ねぇ、本気だと思う? 私たちが出て行ったら、誠志さんは本当に死ぬつもりなのかな」

「わからない。ただの脅しかもしれない。でも、さっき話を聞いててちょっと不思議だったんだけど。なんで誠志さんが第一発見者になったんだろう。別宅と誠志さんの家って全然近くないし、あんな時間にわざわざ出向いたりするかな」

「え? だから、車の音が変だと思ったからって……」

「そうは言ってたけど。それなら出発する直前に言いに行くのは遅すぎると思わない? 前もって教えてたら、事故は防げたかもしれない」

 瑞貴の眉間の皺は深くなる。

「なにそれ、どういうこと? 蒼海くんは何を言いたいの」

 蒼海はわずかに言い淀んでから、口を開いた。

「誠志さんは最初から事故になると知っていた。なぜなら誠志さんが車に細工をしたから」

 瑞貴は息を呑み、なにか恐ろしいもののように蒼海を見た。

「もちろんこれは仮説で、それを立証するのは不可能に近い。事故があったのは二十年も前だし、物証なんかなにも残ってないだろうから。だけど、もしもそうなら、神罰なんて存在しないって証明にならないかな。現に集落を出たらよくないことが起こるって言われていた益田家の人間……瑞貴ちゃんが今こうして元気にしてるわけだし」

「元気じゃないよ、全然。反対されるのは予想してたけど、まさかここまで強硬な手段に出るとは思ってなかったし」

「そこだよ。父さんも酷いけど、誠志さんは僕らを引き留めるためなら死すら厭わない。そういう人が外の男と益田の人間と結ばれたのを歓迎していたと思う? 逆でしょ」

 瑞貴は唸った。それから頭を掻きむしる。

「もう駄目。これ以上なにも考えられない。っていうか考えたくない。おかしくなりそう」

 蒼海はちょっと笑った。

「べつに今すぐ考えなくてもいいよ。とりあえず今日はもう寝よう。眠ったらなにかいい案が浮かぶかもしれないし、父さんや誠志さんも頭が冷えて考え直すかもしれない」

 楽天家の蒼海らしい意見に、瑞貴は力なく頷いた。

「そうだね。そうしよう。ここのお風呂がちゃんと使えるか、ちょっと見てくるね」

「じゃあ僕は布団を敷いておく。もちろん違う部屋にね。客間と居間、どっちがいい?」

「ありがとう。どっちでもいいよ」

 そう言うと、瑞貴はあらたまった表情になる。

「蒼海くん。さっきは味方してくれて本当にありがとう。蒼海くんがいてくれて、すごく心強かった」

「なんの役にも立てなくて、結局このザマだけど」

 自嘲する蒼海に、瑞貴は首を振る。

「今日のことだけじゃない。私一人だったら島を出ることなんてできなかったし、あの人にも出会えなかった」

 洸を想うと胸が締め付けられる。今すぐにでも洸に会いたい。 

恭一の言っていたことが頭をよぎる。ずっとあそこにいたとして、自分の立場では洸の正式な妻にはなれない。子どもができても出生届も出せない。確かにそのとおりだ。

自分がそばにいることで洸に迷惑をかけることになるのなら、このまま諦めて、蒼海と一緒になったほうがいいのだろうか。

表情の曇った瑞貴に、蒼海は気遣わしげな視線を投げかける。それから笑顔を作った。

「この件が落ち着いたら、僕にも紹介してくれる?」

 明るい声に蒼海の慰めを感じる。瑞貴もなんとか笑みのようなものを浮かべた。


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