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EXPLODE  作者: 綾稲 ふじ子
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EXPLODE

 翌日も瑞貴は六時前に目が覚めてしまった。長年の習慣はそう簡単に抜けない。

 身繕いをすると洸を起こさないように気を付けながら朝食の支度をして、調理器具を簡単に洗い、簡単にリビングの掃除をする。洸は八時すぎに起きてきた。

「お。今朝も旨そうですね」

 身支度をすませた洸がいそいそとキッチンテーブルに座る。今朝はハムとチーズ、ゆでたまごを挟んだサンドウィッチとサラダ、温かい紅茶というメニューだ。

「簡単なものですけど」

席についてマグカップに手を伸ばしていた瑞貴ははにかむ。一緒にいるのは今日で三日目だ。こうやって二人で食事をとるのにも、すっかり慣れてしまった。

考えてみれば妙なものだ。もしも鹿児島中央駅で違う券売機に並んでいたとしたら、並んでいても洸が声を掛けてくれていなければ、こんなふうに朝食をとったりしていない。

集落から出て人目に触れれば何か良くないことが起こると信じられていたのに、現時点ではその逆で、怖いくらい楽しく過ごしている。

これから神罰が下る可能性があるにせよ、そもそも人は必ず死ぬのだ。死んだあと、天の国に行けなくなったとしても、瑞貴にとって外の世界は天の国に匹敵するほど魅力的だった。長年縛られていた価値観より、新しい世界を知りたいという気持ちが勝った。

「僕の美容室の少し先にショッピングモールがあるから、そこに行ってみませんか」

いち早くサンドウィッチを食べ終えた洸が提案した。ショッピングモールってなんだっけ? と思いつつ、瑞貴は頷く。文脈から買い物できる場所であることくらいはわかる。

「歩いて行けるんですか」

「うーん、行けなくはない距離ですね。でもバスで行ったほうがいいかな。大通り沿いにまっすぐ行けば着くんですけど」

 瑞貴は首を傾げた。

「私はどちらでも」

「じゃあ行きながら考えましょう。車があればすぐなんですけど、あいにく僕はペーパードライバーなので」

「ここなら車がなくても生活できそうですもんね」

 島での暮らしを思い出しながら瑞貴は言った。あそこでは車がないと行動がかなり制限されてしまう。

「ミズキさんの住んでいるところは違うんですか」

「ええ、まあ。ごちそうさまでした。洗い物しちゃいますね」

 瑞貴は曖昧に応じて席を立つ。島のことを話すと余計なことまで言ってしまいそうなので、発言には自然と慎重になる。

「ごちそうさま。開店時刻は十時だから、九時半くらいに家を出ましょう」

 返事を濁す瑞貴を深追いせず、洸も食器を持って立ち上がった。

出身地や育ってきた環境に触れるとミズキは必ず顔を曇らせる。その理由を知りたいと思う反面、根掘り葉掘り訊いたら消えてしまう気がして立ち入るのを躊躇ってしまう。

 フルネームも過去も知らない赤の他人なのに、いなくなったら寂しい。

そう感じる理由についても深追いするのをやめた。昔、犬や猫を拾ったときも、三日も一緒にいれば情が湧いた。里親に譲渡したあとは言い様のない寂しさに襲われた。きっとそれと同じで、決して特別な感情ではない。そう思おうとした。

 出掛ける支度をして外に出ると、微かに感じる風が爽やかだった。ほんの少し湿度を含んでいるものの、高温多湿な夏はもう完全に終わったと実感する。

 大通りに出たとき、ちょうどバスが通り過ぎるのが見えた。

「おっ、バスが行っちゃった! どうしよう、次のを待ちますか? それとも歩きます?」

「どのくらい待つんですか」

「そうですねえ、だいたい十五分から二十分くらいかな」

 瑞貴は空を見上げた。雲ひとつなく、空気はさらりと心地よい。

「それなら歩きましょう。ちょうどお散歩に良さそうなお天気です」

限定された世界に生きていた瑞貴にとって、ここでの景色はどんなものでも目新しくて楽しい。

美容室を通り過ぎてコンビニの前に差し掛かったとき、瑞貴は入り口脇に置かれた公衆電話に気付いた。どれほどの期間になるかはわからないけれど、しばらくここに住むと決めたときから蒼海のことが気になっていた。

島を出る手助けをしてくれたのに、断りもなく姿を消してしまった。鹿児島を出る際に電話をしただけだ。もしも立場が逆で、蒼海がふいっといなくなったら、どれほど心配するだろう。フチベ リュウノスケを見つけたら島に帰ることだけは知らせておきたい。

「ちょっとだけ、親戚の人に電話を掛けてもいいですか」

 立ち止まった瑞貴を洸は振り返った。それから公衆電話に目を留めた。

「もちろん。じゃあ僕はちょっとコンビニの中で待ってます」

「すみません。そんなに時間はかからないので」

 瑞貴はショルダーバッグの封筒から百円玉を取り出して公衆電話にいれた。蒼海の番号をプッシュする。しばらく応答音が続いたのち、留守番電話に接続するというアナウンスが流れた。ちょうど良かったのかもしれない、と瑞貴は思った。一方的に話すだけになってしまうけど、自分の安否や、いずれ帰ることは伝わる。音声ガイダンスに従って、瑞貴は留守番電話にメッセージを吹き込んだ。

「瑞貴です。フチベさんが見つかるまで島には帰りません。蒼海くんになにか迷惑が掛かってたらごめんね。でも見つかったら絶対に戻るから心配しないで。帰るとき、また連絡します」

 必要最低限の情報だけ残して受話器を置く。とりあえずこれでいい。なにか進捗があったらまた電話をする。ショルダーバッグのファスナーをしめ、瑞貴はコンビニに入った。

 洸は箱入りのキャラメルを手に、レジに並んでいた。

「もう電話したんですか」

「出なかったので留守番電話にメッセージを残しておきました。しばらく帰らないって」

「そうですか」

 応じながら洸は、しばらく帰らないという瑞貴の言葉に安堵している自分に気付いた。


 蒼海が留守番電話に気付いたのは、一限目の授業が終わったあとだった。メッセージを聞いて難しい顔をする。瑞貴が元気でいることがわかったのは良かったけれど、見つかるはずもないフチベ リュウノスケをまだ探すつもりのようだ。

 瑞貴がいなくなって、集落では大騒ぎになっている。その日のうちに蒼海の携帯電話に知らせが入った。本当のことを言おうと思って、すぐに考え直した。言ってしまえば当然責められるし、瑞貴を連れ戻そうと皆が躍起になるのは目に見えている。瑞貴自身、みんなには言わないでほしいと最初の電話で言っていた。

せっかく島を出たのだ。納得いくまで調べて、自らの意思で戻ってきてほしい。

そしてこの留守番電話でわかった。今のところ自分だけでなく瑞貴にも神罰は下っていない。となると益田の人間を外に出すと良くないことが起こるというのはただの因習だと証明できるのではないか。

それなら瑞貴も自分にも、定められた未来以外の選択肢があるということになる。

 考え込みながら廊下を歩いていると、反対方向に見慣れた顔を見い出した。蒼海に気付くと手を振って歩み寄ってくる。

「おはよー、大倉くん。今日の飲み会いく?」

 八重歯の印象的な笑顔に、蒼海も思わず表情を緩める。蒼海の所属するサークルで副会長を務める江藤菜々には、自然と周囲を明るくする雰囲気があった。

 同好会内でも菜々を狙っている男性は多いのに、当人は気付いているのかいないのか、男女の別なく誰に対しても平等に振る舞っている。

「おはようございます。今日はバイトが入ってるからちょっと。すみません」

 菜々は口を尖らせた。一つ歳上なのに、そんな表情をすると子どもみたいに見える、と蒼海は密かに思う。

「なんだー、そっか。大倉くんこないのか。バイトなら仕方ないよね。でも残念」

 残念って、どういう意味で言ったんですか? そう訊きたいけど訊けない。勝手に言葉の端をとらえて、都合よく解釈するほど自信があるわけでもない。

 だけどふとした瞬間もしかしたら、と感じることがある。

 瑞貴をあの集落から出しても何の咎もないと証明したかったのは、目の前のこの人も理由のひとつだったのかもしれない、と蒼海は心の中でひとりごちた。


 普通に行けば徒歩三十分程度なのに、ショッピングモールに着いたのは十一時を少し回った頃だった。一時間ほど余計にかかったのは、途中に図書館があったからだ。

通りすがりに図書館があると聞かされて、瑞貴はちょっとだけ中を見てみたい、と立ち寄ってみた。

市役所に併設されたその図書館は真新しく、外光を取り込む造りで明るい印象の建物だ。そこを整然と埋め尽くす無数の本は瑞貴にとって宝の山だった。

初めて目にする図書館はまるで楽園で、瑞貴は独特な色の瞳を輝かせた。

「すごい! 本がたくさん! こんなに広いのにどこを見ても本!」

 興奮のあまり無意識に呟くと、隣にいた洸が小さく吹き出した。

「本が好きなんですか」

 その言葉で瑞貴は我に返って赤面した。

「すみません。思わずテンションが上がってしまいました……」

 目をきらきらさせている瑞貴からは、いつもの控えめで、どこか自分を押し殺すような雰囲気は感じられない。洸は素直に可愛いと思った。

 瑞貴は図書館の隅々までをじっくり眺め、ときたま本を手に取ってページを手繰った。そこまで本好きではない洸もそれに付き合った。本を眺めるより、本を眺めている瑞貴を見ているのが面白かった。

「僕の図書カードで何冊か借りてきます?」

 洸の提案に、瑞貴は一も二もなく頷いた。それからより熱心に館内を物色し、恋愛小説と料理のレシピ本を借りた。

「そのカード、そのまま持っててもいいですよ。この図書館には自動貸し出しの機械があるから、僕がいなくても、好きなときに来て借りられます」

 借りた本を大切に抱え、図書カードを返そうと差し出していた瑞貴は小首を傾げた。

「私が持ってたら清水さんが借りられませんよね」

「僕はあんまり借りないから大丈夫。昔は読んでましたけど、最近は全然ですね」

 瑞貴は少し迷ってから、図書カードを有難く借りることにした。

「じゃあ、お言葉に甘えて。清水さんはどんな本を読まれていたんですか?」

 洸は出口に向かってのっそり歩きだす。

「推理小説はよく読みましたよ。名探偵コナンとかも好きだったし」

 ショピングモールは図書館の目と鼻の先で、二人は合間に昼食をとりつつ買い物をした。

着替えを何着かと歩きやすいスニーカー、図書館で借りた本も入れられる普段使いのトートバッグ、服をしまう折り畳み式の収納ボックス、それから財布などをこまごまと買い、ショッピングモールを出るころにはすっかり日が落ちていた。

荷物が増えたので帰りはバスを使い、十分ちょっとで家に着く。バスの乗り方もわかった。なんと収穫の多い日か、と瑞貴は満足のため息を漏らした。島を出てからずっと、外の世界の広さと魅力には驚かされっぱなしだ。

 帰宅後、二人はキッチンテーブルで向き合って温かいお茶を飲んだ。

「疲れました?」

 洸の問いに、瑞貴は晴れやかな笑顔を浮かべた。

「ちょっとだけ。でもすごく楽しかったです。たぶん、今まで生きてきた中で一番」

「それならよかった」

 洸も笑んだ。セックスの介在しない、ただ生活を共にするだけのミズキとの関係は、意外なくらい心地よかった。

 夕飯をすませたあと洸はソファでテレビゲームに没頭し、瑞貴はキッチンテーブルで借りてきた本を読みふけった。日付が変わるころ洸は寝室に引っ込んで、瑞貴はシャワーをすませてからソファで寝た。

 木曜の夕方、作り置きした夕食を冷蔵庫にしまってから瑞貴は光江の店へと向かった。

島での生活で発揮する機会はなかったが、どうやら方向感覚は優れていたようだ、と瑞貴は心の中で自画自賛する。

 時計を持ってないので正確な時刻はわからないけれど、四時半に家を出て迷わずついたから約束の五時にはだいぶ早そうだ。どうしたものかと店の前で佇んでいると、大きな買い物袋を両手に下げた光江が来た。今日も着物姿で、きっちり身じまいしている。

「あらあら、お待たせしちゃってごめんなさい。ちょっと待っててね、いま開けるから」

 そう言って、光江は肩に掛けていたバッグをごそごそ探る。

「いえ、私が早く来すぎてしまったので。その袋、持ちましょうか」

「ありがとう。重たいけど大丈夫かしら」

 渡された袋はたしかに重く、瑞貴はよろけそうになった。外見からは想像がつかないけれど、どうやら光江は力持ちのようだ、と足を踏ん張りながら思う。

 光江に続いてよろよろ店内に入り、買い物袋をとりあえずカウンターの上に置く。

「どこに置けばいいですか」

「こっちに持ってきてもらえる? 冷蔵庫にしまうから」

 カウンター内の光江から声を掛けられて、瑞貴も中に入る。光江は買い物袋の中身を手際よく納めていく。

「これでいいわ。カウンターに座ってちょうだい。簡単な書類を書いてもらいたいの」

「書類、ですか?」

「履歴書までは必要ないけど、お給料を振り込む銀行口座とか住所を書いてくれる? 源泉徴収票を作るのに必要だから」

 瑞貴は困って眉を寄せた。口座は持っていないし、住所を書くことはできない。カウンターに置かれた用紙をじっと眺めていると、光江は首を傾げた。

「どうかした?」

 躊躇いながら瑞貴は口を開いた。

「ごめんなさい。書けません」

「どうして?」

「銀行の口座は持っていませんし、住所はちょっと……」

 言葉を濁す瑞貴に、光江は静かに尋ねた。

「もしかして、家出してきた?」

 問われた瑞貴はぽかんとした。この状況は家出と言えなくもないと今さら気づく。

「そうですね。そういえば家出なのかもしれません」

 呆然と答える瑞貴に、光江は不思議そうな顔になる。

「まさかとは思うけど。今まで気づいてなかったの」

「はい」

 二人の間に、しばらく沈黙が流れた。先に破ったのは光江だった。

「洸が言っていたんだけど。ミズキさんはいいおうちの子で、自分の思うとおりに行動することができないんじゃないかって。もしかしたらそれで家を出てきたの」

 どこまで話していいものかと考えながら、瑞貴は口を開く。

「いいおうちの子、ではないですけれど。色々あって、行動できる範囲は限られていました。それが当たり前だったから、それほど不満に思ってもいませんでした。一週間ほど前、ふとした拍子に、ずっと存在のはっきりしなかった父に繋がる手掛かりを見つけて、確かめてみたくなったんです。父がどういう人なのか、母や私のことをどう思っているのかを」

 言葉にしながら、瑞貴は自分の気持ちをあらためて把握する。そのあいだ光江はじっと瑞貴を注視していた。

「じゃあ、住所は書かなくてもいいわ。お給料は手渡しにしましょう。名前と生年月日、それから年齢だけ書いてちょうだい」

 少し迷ったけれど、瑞貴は言われるがままに書いた。

「益田瑞貴さん、二十一歳ね。お酒は飲める?」

「飲めなくはないですけど、好き好んで飲むことはありません。あんまりおいしいと思わないので」

 光江はにっこり笑った。

「そう。それならお仕事以外のときにもここに来てちょうだい。従業員特典として食事と、それに合うお酒をご馳走してあげる。相談したいことがあれば、いつでもここに来ていいのよ。フチベさんの件以外にも、なにか手助けできることがあるかもしれない」

 思いもよらぬ申し出に、瑞貴は軽く目を見開く。それから微笑んだ。

「ありがとうございます、そうします」

 応じながら瑞貴は、洸の親切さは確実に光江から受け継がれたものだと思った。

 それから細々と仕事の説明を受け、店用のエプロンを借りた。

 軽く食事をとってから、いつも通りの六時に店を開く。しばらくするとぽつぽつ客が入ってきて、七時前には満席になった。

生まれて初めての労働に戸惑いつつも、瑞貴は光江の指示通りにせっせと働いた。九時を過ぎると客足は少しずつ減っていって、ようやく一息つけた。

「ああ、もう九時になるのね。瑞貴さん、上がっていいわよ。お疲れさま」

 光江の声に、瑞貴は壁時計を見上げる。次から次へと注文を受けて、間違いなく運ぶことに意識を集中していたので、いつの間に三時間も経っていたのかと驚いた。

 エプロンに手を掛けようとしたとき、店の扉が開いた。洸だった。カウンター内に目を走らせて、エプロンを外した瑞貴に小さく手を振る。

「あら、洸。瑞貴ちゃんのお迎え?」

 お通しの冷奴と、手羽先と長ねぎの酢煮を客に出しながら光江は言った。

 光江の声に客が振り返った。常連客の北尾は四十代半ばで、単身赴任中だ。家庭の味と光江との会話を求めて、しげしげここに通ってくる。

「え、なに。新しい店員さんって洸ちゃんの彼女なの?」

 突然の質問に、洸は目を首を振る。

「違います、彼女じゃありません」

「じゃあなんでお迎えなんて」

「はい、北尾さん。チーズ入りの磯辺揚げ。瑞貴さんは洸の家に住んでいるの」

「ええっ、同棲してるんですか? いつの間に! ちょっと洸ちゃん、どこで知り合ったの? 先月ここで話したとき、彼女いないって言ってたよね?」

 質問に答えたのはまたしても光江だった。

「旅行中に知り合ったんですって」

「ああ、そういえば九州に行くって、そのとき聞いた気がします」

 止める間もなく続く会話に洸は頭を抱えた。瑞貴はおろおろと光江を見た。

北尾はビールをひと口飲むと、人差し指をこめかみに当てた。

「それにしても、なんという展開の早さ。このペースでいったら、来月あたりパパになってるんじゃないですか?」

「っていうことは、私は来月あたり、おばあちゃんになってるってこと? 嬉しいような、一気に老け込むような、複雑な気持ちだわ」

 洸は目を剥いた。

「同棲じゃなくて同居です。母ちゃんも悪乗りすんなよ。そういう関係じゃないって知ってるだろ。ただルームシェアしてるだけ」

「えーっ、ほんとにー?」

「本当です。とにかく、そういうことなので。ミズキさん行きましょう」

 なおも言い募る北尾を遮って強引に話の流れを止めると、洸は瑞貴を連れ出した。

「お疲れさま、瑞貴さん。明日は六時にここに来ればいいからね」

「わかりました。お疲れさまでした」

 瑞貴の挨拶が終わるのと同時に洸は引き戸が閉めた。

「ごめんなさい。あのお客さんに誤解されてしまいました」

 夜道を歩きながら瑞貴は詫びた。洸は首を振る。

「僕はべつにいいんですけどね。ミズキさんは女性ですから、あらぬ噂を立てられたら面倒なことになるかもしれない」

 洸の気遣いに瑞貴は微笑む。ここでの生活が集落の人間に知られたら、面倒なことになるどころの騒ぎではない。だけどここから集落にまで噂が届くとは考え辛い。

 神様はどうなのだろう、と瑞貴は思った。どれだけ離れたら、神様から逃れることができるのだろう。


 洸の家に転がり込んでから、あっという間に一か月が過ぎた。

楽しい時間ほど早く過ぎるというのは本当だ、と瑞貴はしみじみ思った。

 竜宮城にいた浦島太郎の気持ちがわかる。あまりに楽しくて、帰らなくては、という気持ちをついつい後回しにしてしまう。帰るときに連絡をすると言ったので、蒼海に電話すらしていない。

 外の生活にもすっかり慣れた。最初は取りとめなく広く見えた世界も、日常になってしまえば、まとまりを持って馴染んでくる。変化に乏しかった集落と違い、ここでの生活には毎日新しい発見がある。電車やバスなどの交通機関も乗りこなせるようになっていた。

 フチベ リュウノスケの捜索は全く進展していなかった。

 捜すとっかかりがなさすぎるというのが一番の原因だけど、この生活を満喫するあまり、積極的に探す気が薄れつつあるのも確かだ。

 今の生活が好きだった。毎朝六時ごろ起きて、朝食の支度を整える。洸が出勤して家事をすませたあとは、ほとんど毎日図書館に行き、帰りがけに食料品を買う。

昼食を食べ、借りた本をゆっくり読み、バイトのある日は六時半ごろ家を出る。仕事にもすっかり慣れて、料理の手伝いや給仕の他、インターネットで入った予約の確認も瑞貴の仕事になった。パソコンもすぐに覚えた。キーボードを打つのはいまだにゆっくりだけど、使い方がわからなくて困ることはない。

洸といる時間も好きだった。なんてことない話をして、つまらないことで笑い合える。

図書館の行き帰りに洸の美容室を覗き込むのが習慣になっていて、女性の髪を触っているところを見ると、なんとなく面白くない。

自分も客として店に行って、洸に髪を切ってもらおうかと思ったけれど、あんな至近距離で触れられるのは想像しただけでも気恥しい。洸が一度、髪を切ってあげようか、と提案してきたときも断ってしまった。前髪のないセミロングというメンテナンスの必要があまりない髪形なので、うっとおしさはそれほど感じないし、寝癖がどうにもならないときは結べばなんとかなる。

出会った日、瑞貴に手を出したりしないと言っていたとおり、妙な振る舞いに出たり、必要以上に触れることはない。洸は同居人として申し分なく、洸も瑞貴に対してそう思っているようだった。

家賃や光熱費は入れていないけれど、食料品はもっぱら瑞貴が買って、家事のほとんどを受け持っているので、それで相殺にするという暗黙のルールがいつしかできていた。

 この生活がいつまで続くのかはわからない。フチベ リュウノスケが見つかるまでここにいていい、と言われた以上、見つかったらここにはいられなくなる。洸の気が変われば出て行かなくてはならないし、その場合、帰る場所は島しかない。帰ったらきっと島を出ることはできなくなって、二度と洸に会えなくなる。そう思うと胸が苦しくなる。

それ以前に、罰が当たって死ぬ可能性がある。それなら余計に今の生活を大切にしたい。

 目的が変わってしまったことに気付いてはいるけれど、それを正す気になれずにいる。

 瑞貴はため息を吐く。出来るだけ長く洸のそばにいたいと願うのは百パーセント自分のエゴで、本当はいつまでもここにいたらいけないのかもしれない。図々しくここに留まっていることで洸の生活を妨げているのではないかと、いつも気になっている。

 もやもやした気持ちを抱え、もうひとつため息を吐くと、瑞貴はマグカップ片手にリビングへ向かってソファに座る。それから洸に借りた本を手に取った。図書館で借りてきた本を熱心に読んでいる瑞貴に、僕が昔好きだった本ですが、よかったら読みますか、と差し出してきたのでありがたく拝借した。

普段は手に取ることのないミステリーというジャンルだったけれど、どういう本を洸が好んで読むのか知りたい。そう思ったからだ。貸した当人は既に寝室に引っ込んでいる。もう二十三時だ。

ページを開き、目から文字を吸収する。たちまち頭の中に見知らぬ景色が広がって、瑞貴は本の世界に没頭していく。ほんのちょっと読むつもりだったけれど、ぐいぐい引きこまれて、結局ずるずると読み切ってしまった。気付けば深夜二時になっていた。

 瑞貴は読み終えた本をじっと見つめた。今まで読んだどの本よりも好きだと思った。

 軽妙な文体なのに、筋はしっかりしていて意外性もある。ミステリー小説として優れているばかりでなく、登場人物の誰もが生き生きと描かれて、どんな脇役も確かな存在感を放っている。なにより、作品の隠されたテーマに惹かれた。

人にはそれぞれの事情や背負っているものがあるけれど、乗り越えられないものはない。瑞貴はこの作品をそう解釈した。なんだか勇気づけられるような気がした。

作家名を確認すると龍泉寺淵と記されていた。今までこの作家を知らずに過ごした時間は余りにもったいなかったと心の底から思った。他の作品も読みたい、と、名前を頭に焼き付ける。

龍泉寺淵。

明日、この作家の本を図書館で借りよう。そう決めて、瑞貴はリビングの電気を消す。ソファまでは目を閉じていても辿りつける。少し厚手の掛布団を掛けて横たわりながら、瑞貴はさっきまで浸っていた本の世界を脳裏に蘇らせた。


 スマートフォンの振動音で、洸はいつもの八時に目を覚ました。起き上がってドアを開ける。いつもならとっくに開いているカーテン越しに、外光がリビングを満たしていた。

足音を忍ばせてソファに近寄ると、瑞貴は布団に包まって規則正しい寝息を立てていた。

そっと屈みこんで顔を覗きこむ。寝乱れた髪に覆われた顔は目を閉じていても端正で、無防備な寝顔はいつもより幼く見えて愛らしい。指先で髪を直そうとして思い留まる。気安く触れていい関係ではない。

瑞貴を起こさぬよう物音を立てずに寝室に入り、着替えを持ってバスルームに行く。シャワーを浴びて身支度を整えてからリビングに戻ってきても、瑞貴はすやすや眠っていた。

食パンをトースターに入れてレタスを千切り、トマトを切っていると、リビングから物音がした。もぞもぞとした衣擦れの音がした後、なにかがぶつかるような鈍い音と呻き声がする。包丁を置いてリビングを見に行くと、瑞貴が向こう脛を抑えて屈みこんでいた。

「おはようございます。どうしたんですか」

 洸の声に、瑞貴は顔を上げた。

「ごめんなさい。夜更かしして本を読んでたら、すっかり寝坊してしまいました。慌てて起きたらローテーブルに脚を……」

 一ヶ月も同居しているのに、瑞貴が寝坊するのは初めてだ。いつもきちんとしている髪はぐしゃぐしゃで、眠たげな顔に苦悶の表情を浮かべている。気の毒と思いつつも、洸は思わず笑ってしまった。

「慌てなくていいですよ。朝ごはんは僕が作ってますから。瑞貴さんは身支度をしてください。一緒に食べましょう」

 そう言ってキッチンに戻り、料理を再開する。しばらくすると、バツの悪そうな顔で瑞貴が来た。目玉焼きを作っていた洸は顔だけ振り返る。

「お、ちょうどいいタイミングでしたね。いまトーストも焼けあがりました。テーブルに並べてもらっていいですか」

 瑞貴がトーストを置くのとほとんど同時に、洸はサラダと目玉焼きの乗ったプレートを運び、腰を下ろす。

「目玉焼きの形がちょっと悪くなっちゃいましたけど、味は変わりませんから」

「清水さんもお料理できるんですね」

瑞貴が来てから全く料理をしなかったので、その感想はもっともだった。

親元にいた頃や元カノと同棲していた頃は多少作っていたけれど、瑞貴が来る前はほとんど外食かコンビニで買った物ですませていたし、作ったとしても卵かけごはんレベルだ。

「このくらいならなんとか。でも瑞貴さんみたいに上手に作れませんよ」

「そんなことないです、美味しそう。いただきます」

 行儀よく手を合わせてから、瑞貴は目玉焼きを食べる。

「ちゃんと美味しいです。黄身の半熟加減もちょうどいいし」

 洸も目玉焼きを食べてみた。可もなく不可もなく、といったところだった。失敗しなかっただけでも上出来だろう。

「今朝はごめんなさい。すっかり寝過ごして」

 紅茶をひと口飲んだあと、瑞貴は悄然と言った。あまりにしょげているので、洸は首を傾げた。

「誰でも寝坊くらいするんですから、そんなに気にしなくても」

「でも。ここに置いてもらってるんだから、家事くらいちゃんとしないと」

「べつに家事なんかしなくても、いつまでもここにいてもいいですよ。瑞貴さんがいてくれると、僕は嬉しいです」

 考えなしに言ったあと、我に返る。秘めた気持ちが、迂闊にも洩れ出してしまった。

「いやっ、その、変な意味じゃなくて。瑞貴さんがいると、ちゃんと生活できてるって感じがするんです。一人でいるとどうしても色々と適当になって、食事も摂ったり摂らなかったりするし、部屋を片すのも面倒になるし。瑞貴さんも知ってるんでしょう? 初めて来た日、この部屋まるでゴミ溜めみたいだったから。だからそういう意味で……」

 きょとんと洸を見つめていた瑞貴は、やがてくすくす笑い出す。

「ありがとうございます。そう言ってもらえて私も嬉しいです。ここでの生活はとても楽しいから」

「それなら、このままここで暮らしますか? フチベさんが見つかったあともずっと」

 薄く頬を染めて笑う顔が可愛かったせいか、好意的な反応に無意識に背を押されたのか、洸はぽろりと気持ちを吐き出してしまった。

「どうして。ご迷惑じゃ……」

「全然迷惑じゃありません。一緒に暮らして、そばで見ているうちに、瑞貴さんを好きになりました。その、恋愛感情として」

 勢いに任せて気持ちを伝えると、瑞貴は再びきょとんとした。

三十二歳にもなってなにを言ってるんだ俺は、と愕然としながら、洸は慌てて言葉を継ぎ足した。

「今後もおかしな真似をするつもりはないし、僕の気持ちは気にしなくていいです。ただ、迷惑なんかじゃないってわかってほしかっただけで……。すみません、変なこと言って。今のは聞かなかったことにして、全部忘れてください」

 瑞貴は無言で、ぎくしゃくと食事を再開した。洸もそれに倣った。

「清水さん。ちょっとお尋ねしたいんですけど」

 朝食を食べ終えるころ、ようやく瑞貴が口を開いた。

「なんでしょう」

 なにを訊かれるのか、どぎまぎしながら応じると、瑞貴は生真面目な表情で洸を見た。

「恋愛感情としての好きって、どういう感じですか」

 洸はぽかんとした。あらためて尋ねられると、うまく言い表せない。

「どういう感じ、とは」

 問い返すと、瑞貴は少し躊躇ってから再び口を開く。

「たとえば一緒にいると楽しいとか、できるだけ長く一緒にいたいとか、女の子の髪を切っているところを見ると、なんだか胸がもやもやするとか。そういうのですか」

「髪を切っているところ」

 抽象的な例え話が、いきなり具体的になって、洸はまばたきする。

「図書館に行くとき美容室の前を通りかかると、たまに見かけるんです。顔までは見えないけれど、綺麗そうな女性の髪を切ったりしてるところを。もちろんお仕事だってわかってます。でも、女の人と一緒にいるのとか、触れているところを見ると、なんだかちょっとイヤっていうか……」

 そこまで言って瑞貴は口ごもる。洸は思考を巡らせて、ひとつの答えに辿りつく。

「髪を切ったりしてるって僕のことですよね? 違ったらすみません。まさかとは思うんですけど、もしかして焼きもちを焼いてるってことですか」

 対する瑞貴は神妙な面持ちだった。

「やっぱり私は焼きもちを焼いているんでしょうか。恋愛経験が全くないので、いまいち確信が持てなかったんですけど」

「ええと。焼きもちを焼くってことはつまり、僕を好きなんですか」

 半信半疑で尋ねると、瑞貴は小首を傾げた。

「焼きもちを含めて、もしもさっき言った気持ちが全部該当するのなら、そうです」

「つまり、我々は両想いということになるんでしょうか」

 瑞貴は神妙な顔で頷く。

「清水さんが私に恋愛感情を感じていて、私のこの気持ちが恋愛感情だとすれば」

 あれ? 両想いになる瞬間ってこんなふわっとした感じだったっけ? と洸は考え込んでしまった。

今まで人並みに恋愛してきたけど、こんな状況は初めてだった。ある程度の年齢になったあとは身体が先行して、それから関係が始まることのほうが多かった。

同じ気持ちで嬉しいというより、こんな感じでいいのか、という疑問のほうが上回る。

「あの。私こそ変なこと言ってすみませんでした。忘れてください。食器を下げちゃってもいいですか」

 微妙な空気と沈黙を振り払うように、瑞貴は立ち上がった。

「ちょっと待ってください。もう一度訊きますけど、両想い、なんですよね? ということは、僕らの関係は今後、同居人から恋人に変わるんでしょうか」

洸は慌てて話を引き戻した。このまま終わったら、あまりに不完全燃焼過ぎる。

「恋人」

 言葉の響きを確かめるように小声で呟いたあと、瑞貴の顔はみるみる赤くなる。両手で頬を抑えながら囁いた。

「たぶんそうなりますね……。でも、まだよくわかりません」

 ようやく露わになった感情に、洸はようやく瑞貴が本気で言っていたと知る。

 同じ気持ちでいてくれて嬉しい。素直にそう思えた。

「それなら、もう少しこのままの関係でいましょう。瑞貴さんの気持ちがはっきりするまで、僕は待ちます」

 話がひと段落し、洸はふと時間が気になって壁時計を見上げた。いつの間にか八時半を少し過ぎていた。洸は慌てて立ち上がった。

「あ、やば。そろそろ仕事に行く準備をしないと」

「ごめんなさい、朝から変な話になってしまって」

「気にしないでください、っていうか言いだしっぺは僕ですから」

 そう言いながら洸は洗面所に駆け込み、慌ただしく歯を磨き始めた。

瑞貴は食器を洗いながら、さっきまでの会話を頭の中に蘇らせていた。

寝坊を発端に始まった会話は思わぬ方向へ進んで、予想もしていなかった結論に達した。

同居人として、ひととき身を寄せるくらいなら、出自について話さずにいられる。自分の口の重さからなにか察しているのか、洸もあまり触れてこない。

深い関係になってしまえばそうもいかないだろう。集落の生活について話せばクロ宗に触れないわけにはいかないし、クロ宗では外の人間にその存在を明らかにすることを禁じている。なにもかも捨てて島には二度と戻らないという覚悟がないと、洸との関係に一歩踏み出すことはできない。

「じゃ、瑞貴さん。いってきます」

 玄関口で洸の声がした。瑞貴は慌てて蛇口を閉めて、手が濡れたまま玄関に向かう。

「いってらっしゃい」

 はにかみながら言うと、洸はにっと笑って出て行った。玄関の扉が閉まったあと、瑞貴は小さく息を吐く。

お互いの気持ちを知った上での、この曖昧な関係がどう転ぶのかはわからないけれど、毎朝いってらっしゃいを言える距離にいられる幸せを、しみじみと感じた。


 その日から、二人の間の空気がほんの少しだけ変わった。

瑞貴の言動は相変わらずよそよそしいほど丁寧で、二人の距離はそれほど縮まらない。

洸は相変わらず瑞貴に触れないけれど、ふとした瞬間に目が合うと、互いに意識してしまう。気まずいというより気恥しい。

瑞貴がはにかみ笑いをすると、洸もちょっと笑む。言葉はなくとも同じ気持ちでいるのはどちらも感じている。

気を抜いたら積み上げたジェンガのように崩れ落ちそうな理性を抑え込むのは厄介だったけれど、それでも二人でいる時間は基本的に穏やかで心地よいものだった。

性格的なものなのか、瑞貴はあまり感情を露わにせず、いつも控えめだ。そんな彼女がたまに見せる笑顔や、淡い色の目をきらきらさせて気に入った本について熱く語るところが好きだった。瑞貴の作る手料理や、一緒に過ごす日常も好きだった。

フチベ リュウノスケのことも含め、なにか事情があるのはわかっている。それがどんなものでも構わないとすら、今は思っていた。

開店準備を終え、朝一番の予約客を待っていた洸は、店の前を通りかかる瑞貴と目が合った。洸が手を振ると、瑞貴が微笑んで手を振り返す。それから図書館の方向へと去っていった。洸は笑みを残したまま手を下ろした。

瑞貴がここでの生活に馴染んでいるのを見ると心が穏やかになる。

家事をして図書館で借りた本を読み、週末の一日か二日くらい母の店で働く。毎日一緒に食事をとったり、他愛ない話をして笑い合う。そんな日常だけが、瑞貴をここに繋ぎとめてくれる気がする。

この曖昧で不確かな関係は、瑞貴の気が変わった瞬間に終わる。出て行くと言われても、ただの同居人である以上、黙って見送るしかできない。ドアが開いて洸は我に返る。

「すみませーん、予約していた加藤ですけどー」

 洸は来店した二十代半ばほどの女性に瞬時に、職業的な笑みを浮かべる。

「加藤さま、お待ちしてました。今日はカットとカラーでしたね」

瑞貴が通り過ぎたあとでよかった。無用な焼きもちを焼かせないですむ。ちらりとそんなことを考えたあと、洸は頭を切り替えて、女性をカット台へと案内した。


 仕事を終えて帰ると、瑞貴はいつものようにソファで本を読んでいた。表紙を見ると龍泉寺淵の本だった。よっぽど気に入ったようで、図書館にあった彼の作品は全部借りた、と言っていたのを思い出す。

 一緒に夕飯を摂っているときも、瑞貴はいま読んでいる龍泉寺淵の本の話をしていた。

 その面白さをひと通り伝えたあと、ため息まじりに言う。

「図書館にある龍泉寺淵さんの本は、どれも少し昔の作品ばかりなんです。新刊は出さないんでしょうか」

 洸はハンバーグの最後の一切れを食べ終えてから言った。

「残念ながら、龍泉寺淵はずいぶん前に亡くなってるんですよ。僕も彼の本はもっと読みたかったです」

 思わぬ返事に瑞貴は落胆した。どの作品も出版されたのは二十年以上前だったから、もう断筆してしまったのか、と思っていた。まさか亡くなっていたとは思わなかった。

「そうなんですか……。でも、なんで亡くなったんでしょう。だってそんな年配の作家さんじゃないですよね、たぶん」

 軽妙で若々しい文体を思い出しながら瑞貴は尋ねた。洸は首を捻った。

「なんでだったかな? たしか事故で亡くなったとか、そんな感じだったような」

 夕食後、ソファに座ってテレビを見ているとき、洸は気になってスマートフォンで龍泉寺淵の名前を検索してみた。画面を一瞥し、洗い物を終えてリビングに来た瑞貴に向ける。

「ウィキペディアによると、龍泉寺淵は車の事故で亡くなったそうです」

 瑞貴は少し空間を開けて洸の隣に座り、差し出されたスマートフォンを受け取ると、小さな画面をじっくり眺めた。


“龍泉寺淵(りゅうせんじ えん、本名:淵辺龍之介、一九六三年四月二十七日―一九九六年二月二十四日)は日本の小説家・推理作家。東京都文京区生まれ。大学在学中に××文学賞を受賞し、文壇デビュー。多くの人気シリーズを発表し、その作品の幾つかは映画やドラマなどで映像化された。一九九六年二月二十四日の早朝、滞在先の鹿児島県甑島で車を運転中に事故を起こし、三十三歳の若さでこの世を去った”


 見間違いだろうかと、瑞貴は何度もその短い文を読み返した。

本名:淵辺龍之介。

もしかしたら違う読み方をするのかもしれない。エンベ リュウノスケと読めなくもないし、フチベ リュウノスケと読むのだとしても同姓同名の他人の可能性も捨てきれない。珍しい名前とはいえ、百パーセントあり得ないとは言い切れない。

事故死した時期や場所が少しでも異なっていたら、あるいはそう思えたかもしれない。

一九九六年の二月ということはちょうど二十年前で、自分はそのとき一歳だった。

物心ついたときには両親は既にいなかった。一歳の頃に亡くなったのなら覚えていないのは当然だ。なにより甑島という地名が、龍泉寺淵=淵辺龍之介=フチベ リュウノスケであることを指し示している気がする。そしてこの仮説が正しければ、フチベ リュウノスケの残した封筒が出版社のものだったのにも納得できる。

「どうかしましたか」

 食い入るようにスマートフォンを眺める瑞貴に、洸は怪訝そうに尋ねた。瑞貴は我に返る。龍泉寺淵の本名に、洸は気付いていないようだ。流し読みしただけだから見落としたのだろう。

「なんでもありません。急に眩暈がして。あ、スマートフォン、お返しします」

 血の気が引いて真っ青になった顔を、洸は案じ顔で見やった。

「疲れたのかな? なにか飲みますか」

 テレビを消して足早にキッチンに入り、温かい紅茶を二人分淹れる。マグカップを一つキッチンテーブルに置き、もう一つは瑞貴に差し出した。

「あっ、すみません。ありがとうございます」

 慌てて受け取ろうとして、手元が狂う。なんとか落とさずにすんだものの、着ていた黒いニットに紅茶を少し零してしまった。洸は慌ててティッシュを何枚か引き抜いて瑞貴に渡す。

「火傷は?」

「大丈夫、服の上にちょっと掛かっただけです。黒い服でよかった」

 手の中のマグカップをローテーブルに乗せ、瑞貴は力なく微笑みながらティッシュペーパーを受け取る。それから服を拭いた。洸は少し間を空けて隣に座った。

「……大丈夫ですか?」

 瑞貴はゆるく頷いた。

 フチベ リュウノスケ探しが意外な結末を迎えそうだと、洸に言わなくてはならない。

 そう思ったけれど言葉が出てこない。もしもそれが仮説でなく事実なら、ここに留まる理由はなくなる。洸はいつまでもいていいと言ってくれたけど、気を遣ってくれただけかもしれない。目的を達してしまったのにここにいるのは図々しい気がする。自分から出て行くと申し出るべきなのだろう。

洸は首を傾げ、無言で俯く瑞貴の握りしめているティッシュペーパーに気が付いた。

「それ、捨てましょうか」

 何気なく手を伸ばしたら、指先が微かに瑞貴の手の甲に触れた。体温を感じて慌てて離す。瑞貴を見ると目が合った。戸惑ったように大きく目を見開いている。いまこの淡い色の瞳に映るのは自分だけだ。洸はその瞳に魅入られるように手を伸ばし、瑞貴の頬にそっと触れた。ずっと注意深く距離を保ってきたのに、それを破るのはあっという間だった。

 瑞貴は洸の手のひらに、自分の手のひらを重ねた。それから躊躇いがちに囁いた。

「すみません。なにも訊かずに抱きしめてもらえませんか」

 頬にあてた手のひらを洸はゆっくり下ろして瑞貴の身体に廻す。初めて触れた腕や背は、華奢なのに柔らかい。

力を込めて抱き寄せると瑞貴は身を凭れかけて、洸の肩に顔を埋めた。

体温と鼓動、息づかいを直に感じ、洸は胸が熱くなるのを感じた。それから短くない時間、ずっとそうしていた。

 エアコンの音だけが微かに響く室内で身じろぎもせずに抱き合っていると、この世界にいるのは二人だけのような気がする。瑞貴はなにも言わず、力の抜けた身体を洸に預けていた。このまま服の中に手を滑り込ませて、素肌の感触と、なにも遮るもののない瑞貴の体温を感じたい。洸は切実に思った。普通ならとっくにそうしている。

欲望に歯止めを掛けたのは理性と、服越しに伝わる妙に規則的な呼吸だった。

まさか、と、そっと身体を離して瑞貴の顔を覗きこむ。そのまさかだった。瑞貴は静かに眠っていた。

「うそだろ……」

あまりのことに洸は呻いた。たぬき寝入りかと思ったけれど、そういえば瑞貴の身体は妙にあたたかだった。だらんとした手指に指を絡めると、指先もあたたかい。

小さい子どもがいる友達の家に遊びに行ったとき、眠くてぐずっている子どもの手が、ぽかぽかとあたたかだったことを思い出した。

あんまりだ、と洸は愕然とする。互いに好意を持っていると知っている相手と二人きりでいるとき、抱きしめてほしいと言われてソファの上で抱き合った。これをOKサインと思わない男が、どれほどいるだろう。やれたかも委員会なら満場一致で“やれた”の札が上がるはずだ。

武士は食わねど高楊枝なのか、据え膳喰わねば漢の恥なのか。

おおいに葛藤したあげく、辛うじて前者が勝った。どれほど欲していても、意識のない相手になにかする趣味はない。相手がきちんと判断できる状態のとき、気持ちを確かめてから時間を掛けて愛し合いたい。

 洸は諦め顔で、くたりと無抵抗な身体に手を添えてソファに横たえる。それから瑞貴が毎朝収納にしまっている布団を持ってきて掛けてやった。

脇に座り込んで、未練がましく瑞貴の髪を指ですく。少しクセのあるセミロングの髪は、すぐに指からすり抜けて行った。

 もう一度、瑞貴の髪をすく。それから潔く立ち上がって、瑞貴のマグカップを回収した。キッチンテーブルに置いた冷めきった紅茶を一気に飲んで、なるべく音を立てないようにカップを洗う。

あの状況でハグ以外なにもしなかったこの自制心たるや、と洸は自画自賛する。きっとキス我慢選手権に出ても優勝できる、と妙な自信を持った。

瑞貴はどういうつもりであんなことを言い出したんだろう。

なにも訊かずに抱きしめてほしいと言われた以上、瑞貴が言い出すまでは聞かないほうがいいのだろうか。蛇口を閉めながら、洸はそう思案した。


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