EXPLODE
自由席は一号車から三号車までで、どの乗車口にも行列ができていたが、二人掛けの席に並んで座ることができた。読みが当たった洸はほくそ笑んだ。乗車率は八割ほどで、通路を挟んだ三人掛けの座席には家族と思しき韓国人観光客が座り、楽しそうに何ごとか話している。
窓側と通路側のどちらがいいか訊かれ、瑞貴は窓側を選んだ。外の世界を存分に眺めたかったからだ。座席はほどよい柔らかさだった。
これが新幹線、と瑞貴は内心感激していた。昨日の朝には、自分がこんなところにいるなんて想像だにしていなかった。
着席して間もなく車窓の風景が流れ出し、駅から遠ざかっていく。順調にいけば夜には東京に着く。それからどうすればいいだろう、と車掌の車内アナウンスを聞きながら瑞貴は考えた。
とりあえず出版社に電話を掛けてフチベ リュウノスケが働いているか訊いてみる。もしもいたら、なんとか連絡を取って会いに行く。
そこまで考えて、電話くらい島からでも掛けられたと気付く。東京まで行って会えなければ、全てが無駄足になってしまう。もっとも、もう手遅れだ。新幹線は走り出している。
車窓を眺めていた瑞貴は、なんの前触れもなく暗闇に呑みこまれて驚いた。車内に明かりはついているけれど、外はまるで真夜中だ。走行音も籠って、なにか恐ろしい生き物の咆哮のように響く。発車した早々にトラブルか、と辺りを見回しても、乗客の誰一人として慌てる者はない。ふと隣の男と目が合った。
「あの。どうしていきなり暗くなったんでしょうか」
洸はきょとんとしつつも真面目に応える。
「トンネルに入ったからですよ」
瑞貴は目を見開いた。そういえば昔読んだ小説の一節に、汽車がトンネルを抜けて雪国へ辿りつく描写があった。これがトンネル、と思った。島を出てほんの数時間なのに、頭の中だけにあった知識が、次から次へと現実になっていく。
トンネルを抜けた新幹線が再び外の景色を映し出す。若干の曇り空だが雨は降っていない。緑が多く、まばらに家が建っている風景は、集落とよく似ていた。
「すみません。新幹線は初めてなので、ちょっと驚いて」
少し怪訝な顔をしたが、彼は瑞貴の答えには触れなかった。代わりに他のことを訊いた。
「ご旅行ですか」
妙な受け答えをして不審がられぬよう、瑞貴は会話に意識を集中する。
「そんなようなものです。あなたは?」
洸は苦笑いした。
「旅行帰りです。台風のせいでこんな長旅になってしまいました。飛行機なら二時間なのに、三倍以上時間がかかってしまうし、帰りの航空券も無駄になってしまったし。ばたばたして昼飯も喰いっぱぐれてしまった」
そういえば飛行機が飛ばないと駅員も言っていた。知らずに新幹線を選んだが、結果的に良かった、と瑞貴は思った。
「それは大変でしたね」
応じながら、自分も昼食を食べそびれてしまったことを思い出し、瑞貴は急に空腹を覚えた。朝はほとんど食べられなかったし、昨日の夜なにを食べたかも定かではない。身体は正直だった。次の瞬間、お腹が鳴った。
洸は目を丸くし、それから小さく笑った。瑞貴は赤面した。トンネルの中で鳴ってくれればきっと聞き咎められなかったのに、と心中で嘆く。どんな状況でもよく眠れてお腹も空く自分が恥ずかしくなった。
「車内販売が来たら、なにか買いましょう」
赤い顔のまま瑞貴は頷いた。
それから車内販売が来るまで、とても長く感じた。空腹が極限に達したころ、ようやく姿を現した洸は販売員を呼び止めた。
「えーと、僕は駅弁とビール。あなたは何にしますか」
尋ねられた瑞貴はワゴンをしばらく眺めてから答えた。
「駅弁……とお茶にします」
駅弁がどんなものだかよくわからないけれど、同じものを注文しておけばきっと間違いない。ビールはやめておいた。飲酒年齢には達していて、クロ宗の儀式で清酒は口にするが、ビールは飲んだことがない。酔っぱらってしまったら困る。
支払いをしようとショルダーバッグから封筒を出すと、男が遮った。
「ここは僕が出しましょう」
「え、でも」
「いいから」
やや強引に遮って、洸は二人分の代金を払った。
いいのかな、と少し迷ったけれど、結局好意に甘えることにした。
販売員が立ち去ったあと、洸は瑞貴に駅弁とお茶を渡しながらさりげなく言う。
「その封筒、あんまり人前で出さないほうがいいですよ。あなたのように若い女性が大金を持ってると知ったら、良からぬことを企む人間もいるかもしれない」
見よう見まねで背面テーブルをセットし、受け取ろうとしていた瑞貴は、思わず取り落しそうになってしまった。
「……見えてましたか」
「切符を買うとき、思いっきり」
洸はぱちんと割り箸を割り、駅弁のふたを開きながら言った。
「立ち入った質問だから答えなくてもいいんですけど、なにかワケありな感じですか」
ワケならたっぷりある。ただ、それをどう説明すればいいのか、そしてこの男に説明してもいいのかわからない。
駅弁とお茶を手にして固まる瑞貴をちらりと見ると、洸は軽く微笑んだ。
「とりあえず食べませんか」
そう言うと、缶ビールのプルトップを開ける。ひと口飲んでから、いかにも旨そうに駅弁を食べ始めた。
「そうします。ありがとうございます。いただきます」
喉の渇きを覚えて瑞貴はペットボトルのふたを開け、一気に三分の一ほど飲んだ。
よく冷えたお茶が食道を通って体中に沁みわたる。どれほど喉が渇いていたのか、初めて気付いた。ついでに空腹を思い出し、駅弁に手を付ける。
彩りよく、見た目も美しいおかずや炊き込みご飯の詰められた駅弁は全体的に薄味で、とても美味しかった。開放感や非日常感のせいもあるかもしれないけれど、今まで食べてきたものの中で一番美味しい気すらした。
物言わずに箸を進め、たまに車窓に目をやる。風景は瞬く間に移りゆき、世界の広さを教えている。こんな状況だけど、旅って楽しいものなんだな、と瑞貴は思った。ずっと島の中で暮らしていたら、知らないまま人生を終えていた。たとえば母のように。
限られた世界で生きて若くして亡くなった母は、あの生活をどう思っていたのだろう。
フチベ リュウノスケなら、その答えを知っているのだろうか。
どうやったら彼に会えるのだろう。あの出版社に勤めていれば話は早い。だけど、もしもそうじゃなかったらお手上げだ。
人一人見つけ出す方法など、どこをどう捻っても出てこない。なんとか島を出て東京へ向かうまでは成功したけれど、新幹線に乗ることすら、自分一人の力では無理だった。
そこまで考えて、あれこれ手助けしてくれたこの男性だったらどうするだろう、と思った。なにかと物慣れていそうだし、迂闊な自分を戒めてくれた。完全に信用するつもりはないけれど、悪い人とは思えない。話しても差支えない範囲で相談したら、なにか有益なアドバイスがもらえるかもしれない。
きれいに食べ終え、ふたを閉めてから、瑞貴は洸に向き合った。
「ごちそうさまでした。それと、色々とありがとうございました。あの、ひとつお伺いしたいことがあるんですけど」
ビール片手に寛いでいた洸は、改まった調子の瑞貴に片眉をあげた。
「どういたしまして。いいですよ、僕のスリーサイズ以外なら」
「いえ、そういうことではありません」
生真面目に応じる瑞貴に、洸はちらっと笑った。
「冗談です。それで?」
瑞貴は気を取り直し、質問を頭の中でまとめる。
「人を探そうと思っています。どうすれば見つけられると思いますか」
端的な質問に、洸は眉を寄せた。
「人? 誰を探しているんですか」
名前を出したらまずいだろうか、と瑞貴は少し悩んだが、結局口にする。なにしろそれ以外の情報はほとんどない。
「フチベ リュウノスケさんという人です」
「年齢は」
母が生きていれば、四十一歳になっている。常識的に考えたら、父であるというフチベ リュウノスケも、だいたい同年齢くらいだろう。
「たぶん四十代かと」
「たぶん?」
「はっきりとはわからないんです」
洸の眉間の皺は深くなる。
「ほかに手がかりは」
瑞貴はショルダーバッグから封筒を出した。人前で出さないほうがいいと言われたけれど、この男性はすでに知っている。
「この封筒の出版社に勤めているか、何らかの関係者じゃないかと思います」
洸は封筒を一瞥した。
「とりあえずそれは早くしまったほうがいい。ほかは?」
「ありません」
封筒をしまいながら、瑞貴は簡潔に答える。洸は深くため息を吐いた。
「つまり、手がかりはほとんどないってことですか」
「そうなるんでしょうか、やっぱり」
「でも、その出版社に勤めていれば解決ってことですよね。電話してみたらどうですか」
悄然と項垂れる瑞貴に憐れを誘われたのか、洸は明るい声で提案する。
「次に公衆電話を見かけたら掛けてみます」
洸は怪訝な表情になった。
「いま掛けてみればいいのに。新幹線の中からでも携帯電話は使えますよ。……あ、充電が切れてるとか?」
「携帯電話、ないんです」
「家に忘れてきたんですか」
「いいえ。もともと持ってません」
男性の顔に驚きが広がるのを見て、瑞貴は回答を誤ったことを悟った。携帯電話の普及率の高さは新聞やテレビからの情報で知っているのに、つい素直に答えてしまった。
どう言い繕えば不自然にならないか考えていると、洸が助け舟を出した。
「それなら僕の携帯から掛けてみましょうか。フチベ リュウノスケさんという人が在籍しているか確認すればいいんですよね」
思わぬ申し出に、瑞貴は目を丸くする。
「え、でも。そこまでして頂くわけには……」
「電話を一本かけるくらい、どうってことありませんから。電話番号を見せて下さい」
躊躇いつつも、瑞貴は結局その言葉に応じた。
「なにからなにまで、本当にありがとうございます。どうお礼を申し上げればいいか……」
「そんな大袈裟な」
苦笑しながら、洸はスマートフォンを取り出して番号を押す。
瑞貴は固唾をのんで洸を窺った。もしもフチベ リュウノスケがあの出版社に勤めていて、これから話すとしたら、一体なにを言えばいいのだろう。
まずは母とどういう関係だったのかを確認して、そして自分の存在を認識しているのかを訊く。それから、会いに行っていいかも。断られたら、そのときはそのときだ。勤務先の出版社の場所を調べて、とりあえず一度会いに行ってみる。洸は携帯電話を耳に当てた。
瑞貴は胸が高鳴るのを感じた。昨日まで存在すら知らなかった父親が、急に現実のものになった。怖いような楽しみなような、よくわからない気持ちになる。
「……そうか。今日は日曜日だった」
顔を顰めて呟くと、洸は瑞貴を見た。
「自動音声が応答しました。営業時間は平日の九時から五時半までだそうです」
「そう……ですか」
その言葉で、張りつめていた緊張が一気に緩む。曜日に囚われない生活を送っていたから、営業時間という観念が抜け落ちていた。
明日の午前九時までフチベ リュウノスケを探すのはお預けになってしまったけれど、それまでどう過ごせばいいのだろう。
気が抜けた様子の瑞貴を気遣ったのか、男性は朗らかに言った。
「明日になれば繋がりますから、もうちょっとの辛抱です。そのフチベさんってどういう人ですか。好きな人とか?」
好きかどうかなんて、わかるわけがない。二日前までその存在すら知らなかったのだから、と瑞貴は心中で独りごちた。
「私の父親です。たぶん、ですけど」
男性はなにか言おうとして、口を噤んだ。
会話はそれで終わった。瑞貴は車窓の外を眺めながら、ぼんやり物思いに耽った。男性も疲れが出たのか、軽く目を閉じていた。
瑞貴も眠気を覚えた。昨日はあまり眠れていない。車や船でも眠ったけれど、それから今までにあった出来事で脳が疲弊している。適度な振動と乾燥した温かい空気に引き寄せられた睡魔に負けて、瑞貴はいつの間にか浅い眠りに落ちていた。
新幹線は順調に進み、四時間かけて乗換駅の新大阪に着いた。ここから東京までは、さら二時間半かかる。乗り換え時間が短かったので急いで移動し、無事にホームに辿りつく。ここも始発駅で自由席は一号車から三号車まであったが、今回は座れなかった。
「きっと次の京都で降りる人がいるでしょう。それまでここに乗ってましょう」
洸の言葉に瑞貴は頷き、二人は連結部分の車両近くに陣取った。
周囲には大きめの荷物を持った乗客たちは思い思いの場所に立ってスマートフォンをいじったり、連れがある者はお喋りをしていた。
じきに着いた京都で降りる者はほとんどなかった。連結部分から車両の中に移って次の駅に着くのを待つ。座っている者の多くは眠っていた。それを妨げないためか連れと喋る者たちも静かな声で、車内全体が眠っているような空間だ。
四十分後に名古屋に着くと、ようやく二人掛けの席が空いた。瑞貴はまた窓際に座る。
「やれやれ、ようやく座れましたね」
座席の上の棚に荷物を乗せながら洸が言った。
「あんなにたくさん乗ってるなんて思いませんでした。みんなどこに行くんでしょう」
瑞貴の感想に、洸はちょっと笑った。
「たしかに。もっとも、あなたもそのうちの一人です」
瑞貴も笑んだ。言われてみればその通りだった。ただし他の乗客と違って、自分は行先が定まっていない。明日の朝九時まで、一体どう過ごせばいいのだろう。考えなしに飛び出してきたツケが、いま回ってきている。
こういう場合は、おそらくホテルに泊まるのだろう。それはわかるけど、そこに行きつくまでの過程は皆目見当もつかない。直接行けば泊まれるのだろうか。勝手のわからない場所で野宿するのは気が進まないが、このままではそうなってしまう。
洸は通路側の席に身を落ち着けると、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「ところで、さっきの話ですけど。あなたは父親かも知れない人を探すためだけに東京に行くんですか」
デリケートな話題になって質問を選んでいるうちに、不覚にも寝落ちしてしまったが、中断した話の内容に興味を引かれていた。この先どうするのか、気がかりでもあった。
「そうです」
唐突に訊かれた瑞貴は反射的に応じた。洸は問いを重ねた。
「会ってどうするつもりですか」
「訊きたいことがあるんです」
即答する瑞貴を、洸は観察するようにじっと見つめた。
「あの出版社と何の関わりもなかった場合、探すあてはあるんですか」
瑞貴は黙って首を振る。そんなものがあったら、探す方法など尋ねていない。
「もしよかったら、探すお手伝いをしましょうか」
あまりにも思いがけない提案に、瑞貴はまばたきをした。そうしてもらえればとても助かるけれど、どうしてそんな気を起こしたのか不思議だったし、迷惑をかけてしまわないか気になった。
なんと尋ねればいいのかしばらく考えて、結局無難なところに落ち着く。
「どうしてですか」
「旅は道連れ世は情けって言いますし。袖振り合うも多生の縁でもいいかな」
真意の読み取れない返事で、瑞貴はわずかに眉を寄せた。
「難しく考えないで、ほんの気まぐれと思ってください」
「でも、ご迷惑をおかけするわけには……」
洸は軽く笑った。
「迷惑だったら、こんなこと言い出しません」
瑞貴は少し考えた。男性からの申し出は、心の底から有難い。迷惑でないというのなら、それに乗ってもいいのではないか、と思った。
考え込む瑞貴に、洸はリュックサックから財布を取りだし、名刺を一枚抜き取った。
「いまさらですけど、僕は清水洸と言います。怪しい者ではないです」
そう言われて、そういえば互いの名前すら知らなかった、と瑞貴は気づいた。
受け取った名刺に目を落とすと、Salon de papillonと大きく記され、その下にスタイリスト 清水洸と書かれていた。
「スタイリストって雑誌でモデルさんの洋服選んだりするお仕事ですか」
なんとハイセンスな職業、と瑞貴はちょっと感動した。洸は首を振った。
「いいえ。その表記だと、たしかにちょっと紛らわしいですね。美容師です」
「髪を切ったりする?」
初歩的な質問に、洸は真面目に答える。
「そうですね。髪を切ったり染めたりパーマしてます」
そう言われれば確かに車内にいる他の男性と比べてお洒落な印象を受ける。きっと職業柄なのだろう、と瑞貴は納得した。
自分も名乗らなければ、と思ったけれど、益田の名を出すのは躊躇われた。
外の人間に自分の存在を知られてはならないし、どこから素性が割れるかわからない。結局ファーストネームだけを明かすことにした。
「……瑞貴です。清水さんを怪しいなんて思ってません。ただ、ご迷惑になるんじゃないか、それが気がかりで」
洸は苦笑した。
「少しは怪しんだほうがいいんですけどね。知らない男がミズキさんみたいな若い女性にこんなこと言ったら、何かよからぬことを考えている可能性が高い」
指摘された瑞貴はきょとんとする。
「怪しい者じゃないんですよね?」
当たり前のように尋ねられて、洸の苦笑は濃くなる。
「怪しい者が怪しい者ですって正直に言うと思いますか」
瑞貴は再び考えた。たしかにそうかもしれない。
知り合ったばかりだから、どういう人間かはわからない。
だけど信用してもいい気がした。困っている自分に手を差し伸べてくれた。それだけで充分な根拠になりえる。
「でも、清水さんは違うと思います」
澄んだ瑞貴の視線に、洸の苦笑は笑みに代わる。
「お眼鏡に叶ってよかった。実際、僕はしがない美容師で、悪事を働くような人間ではないです。そこは安心していい」
そう言うと、スマートフォンを取り出した。
「さっきからずっと考えていたんですけど。フチベ リュウノスケさんはSNSをやってたりしないんでしょうか。もしやっていたら、そこから辿りるかもしれません」
その発想はなかった。目から鱗とはこのことか、と瑞貴は思った。
インターネットに触れたことはないけれど、新聞やテレビでSNSの存在は知っている。
「ツイッターやインスタグラムで本名を使う人はあまり多くありませんが、フェイスブックは基本的に本名です。ちょっと検索してみましょう。フチベさんのフルネームをもう一度訊いても?」
瑞貴はショルダーバックに手を入れ、名前が印字されたキャッシュカードを取り出した。
「この人です」
洸はキャッシュカードを一瞥した。
「漢字はわかりますか」
瑞貴は首を振った。
「じゃあ片仮名で調べてみましょう」
キャッシュカードをしまいながら、瑞貴は小さな端末に慣れた手つきでぽちぽち入力する洸の手元を注視した。数秒後、洸はため息を吐いた。
「駄目だ。残念ながらフチベ リュウノスケ氏はフェイスブックを利用していないみたいです。検索しても出てきません。試しに違うサーチエンジンで検索してみましょうか」
「お願いします」
結果は同じだった。洸は小さく首を振る。
「やっぱりなんの情報も出てきませんね。これであの出版社と無関係だとしたら、あとはもう探偵ナイトスクープに依頼するしか……」
瑞貴はぽかんと洸を見返した。
「見たことないですか? 視聴者から依頼を受けて、探偵が調査するテレビ番組です」
これまた考えてもみなかった発想だった。
プロの手を借りれば見つかる確率はぐんと上がるだろうけど、なにぶん表には出られぬ身だ。テレビに出るなど論外すぎる。
「すみません。とてもいいアイデアですが、あまり表沙汰にしたくないもので……」
遠慮がちに言う瑞貴に洸は笑った。
「まあ、そうですよね。たぶん全国区の放送だから一気に時の人になっちゃうし、学校で友達に騒がれても面倒だし」
「学校には行ってないから、その心配はありませんけど。テレビはちょっと」
応じながら、自分くらいの年頃の人間は学校に行っているのが普通なのだろうか、と瑞貴は思った。素性や出生に関わる発言には気をつけなくてはいけない。
「そうなんですか。すみません、てっきり高校生かと思っていたので、つい」
つまり十六歳から十八歳だと思われていたわけだ、と瑞貴は愕然とした。自分ではわからないけれど、普通よりずっと子どもっぽいのだろうか、と心配になる。
「いえ、そんな。一応二十一歳なんです」
洸は目をしばたかせた。
「女性に年齢のことを言うのもアレですが、ずいぶん若く見えますね。僕も人のこと言えませんけど。三十二歳になった今でも、大学生に間違われることもあるし」
瑞貴はまじまじと洸を見た。小柄で親しみやすい人柄もあって、蒼海より少し上くらいかと思っていた。集落内にも三十代の男性はいるけれど、洸とは全く違う。外の世界の人間は、みんなこんなに童顔なのだろうか、と思った。
「二十代半ばだと思ってました」
素直な感想に、洸は口をへの字にした。
「女性なら若く見られたほうがいいんでしょうけどねえ。男性はあんまりいいことないですよ。中身はオッサンなのに、いつまでたっても若造扱いされて困ります」
ぼやきながらスマートフォンをしまおうとして、洸はふと瑞貴を見た。
「そういえば携帯電話を持っていませんでしたね。フチベ氏を探す手伝いをするにしても、ミズキさんと連絡を取るにはどうすれば……。ああ、宿泊先に電話をして呼び出してもらえばいいのか」
独り言になった語尾に、瑞貴はホテルに泊まるにはどうすればいいのか訊こうとしていたことを思い出した。
「あの。ホテルに泊まるのって、どうすればいいんでしょう? 予約しないと駄目なんでしょうか」
洸の手が止まった。
「そんな質問をするということはつまり、宿泊先は決まっていないんですか」
「じつはそうなんです。だいぶ突発的に出てきてしまったので……」
正直に打ち明けると、洸はしまいかけていたスマートフォンを再び操作しはじめた。
「とりあえず宿泊サイトを検索してみましょう。空きがあったら予約してもいいですか」
「ええ、ぜひ。ありがとうございます」
瑞貴はほっと息を吐いた。本当に親切な人だな、と洸を仰ぐ。この奇妙な道行きを助けてくれたのがこの人で良かった、と思った。
益田の人間が外に出ると良くないことが起こるという言い伝えは、やはりただの因習だったのかもしれない。そうでなければ飛び出した張本人の自分が、こんな幸運に恵まれるわけがない。しばらく無言で検索していた洸は、やがてため息を吐いた。
「駄目だ。東京駅周辺で良さそうなところはどこも満室で、空いているのは便の良くないところかカプセルホテルばっかりです」
瑞貴は目を瞠った。
「行ったことがないからわからないんですけど、たぶん東京ってたくさんホテルがあるんですよね?」
「あります。ただ、外国からの観光客が増えてきたから、宿泊施設が間に合っていないんだと思います。前になにかで読んだけど、東京オリンピックに向けてラブホテルまでもが普通の宿泊施設として開かれていくそうですからね」
そう言うと、洸は思い出したように車窓に目をやった。つられて瑞貴も見た。風はあまりなさそうだが、台風の置き土産だろうか、大粒の雨が降っている。
「ああ、そうか。もしかしたら台風の影響もあるのかもしれない。飛行機が飛ばなくて、足止めされている観光客もいるでしょうから」
なんということか、と瑞貴は嘆息した。ずっと小さな島の片隅で生きてきた自分には、想像もつかないことばかりだ。そういえば新幹線の車内アナウンスも、何か国語かで繰り返されていた。つまりそれだけ海外からの旅行客が多いということなのだろう。
「じゃあ、カプセルホテルを予約して頂けますか。お手数を掛けて申し訳ないんですけど」
瑞貴の言葉に洸は眉を寄せた。
「カプセルホテル、ですか。最近は女性一人でも安心して泊まれるところもあるらしいですけど、なにぶんバッグの中身が中身ですから……。それ、銀行に預けたらどうですか? こんなご時世で、なにかと物騒ですし」
瑞貴も眉を寄せた。そんなこと考えもしなかった。考えたとしても、口座なんて持ってない。島の中にも銀行はあるらしいけれど一度も行ったことはないし、そもそも銀行口座を持つ必要などなかった。
「銀行口座、持ってないんです」
素直に言ってしまったあと、不思議そうな顔の洸に気付いて臍を噛む。
話せば話すほど、自分が世間一般の常識から隔たっていると思い知らされてしまう。
洸は少し考え込み、それからじっと瑞貴を見た。なにかを測るような真剣な目だった。
「すみません。失礼を承知でお尋ねしますが、そのバッグの中身の出所は?」
質問の意味を掴み兼ね、瑞貴は洸を見返した。洸は問いを重ねた。
「率直に言うと、盗んだとか騙し取ったとか、そういう類のものなのかと訊いています」
瑞貴は目を丸くした。それから少し考えた。母が使っていた別宅にあったとはいえ、自分のものではないお金だ。厳密にいうと盗んだことになるのだろうか。
「騙し取ってはいませんけど、盗んだことにはなるのかもしれません」
あやふやな答えに、洸はわずかに緊張した面持ちになる。
「と言うと」
先を促され、瑞貴は考え考え言葉を継ぐ。
「あれは母親が昔住んでいたところに、隠すようにしまってありました。ですから母、もしくはフチベ リュウノスケさんのものだと思うんです。あのキャッシュカードと一緒にあったので」
「思う? お母さんに訊いてみれば、すぐにわかりますよね」
「母は、私が生まれてすぐに亡くなっています」
淡々とした瑞貴の答えに、洸は目を見開いた。考えを整理するように黙り込み、おもむろにリュックサックの脇ポケットから箱に入ったキャラメルを取り出して口に放り込んだ。それから瑞貴を見た。
「ああ、すみません。考え事をするときにキャラメルを舐めるクセがあって。瑞貴さんもおひとつどうぞ」
「どうもありがとうございます。いただきます」
甘い香りに誘われて、瑞貴もキャラメルを口に放り込む。濃厚な甘みが口の中でとろけてなくなるころ、洸は再び口を開いた。
「話をまとめると、ミズキさんの母親は二十年ほど前に亡くなっている。はっきりとはわからないけど父親はおそらくフチベ リュウノスケ氏で、東京の出版社で働いているか、なんらかの関係がありそうだ。ミズキさんはフチベ リュウノスケ氏に訊きたいことがあって突発的に東京まで会いに行こうと思い立った。そういうことで間違いないですか」
コンパクトに経緯をまとめられたことに感心しながら瑞貴は頷いた。
「間違いありません」
「立ち入ったことを訊きますが、ご両親がいないとなると、今までどうやって生活してきたんですか」
どう答えればいいのか瑞貴は考えを巡らせた。嘘を吐くつもりはないけれど、クロ宗に関わることを口にしてはいけない。
「親戚の家に引き取られました」
大倉家に引き取られたのは自分がクロ宗の洗礼を受けたときの代理父が恭一だったからだけど、母と恭一は従兄妹同士だったから嘘ではない。
「その親戚の人に訊けば、わざわざ東京まで出向く必要なんてなかったのでは」
「訊いたら答えてくれたかもしれませんが、両親の話はほとんどタブーになっていて、口にする人は誰もいません。それで訊けませんでした。それに両親がいないのが当たり前だったので、あえて知ろうとも思わなかったんです」
答えながら、瑞貴は自分の気持ちが明らかになっていくのを感じていた。胸の中でわだかまっていた思いをはっきりと自覚する。
「それで、なぜ今になって東京まで行こうと思ったんですか」
瑞貴は膝の上にあるショルダーバッグを指し示した。
「昨日、偶然このバッグと、その中身を見つけたんです。それまで、いるかどうかもわからなかった父の存在が急に現実になったみたいで、会ってみたいと思いました」
「なるほど……」
洸は正面を向き、考え込むように顔を伏せて半眼になった。
二人の間の沈黙を縫うように、小田原を定刻通り通過したという車内アナウンスが流れた。新横浜の到着予定時刻を告げてアナウンスが終わるのと同時に、洸は顔を上げた。
「ミズキさん。さっきの話に嘘はありませんか」
瑞貴は頷いた。隠し事はあるけれど嘘はない。それは確かだ。
「ありません」
真っ直ぐに洸の目を見て答える。
「不躾な質問ばかりしてすみませんでした。ミズキさんが僕を信じたように、僕もミズキさんを信じます」
そう言うと、洸は笑んだ。
「お詫びと言ってはなんですが、フチベ リュウノスケ氏を探すために強力な助っ人を紹介しましょう」
「助っ人? 探偵さんのテレビ番組には出るつもりはありませんよ」
洸は愉しげに首を振った。
「探偵なんかより、うちの母親はずっと強力です」
筋は通っているけれど、なかなか特殊な話だった。
それでも比較的すんなり信じられたのは、自分もどちらかと言えば特殊な家庭で育ったからかもしれない、と洸は思った。
洸は非嫡出子だった。代議士の秘書をしていた父は、接待で行った銀座のクラブで母と出会い、やがて交際が始まった。別れを切り出されたのは母が身籠った少しあとだ。父は家族が勧める家柄の良い娘と見合い結婚をした。
母が父方の家族から手切れ金を受け取ったのは自分を育てるためと、父とは二度と会わないという決意表明だったと母から聞いた。五年前、心筋梗塞で亡くなった父の遺産分割協議で、父の家族と顔を合わせた日だ。それまで洸は、父親について何も知らなかった。
自分とミズキは似たもの同士だ。自分と違って母親もいなかったというけれど、ミズキが、大切に育てられたことは、言葉遣いや食べ方のきれいさから察せられる。
これもなにかの縁だ。出来る限り手を貸してあげたい。父親であるというフチベ リュウノスケ氏と引き合わせてあげたい。
「他人の家に泊まることに抵抗感はありますか?」
瑞貴は首を傾げた。そんな経験がないので、抵抗感もなにもない。
「いえ、特には。どなたのお宅ですか」
「僕の母のです。許可が出たら今夜は母の家に泊まって、それから今後の対策を練りましょう。母ならきっと力になってくれます」
新幹線は新横浜駅に到着し、乗客の三分の一程が降りていった。車内は櫛の歯が抜けたような状態になる。洸は無意識に握りしめていたスマートフォンに目を落とした。
このくらい空いていれば電話を掛けても周囲の迷惑にならないだろう、と洸は母親の番号を呼び出して通話ボタンを押した。いつもなら小料理屋で仕込みをしている時間帯だが、幸い今日は定休の日曜日だ。仕事の邪魔をすることはないだろう。
母が一人で暮らしている実家のマンションは、埼玉県の大宮駅と氷川神社の中間ほどの位置だ。実家から駅に向かって五分ほど歩いた裏路地に小料理屋がある。
洸のマンションは小料理屋を挟んだ、実家と反対方向の大通り沿いにある。駅まで歩いて十分程度で、利便性に優れているのが気に入っている。仕事場の美容室も家から徒歩五分で、このうえなく職住隣接だ。大手の美容院に就職していたころは都内に住んでいたけれど、開業を機に大宮に戻ってきた。
親子関係は悪くなくとも一人暮らしを経験してしまうと実家に戻る気にはなれなくて、近くに部屋を借りた。当時、結婚を前提に付き合っていた彼女がいたせいもある。破局した後も引越すのが面倒で、独り身には少し広めの1LDKにそのまま住んでいる。
面映ゆくて口に出したことは一度もないけれど、洸は母親の光江を一人の人間として一目も二目も置いていた。
頭は切れるし、気風も面倒見もいい。自分もだいぶお節介なところがあるけれど、母はそれを遙かに上回る。トラブルを抱えた夜の蝶を救ってきたところや、家庭に問題のある子に手を差し伸べるところを何度もみてきた。
かつて銀座のクラブでナンバーワンを張っていたというだけあって、独自の人脈もある。そのコネクションを使えば、フチベ氏を探し出すのがずっとラクになる可能性がある。
そして母なら、自分にはわからないミズキの本質も見抜けるかも知れない。
ミズキは今まで会ったどんなタイプにも当てはまらない。酸いも甘いも噛み分けてきて、人を見る目は確かな母が、ミズキをどう見るのか気になった。
「なに? いま取り込み中なんだけど」
コール音が五回鳴ったあと、いつもより早口な声が応じた。
「取り込み中? 乾燥機があるのに、どうしてわざわざ部屋干しなんかしたの」
不思議に思って尋ねると、母はため息まじりに答えた。
「違うわよ。洗濯物を取り込んでるんじゃなくて手が離せないって意味。窓が割れてね」
洸は少し姿勢を正す。
「窓ってどこの? 怪我は?」
「怪我はしてない。不幸中の幸いね。忌々しい台風のせいでマンションの窓が割れちゃったのよ。ベランダに置きっぱなしになってた植木鉢がもろに直撃してね。しまい忘れてた私も悪いんだけど。まったく、ツイてないったらありゃしない」
「ええ? 大丈夫かよ」
こんなところにも台風の影響が、と驚きながら尋ねると、ぼやき声が返ってきた。
「大丈夫じゃないわよ、もう。窓の周辺はガラスの破片だらけの水浸しで大惨事。台風が抜けるまで、雨風が吹き込んできてね。ほんと地獄絵図」
想像よりずっと深刻そうな状況に、洸の眉間に皴が寄る。
「それは大変だったな。破片に触らないように気を付けて。なにか手伝えることはある? いま出先だから、そっちに着くのは最速で二~三時間先になるけど」
「ああ、そういえば九州に行ってたんだっけ。来なくていいわ。雨風は収まったから後は片づけるだけだし」
「ごめん、大変な時に。なにかあったら連絡して」
「はいはい、ありがと。じゃあね」
電話が切れるのとほぼ同時に、新幹線は品川に着いた。残っていた乗客の半分以上が降りて、車内はがらがらになった。乗ってくる者は、さすがにもうない。
あっさり切れた通話に、洸は小さく息を吐いた。怪我がなかったのは不幸中の幸いだけど、部屋中が水浸しで破片だらけというのはなかなか大ごとだ。あとで様子を見に行こうか、と思ってから、瑞貴の存在を思い出す。慌ててかえりみると、案じるように瑞貴が見つめていた。
「お母様、なにかあったんですか」
洸は少し笑ってみせた。
「ええ、まあ。でも大丈夫みたいです」
そう言ってから当初の目的も思い出す。
「ああ、そうだ。あてが外れてしまいました。ちょっと今は母の手を借りることは出来なさそうです。期待を持たせたのに申し訳ない」
瑞貴は目をしばたかせた。
「そんな、謝っていただくようなことでは。大丈夫です。カプセルホテルっていうところに泊まってみます」
考えるより先に言葉が滑りだした。
「僕の家に来ますか。一人暮らしだからそんなに広くないですけど、人一人くらいは泊められます」
言い終わる前に、なにを言ってるんだ俺は、と洸は慌てた。
合コンや飲み会で気の合った子を連れ帰ったことは過去に何度かあったけれど、今回のケースは全く違う。この状況ではワケあり女子の弱みにつけ込むゲス男と思われても仕方がない。
「……清水さんがご迷惑でないのなら」
どう釈明しようか、と内心慌てふためいていたので、洸は一瞬ぽかんとした。
「ちょっと待ってください。そんな簡単に僕を信用していいんですか? 男ですよ、一応」
瑞貴は怪訝な顔をした。
「男性なのは、最初からわかっています」
なぜ今さらそんなことを、と言わんばかりの返答に、洸は頭を抱えそうになった」
「それなら、連れ込まれてなにかされるんじゃないかとは思わないんですか」
「なにをされるんですか?」
きょとんと問い返され、洸は濡れた犬のようにぶるぶると首を振る。
「僕はしません。しませんけど、男の部屋に来るなら、普通そのリスクは考えるでしょう」
諭された瑞貴は少し考えて、なにを言われているのかようやく思い至った。たしかに自分は女で、この人は男の人だと気が付いて頬を赤らめる。
そういうことは考えて然るべきだった、と、瑞貴は世間知らずな自分を恥じた。
「ごめんなさい。私、普通とちょっとズレているところがあるみたいで、全く気付きませんでした。そういうことでしたら、やっぱりカプセルホテルに……」
洸は再び首を振る。大金を持っているうえ、妙に警戒心の薄いこの子を一人にしたら、どんな危険に巻き込まれるかわからない。カモがネギを背負ったうえ、鍋をくわえているようなものだ。カプセルホテルはセキュリティ面がいまいち不安だし、ナンパされたらなにも疑わずに着いていってしまう恐れがある。
「絶対になにもしませんから、とりあえず今夜はうちに泊まって下さい。今後のことは、あらためて考えましょう」
「でも……」
「そもそもの言いだしっぺは僕です。だから迷惑とかそんなことは気にしなくていいし、ミズキさんに手を出したりもしません。神様に誓ってもいい」
ほんの数時間前に知り合ったばかりの赤の他人を、それほど案じる必要はないのかもしれない。二十一歳は立派な大人で、自らの行動に責任をとれる年齢だ。
それなのに放っておけないのは、もはや他人とは思えないからだ。できたらミズキをフチベ リュウノスケ氏に引き合わせてあげたい。自分は生前の父を知らないから、余計にそう思うのかもしれない、と洸は分析した。
「神様? 清水さん、神様を信じているんですか?」
突拍子もない質問に、洸は面食らった。
「え? いえ、特定の神様は信じてません」
答えながら、もしかしたら怪しげな新興宗教の勧誘をされるのかと警戒しているのだろうか、と思いつく。
「僕は無神論者だし、ついでに言うならマルチ商法とも無縁です。恩に着せてなにか見返りを求めたりしないので、そこも安心して大丈夫です」
なんだか目当ての女の子を口説き落としてるみたいになってきた、と思いつつ、洸は瑞貴を見た。
「それなら、一晩だけ泊めていただいてもいいでしょうか」
遠慮がちに尋ねる瑞貴に、洸はホッとした。このままここで別れて縁が切れてしまったら、ミズキがフチベ氏と会えたのかどうか、ずっと気になったままですっきりしない。
「もちろんです」
そう答えて少し笑った。
新幹線は定刻通りの十九時半に東京駅に着いた。
旅行帰りと思しき乗客たちに続いて降車し、ホームを歩く。瑞貴は口を半開きにしてあたりを見渡していた。この場にいる人間の数だけでも、今までの人生で会った人を大きく上回っている。みな大きな荷物を持ったりキャリーケースを転がしながら、足早に歩いていた。こんなに混み合っていても他人にぶつかることなく、各々が行きたい方向に流れゆく様は圧巻だった。
改札に続く階段を降りようとした洸は、隣にいたはずの瑞貴の姿がないことに気付いた。振り向くと反対方向から来る人を不器用に避けたり、キャリーケースに躓いておろおろしている。洸は瑞貴に歩み寄って手を差し出した。
「とりあえず、はぐれないように」
若い女の子と手を繋ぎたがるエロじじいと思われたらどうしよう、という洸の危惧は無用に終わった。瑞貴は迷わず洸の手を取った。
「すみません。こんなにたくさん人がいるとは思わなくて。それに、みんな歩くのがびっくりするほど速いし。鹿児島の駅もすごかったですけど、東京はそれ以上ですね」
そう言って恥ずかしそうに微笑む。
「たしかに、ちょっと人が多すぎますよね。僕の家はここから電車で三十分ちょっとのところにあります。その電車も、この時間帯はだいぶ混み合っているかもしれません」
小さくて柔らかい手のひらだな、と不覚にもときめきながら、洸は同意する。
最後に女の子と手を繋いで歩いたのは三年以上も前だ、と洸は思った。いつの間にか芽生えた庇護欲が下心を上回っているとはいえ、ちょっとのことで揺らいでしまう可能性がある。そういう対象として見ないよう、洸は密かに気を引き締めた。
JR線へ乗り換える改札口を出てすぐの左手側にユニクロの店舗を見い出して、洸はふと瑞貴をかえりみた。
「そういえば、ミズキさんの荷物ってそれだけですよね。ここで着替えを買いますか」
指摘された瑞貴は、目をしばたかせた。それからユニクロに目をやった。
確かに着替えは必要だ。言われるまで全然気づかなかった。
「そうします。なるべく急いで買ってきますね」
「大丈夫。ここまで来ればよっぽどのことがない限り、大宮まで帰れますから。ゆっくり買ってください」
女性の買い物に時間が掛かるのは熟知している。母親も、今まで付き合ってきた女性の多くもそうだった。ついでに自分もなにか買うか、と洸はのんびり店内を眺めた。
大宮駅には二十時半過ぎに到着した。東京駅より少ないとはいえ、行き交う人は多い。キャリーケースを転がす人がほとんどいないだけまだマシだった。瑞貴はなんとかはぐれず洸について行った。
駅前の吉野家で簡単に夕飯をすませてから家に向かう。大通り沿いに歩き、T字路を曲がった少し先に洸の住むマンションはある。
濡れた地面と生温く蒸した風が台風の名残を思わせたけれど、歩くのにはちょうど心地よい気候で、出歩く人や交通量が多い。まだまだ宵の口といった雰囲気だった。
三階建てマンションの二階に洸の部屋はあった。駅前の喧騒と打って変わってマンションや一戸建ての立ち並ぶ閑静な住宅街だ。
玄関を開け、乱雑に靴が置かれた上り框でスニーカーを脱ぎ捨てながら洸は言った。
「上がってください、汚いけど」
「お邪魔します」
ドアの前に立っていた瑞貴はおずおずと入ってきた。靴を脱いで、丁寧に揃える瑞貴を尻目に、洸は電気を点けて部屋へと入っていく。瑞貴は洸についていった。
「散らかってて申し訳ない。最近あんまり人が来ないから、ついつい掃除を怠って。いま簡単に片すので、ちょっと待っててください」
洸はそう言いながら玄関近くの床に荷物を置き、腕まくりをした。
男性の一人暮らしらしく雑然としてはいるけれど、間取りはゆったりしている。ベランダに面した六畳ほどのリビングにはクッションが幾つか乗ったソファがあり、ローテーブルを挟んでテレビが置かれている。
右手側はキッチンで、別室へ続く左手側のドアは全開だった。どうやら寝室のようで、起きたばかりのようにベッドが乱れているのが見えた。
脱いだ服はいたるところに投げ捨てられ、泥棒が入ったのかと疑うほどだ。雑誌や飲みかけのペットボトルなどがキッチンテーブルに置きっぱなしになっている。
「あの、なにかお手伝いできることはありますか」
洸は服を拾い上げながら、所在なく立っている瑞貴に顔を向けた。
「じゃあそのへんの雑誌とか、まとめといてください。ちょうど明日は資源ごみの日なんで、出勤するとき出しちゃいます」
「わかりました」
手持ち無沙汰でいるより、なにかしているほうが落ち着く。瑞貴はせっせと雑誌を集めて積み上げた。ついでに飲みかけのペットボトルの中身を捨てて、軽くゆすいだり、キッチンシンクに置きっぱなしになっていた食器を洗った。
「お使い立てしてすみませんねえ」
拾い集めた服を抱えて玄関のほうに向かいながら洸が言った。
「どこに行くんですか?」
「とりあえず洗濯機にこれを突っ込んでおこうかと。この時間じゃ近所迷惑になるから、廻せないんですけどね。あ、ちょっとここのドア開けてもらっても?」
瑞貴は廊下の途中で立ち止まる洸のそばに行き、ドアを開けた。そこは洗面所兼脱衣所になっていた。隅に置かれた洗濯機に服を放り込むと、洸は瑞貴を見た。
「むこうはバスルームになってます。着替えるときはここで。一応鍵もかかるので」
なんで鍵なんか、と訝しんでから、瑞貴はさっきのやり取りを思い出した。自分の警戒心のなさを、あらためて思い知らされる。
「ご丁寧にありがとうございます。そうします」
「タオル類はそこの棚に入ってるから、適当に出してください」
洸はさっさとバスルームを出て、リビングの片付けを再開する。
「ミズキさん、ソファで寝てもらってもいいですか。ちょっと落ち着かないかもしれませんが、寝心地は意外と悪くありませんから」
「大丈夫です、どこでも眠れるので」
あの狭苦しい後部座席でも眠れたのだ。きっとどこでも大丈夫だろう、と瑞貴は思った。
「へぇ、意外ですね。でも寝つきの良さなら負けませんよ。ベッドに入ったら三秒後には寝てますからね」
妙なところで張り合う洸に瑞貴はちょっと笑った。十一歳も年上なのに、親しみやすい雰囲気のおかげで、年齢差はあまり感じない。
洸は寝室に入り、折りたたまれた毛布を持ってきた。毛布の上に、薄いグレイのスウェット上下が乗っている。
「洗濯してあります。寝間着にどうぞ。先にシャワー入ってきてもいいですか」
ソファの上に置きながら洸は言った。
「ええ、もちろん」
「ヒマだったらテレビでも見ててください」
そう言い残すと、洸はバスルームへと消えていく。瑞貴はとりあえずソファに座ってテレビをつけ、クッションにもたれかかる。途端に賑やかになる室内と柔らかく包み込むクッションの感触に、なんとなくホッとした。
思えば遠くに来たものだ。甑島からここまで何キロ離れているかはわからないけれど、半日以上かけてここまで辿り着いた。初めてのことをたくさん経験した。そして初対面の男性の部屋に転がり込むことになってしまった。あまりに現実離れしすぎている。フチベ リュウノスケを見つけられるまでの短い旅だけど、きっと一生忘れない。
明日電話を掛けて、フチベ リュウノスケがあの出版社と縁もゆかりもないことがわかったら島に帰る。これ以上洸に迷惑はかけられないし、大倉家をはじめ、集落の人たちにも心配をかけてしまう。
ベランダへのガラス戸にテレビの灯りが反射し、カーテンを閉めようと瑞貴は立ち上がる。ふと思い立ってガラス戸をあけると、どこからともなくカレーの匂いがした。
日に焼けたサンダルを履いて外に出てみる。ベランダに面した道には手を繋いで歩くカップルがいて、斜向かいのマンションの部屋の多くは灯りが洩れ出している。
電車の車窓から外を眺めたときにも感じたけれど、ここにも様々な人が暮らしていて、それぞれの日常がある。ずっと見てみたかった外の世界に触れられただけで充分だった。
フチベ リュウノスケもこの空のどこかで生活を営んでいるのだろうか、と思った。彼に会ってみたい。どんな暮らしをしていて、母や自分のことをどう思っているのか訊いてみたい。湿り気を帯びた夜気は心地よく、瑞貴は手すりにもたれかかりながら目を閉じた。
「こんなところでどうしたんですか」
ふいに掛けられた声に、瑞貴はびくりと振り返った。Tシャツにスウェットのハーフパンツ姿の洸がバスタオルで髪をわしゃわしゃ乾かしながらガラス戸のそばに立っていた。
「すみません、勝手に外に出て。カーテンを閉めようと思って、つい」
長い間、外に出ることを制限されていた習い性が抜けず、瑞貴は身を固くする。洸は不思議そうな顔をした。
「なんで謝るんですか、ただ外に出ただけなのに。シャワー浴びます?」
「はい、すみません。ちょっとお借りします」
しゃっちょこばって応じる瑞貴に、洸は苦笑した。
「また謝ってる。絶対に覗きませんけど、もしも心配ならバスルームは鍵が掛かりますから。換気扇は回しっ放しでいいですよ」
笑みを含んだ声でそう言うと、洸はキッチンへと歩いて行った。瑞貴はユニクロで買った着替えと貸してもらったスウェットを持ってバスルームへと向かう。
少し迷ったけれど、結局鍵は掛けなかった。なにかするつもりならいつでもできるし、洸が妙な振る舞いに出るとはどうしても思えない。
温かい湯で全身を洗い流す。一日の疲れが流れ落ちるような気がした。
手早くシャワーを浴び、買ったばかりの下着をつけて着替えると、ようやく人心地つけた。バスタオルで髪を乾かしながらリビングに戻ると、洸は缶ビールを飲みながらソファでくつろいでいた。テレビは今週一週間のニュースを伝えている。
「シャワーお借りしました。おかげさまでさっぱりしました」
「それはよかった。なにか飲みます? って言ってもビールかミネラルウォーターしかありませんけどね。あ、冷蔵庫の中身はお好きにどうぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、ミネラルウォーターをいただけますか」
洸は缶ビール片手に立ち上がって冷蔵庫に向かい、五百ミリリットルのペットボトルを取り出してキッチンテーブルに置く。向かい合わせにふたつ置かれた椅子のひとつに洸が座ったので、瑞貴はその正面に座る。
「考えたんですけど。明日の朝、一緒に僕の仕事場に来ませんか」
ミネラルウォーターの封を切っていた瑞貴は、手を止めて洸を見た。
「伺っても大丈夫なんですか」
「大丈夫です、僕が一人でやってる美容室だし」
洸はビールをひと口飲んでから言葉を継ぐ。
「この部屋、固定電話を引いてないんです。携帯があれば事足りるし、大体いつも仕事場にいるので。だからここから出版社に問い合わせの電話を入れることはできません」
確かに、一人暮らしなら固定電話は必要ない。そういえば、蒼海も携帯電話しか持っていなかった、と瑞貴は思い出した。
「美容室の営業時間は十時から十九時で、大体いつも九時頃に店に着くようにしています。出版社と電話が通じるのは九時以降だから、ちょうどいいかな、と」
どこまでも親身な洸に対し、瑞貴は有難いを通り越して申し訳なさすら覚えた。
「さっきもお訊きしましたけど、どうしてこんなに親切にしてくださるんですか?」
思い余って尋ねると、洸はもうひと口ビールを飲んだ。
「似てるんです、僕とミズキさんの境遇が。僕も父を知りません、生まれてからずっといなかった。どういう人間か知ったのは、父が亡くなってしばらく経ってからです」
予想外の返答に、瑞貴は無言で洸を仰いだ。
「母は二親ぶんの愛情を注いでくれました。寂しさや不安を感じたことはほとんどなかったし、不満はなにもなかった。でもたまに思うんです。もしも父親が生きているときに会えていたらどんな話をしたんだろうって。どう接して、なにを感じて、どういう関係を築いたのか、本当はどういう人間だったのか。直接知る機会は永遠に失われてしまいました」
だから洸は母の話しかしなかったのか、と瑞貴は思い至った。
「お父様に会ってみたかったですか」
瑞貴の問いに、洸は一拍おいてから答えた。
「会うべきでなかったことは知っています。だけど会えるものなら会ってみたかった」
それまでの親しみやすい口調とは打って変わった真摯な声だった。なんと返すべきかわからず、瑞貴は洸の目を覗きこんだ。洸はふっと笑んだ。
「さて。僕は歯を磨いてそろそろ寝ます。さすがにちょっと疲れました。それに、明日は仕事で、八時ごろ起きなきゃいけないので。ドライヤーと未使用の歯ブラシをローテーブルの上に置いておいたので、使ってください」
瑞貴は振り返ってローテーブルを見た。パッケージに入ったままの歯ブラシの脇にコップが置かれ、ドライヤーがころんと転がっている。細やかな気遣いに瑞貴は恐縮した。
「なにからなにまで、ほんとにありがとうございます」
「どういたしまして」
ビールの缶をすすぎながら洸は言った。バスルームで歯を磨いて寝室に入る前、ソファで髪を乾かす瑞貴を一瞥する。普通ならこれから一戦交えるところだけど、今回は状況が違う。妙な気を起こす前に眠ってしまったほうがいい、と洸は思った。洸に気付いた瑞貴は髪を乾かす手を止めて笑いかけた。
「おやすみなさい、清水さん」
なんの警戒心も見当たらない無垢で穏やかな表情に、洸はなんとなく気まずくなる。
「おやすみなさい、ミズキさん」
寝室の扉を閉めながら、もしもさっきまでの話は全部ウソで、あの子がとんでもない悪人だったとしたら、と想像した。
金目の物は一切ないから何かを盗まれる心配はないとして、わけもなく人を殺すサイコパスで、寝ている間に刺し殺されるかもしれない。そう考えてすぐに打ち消す。
ミズキに限ってそれはない。名前しか知らないし、それが名字かファーストネームかすらわからない。だけど良からぬことをするような人間でないことはわかる。
欠伸をしながらベッドに潜り込む。それから間もなく眠りに落ちた。
目を覚ましたとき、瑞貴は自分がどこにいるのかわからなかった。辺りを見渡して記憶を辿る。昨日一日に起こったことを思い出し、寝室のドアを見る。まだ眠っているようで、物音一つしない。
洸の言っていた通り、ソファの寝心地はなかなかだった。少し狭かったけれど、寝相は悪くないので問題ない。壁時計を見ると、じき六時になるところだった。いつも瑠衣子と一緒に朝食を作るために五時過ぎに起きているから、少し遅れて体内時計が作動したようだ。
無理もない。昨日は色々あったし、今までの人生の中で間違いなく一番歩いた。自分で思っていたよりずっと疲れていたのだろう。夢も見ないほど深く眠っていたせいか、頭は冴えている。
もそもそ起き上って丁寧に毛布をたたみ、クッションをほどよい位置に置いてカーテンを開ける。よく晴れて、空は澄んだ青だ。高い壁に覆われていた家と違って、視界を遮る高い壁はない。この時間でも、通勤すると思しき人々が何人も通り過ぎていく。
外の景色をしばらく眺めてから、着替えを片手に足音を忍ばせてバスルームに向かった。手早く洗面と着替えをすませてリビングに戻る。スウェットは洗濯機に入れた。寝室はまだ静まり返っていた。
八時ごろ起きると言っていたから、あと二時間は静かにしていたほうがいいだろう。その間なにをしていれば、と悩んだ結果、朝食を作ればいいのでは、と閃いた。
冷蔵庫を開けてみる。中身はほとんどビールとミネラルウォーターだった。他はトマトジュースとキャベツ、しなびた玉ねぎとニンジン、芽が生えたじゃがいもくらいしかない。
ガスコンロの下の棚を開けると鍋類や包丁などの調理器具、サラダ油とオリーブオイルなどがあった。しばらく考えて、野菜スープを作ることにする。
なるべく音を立てないように気を付けながら野菜を刻み、オリーブオイルで軽く炒めて水を入れてしばらく煮る。後からトマトジュースを加え、味をみて塩と胡椒を振る。それで終わりだった。使った調理器具を洗って、再び時計を見る。洸が起きてくるまであと三十分ほどあった。テレビを見て時間を潰そうか、と思ったけれど、物音で起こしてしまうかもしれない。
そっとガラス戸をあけてベランダに出てみる。わずかに肌寒かったけれど、空気は清々しく爽やかだ。瑞貴は車の行き交う音や足早に過ぎ去っていく人を眺め、どこかの部屋から漏れ聞こえる目覚まし時計のアラーム音に耳を澄ませる。
生活の匂いのするこの風景が好きだった。だけど二度と目にすることはない。
ここに泊まるのは一晩だけだ。電話で問い合わせてフチベ リュウノスケの所在がわかったら、会いに行って話を聞く。それから島に帰る。もし見つからなくても、今日のうちに島に帰る。これ以上ここにいて迷惑を掛けてはいけない。電車の乗り方はわかったし、駅までの道はなんとなく覚えている。途中で蒼海に電話を入れれば、きっと迎えに来てくれるだろう。
神罰が下らず元の生活に戻れたら、皆が望むように蒼海との子を為して、集落を守って生きていく。今回のこの旅は白昼夢のようなもので、夢はいつか覚めるものだ。
ふいにドアの開く音がして、瑞貴は身を弾ませた。
「ベランダが気に入ったんですか」
「おはようございます。ごめんなさい、ここ開けっ放しで寒かったですか?」
振り向きざまにそう言うと、洸は眠たげな眼で笑った。髪は寝癖でぼさぼさだ。
「謝る必要ないです、寒くないから。眠れなかったんですか」
「いいえ、よく眠れました。いつも五時過ぎに起きてるから、つい目が覚めちゃって」
洸は小さく欠伸をした。
「ずいぶん早起きなんですね。いい匂いがしますけど、朝ごはん作ってくれたんですか」
「冷蔵庫の中のもの、勝手に使っちゃいました」
「全然かまいませんよ。でもよくあの中身で作れましたね」
そう言うと、もういちど欠伸をしてバスルームへと向かう。
「ちょっとシャワーしてきます。すぐ出てきます」
瑞貴は室内に戻ってスープを温め直した。十五分ほどして戻ってきた洸はダンガリーシャツにチノパンというなんてことない服装でも、どこか垢抜けている。髪も無造作にセットされ、寝癖は跡形もない。
キッチンテーブルに座った洸はまじまじとスープボウルを眺め、スプーンを手にする。
「そういえばずいぶん前に、カレーを作ろうと思って買ったなあ、野菜。いただきます」
「お口に合うかどうか……。いただきます」
瑞貴は向かい合わせの席に座り、手を合わせてからスプーンを手にする。
「うん、うまい。優しい味ですね。二日酔いのときでも食べられそう」
まんざらお世辞でもなさそうな様子に、瑞貴はほっと胸を撫で下ろした。
スープを平らげると洸は伸びをした。少し遅れて瑞貴も食べ終える。
「ごちそうさま、美味しかったです。久々にまともな朝食をとりました」
「普段はどうしてるんですか」
「仕事場に行く途中のコンビニで適当に買ってます。面倒臭いと野菜ジュースだけとか」
そう言うと壁時計に視線をやる。
「大体いつも八時五十分ごろ家を出るんですけど、大丈夫そうですか」
瑞貴も時計を見る。八時半になるところだった。
「大丈夫です。すぐ食器洗っちゃいますね」
「僕が洗っときますよ。その間に仕度しておいてください」
止めるいとまもなく、洸は二人分の食器を手にシンクへ向かい、鼻歌まじりに洗い物を始めた。瑞貴は急いで歯みがきをし、手櫛で髪を整えた。鏡の中の自分はいつもと同じだけれど、見下ろすと見慣れない。昨日ユニクロで買ったのは下着類のほか、花柄のTシャツとジーンズなどで、瑠衣子の趣味とはだいぶ違う。ジーンズを履いたのは初めてだ。
ずっと履いてみたかったジーンズは、少しごわごわしているけど動きやすい。似合っているのかわからなくとも満足だった。
瑞貴がバスルームを出るのと入れ違いに洸が入る。歯みがきする音を聞きながら、瑞貴はソファの上で自分の荷物をまとめた。着てきた服をユニクロの袋に入れて、ショルダーバッグを肩に掛ける。それで終わりだった。まもなく洸が出てきた。寝室からリュックサックを持ってきて背負い、ゆうべまとめた雑誌類を片手で抱える。
「出られますか?」
「はい」
「じゃあ行きましょう」
そう言って、瑞貴の服装に目を止める。
「昨日とはだいぶ雰囲気が違いますね」
「おかしいですか?」
不安になって尋ねる瑞貴に、洸はにこりとする。
「全然。脚が綺麗だからジーンズが映えます」
褒められて気恥しいけど嬉しい。瑞貴は薄く頬を染めた。
「ありがとうございます。ジーンズを履くのは初めてなので、これでいいのかよくわからないんですけど」
何気なく口をついた言葉を洸は聞き逃さなかった。
「ジーンズを履くのも初めてなんですか」
また口が緩んでしまった、と瑞貴は自分を殴りたくなった。
「ええ、まあ」
玄関に向かう洸の後に続きながら、これ以上失言をしないように気をつけなければ、と密かに反省し、すぐに思い直す。電話を貸してもらったら、お礼を言って洸のもとから立ち去る。こうやって話すのもあとわずかで、このさき二度と会うことはない。
そこまで考えて、無性に寂しくなる。たった一日しか一緒にいなかったけれど、この思いがけない旅の間、ほとんどそばにいた。島に帰って旅を振り返るとき、必ず洸を思い出す予感がした。
玄関の鍵を掛けた洸は、瑞貴の手元に目を留めた。
「着てきた服、持って行くんですか」
「ここに泊めていただくのは一晩だけのお約束でしたから。電話してフチベ リュウノスケさんが見つかったら、この足で会いに行きます。見つからなかったら帰ります。これ以上清水さんにご迷惑をお掛けするのも申し訳ないので」
洸は歩き出した。瑞貴はあとをついて行く。
「気にしなくていいのに、そんなこと。べつに迷惑じゃないし。まあでも他人の家だと、たしかに落ち着かないですよね」
そう言ってから、ぽつんと言葉を洩らした。
「そうですか。妙なご縁でしたけど、なんだか寂しい気がしますね」
同じ気持ちと知って瑞貴は少し驚いたけれど、口には出さなかった。
美容室は洸の家から歩いて十分ほどの、大通りに面したマンションの一階にあった。全面的にガラス張りで、今はカーテンが引かれている。上の階は住居棟で、隣は学習塾だ。
蝶の形の看板に、流れるような筆記体でSalon de papillonと書かれている。
「サロン ド パピロン?」
首を傾げて看板を眺める瑞貴に、洸は鍵を開けながら軽く笑った。
「パピヨン。フランス語で蝶です。入ってください」
誘われるまま中に入る。店内は奥行きがあった。入り口のすぐそばがレジで、カット台が三つ並んでいる。奥まったところにシャンプー台があるのが見えた。
白と木目を基調とした店内にはところどころ観葉植物が置かれ、外からの光も相まって明るい雰囲気だ。
「素敵なお店ですね」
「ちょっと狭いんですけどね。一人でやってるから、このくらいがちょうどいいんです」
てきぱきと開店準備に取り掛かりながら洸は壁時計を一瞥し、瑞貴を振り返った。
「九時になりましたね。レジの奥に電話があるから使っていいですよ。この時間ならまだ予約の電話もこないし」
「あ、はい。すみません、お借りします」
瑞貴はショルダーバッグから封筒を取り出して、電話番号をプッシュした。
「おはようございます、講英社です」
コール音が三回鳴ったのち、若い女性が応じた。はきはきとした声は耳に心地よい。
「おはようございます、朝早くからすみません。あの、ちょっとお伺いしたいことがあって、お電話を差し上げたんですけど」
瑞貴は頭の中で何度も繰り返した言葉を口にする。
「どういったことでしょうか」
「そちらにフチベ リュウノスケさんという方はお勤めですか」
「フチベ リュウノスケ、ですか。どちらの部署でしょう」
「ごめんなさい、わからないんです」
「そうですか。少しお待ちください。ただいまお調べ致します」
保留音が流れた。もしもフチベ リュウノスケ本人が電話に出たらどうしよう、と胸が高鳴るのを感じた。まずは母を知っているかを訊き、それから自分の存在を知っているかも訊く。そして直接会いたいと伝える。しばらくして保留音が止まった。
「大変お待たせしてしました。調べてみたのですが、弊社には在籍していないようです」
申し訳なさそうな声で女性に告げられて、こちらまで申し訳なくなる。
瑞貴は小さくため息を吐いた。現実はそんなに甘くない。フチベ リュウノスケは退職したか、もともと勤めておらず、たまたま講英社の封筒を持っていただけなのだろう。
「そうですか。お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。失礼します」
静かに受話器を置くと、瑞貴はもう一度ため息を吐く。手掛かりというにはあまりに弱いものだったけれど、それすらなくなってしまった。あとは名前しかわからない。
「いなかったんですか」
床をモップ掛けしていた洸に尋ねられ、瑞貴は頷いた。
「残念ですけど、よく考えたら当然かもしれません。封筒一枚でここに勤めてるんじゃないかなんて、あまりに安直すぎました」
そう言って笑顔を作る。
「帰ります。今から出れば、なんとか今日中に鹿児島に着けるでしょうから。本当に色々とお世話になりました」
深々と頭を下げる瑞貴に、洸は静かな声で尋ねた。
「フチベさんのことはいいんですか」
瑞貴は顔を上げて洸を見た。
「もちろん気にはなります。だけど名前しかわからない相手を探すなんて無理です」
洸はレジ脇の引き出しを開け、キャラメルの箱を取り出した。
「食べます?」
なぜ今キャラメルを、と思いつつ、瑞貴は一粒もらう。洸もキャラメルを口に放り込む。甘い香りと沈黙がその場を包んだ。キャラメルがなくなるころ、洸が言った。
「もし良かったら、フチベさんが見つかるまで僕の家にいませんか?」
瑞貴はわずかに残っていたキャラメルを口から落としそうになった。
「どうしてですか?」
「僕も気になるからです。このままだと、いまいちすっきりしないですし」
そう言うと、言葉を継ぎ足す。
「ミズキさんに対して良からぬ気を起こしてるとか、そういうわけじゃないので、そこは安心してください。ただのルームシェアだと思っていただければ」
「でも見つかるまでって言っても、探す方法なんてなにも思いつきません」
「それなんですけど。新幹線の中でうちの母親は強力だって言ったことを覚えてますか」
瑞貴は頷いた。聞いたのは遙か昔のような気がするけれど、鹿児島中央駅で出会ってからまだ二十四時間経ってない。
「僕の仕事が終わってから母の店に行って、協力を仰ぎましょう。もしかしたら僕らには思いつかないアドバイスをくれるかもしれない」
「お母様、なんのお店をしているんですか」
「小料理屋です。ここからそう遠くありません。夕飯を食べに行きがてら、相談してみませんか」
瑞貴は少し考えた。このまま帰ったら自分だってすっきりしない。
島に戻ったら、ここに戻ることは二度とない。近いうちに悲惨な死に方をする可能性もある。集落を出るだけでも良くないことが起こると言われているのに、集落どころか島を出て、初対面の男性の家に泊まったのだ。本当に神罰が存在するのなら、どれほど悲惨な死に方をするか計り知れない。
どうせ死ぬならすっきりしてから死にたい。洸の好意に甘えっぱなしなのは申し訳ないけれど、この機を逃したらフチベ リュウノスケと会うことはおそらく一生なくなる。
「本当にご迷惑じゃないのなら」
遠慮がちに尋ねる瑞貴に、洸は笑みを浮かべ、キャラメルの入っていた引き出しから鍵を取り出した。
「うちのスペアキーです。十九時半ごろ戻るので、それまで待っててください。ここから一人で帰れますか」
瑞貴は両手でスペアキーを受け取った。
「たぶん大丈夫です。ここからおうちまでの道は、なんとなく覚えてますから」
「わからなかったらここに戻ってきてください。この大通り沿いを家から反対方向に少し行くとコンビニがあって、そのもう少し先の斜向かいにスーパーマーケットがあります。冷蔵庫の中はあのとおりですから、なにか買って、適当に過ごしていてください」
「わかりました」
会話が切れるのを待っていたかのように店の電話が鳴った。
「はい、サロン ド パピヨンです。今日ですか? 大丈夫です。メニューは……はい、カットとカラーで。お時間はどうしましょうか」
仕事の邪魔になってはいけない、と身動きせずに立っている瑞貴を洸は一瞥し、それからひらひらと手を振った。瑞貴は手を振り返して美容室を出た。これから十時間以上、なにをして過ごそう、と考え、通りの向こうにスーパーマーケットを見い出した。看板に大きく二十四時間営業と書いてあるのに、外に出てから何度目かの驚きを感じた。
深夜三時に買い物に来る人なんているのだろうか、と思いつつ、店へ向かってみる。
店に入って、品揃えの豊富さに圧倒された。これだけの商品が全て売れるのか心配になるくらいだ。早朝のこの時間帯でも買い物客はそこそこ入っている。
まわりの様子を窺って、みんなが手にしているカゴを持って店内を回る。整然と陳列された食料品は眺めているだけでも楽しい。初めて目にする食材を手に取って検分したり、同じような商品の値段を見比べたりしているうちに一時間近く経って、カゴの中身もいっぱいになっていた。
レジに並んで、なんとか無事に会計をすませる。フチベ リュウノスケのものと思しきお金を使いこむことに後ろめたさはあるけれど、初めての買い物はとても楽しかった。
服の入った袋と腕が千切れそうなほど食材が入ったを持って来た道を辿り、洸のマンションに戻ってきた。玄関の鍵を掛けて部屋に入り、ガラス越しに見えるベランダからの風景に瑞貴は目を奪われる。またこの景色を見るとは思わなかった。相変わらず雲ひとつない青空で、洗濯物がよく乾きそう、と思ってから、そうだ洗濯をしよう、と思いつく。
洗濯機をよく眺め、使い方を把握する。洗剤やハンガーはすぐそばにあった。荒い上がるまで冷蔵庫に買ってきた物をしまったり、古くなった食品を処分した。ゴミをきちんと分別し、ベランダに洗濯物を干し終わったあとはプライベートスペースであろう寝室以外の部屋全てを掃除した。なにしろ一宿一飯どころか三飯の恩がある。このくらいしないと気がすまない。合間に簡単な昼食をとり、日が落ちる前によく乾いた洗濯物を取り込んで畳んだ。
全てを終えたのは十八時過ぎで、さすがにくたくたになった。部屋の灯りをつけて、ソファに腰を下ろす。一度座ってしまうと、立ち上がるのは不可能だった。
洸が帰ってくるまで、もう少し時間がある。ちょっとひと休みするだけ。そう思った数秒後、瑞貴は眠りに落ちた。
十九時半には帰ると言ったのに、閉店時刻の直前に飛び入りの客がきて、店を出るのが二十時すぎになってしまった。連絡を取る手段がないのはこういうとき不便だな、と思いながら洸は急ぎ足で家に戻った。
帰宅した瞬間、きれいに片付いた部屋に目を瞠った。フローリングはぴかぴかで、ローテーブルにはきちんと畳まれた洗濯物がある。それからソファですやすや眠る瑞貴にちょっと微笑んだ。今日一日なにをしていたのか訊かなくてもわかる。せっせと洗濯をして、この部屋を片していたのだろう。
「ミズキさん。遅くなってすみません。帰りました」
ベッドの脇に立って声を掛けると、瑞貴はびくりと身体を弾ませて跳ね起きた。きょろきょろあたりを見回し、洸を見てハッとした顔をする。
「ごめんなさい、眠ってしまいました。おかえりなさい」
「ただいま。部屋を片してくれたんですか」
「なるべく物は動かさないようにしたんですけど、勝手にいじってすみません。お洗濯物はここに畳んであります」
「ちょっとしまってきます。その間に出掛ける支度をしておいてください」
寝室は朝出たときのままだった。遠慮してここには入らなかったのだろう、と洸は察した。奇妙なきっかけからこういう状況になったけれど、家事をやってもらえるのは有難い。人の手が入るのに抵抗はないし、ミズキには私室には入らない気遣いもある。
なにより帰ってきたときに部屋が明るくて、おかえりと言ってくれる相手がいるというのはなかなか悪くない。それがハウスキーピングに長けた上品な美少女ならなおさらだ。同居人として、とても好ましい。
引き留めたのはフチベ リュウノスケの件が気になったのが一番の理由だが、ミズキと離れがたいと感じたのも理由のひとつだった。
鹿児島土産を手にリビングに戻ると、瑞貴はカーディガンをはおり、ショルダーバッグを肩にかけて待っていた。
「お待たせしました、行きましょう」
声を掛けると生真面目な顔で着いてきた。
九月末の宵の口は、散歩するのにちょうどいい。ぬるま湯のような夜気のなか、二人は連れ立って歩く。
「お母様のお店はここから近いんですか」
「歩いて十分ちょっとです。実家もここからすぐで、今は母が一人で住んでます」
「一緒に住まないんですか」
「縁起でもないけど母が病気になるとか、年齢を重ねて介護が必要な状態になったら、さすがに戻ります。だけど一度一人暮らしをしてしまうと、なかなか戻る気にはなれなくて。まあ、僕の我儘なんですけどね」
そんなものなのか、と瑞貴は思った。一人暮らしの経験はないし、実親とも縁遠い生活をしていたからよくわからない。大倉家の人間はとても良くしてくれたけれど、心のどこかに遠慮があって、無条件に甘えたり我を通すことはできなかった。
駅近くの裏路地に入るとこじんまりとしたイタリアンやラーメン屋が軒を連ねていて、そのうちの一軒が洸の母が営む小料理屋だった。
漆喰の白壁に木の引き戸で、入り口の脇に小料理みつえと書かれた看板がある。
洸がガラガラと扉を開けるとふわりと醤油や出汁の香りがして、和やかに談笑する声が聞こえた。カウンターの中にいる女性が洸を見て微笑みかける。濃すぎも薄すぎもしない化粧の施された顔は美しく、年の頃はよくわからない。紺の着物の上に割烹着をつけて、客と喋りながら、手だけを忙しく動かしている。
「いらっしゃい。遅かったのね」
そう言いながら、一番奥まった席に置かれた予約席のプレートをひょいと取り上げる。八人掛けのカウンター席だけしかない店内は、その二席以外の全てが会社帰りのサラリーマンで埋まっている。
白木のカウンターの上には見るからに美味しそうな料理の入った大皿が何種類か置かれていた。どうやら注文を受けると温め直したり手を加えて出すシステムのようだ。
「ごめん、閉店ギリギリにお客さんが来ちゃって。あ、すみません、後ろ通ります」
他の客に声を掛けつつ手狭なスペースを進んで席に座る。瑞貴は後に続いた。
席に着くとすぐに温かいおしぼりが出た。
「いらっしゃい、ミズキさん。ここの店主で洸の母の光江です」
柔らかな表情と口調に瑞貴はホッとして微笑んだ。
「初めまして。素敵なお店ですね」
礼儀正しい瑞貴の受け答えに、光江も笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。なにか食べられないものはありますか?」
「いいえ、とくにはありません」
「洸から事情は聞いてます。九時過ぎには店が空いてくると思うので、お話はそれからで」
「はい。お忙しいところすみません」
洸は土産物の入った紙袋を差し出した。
「これ、鹿児島土産のいも焼酎」
「まあ、どうもありがとう。なに食べる?」
「んー。とりあえずビールと、あとは適当に見繕ってもらっていい? ミズキさん、なにか食べたいものは?」
「お任せします。あ、私はビールはいりません」
「わかりました。少しお待ちください」
軽やかな足取りで光江が立ち去ると、瑞貴は洸を見た。
「お母様、お綺麗ですね。清水さんのお姉様だって言ってもわからないくらいお若いし」
洸は苦笑した。
「ぜひ本人に言ってやってください。喜んで、よりいっそう腕を振るうと思います」
間もなく出てきた料理は一見ありふれているけれど、ひと口で手が込んでいるとわかるものだった。ナスの煮びたしは上品な出汁の味が染みていて、丁寧に面取りされたカボチャはほっくり煮えている。ブリの西京焼きは香ばしく、ほどよい焼き加減だ。数々の料理に舌鼓を打ちながら、洸と瑞貴はぽつぽつと話した。といっても話し手はほとんど洸で、瑞貴はそれに対して相づちを打ったり感想を述べるにとどめた。
通っていた美容専門学校の話から美容院を開業するまでの話が終わるころにはすっかり満腹になり、他の客たちは帰宅していた。光江が言ったとおり、ちょうど九時過ぎだった。
「食後のデザートです。料理は口に合いましたか?」
美しく剥かれた瑞々しい梨を差し出しながら光江が言った。
「どれも本当に美味しかったです」
瑞貴は心からの感想を述べた。光江はにっこり笑う。
「ミズキさんが母ちゃんのこと、俺のお姉さんに見えるって言ってたよ」
洸の言葉にその笑みは深くなる。
「まあ、色々と光栄です。あ、洸。看板掛けてきて」
「まだ閉店まで少しあるけど」
「いいのよ。週末ならともかく、月曜のこの時間帯はほとんどお客様来ないから」
洸は言われるがままに看板を掛けて席に戻った。光江は温かいお茶を三つ並べて、自らもカウンター席に座る。
「それで、人を探してるというお話でしたね。手掛かりは?」
光江の問いに、梨を食べていた瑞貴は俯く。
「唯一の手掛かりと思っていた出版社に勤めてなかったので、今ある情報は名前だけです」
光江はお茶をひと口飲んで、考え深げな眼で瑞貴を見た。
「それなら事情をご存じの方に訊いて、少しでも情報を得たほうがいいですね。名前しかわからないとなると、たとえ興信所に頼んだとしても、見つけ出すのは難しいと思います」
瑞貴は嘆息した。たしかに情報がなさすぎる。
一番事情を知っているのは恭一や瑠衣子だろう。誠志も知っているのかもしれない。
問題は、その誰にもフチベ リュウノスケのことを訊けないことだ。大倉家の電話番号はもちろん覚えているけれど、母親以上に禁忌とされている父親の存在について触れるのは躊躇われる。それに自分が今どこにいるのか尋ねられても困る。
訊けるとしたら蒼海くらいで、彼は自分と同程度の情報しか持ち合わせていなさそうだ。
完全に手詰まりだった。二十年前に姿を消した人間を探し出すなんて、そもそも不可能だった、と瑞貴は思い知る。
「伯父や伯母は知っていると思いますが、訊くのはちょっと難しいです。それに記憶にある限り、フチベ リュウノスケさんに会ったことありません。たぶん、二十年近く姿を現していないんだと思います。伯父や伯母が情報を持っているとしても、それが今現在に繋がるかどうか……」
そう言うと苦く笑った。
「見つけるのはきっと無理でしょう。砂漠でたった一粒の砂を探すのと同じです。その砂だって、本当にあるのかどうかわからないし。諦めて帰るのが正解なのかもしれません」
「たしかに一回帰って情報を収集してから、あらためて探したほうがいいのかも」
洸の意見に瑞貴は首を振る。
「一度帰れば、こうやって探しに来ることはもう二度とできないと思います」
今回は上手くいった。ただし次があるとは思えない。集落に戻ったら二度と出してもらえないだろうし、戻れるかどうかすら定かではない。勝手なことをした報いとして神罰が下って命を落とす可能性もある。
「どうして?」
光江の問いに瑞貴は口ごもる。それについて話せば言ってはいけないことまで口にしてしまいそうだ。集落を出るという掟破りをしたとはいえ、他の禁忌まで犯すつもりはない。
「すみません。ちょっとお手洗いをお借りします」
質問を逸らすため、瑞貴は席を立った。化粧室が店の一番奥にあるのは、何度か他の客が行っていたのでわかる。化粧室の扉が閉まった後、洸は小声で言った。
「あくまで俺の予想だから、そのつもりで聞いてほしいんだけど。ミズキさんはたぶんいい家の箱入り娘で、自分の思うとおりに外出できないんだと思う」
息子の見解に、光江は眉を寄せた。
「ずいぶん時代錯誤な話ね。なんでそう思うの? たしかに育ちの良さそうな子だけど」
「会話の節々とか立ち居振る舞いからそんな印象を受ける。あの子はあまりにも浮世離れしすぎてて、なんだか放っておけない」
「だから家にまで泊めたってこと? ただ新幹線で隣り合わせただけの子を」
梨をかじりながら洸は頷いた。よく冷えた甘い果汁と独特の歯ごたえは食後の果物にちょうどいい。あっという間に完食して、温かいお茶を飲む。
「それだけじゃなくて、あなたミズキさんを好きになっちゃったんでしょ。そうじゃなきゃ普通こんなに親身になったりしないわよ」
光江の言葉に、洸は目を見開いた。
「違う違う! なに馬鹿なこと言ってんの。恋愛対象にしては歳が離れすぎだし」
大急ぎで否定する。たしかに好意は抱いているけれど、恋愛感情と結びつけるとなると話は別だ。
「年齢くらいなによ、五十年後には平等に老人じゃないの」
澄ました顔でそう言うと、光江はお茶を飲み干した。
「ずいぶん気の長い話だな。五十年後って俺八十二歳だぜ。そこまで生きられるかどうも怪しいわ。母ちゃんは百歳まで生きるだろうけど」
「わからないわよ、美人薄命って言うから明日には死んでる可能性もあるわ。とにかく、お母さんはあんたの恋路を応援するから安心なさい。でも、だからって軽々しく手を出すんじゃないわよ。なにかあったとき傷つくのはミズキさんなんだからね」
「だから違うって言ってんだろ!」
否定していると化粧室の扉が開いた。ちょっと首を傾げてから席に戻る。
「どうかされたんですか」
怪訝そうな顔の瑞貴に、洸は慌てて言い繕う。
「ああ、すみません。なんでもないんです。そろそろ帰りましょう。もう十時です。母ちゃん、お会計お願い」
「あら、もう少しゆっくりしていけば? あなた明日はお休みでしょ」
にんまりと笑みを浮かべて光江は言う。それから瑞貴を見た。
「なんのアドバイスもできなくてごめんなさい。でも、もしかしたらこれから有力な手掛かりが見つかるかもしれないし、もうしばらく探してみたらいかがですか?」
「できればそうしたいですけど、ご迷惑にならないでしょうか」
「迷惑って洸の? 大丈夫。この子が自分から言い出したんだから、ミズキさんは気にしなくていいんです。もしもミズキさんが洸の家に居づらいんなら私の家に泊めてあげてもいいんだけど、あいにく今ちょっと散らかっていて」
「そういえば窓はどうなったの」
渋い顔で会話を聞いていた洸が口を挟む。光江は軽く眉をあげた。
「ああ、そうそう。今日のうちに業者さんに来てもらって直してもらったわ。昨日の夜は茉莉子ちゃんのおかげで野宿しないですんだし、結果よければすべてよしって感じ」
「茉莉子さんは元気?」
「ええ。もう安定期に入って、家事も普通にできるようになったわよ」
そこまで言うと、光江は瑞貴を見た。
「茉莉子ちゃんは前にここで働いてた子で、去年結婚して辞めたあとも連絡を取り合って、家を行き来したりしてるんです。一時期、うちに住んでたこともありました」
光江の言葉に、洸は遠い眼をする。
「俺がまだ、いたいけな中学生の頃だったっけ。思えばずいぶん長い付き合いになったもんだ。茉莉子さんが悪阻で寝込んでたときも母ちゃんが世話しに行ったりしてたし。あんなどぎついコギャルだった茉莉子さんがもうじき母親になるだなんて、なんだか感慨深い」
「コギャルって、ずいぶん昔の話でしょ。この店にいるときは明るくテキパキ働いて、すごく評判良かったのよ。いなくなったのは正直痛いわ。今週末も予約がまあまあ入ってるし、これから年末にかけての忘年会シーズンを一人で切り盛りするなんて……」
そこまで言って、光江はふと口を噤む。それから瑞貴に微笑みかけた。
「ねえ、ミズキさん。ここで働いてみない?」
洸と瑞貴はきょとんと光江を見た。先に反応したのは洸のほうだった。
「なんでそうなるわけ? 普通に求人出せばいいじゃん」
「近々出そうとは思ってたのよ。でも、もしミズキさんが良ければどうかなって。そうね、とりあえずは一番混み合う週末の夜の七時くらいから九時くらいまででもいいわ。時給はそんなによくないかも知れないけど」
「いきなり具体的な話を始めるなよ。ほら、ミズキさんも困って……」
「私に働けるでしょうか」
隣席から飛び出した質問に、洸は驚いてかえりみる。瑞貴は真剣な表情だった。
「あなたならきっと大丈夫。お料理はできる?」
「できるよ、朝も旨い野菜スープを作ってくれたし……って、そういうことじゃなくて。ミズキさん、断ってもいいんですよ」
「ずっと気になってたんです。フチベさんのお金を勝手に使ってたこと」
洸の言葉を遮るように瑞貴は言った。
「返す当てもないのに、ここまでの交通費とか、他にもいろいろ使ってしまって、もしもフチベさんに会えたとしても泥棒みたいでちょっと厭だなって、そう思ってました。私にできる仕事があるなら、ぜひやってみたいです」
生真面目なミズキらしい、と洸はため息を吐いた。
「じゃあ決まりね。そうしたら、今度の木曜日からどうかしら」
「はい。よろしくお願いします」
「色々説明することがあるから、初日の木曜日は五時くらいに来てもらえる?」
「わかりました」
みるみる話がまとまっていくのを、洸はただ口を開けて眺めているしかなかった。
「なんだかすみませんね。フチベさんの件を相談しに行ったはずが、妙なことになって」
二十三時を過ぎても人通りの絶えない夜道を連れ立って歩きながら洸は言った。瑞貴は首を振る。
「こちらこそごめんなさい。清水さんに断わりもなく、勝手に決めて」
遠慮がちに瑞貴は言った。その場の雰囲気に押されて了承してしまったけれど、洸はあまり乗り気ではなさそうだった。もしかしたら断るべきだったのだろうか、と洸をちらりと見る。洸と目が合った。気分を害しているというより、案じるような目だった。
「僕に断わる必要は全くないですけど、母に気を遣って無理に決めたんだとしたら……」
「無理にじゃありません。手際よく働いている光江さんがとても素敵だったし、お金の件もあるし。それにあそこで働いたら、お料理の腕も上達するかなって思って」
洸はちょっと笑った。
「ミズキさんはじゅうぶん料理上手ですよ。そういうことなら、しばらく母を手伝ってあげてください。厭になったら僕に気兼ねなくやめていいですし、そうこうしている間に、フチベ氏の手掛かりが見つかる可能性もありますし」
そう言うと歩きながら伸びをした。
「木曜日の夜からってことは、明日はゆっくりできますね。ちょうど僕も休みなので一緒に出掛けましょう。しばらくここに住むんなら、必要な物もあるでしょうし」
なんだか小説に出てくるデートみたい、と思ったけれど、瑞貴は口には出さなかった。かわりに黙って微笑んだ。