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EXPLODE  作者: 綾稲 ふじ子
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EXPLODE


蒼海は母の後を追って冷えた廊下を歩きながら、窓の外に目をやった。

三メートル近い壁に覆われているので、目に入るのは篠突く雨に打たれる庭木だけだ。

昼過ぎに島に着いたときには曇天だったが、これから週末にかけて台風が発生するという。この雨はその影響だろうか、と思った。

 強風を防ぐために高い壁を築いたということになっていて、それはあながち嘘でもない。山の上にあるこの集落は、冬になると嵐のように強風が吹きつける。

ただし理由はそれだけではない。自分たちに対する無用の詮索を避けるためだというのは、ここに住む誰もが知っている。

 正一が療養している部屋に着くと、瑠衣子が静かに扉を開けた。視線で促され、蒼海は入室した。八畳ほどの日本間の空気は暖められ、絶望的なまでに死の気配が漂っている。

枕元に正座していた父の恭一が顔を上げた。正一が病を得て間もなくサカヤを継いで、この集落の長となったが、それによって特段変わったところはない。もともと感情を顔に表わすことのない質だ。

「座りなさい」

 蒼海は正一の足元に正座した。最後に帰省したのは八月の半ばで、ほんの一か月しか経っていないのに、驚くほど痩せた。目と口を薄く開いている様は死に顔を連想させる。

「あおみ……」

 そんなことを考えていたから、胃を病んだ者特有の臭いとともに洩れたかすかな囁きに、蒼海は後ろめたくなる。

「はい。さきほど戻りました。お加減はいかがですか」

「お前に、話がある」

 蒼海の言葉が聞こえたのか否か、正一はぽつぽつと話し始めた。

 それは瑞貴の両親のことだった。

要約すると、瑞貴の母は島の外から来た淵辺龍之介という男に誑かされ、ここを出て行こうとした。そのため神の怒りに触れ、男ともども命を落とした。そういう話だった。

苦しい息の下、訥々と話す祖父を、蒼海は無言で眺めていた。

 瑞貴の母親が亡くなったのは蒼海が生まれる少し前だ。瑞貴にしても一歳になったばかりだったので、記憶はないだろう。

瑞貴の親について話そうとする者は誰ひとりおらず、尋ねても何かを憚るように口ごもる。年齢を重ねるにつれて、その何かが神であることに気付いた。

瑞貴の母親は掟を破り、神罰によって亡くなった。誰もがそう思っている。

神の意に添わないことをすれば必ず不幸が訪れる。そして死んだあとは、神のいる国に行くことを許されない。この地に住む者はそれを畏れている。

ここでは神罰の存在が当たり前に信じられている。クロ宗を抜けようとしたり、禁忌を犯したために大怪我をしたり命を落とすなどの不幸に見舞われた者が何名もいたと、連綿と言い伝えられてきた。

子どものころは蒼海もそんなものかと思っていたけれど、今は違う。

 瑞貴のこともそうだ。歴史上の人物である天草四郎の血を引いているなど、普通であれば一笑に付される可能性が高い。それでも集落の人間はそう信じて疑わない。信じるがゆえに瑞貴を閉じ込めるようにして育て、いずれ自分に添わせようとしている。

「蒼海。お前は恭一の次にサカヤを継ぐ者だ。瑞貴を娶って、子を為せ。数は多ければ多いほどいい。そしてこの集落を守ってくれ。いいな」

 深刻な空気にあって、蒼海はどこか冷めていた。

耳にしたばかりの話やこの状況を、時代錯誤で滑稽にすら感じた。血の繋がった祖父の死の床にあってこんなふうに感じる自分はきっと、薄情で冷淡な人間なのだろう、とも思った。

 瑞貴を嫌いではないし、恋人がいるわけでもない。淡い気持ちを抱く相手はいるが、頭の片隅にこびりついた自分の役割が関係を進展させることを躊躇わせ、断念させた。

 クロ宗の掟では離婚は許されない。馬鹿馬鹿しいと思いながらも因習にとらわれる自分は結局この集落の人間で、いずれ皆が望むように瑞貴と夫婦になり、一生添い遂げる。

 このままで行けば。

 でも、もしも違う道があるとしたら?

 何度か考え、そのたびに打ち消したある考えが頭をよぎって、蒼海は両膝の上で軽く握っていた手のひらに力がこもるのを感じた。

 正一が息を引き取ったのはそれから間もなく、夕刻に入ってすぐのことだった。


 葬儀は速やかに行われた。九月の末とはいえ、まだ気温はそこそこあって、時間が経つほど遺体が傷んでしまう。長患いしていたこともあり、家族を始めとする周囲の人間はある程度心の準備がついていたし、葬儀場や火葬場も運よく空きがあった。

亡くなった日の深夜、サカヤである恭一がミサを立て、集落の者全員が参列し、祈りを捧げた。瑞貴はもちろん、剃刀役の誠志もそれを手伝い、ミサはつつがなく行われた。

クロ宗の葬儀はカトリックで病者の塗油と呼ばれる儀式をもとに、死者の髪を少し剃り、身体を水で洗うところから始まる。洗礼の儀式を人目に付かぬ早朝四時頃から行うように、葬儀も夜更けに信者を集め、ミサを行う。その翌日に仏式の葬儀を大々的に行う。

二重の葬式はクロ宗だけのものではない。長崎の隠れキリシタンも仏式の葬儀で僧侶が唱えた経文の効力を消すための祈りを捧げたのち、キリスト教の葬儀を密かに行っていた。そうしないと神の国へ行けないと信じたからだ。

日が明けると、その日のうちに、葬儀場で仏式の葬儀が行われた。クロ宗の信徒は皆、表向きは浄土真宗の門徒でもある。

葬儀場には正一のかつての教え子や知己が多く訪れ、別れを惜しんだ。

 小雨のぱらつくなか告別式を終え、荼毘に付された正一とともに一行が帰宅したのは、二十四日の夕刻だ。

集落の者以外と顔を合わせられない瑞貴は、一般の参列者の訪れる葬儀場での式には参列できない。静まり返った家に取り残された瑞貴は、簡単な昼食をすませたあと、普段は足を踏み入れることない別宅に行ってみようと思い立った。実の祖父のように慈しんでくれた正一との思い出が染みついた家に、一人きりでいるのに耐えられなくなったのだ。

 かつて母親の聖恵が住んでいたという別宅は、坂道を上ってすぐのところにある。

 平屋でこじんまりとしているけれど2LDKで、風呂場やトイレもついた、れっきとした一軒家だ。

開け閉めするたびに軋む玄関扉の鍵は、大倉家の祭壇の裏に掛けてある。家族なら誰でもこの別宅に入れるのに、訪れる者はほとんどない。瑠衣子がたまに掃除に入るくらいで、埃や蜘蛛の巣を簡単に払うと、そそくさと帰ってくる。

大倉家の人間はこの別宅を避けている。瑞貴もここに来ることはほとんどない。

忌むとはまでは言わないまでも、聖恵が話題に上がることもほぼない。母の死因が理由であると瑞貴は薄々感じていた。

母は島の外から来た男に騙され、身体を許して身籠った。そして島を出て行こうとし、それを怒った神によって罰せられて早逝した。

三年前に肺炎で亡くなった正一の妻、すみ江が高熱でせん妄状態になったとき、断片的に口走った言葉から、そう推測している。逆に言えば三年前まで自分の両親について何も知らなかった。唯一はっきりしているのは、物心つく前に母が亡くなっていることだけだ。

父は名前はおろか、その存在すら不確かだ。恭一や瑠衣子に尋ねれば教えてくれるかもしれないけれど、家族同様だからこそ訊けないこともある。

 大倉家の人間だけではなく、この集落の住人は、瑞貴の両親について何も話さない。

 まるで、口にすることで自分たちまで神に罰せられると信じているかのように。

 母亡き後は大倉家に引き取られ、大切に育てられたので、寂しさを感じたことはない。瑞貴にとっての世界は、この家の中だけで完結する。

 瑞貴はカーテンを開き、微かに黴臭い居間を昼下がりの鈍い光で満たした。ブレーカを落としてあるので、電気は使えない。

 二十年近く閉ざされている空間にいると、時間の流れがわからなくなる。

このまま母が生きていた頃まで巻き戻ればいいのに、と瑞貴は思った。

 本当は心の隅にいつも引っかかっている。どうして母は外から来た男に騙されてしまったのか、その男はどんな人間だったのか知りたい。

そして外から来たというその男がもしも生きているのなら、探し出して訊いてみたい。

どうして母を島から連れ出そうとしたのか、母のことをどう思っていたのか、自分が生まれたとき何を感じたのか。

蒼海にすら打ち明けられないけれど、ずっとそう思っている。

 室内に響く雨音に耳を澄ましているうちに睡魔が忍び寄ってきた。

 ここ最近は正一の看病の手伝いや、その後の葬儀のあれこれで、あまりよく眠れていなかった。瑞貴はすっかり色の褪せた畳に身を横たえた。

ほんの少し目を閉じるだけ。

そう思ったのはうっすら覚えている。そのまま瑞貴は眠りに落ちた。


 まどろみから呼び覚ましたのは、聞き慣れた声だった。

「どうしたの? 大丈夫? 起きて。風邪ひくよ」

 無造作に肩をゆさゆさ揺さぶられ、瑞貴は薄く目を開いた。確かに全身が冷えている。夕刻に入る少し前のようで、室内はまだ明るい。身を屈めて覗き込む整った顔を認めて、一気に目が覚めた。

「蒼海くん。なんでここにいるの」

 喪服姿でいつもより大人びて見える蒼海は、眉を開いた。

「なんでって。瑞貴ちゃんの姿が見当たらなかったから探したんだよ。まさかと思ってここに来たらカーテンが開いてて、いるってわかった。どうしてこんなところで寝てるの」

瑞貴は半身を起こした。やわらかく曲げた両膝に顎を乗せ、腕で下肢を抱え込みながら応える。

「一人で家にいたくなくて、なんとなく来てみたの。気が付いたら寝てた。……お葬式はどうだった?」

 昔からそうだ、と蒼海は苦笑した。瑞貴はどんな場所でも、呆れるくらいによく眠る。蒼海は瑞貴のそばに腰を下ろしてネクタイを緩めた。

「無事に終わった。なんだか変な感じだ。じいさんが亡くなったって、実感が湧かない。二日前まではなんとか話せてたのに、今はもういないなんて」

「私も同じ。覚悟はしてたけど、おじい様がもういないなんて信じられない」

 応じたあと、瑞貴は首だけ動かして蒼海を見た。

「そういえば話ってなんだったの」

 蒼海は小首を傾げて瑞貴を見返した。

「話?」

「帰ってきてすぐ、おじい様に呼ばれてたでしょ」

「ああ……」

 ため息まじりに声を洩らすと、蒼海は瑞貴から一瞬だけ目を逸らした。瑞貴の両親の話を口にするのは躊躇われた。

生まれたときから一緒にいたのに、そのことについて話したことはない。子どもの時分はとくに気にならなかったし、成長したあとは気安く言えないことだと雰囲気から察していた。

瑞貴も、自分から尋ねたりはしなかった。彼女なりに何か感じるものがあるのだろうと蒼海は思っていた。

「瑞貴ちゃんと子どもをたくさん作って、一緒にこの集落を守ってくれって言われた」

 間を置いて返ってきた答えに、瑞貴は小さく息を呑んだ。それを望まれているのはずっと感じていたけれど、あらためて言葉にされると妙な気分になった。

 進むべき未来を辿るだけなのに、言い表せない戸惑いがある。子どもを作るためになにをするのかは、さすがに知っている。急に、蒼海と密室に二人きりでいることを意識させられた。微妙な空気を破るように、蒼海は少し笑ってみせた。

「そんな顔しないで。なにも今すぐってわけじゃない。少なくとも大学を卒業するまでは、待ってもらうつもりだから」

「うん……」

 浮かない顔で鈍く応じる瑞貴を前にして、蒼海の笑みが苦笑に代わる。

「瑞貴ちゃんは厭?」

 端的に訊かれ、瑞貴はぶるぶる首を振った。

「そんなことない。いつかそうなるのはわかってるし、蒼海くんと結婚したくないわけじゃないよ。だけど……」

「だけど?」

 瑞貴は少し逡巡してから言葉を継いだ。

「だけど、一度くらい外の世界を見てみたかったなあって、ちょっと思っただけ。今だって無理なのに、結婚して子どもができたら、絶対に出来なくなるんだろうなって」

益田の人間は終生この地で暮らし、生まれた子は地域ぐるみで庇護されて育つ。

適齢になればつりあいのとれた相手と結ばれ、また子を為す。その繰り返しだ。自分もその輪の中に組み込まれていく。脈々と継がれた伝統を破ることなど思いもよらない。

だけどどうしても夢想してしまう。テレビや紙面越しに眺めるだけの世界を、この目で実際に見てみたい。心の奥に押し込めている欲求が叶う日など来ないと知っていても、それを拭い去ることがどうしてもできない。

「じゃあさ。島を出てみる?」

 思いがけない返答に、瑞貴は目を瞬かせて蒼海を見た。

「ええ? だってそんなの無理だよね?」

「無理じゃないよ、たぶん。瑞貴ちゃんが島を出てみたいって何度か言ってたでしょ。だから、しばらく考えてたんだ」

 瑞貴は眉を寄せた。

「無理だよ。伯父様がそんなこと許すと思う? 伯父様だけじゃない。みんな反対する。なんて言って説得するつもりなの」

「説得はしない。誰にも内緒で島を出る」

 咄嗟に言葉が出ず、瑞貴はぽかんと口を開いた。蒼海は話を続ける。

「うまく行くかはわからないけど、車の後部座席に瑞貴ちゃんを隠してフェリーに乗れば、島から出してあげられるんじゃないかって思いついた。試してみる価値はあると思う」

 瑞貴は唖然とした。蒼海の申し出はもちろん、あまりに単純で大胆な方法にも意表を突かれた。

大学受験を終えてすぐに蒼海は免許を取り、卒業祝い兼入学祝いとして車を買ってもらった。瑞貴も何度か助手席に乗せてもらって近隣をドライブしたことがある。

島での生活に車は欠かせない。蒼海は鹿児島にもその車を持って行き、まめに乗り回しているようだった。今回も愛車とともに帰省している。

「明日鹿児島に戻るとき瑞貴ちゃんは車の後部座席に隠れて、そのままフェリーに乗る。ここから鹿児島に着くまでずっとだから、四時間くらい車の中に閉じ込められることになるけどね。七時四十五分のフェリーで鹿児島まで行って、半日観光して、十六時四十分に串木野港を出るフェリーで島に戻ってくる。月曜の授業は午後からだから朝いちで帰れば充分間に合うし」

 淀みなく具体案を述べる蒼海を、瑞貴はようやく遮った。

「ねぇちょっと待って。隠れて乗るって、そんなことして大丈夫なの?」

 世の中と隔絶した生活を送っていても、一般常識はわきまえている。新聞は隅々まで目を通すし、一緒に暮らしている大倉家の人間も真っ当な感覚を持ち合わせた常識人だ。

「見つかったら完全にアウト。神様から罰を受ける以前に警察沙汰」

 どんどん大ごとになる話に、瑞貴は困惑する。

「それなら私も普通に乗ればいいんじゃない? 蒼海くんに乗船料を払ってもらうことになるから、それは申し訳ないとは思うけど。捕まるよりマシでしょ」

 蒼海は苦笑した。

「お金を惜しんでるわけじゃない。バイトしてるし、そのくらいは払えるよ。人目に付かずに島を出る方法を考えたら、結果的に無賃乗船になっただけ。色々リスクはあるけど、それさえ覚悟してもらえれば……」

「蒼海くん。本気? そんなことできるって、本気で思ってるの」

「思ってる」

 短く応じると、蒼海は瑞貴の目を覗きこんだ。

「僕らを含め、ここの人間は、瑞貴ちゃんをここから出すと、なにか良くないことが起こるって信じ込んでる。本当はそんなことないのかもしれないのに。それに罰が当たるとしても瑞貴ちゃんにじゃない。言い出した僕にだ」

 言いながら蒼海は、祖父の話を思い出していた。

 瑞貴の母は男に誑かされ、島を出て行こうとして神罰を受けた。そう言っていた。それが本当なら自分だけでなく、誑かされた瑞貴も命を落とすのかもしれない。

 だけど、もしもそうじゃないとしたら、自分も瑞貴も違う道が選べるかもしれない。

 先祖代々守ってきた信仰を軽んじるつもりはないけれど、瑞貴を連れ出しても何事もなければ、神罰など存在しないと証明できる。

 考え込むように目を伏せる瑞貴に、蒼海は笑いかけた。

「明日じゃなくても、そのうち気が向いたら試してみない? そんなに難しく考える必要はないよ、ただの日帰り旅行なんだから。帰ってきたら大目玉を喰らうだろうけど、もちろん僕も一緒に叱られる。心配しなくていい」

 あえて軽い口調で言う蒼海に、瑞貴は渋面になる。

「無茶言わないでよ。難しく考えるに決まってるじゃない」

「瑞貴ちゃん。鎖に繋がれたゾウの話って知ってる?」

 唐突に話を変える蒼海に少し苛立ちながら、瑞貴は首を振った。

「前に何かで読んだんだけど。小さい頃から杭と鎖で脚を繋がれていたゾウは、成長しても杭を引き抜いて逃げたりしない。そんなの不可能って思いこんで、試そうともしない。瑞貴ちゃんも同じだね」

「なにそれ。全然違うでしょ」

 憮然と応じる瑞貴に、蒼海はちょっと笑んだ。

「島から出てみたいって自分から言って、現実になりそうになったら尻込みしてるのに?」

 そう言うと、立ち上がる。

「先に家に戻るね。瑞貴ちゃんも早く帰ってきたほうがいい。ここは冷える」

 瑞貴の返答を待たず、蒼海は出て行った。取り残された瑞貴は蒼海を追いかけようとしてやめた。今なにか言うと口論になる。

 瑞貴は立ち上がり、苛々と室内を歩き回った。感情が波打っているのは、蒼海の言葉の正しさを悟っているからだ。

 確かに自分は尻込みしている。蒼海の助けがあれば外の世界に出られるのに、言い様のない不安が湧きあがってきた。ゾウのように鎖で繋がれているわけじゃないのに、この場を離れることができない。

 母の気持ちを知りたいと切実に思った。

ここを捨てる決断するまでには様々な葛藤や恐れがあっただろう。なにがそれを跳ね除けたのかが気になった。

このままタイムスリップでもしてくれれば、と非現実的なことを考えて、日記や手紙など、なにか気持ちを書き残したものがあるのではないかと思いつく。

瑞貴は引き出しや戸棚を片っ端から開け、それらしき物がないか探り始めた。

母について積極的に調べようと思ったのは初めてだった。ずっと気になってはいたものの、大倉家に対する気兼ねもあったし、ほとんど禁忌になっている母に迂闊に触れることを避けていた。

母を恋しいとは思わない。いないのが当たり前だからだ。ただ知りたい。何を考えて、どうしてそういう選択をしたのかを。

目当てのものは見当たらなかった。代わりに収納庫の奥深くから桜色のショルダーバッグを発見した。見るからに真新しいショルダーバッグの中身は、封筒に入った一センチほど厚みのある札束とキャッシュカードだった。

瑞貴は札束を封筒から取り出し、ぱらぱらめくってみる。全て新札の一万円札だった。金銭感覚には自信がないけれど、これが尋常でない額だというのはわかる。

日の落ちかけた薄暗い室内でキャッシュカードに目を凝らす。表面にフチベ リュウノスケと記されていた。初めて目にする名前だった。誰だかわからないけれど、この集落の人間でないことだけは確かだ。

 札束の持ち主なのだろうか、と瑞貴は思った。それが誰なのか、どうしてこんなところに、隠すようにしまわれていたのかは見当もつかない。

「なんなの、これ。フチベ リュウノスケさんって誰?」

 無意識に呟いて、ふいに閃いた。もしかしたら自分の父親なのかもしれない。母が住んでいた場所に残されていたのだ。そう考えるのが自然な気がする。

 ここから出て行くよう母をそそのかした男。それが父について瑞貴の知る全てだった。

生きているのか死んでいるのかすらわからない、本当に存在するのかすら不確かだった存在が一気に現実のものになった気がして、心臓が大きく脈打った。

 突拍子もない蒼海の提案を脳内で反芻する。たとえば外の世界に行けば、この人の消息を辿ることができるのだろうか。探す手立ては今のところひとつも思いつかないし、なんの当てもない。それでも、ここにいるよりずっと可能性がある。

 しばらく沈思し、瑞貴は札束とキャッシュカードをショルダーバッグに戻した。それからバッグを上着の内側に忍ばせて家へ戻った。

 玄関を開けて瑠衣子と行き会ったときは口から心臓が飛び出そうになったけれど、なに食わぬ顔を保つことになんとか成功した。

 一人でここにいたくなかったから、この辺りをあてもなく散策していた、という瑞貴を、瑠衣子はなにも疑わなかった。

 良心の呵責に苛まれながら、瑞貴は蒼海の両親の寝室と蒼海の部屋に挟まれた自室に戻る。真っ先にショルダーバッグをベッドに隠してひと息ついた。そのままずるずると床に座り込む。ひどく疲れていた。そのくせ頭の中では様々な考えが目まぐるしく巡っている。

「瑞貴ちゃん、夕飯だよ……って、なんでこんな真っ暗なの。寝てるの?」

 ノックの数秒後、廊下の灯りとともに入ってきた蒼海に尋ねられ、瑞貴は室内が真っ暗なことに気付いた。そんなことも気にならないほど熟考していた。

「起きてる。ねえ、蒼海くん。さっきの話、本当に本気?」

 ドアの閉まる音と同時に室内は再び暗くなる。

「本気。明日の朝ここを出て、夜までに帰ってくる。瑞貴ちゃんにその気があればね」

 暗闇の中で、蒼海の声が静かに響く。瑞貴は囁き声で問いを重ねた。

「なんで急にそんなこと言い出したの」

 考えるような沈黙が数秒続いた。

「自分でもよくわからない。たぶん証明したいんだと思う。瑞貴ちゃんがここを出たって悪いことなんかなにも起こらないって」

「起こらないと思う?」

 問いを重ねられ、蒼海はもう一度沈黙する。焦れた瑞貴が口を開こうとしたとき、ようやく答えが返ってきた。

「起こらないといいなとは思う」

 シンプルな返答に、瑞貴は呆れた。

「そんな運任せな感じなんだ」

 蒼海は小さく笑ってから、おっとりと応じた。

「たしかに運任せだけど、試す価値はあるんじゃない? うまくいけば、瑞貴ちゃんはこれから自由に外に出られるようになる。うまく行かなかったら、そのときはそのとき」

 瑞貴も思わず笑ってしまった。深刻に考えすぎている自分が馬鹿らしく思えてくる。

 思い立ったら吉日という言葉が脳裏をかすめる。ずっと外の世界を見てみたいと思っていた。秘めていたその願いを叶えるのは今なのかもしれない。そう思った。

「明日、何時ごろここを出る?」

 自然と口をついた言葉に、瑞貴は自分の気持ちが固まったことを知った。


 夕食でどんな話をしたのか、何を食べたのか覚えていない。普通に箸を使って食べられたのかも定かではない。機械的に手と口を動かし、いつも通り食器を洗う瑠衣子を手伝って瑞貴は部屋に戻った。風呂を使って寝間着に着替えてから、明日の支度に取りかかる。

 一番気に入っているベージュのロングカーディガンと、生成りのワンピースとソックスを枕元に置く。それで終わりだった。島から出るというのに、いつもと全く変わらない。遠出は初めてなので、なにを持って行けばいいのかよくわからない。

ふと思いついてベッドのふちに腰掛け、隠したショルダーバッグを手探りで取り出す。

中身を取り出してよく眺めてみる。封筒の下部に大手出版社の名前と住所、それから電話番号が印字されているのに気が付いた。

札束を数えてみる。ちょうど百枚あった。封筒に戻しながら瑞貴は唸った。

「フチベ リュウノスケさんって何者? この出版社に勤めてるとか?」

 独り言を終える前に、瑞貴は目を見開いた。

 計画通りに島を出られたら、その足で出版社のある東京まで行って、この人を探し出せるかもしれない。鹿児島も東京も同じくらいに未知の世界で、瑞貴にとって大差はない。島の中と外。ただそれだけの違いしかない。

 鹿児島から東京まで、どのくらいお金がかかるのかはわからないが、幸いここに大金がある。無断借用するのは気が引けるけれど、予想が正しければこのお金はこれから会いに行く人のものだ。会えたら勝手に使ったことを謝って、どうすればいいか訊けばいい。

 反射的に立ち上がり、蒼海の部屋に行こうとして、瑞貴は足を止めた。このことを話していいものか迷いが生じたのだ。

蒼海にはほぼなんでも話してきたのに、自分の両親の話はしたことはない。神罰が存在するなら話すことによって蒼海を巻き込むことにならないか、それが心配だった。

たったいま思いついたことを蒼海に話して協力を求めれば、蒼海も同罪になってしまうかもしれない。罰が当たるのなら自分にだけでいい。

立ち尽くして考え込んでいた瑞貴は、控えめにドアをノックする音で飛び上がりそうになった。

「もう寝た?」

 扉越しの蒼海の声に、瑞貴は慌ててショルダーバックをベッドに押し込んだ。壁時計を一瞥する。じきに深夜零時に差し掛かるところだった。蒼海の両親は床に就いたらしく、家中しんと静まり返っている。

「どうしたの、こんな夜中に」

 扉を開けると、冬用の布団を抱えた蒼海が立っていた。足元にはセーターやマフラーなどの押し込まれた紙袋が置かれている。

「遅くにごめん。明日あっちに帰るとき持って行こうと思って、今まで準備してたんだ。出がけにバタバタしなくていいように、今のうちに車に積み込んでおきたいんだけど、手を貸してもらえないかな」

「そっか、もう寒くなるもんね。いいよ」

 瑞貴は平静を装って紙袋を手に取り、すたすた玄関へ向かう蒼海を追う。

 外に出ると生ぬるい風を感じた。直撃すると思われていた台風の進路は甑島を逸れて、本州に向かっている。この風は台風の置き土産か、と思いながら、瑞貴は蒼海とガレージに向かう。強風や暴雨に見舞われがちな島の気候を遮るため、プレハブのガレージは施錠もできる扉付きだ。瑞貴以外の全員が運転するので、人数分の三台収められている。正一は病を得た少しあと、車を処分していた。

「明日の朝まで確定ではないけど、フェリーはいつも通り運行されると思う。昨日も今日も大丈夫だったし、明日も天気は悪くなさそうだからね。台風の影響がなくて良かった」

 ガレージの灯りをつけて扉を静かに閉めてから、蒼海は小声で言った。瑞貴は無言で蒼海を見た。

「瑞貴ちゃん。気は変わってない?」

 それを確認するために連れて来たのだと瑞貴は悟った。

 さっきまで考えていたことを口にしようか躊躇い、代わりに頷いた。

 蒼海はちょっと微笑んだ。

「寝坊しないで」

「蒼海くんこそ」

 瑞貴も少し笑んだ。共犯者の笑みを交わしながら、心の中で蒼海に詫びた。

 ごめんね。私は明日、蒼海くんの前から消える。ほんの数時間前まで考えもしなかったけど、一人で東京に行くことにした。

 声に出来なかった言葉が、自分の気持ちを明確にする。

 両親がどんな人間か知りたいというごく自然な欲求に、ずっと蓋をして、押し込め続けてきた。ようやくそれを明らかにできる機会が訪れた。

 部屋に戻って布団に潜り込んでも、眠気は一向に訪れない。不眠とは無縁な瑞貴にとっては、あるまじきことだ。結局、一睡もしないまま朝を迎えた。


 朝六時に全員揃って食事を摂っているときが緊張の最高潮だった。

心の中を見透かされている気がして、瑞貴は早々に箸をおいた。水分もあまり摂らなかった。移動中、トイレに行きたくなったら困る。

「あら? もういいの」

 不思議そうな瑠衣子に曖昧に笑いかけ、使った食器を洗う。蒼海は素知らぬ顔でテレビを眺めていた。甑島を避けた台風は和歌山の沿岸部を通過中で、飛行機や列車などの交通網に影響が出ている、というニュースの耳の端に乗せながら部屋を出て、トイレをすませ、洗面所で歯を磨いて自室に戻る。ショルダーバッグを肩にかけ、その上からロングカーディガンを羽織ってバッグを隠す。それで仕度は終わりだった。

 そっと家を出てガレージの裏に隠れる。いつもならそろそろ恭一が出勤する時間だが、幸い今日は日曜だ。ここに来ることはないだろう。とはいえ蒼海以外の誰かが来る可能性は捨てきれない。十分ほどしてガレージの扉が開く音がしても身を潜めていた。

「瑞貴ちゃん? いる?」

 小声で呼びかけられ、ようやく瑞貴はガレージに忍び込んだ。

「怖気づいたかと思った」

 からかうように言われて頬をふくらます。

「なんで? ただの旅行でしょ」

「人生初のね。さっき確認したら、フェリーはいつも通りに運行するってさ」

 蒼海は後部座席のドアを開け、昨日積みこんだ冬用の布団を差し出した。

「これに包まって、足元で横になってみて」

 その言葉に従って瑞貴は車に乗り、布団を頭まですっぽり巻き付ける。その状態で足元に潜り込んで横たわってみると、狭いながらも意外に快適だった。

「息苦しくない?」

 蒼海は屈みこんで布団を整え、瑞貴が見えないよう衣類の入った紙袋を置きながら訊く。

「大丈夫。私、ちょっとクレオパトラっぽくない?」

「え? ああ、絨毯で包まれてカエサルのところに行ったからか」

 読書家の瑞貴らしい感想に苦笑し、蒼海はドアを閉める。それから運転席に乗り込んだ。

「それじゃあ出発しますよ、クレオパトラさん」

「安全運転でお願いね」

「了解しました」

 背後からのくもぐった声に蒼海は笑って、アクセルを踏んだ。


 長浜港に着いたのは七時を少し過ぎた頃だった。蒼海の運転は慎重で、急な山道や曲がりくねった道も滑らかだった。睡眠不足と布団の温かさも相まって、瑞貴はうとうとしてしまった。

「手続きしてくるから、そのまま動かないで待ってて」

 蒼海の声で、瑞貴は目を覚ました。

「……あれ? もう着いたの」

 一瞬の間を置いて返ってきたぼんやりした声に、蒼海は口元をほころばせた。

「寝てたんでしょ」

 図星を突かれて、瑞貴は布団の中で赤面した。こんな状況で眠れるなんて、いくらなんでも逞しすぎる。

「寝てない。ちょっと考え事してただけ」

「まあ、寝られるならそのほうがいいよ」

 即答する瑞貴を軽くいなして蒼海は車を降りた。エンジンが切れ、静かな車中に残された瑞貴は、そっと身体を伸ばしてみた。ほんの数十分の乗車なのに身体が凝っている。フェリーに積み込まれてしまえば、よっぽど激しく動いたり下車しない限り人目に触れることはないだろうと蒼海は言っていた。それまでの辛抱だ。

 もうじき島を出ると思うと不思議な気がした。

ここまで来るとまな板の上の鯉で、もはや不安は感じない。神罰が下って死ぬのなら、仕方がない。いつしかそう思い極めていた。それよりもフチベ リュウノスケをどうやって探すかのほうに意識が注がれている。

鹿児島に着いたら蒼海の隙をみて、一人で東京へと向かう。手がかりはあの封筒だけだ。短絡的にあの出版社に勤めていると想像したが、たまたま手元にあっただけかもしれない。だけど何かのとっかかりにはなるだろう。

ひと晩熟考した結果、東京までは新幹線で行くことにした。

鹿児島空港から飛行機で行くのが最短ルートと知ってはいるけれど、どうやって飛行機に乗ればいいのか見当もつかない。まだしも電車のほうがハードルが低そうだと判断した。

テレビや新聞の知識から、新幹線は鹿児島中央駅から出ていて、途中で乗り換えることは把握している。わからなかったら駅員に訊けば、きっとなんとかしてくれる。

 そこまで考えて瑞貴は苦笑した。自分がこんなに無鉄砲な人間とは思わなかった。

しばらくして、車のドアが開く音がした。

「受付してきた。時間ぎりぎりに乗船しよう。船室に閉じ込められる時間は短ければ短いほどいいでしょ」

 閉まる音と同時に聞こえた蒼海の声に安堵して、瑞貴はもそもそ寝返りを打った。

「ありがとう。乗るとき見つからないように頑張るね」

 蒼海はちょっと笑った。

「うん。頑張って、なるべく動かないようにして」

「大丈夫だと思う?」

 人目についたり神罰が下る可能性を考えて、瑞貴は尋ねた。蒼海はちょっと考えた。

「どうかな、わからない。でもきっと大丈夫。なるようになるさ」

 根拠のない楽天的な言葉に力が抜ける。

確かにそうだった。深刻に考えても仕方がない。蒼海の言うとおり、なるようにしかならないし、人間は必ずいつか死ぬ。

「そうだね」

 応じながら瑞貴は思った。フチベ リュウノスケは見つかるだろうか? 答えはすぐに出た。なるようにしかならない。

「鹿児島に着いたら、どこか行きたいところはある?」

 瑞貴は慎重に答えた。

「とくにないけど、せっかくなら都会っぽいところに行ってみたい」

「都会っぽいところ? どこだろう。島と比べれば、どこでも都会っぽいと思うけど……。天文館あたりがいいかなあ」

 考え込む蒼海に、瑞貴はさりげなく誘導する。

「そうだ。鹿児島中央駅の周辺はどう? 前にテレビで見たことあるけど、色々お店があるんでしょう?」

 瑞貴の言葉に、蒼海はぽんと手を打った。

「ああ、うん。確かに栄えてる。じゃあアミュプラザでもぶらぶらしようか」

「アミュプラザ?」

「鹿児島中央駅と直結してる駅ビル。あの中なら食べるところもたくさんあるし、洋服屋も雑貨屋も、都会っぽさもじゅうぶんある。あそこで昼飯を食べて、ちょっと店を眺めてから島に帰ろう。それから一緒に叱られよう」

 願ってもない提案だった。駅と直結しているなら、迷子になるリスクはぐんと減る。

そう思う一方、瑞貴は良心が痛むのを感じた。自分は今日、島には帰らない。こんなにあれこれ気を廻してくれる蒼海を残して、一人で東京に行ってしまう。

 打ち明けようか迷ったけれど、結局やめた。引き留められたら計画は無になるし、巻き込んでしまうのも気が引ける。

「そろそろ行くよ。じっとしててね」

 蒼海の言葉と同時にエンジンのかかる音がする。瑞貴は息さえ潜め、後部座席の足元で、布団の中で身を固くした。この旅が上手く行くよう、そしてもしも罰を受けるなら、それは自分にだけであるよう、神に祈った。


 祈りが通じたのか、船旅は万事順調だった。台風が抜けた海は凪いで、空は穏やかだ。

 乗船して蒼海が客室へ行ったあとは、ほとんど眠っていた。機械油の臭いが微かにする以外、居心地はそれほど悪くない。暑くも寒くもない季節だったのは幸運だった。

 瑞貴はうつらうつらしながら、とりとめもないことを考えていた。

どのくらい時間が過ぎたかわからなくなったころ車のドアが開き、目を覚ました。

「大丈夫?」

 気遣わしげな蒼海の声に、瑞貴はわずかに身じろぎした。

「大丈夫。私、いつまでこうしてればいい?」

 蒼海はエンジンを掛けながら応じた。

「あと少ししたら起きていいよ。港を出てすぐだと、人目に付くかもしれない」

「わかった」

 ずっと同じ体勢でいるのはしんどいけれど、終わりが見えていれば我慢できる。

 フェリーは予定通り十時四十五分に串木野港に上陸した。下船するときも見咎められることはなかった。

「もう大丈夫かな。お疲れさま、瑞貴ちゃん」

 しばらく車を走らせたあと、蒼海が言った。瑞貴はもぞもぞと起きあがる。布団を軽くたたんでから髪を手ぐしで整え、車窓の外を眺めた。高く澄んだ空がまず見えた。広々した道路と行き交う無数の車に目を奪われる。

 ここが島の外か、と思った。この先なにが起こるかわからないけれど、とにかくここまでは来られた。このまま東京まで辿りつけるかは神のみぞ知る、だ。

「すごいね。ずっと道が続いてて、車がたくさん走ってる」

 素朴な感想に、蒼海は笑みを浮かべた。

「三十分くらいで市街地に着くよ。そうしたら車の量はこんなもんじゃないし、人もたくさんいる。はぐれないように気を付けて」

「うん」

 素直に返事をしつつ、それなら蒼海をうまく巻けるだろうか、と瑞貴は思った。

 車は順調に流れて街中へ入っていく。窓の外に釘付けになっている瑞貴は、蒼海の言葉の正しさを知った。そこにはテレビの画面越しでしか見たことのなかった世界があった。

 立ち並ぶビルや色とりどりの看板、車のクラクションや様々なノイズに満ちた景色。そのなかを闊歩するこの人たちは、一体どこから来たのだろう、と感嘆する。ここにいる誰も私を知らない。そう思うとなんだかわくわくした。

 すれ違う市電を眺めていた瑞貴は、ふいにあるものを認めて声をあげた。

「ねえ! あれ観覧車っていうやつ?」

「そう。これから行くアミュプラザの屋上にあるんだよ」

 瑞貴は目を丸くする。

「屋上? 観覧車って遊園地にあるものじゃないの」

「そうだね、普通は遊園地にある。一回あれに乗ったことあるけど、桜島がよく見えた。乗りたい?」

「乗りたい!」

 反射的に答えてから、自分はまもなく消えることを思い出す。車を降りたらすぐ、蒼海から離れて駅に行く。そこで切符を買って電車に乗り、東京へと向かう。蒼海の協力は仰がない。イメージトレーニングは何度もした。あとは実行するだけだ。

「いいよ。とりあえずなにか食べてから乗ろう。駐車場、混んでないといいんだけど」

 瑞貴の密かな決意など知る由もない蒼海は、駅ビルの立体駐車場へ車を走らせていった。


 到着したのはじき十二時になるころだった。蒼海は入り口にいちばん近い駐車場を選んだ。日曜の昼過ぎという混み合いそうな時間帯に空きがあったのは幸いだった。

「ここに止められてよかった。さて、行くか」

 蒼海は手慣れた様子で駐車するとエンジンを切り、キーを廻す。

 整然と車の詰め込まれた薄暗い駐車場を物珍しそうに眺めていた瑞貴はカーディガンを脱ぎ、隠していたショルダーバッグを肩から外した。それからもう一度カーディガンを着て、ショルダーバッグを肩に掛ける。切符を買うときモタモタしないためだ。

「あれ? そのバッグどうしたの」

 運転席から振り向いて蒼海が尋ねた。

「もらったの」

 言葉少なに答え、瑞貴はドアに手を掛けた。本当は無断で拝借したものだけれど、それについて話すと、余計なことまで言ってしまいそうだ。。

「ふうん。いま着てる服に合ってていいね」

 特に気に留める様子もなく、蒼海もドアを開けた。普段は別に暮らしているし、瑞貴の持ち物などいちいち把握していない。

 車から降りた瑞貴は、どうやって駅に行けばいいのか考えた。今はまだ駄目だ。すぐに追いつかれてしまうし、勝手もわからない。とりあえず蒼海について行くことにした。

 ガラス張りの自動ドアから店内に入ると、食欲を刺激する香りがした。左手側に食事をする店があり、その前に白髪頭に白いスーツを着た等身大の人形が置かれていた。

「誰この人。なんでこんなところにこんなものがあるの?」

 素朴な質問に、隣を歩く蒼海は少し笑んだ。

「このお店を作ったカーネル・サンダースっていう人で、これは看板みたいなもの」

「ここでごはん食べるの?」

「それでもいいけど、せっかくなら本館の五階に行こう。いろんなレストランがあるし、そのまま六階に行けば観覧車に乗れる」

 そう言いながら蒼海はすたすた歩く。瑞貴はきょろきょろしながらついていく。右手側にまたガラス張りの自動ドアが現れたが、蒼海は歩みを止めずに先へ進む。

 進行方向にも自動ドアがあり、そこを抜けると外に出た。上を見上げると吹き抜けの天井になっていて、右手側には街並みと山が見えた。

「ねえ、あの山なんていうの?」

瑞貴の質問に、蒼海は立ち止まらずに答える。

「山っていうか、桜島。ここから近いんだよ。観覧車からだと、もっとよく見える」

「へえ、あれが……。ずいぶん近いんだね」

 何気なく振り返った瑞貴は、ふとあるものに気が付いた。

 一見太い柱に見えるガラス張りのこれは、きっとエレベーターというものだ。乗ったことはもちろんないけど、ドラマで見たことがある。

鳥かごのように黒い桟が張り巡らされて、乗り口と思しき部分の上には白地で上向きの矢印と『2F 鹿児島中央駅』と、くっきり書かれていた。

 ということはつまり、これに乗って二階に上がれば駅に行けるということなのだろう。

ちょうど扉が開き、前に並んでいた人たちが乗り込んでいく。瑞貴はごくりと唾を呑んだ。隙をみて蒼海から離れてこれに乗る。そうすれば駅に辿りつける。

「どうかした?」

 蒼海の怪訝そうな声に、瑞貴は立ち止まっていたことに気が付いた。誤魔化そうと慌てて辺りを見渡し、左手側の店に目を止める。広々とした造りのその店は服屋で、レイアウトも置かれている服や小物も、今までお目にかかったことのない洒落た雰囲気だ。

「ちょっとこのお店が気になって」

言い訳に使っただけだけど、視界に入る全てがまばゆくて、目が眩みそうだった。

瑞貴は憧れの眼差しでウィンドウ越しに店内を眺めた。

「すごいね、蒼海くん。お洋服がたくさんある。お店がキレイで店員さんも可愛い」

「中に入ってみる?」

 状況も忘れ、瑞貴は目を輝かせた。

「いいの? っていうか私、このお店に入っても大丈夫?」

「大丈夫ってなにが」

「私の格好おかしくない? あんな可愛い店員さんのそばに行っても大丈夫かな?」

 蒼海は吹き出した。

「大丈夫、おかしくない。それに店員さんは、お客さんの服装なんて気にしないと思うよ。よっぽどひどくなければね」

「ほんと?」

 瑞貴はおそるおそる店に入り、店頭に並べられたニットを手に取ってみた。柔らかな手触りと洗練されたデザインに、思わずうっとりしてしまう。値札を見ると一万二千円だった。高いのか安いのかよくわからないけれど、ショルダーバッグの中身で買える。なにしろ百万円あるのだ。そう思ってから、そもそもの目的を思い出した。

今すべきなのは可愛い服に興奮することではない。蒼海から離れて駅に向かうことだ。

蒼海のプラン通りに鹿児島を満喫して島に帰ったら、おそらくは大目玉を喰らい、外出は厳しく禁じられる。

神罰が下されて命を落とす可能性もある。そうなればフチベ リュウノスケについて知ることは二度とできなくなる。

「お取り込み中ごめん。ちょっとトイレ行きたいんだけど、瑞貴ちゃんも行く? ちょうど近くにあるし」

 いかに蒼海を巻くか考え込んでいた瑞貴は、当の本人から話しかけられて、その場で飛び上がりそうに驚いた。

「えっ、ううん、私はいいや。ここでお洋服を見てる。どうぞごゆっくり」

 動揺を隠して答えると、蒼海は言い含めるように言った。

「ここから絶対に動かないで。なるべくすぐに戻ってくるから」

頷きながら瑞貴は悟った。今がチャンスだ。これを逃したら一人になる機会はもう訪れないかもしれない。それに今ならエレベーターは目と鼻の先にある。

 蒼海は入ってきたのと反対方向の店の奥へ歩いて行った。その後ろ姿が視界から消えた瞬間、瑞貴はニットを元どおり丁寧に置いて、一目散にエレベーターへと駆け出した。

エレベーターに並ぶ人たちに紛れ込み、そっとうしろを振り返る。蒼海の姿はない。扉が開いた。瑞貴は迷わず乗りこんだ。

駅がどこかはすぐにわかった。乗っていた人のほとんどが向かう方角に、大きな緑色の看板に白地で『きっぷうりば』と書かれた建物があったからだ。

 電車に乗るには切符を買わなければならない。そのくらいは知っている。切符を売っているこの場所は駅に違いない。

 急ぎ足で建物に入ると『JR券のみを ご購入のお客様は みどりの窓口に お並び下さい』と書かれた立て看板があった。文字の下には赤い矢印が描かれている。

 指示に従って矢印の方向に向かった瑞貴は、そこに並ぶ人の数にぎょっとした。

 ざっと数えただけでも二十名以上はいる。ここに並んでいたら蒼海に見つかってしまうかもしれない。焦る瑞貴の目に、またしても立て看板が飛び込んできた。

『お急ぎのお客さまへ みどり色の自動券売機なら 操作が簡単・早くて便利 お待たせしません』

 行き届いたことだ、と瑞貴は感心した。今の自分は、まさにお急ぎのお客さまだ。

さっそく矢印の指し示す券売機へと向かう。券売機にも列ができていたけれど、さっきと比べれば全然マシだった。あとは切符を買って新幹線に乗るだけで、ゴールは間近だ。

 ようやく自分の番になり、瑞貴は券売機をまじまじ眺めた。

つるんとしたディスプレイに『きっぷの種類をお選びください』という文字と、指定席・自由席・おトクな切符・乗車券/入場券など、いくつかの項目が表示されていた。

 隣の人を横目で見ると、ディスプレイに触れて操作するようだった。

 切符を買うにはお金を払わなければならない。それはわかる。だけどどうやって払えばいいのかわからない。切符はもちろん、普通の買い物すらしたことがない。券売機を前に難しい顔で三十秒ほど考え込む。お手上げだった。

せっかくここまで辿りつけたのに、こんなところで躓くとは、と歯噛みしていると、背後から声がした。

「どうかしましたか」

 瑞貴は振り返り、後ろに並んでいた男性が話しかけてきたことを知った。

大きめのリュックサックを背負った男性は人懐っこい雰囲気で、蒼海より幾つか年上のように見えた。フードつきのパーカーにジーンズとスニーカーというカジュアルな服装なのにお洒落な雰囲気で、片手に紙袋をぶら下げていた。

「東京までの切符を買いたいんですけど、買い方がわからなくて」

 男性は軽く目を見開いた。

「あなたも東京までですか。僕もです。お互い長い旅ですね」

 それから小首を傾げた。

「良かったらお手伝いしましょうか」

 親切な申し出に、瑞貴は眉を開いた。

「ありがとうございます、助かります」

男性は口元に笑みを浮かべ、瑞貴の隣に並ぶ。身長差はそれほどない。百五十五センチの自分がほんの少し見上げる程度だから、百七十センチ前後だろう、と推測する。男性は瑞貴に代わってタッチパネルを操作し始めた。

「行先は東京でしたね。指定席ですか、自由席ですか」

 瑞貴は答えに詰まった。なにしろ切符を買うのは初めてだ。

「どう違うんですか」

「違い、ですか。そうですね。指定席だと必ず座れるけど、乗る便が決められてしまって少し高めです。自由席は座れない可能性もありますが、どの便に乗ってもよくて、席も自由です。値段も少し安めです」

 瑞貴は首を捻った。説明されてもよくわからない。

「あなたはどちらを買いますか?」

「僕ですか? 自由席です。始発駅だから指定しなくても座れるんじゃないかと踏んで」

「じゃあ私も自由席にします」

「えーと、そうすると二万八千七百円ですね。お支払いはカードと現金どちらで」

 瑞貴は急いでショルダーバッグから封筒を取り出した。バッグの中に入っているカードでも切符は買えるのだろうかと一瞬考え、現金のほうが難しくなさそうだと判断する。

「現金で」

 三枚出せば足りるはず、と瑞貴は封筒から中身を取り出す。おそらくはフチベ リュウノスケのものであろうお金を勝手に使うことに、罪悪感はもちろんある。

だけど会いに行くためには必要だ。会ったときに謝って、なんとか返済する。

紙幣の挿入口を指差し、見るともなしに瑞貴の手元を眺めていた男性は、ぎょっとした顔になった。そんなことには全く気付かず、瑞貴は真剣な面持ちで紙幣が券売機に飲み込まれていくところを眺めた。

まもなく切符二枚と領収書、それから紙幣が数枚吐き出され、小銭が音を立てて落ちてきた。釣銭を封筒に納めてバッグにしまい、切符を握りしめる。

 ようやく切符が買えた。ひと仕事終えた気分だけど、まだスタートラインに立ったばかりだ。これから新幹線に乗って東京まで出るという難関が待ち構えている。

「ありがとうございました。本当に助かりました。切符を買うのは初めてなので、どうすればいいか全然わからなくて」

 瑞貴は深く頭を下げて礼を言う。

「いえ、そんな。たいしたことはしていませんから」

 そう答える男性は優しそうだった。きっと親切な人なのだろう。そうでなければ手助けなんてしてくれない。そう思ってから閃いた。

 うまくいくかわからない。だけどダメもとで尋ねてみる価値はじゅうぶんある。

「あなたも東京まで行かれるんですよね」

「ええ。飛行機で帰るつもりだったんですけど、飛ばないというので、やむなく新幹線で」

渡りに船という言葉が瑞貴の頭をかすめる。図々しいのは百も承知で、問いを重ねた。

「でしたら、東京までご一緒してもよろしいですか」

 男性はちょっと目を見開いてから、もう一度頷く。瑞貴は微笑んだ。切符を買うだけで一苦労だったのだ。電車に乗って東京に向かう間にどれほどのハードルがあるか計り知れない。男性の助けがあれば、そのハードルはだいぶ減る。

「ちょっと待っててください。すぐに切符を買うので」

 男性の言葉に頷きながら、瑞貴は親切な人に出会えてよかった、と胸を撫で下ろした。


なにかがちぐはぐで不自然だ。それなのになぜ了承してしまったのだろう、と清水洸は券売機にクレジットカードを差し込みながら自問した。そして現代の日本に生きていて、一度も切符を買ったことがないなんてあり得るのだろうか、と考えた。

あり得なくはないだろう。洸自身、切符を買ったことはあまりない。Suicaを始めとする交通系ICカードがあれば、切符を買う必要はなくなる。

切符を買うだけで手間取っている人間が無事に東京まで辿りつけるのか心配になったのが決して短くない時間、行動を共にしてもいいと思った理由のひとつだ。

美容師という人と密に接する職に就いているし、もともと人見知りしない質でもある。

相手が女の子だったから、というのももちろんある。むさくるしい男子だったら放っておいた可能性も捨てきれない。

透明感のある綺麗な子、というのが第一印象だった。

髪のカットは野暮ったいけれど、化粧気のない白い肌に虹彩の淡いヘーゼルの瞳が映えて、神秘的な雰囲気がある。清楚な服装も相まって、ひと昔前に流行した森ガールを想起させた。

持ち物は小さなショルダーバッグのみだ。普通ならもう少し荷物がありそうなものだけど、と洸は訝しむ。あんな小さいバッグでは、着替えはおろか、化粧品すら入らない。

 およそ半日もの間、見知らぬ男と行動したいだなんて、警戒心のまるっきり抜け落ちた提案にも、なんとなく違和感がある。逆ナンの可能性もあるけれど、そういうタイプには見えない。

そして普通の女の子は、一万円札の束を封筒から無造作に取り出したりしない。

 たとえばこの子が強盗犯もしくは窃盗犯で、まとまった金を盗んで逃亡している真っ最中だとする。だとしたら、そんな金をおおっぴらに扱うだろうか。人目に触れないように、こっそりしまいこんでおくのではないだろうか。

それに、悪事に手を染めるような人間が、あんな無防備に笑いかけたりするだろうか。

 わからない。するのかもしれない。女は魔物だ。これまでの経験上、それは間違いない。

一番身近な異性で、女手一つで自分を育てあげた母親は、その中でも極めて大物だ。

おっとりした容貌に反して思考も口も鋭い。商才もあり、父からの手切れ金を元手に始めた小料理屋は、不景気なこの世の中にあっても繁盛している。洸もたまに立ち寄るけれど、こじんまりとした店に客足が絶えることはない。

客筋のほとんどは家庭料理に飢えた男性陣だが、銀座のナンバーワンホステスだったという母を慕って、水商売の女性もときどきやって来る。華やかな夜の蝶の素の姿を知るにつけ、様々な事情を抱えながらも逞しく生きていく女性たちに感銘と敬意を覚えてきた。

 もしかしたらこれは新手の美人局で、これから厳つい男が出てきて難癖をつけられるのかもしれない。

 けれど彼女のほうが先に並んでいたし、獲物を物色する余裕なんてなさそうだっだ。

券売機の前で一分近く固まっていたから見るに見かねて助け舟を出したけれど、乗る予定の新幹線の発車時刻が迫っていなければ、声なんて掛けなかっただろう。

ふと腕時計を見る。十二時三十五分だった。考え込んでいる時間はない。一刻も早く新幹線に乗って、家に帰りたい。

気ままな一人旅を楽しもうと、秋分の日の翌日の金曜から日曜にかけて休みを取った。小さな美容室を一人で切り盛りしているので、予約の調整さえできれば好きなときに休みが取れる。

七月中旬から九月の半ばまでは通常の利用客に加え、髪色を変えたり戻したりする学生が多くて、ちょっとした繁忙期だった。それを乗り切った自分へのささやかなご褒美として、あえて予約の入りやすい週末を選ぶという贅沢を許した。旅行で骨休めと気分転換をして、月曜日は働く。そして定休日の火曜日で疲れをとる。完璧なプランだ。

鹿児島を選択したのは、最近いも焼酎にハマっているというごく単純な理由からだ。

念願のいも焼酎や鹿児島料理を満喫できたのは良かったけれど、残念なことに天候には恵まれなかった。台風が逸れたのは不幸中の幸いだったが、曇りや雨ばかりで、観光はあまり出来なかった。食べ歩きをするためだけに、はるばる鹿児島まで来たようなものだ。

そして九州を逸れた台風が東京を見事に直撃したせいで、帰りの飛行機は欠航になってしまった。

 なんの予定もなければ飛行機が飛ぶまで待機していただろうが、月曜日は朝からわりとみっちり予約が入っている。週末遊び呆けていたぶん、しっかり働かなくてはいけない。

 航空券をみすみす無駄にするのは業腹だったが、新幹線は動いていると知って、やむなく鹿児島中央駅へと向かった。スマートフォンのアプリで調べると、十二時四十八分発の新幹線に乗れれば、十九時半に東京に着くことがわかった。あと十三分あれば、なんとか乗れるだろう。そう思いながら振り返る。女の子は駅構内を物珍しげに眺めていた。

「行きましょう。新幹線のホームはあっちみたいです」

 そう言いながら洸は歩き出す。女の子はこくんと頷き、あとをついてきたが、もうじき改札口に入るというとき、足を止めた。

「あの。あそこ、電話があるんですか」

 不思議なことを訊くな、と思いつつ、洸も立ち止まった。彼女の指差す方向に『電話』と書かれた表示板がある。おそらく、あの真下に公衆電話があるのだろう。

「ええ。公衆電話があるみたいですね」

 携帯電話を使いつけている若い子には物珍しく映るのだろうか、と思いながら応じる。

「すみません。ちょっと電話を掛けてきてもいいですか」

 どうしてわざわざ公衆電話から、と洸は首を捻った。携帯電話の充電が切れたのだろうか、と思いながら応じる。

「一緒に行くなら、一分くらいしか話す時間はないですよ。もうじき新幹線がくるので」

「一分あれば充分です」

 足早に公衆電話に向かっていく後姿を見ながら、自分のスマートフォンを貸せばよかったか、と洸は思ったが、知らない人間に渡すのはリスクが多すぎる。

 あんまり長くなるようなら置いて行こう。そう思いながら、洸は腕時計を見た。


 改札口の先に『電話』と書かれた表示板を見い出したとき、瑞貴は蒼海に連絡できると気が付いた。大倉家にある電話機は使ったことがあるし、蒼海の番号もそらんじている。読みたい本があると電話を掛けてリクエストしていた。

こんなふうに黙って消えてしまったら、蒼海に心配を掛けてしまう。勝手な行動を叱られるかもしれないけれど、事情を話せばきっとわかってもらえる。

 公衆電話へと小走りで向かい硬貨を入れる箇所を見ると、十・百と書かれていた。ショルダーバッグから封筒を取りだして、百円玉を一枚投入してみる。これでどのくらい話せるのかわからないけれど、話すべきことはそれほどない。蒼海に詫びて、東京に行くことを伝えるだけだ。

 間違えないよう、ボタンを慎重に押す。蒼海はすぐに出た。

「もしもし、蒼海くん?」

「瑞貴ちゃん! 今どこ? あの店から動かないでって言ったのに」

 蒼海はいつもより強い口調で応じた。心配させてしまったのを心苦しく思いながらも、瑞貴は言うべきことを言う。

「心配させてごめん、蒼海くん。あのね、できたらみんなには言わないでほしいんだけど、私これから東京に行く」

 しばしの沈黙があった。聞こえなかったのかな、と瑞貴がもう一度言おうとしたとき、ようやく答えが返ってきた。

「……なにを言ってるの? っていうか、どうやって?」

「新幹線で。さっき切符を買って、いま乗るところ」

「なにを言ってるの」

 喘ぐように同じ言葉を繰り返し、蒼海はふと気付いたように尋ねた。

「切符を買ったって、そのお金はどこから」

 瑞貴は小さく息を吸ってから、質問を質問で返す。

「フチベ リュウノスケさんって知ってる?」

 再び短い沈黙があった。

「誰からその名前を聞いたの」

 探るような返答でわかった。蒼海は知っている。

「誰からでもない。別宅で見つけた銀行のカードに、フチベ リュウノスケって印字されてたの。一緒にお金もしまってあった」

「お金? いくらくらい?」

「ちょうど百万円」

 絶句する蒼海を無視して、瑞貴は話を戻す。

「ねえ。フチベ リュウノスケさんって、私のお父さんなの?」

「……うん、そうみたい。僕もよくは知らないけど」

「私ね、その人を探しに行く。ずっと気になってたの。父親がどういう人かって。黙って自分勝手なことをして、蒼海くんには申し訳なく思ってる。その人に会えたら必ず島に帰るから、心配しないで。本当にごめんね」

「え? でも瑞貴ちゃん、その人は……」

 蒼海がなにか言いかけるのと同時に電話が切れた。瑞貴は受話器を元に戻した。

 百円で話せる時間は意外と短かったけれど、逆に良かった。話し込んでいたら新幹線に乗れなくなってしまう。

 瑞貴はショルダーバッグのファスナーをきっちり閉めながら、改札口のそばで待っている男のもとへと小走りで向かった。


 掛かってきたときと同じくらい突然終わった通話に、蒼海は呆然とした。

 でも瑞貴ちゃん、その人は二十年前に亡くなっているんだよ。だから探しに行ったって会うことは出来ない。絶対に。

あの言葉は届いただろうか。たぶん届いていない。届いていたらきっと掛け直してきている。

 新幹線のホームに行ったら引き留められるかもしれない。そう思ってスマートフォンで時刻を調べる。いま乗るところと言っていた。ということはおそらく十二時四十八分発の新幹線だ。時計を見ると十二時四十一分だった。あと七分で切符を買ってホームに辿りつくことは物理的に不可能だ。瑞貴に連絡を取って引き留める手立てもない。

 蒼海は大きくため息を吐いた。

 予想外の行動だった。ずっと父を気にしていたと言っていたけれど、そんな様子は全く見せなかったし、こんなことをするようには思えなかった。

 もしかしたら瑞貴は、長いあいだ計画を練っていたのかもしれない。だとしたら自分の申し出は、どれほど好都合だったことだろう。

 もう一度ため息を吐く。自分にはもうどうすることもできない。

 できることがあるとすれば、事実を知った瑞貴がショックを受けないよう、そして無事に帰ってこられるよう神に祈ることだけだった。


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