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EXPLODE  作者: 綾稲 ふじ子
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EXPLODE

二年連続、このミステリーがすごい! に応募して、箸にも棒にもかかりませんでした\(^o^)/

この作品は去年応募したものです。供養のため、ここに載せようと思います。

作品自体はできあがっているので、週一ペースで小分けにアップしていくつもりです。

(今年も落ちたので、この作品が終わったあとアップしていく予定です)

 一六三八年二月二十二日 深夜

 

日暮れと同時に降りだした氷雨が、急拵えの粗末な家屋の中にも水滴を落とした。

燭台が立てられた仄明るい室内に、若い男女が向かい合わせに腰を下ろしている。

「四郎殿。わたくしだけここから逃げよなどと、本気で仰せですか」

 背をすっと伸ばして端座した女が責めるように尋ねた。二十歳前後で、きりりと引き締まったその顔は凛と美しい。切れ長の目が印象的だった。

女はかつて島原領の大名だった有馬直純の遺臣で、のちに有家村の庄屋となった有家監物の孫娘だ。幼少時にキリシタンの洗礼を受け、カタリーナという名を授かった。

父の馬場内蔵丞は、新たに大名となった松倉重政から棄教を命じられたが、頑なに拒み続け、鋸で首を切られて殺された。九年前、カタリーナが十歳の頃だ。

カタリーナは女性の身でありながら、前年の十月に勃発した島原・天草一揆に積極的に加わっていた。十二月上旬よりこの原城に籠城したのちも、幕府軍の攻撃に怖じることなく、襷掛けに鉢巻という勇ましい姿で石つぶてや砂を浴びせて応戦していた。

 有馬氏の改易によって農民となった今でも、カタリーナや、その父であり自らの舅にあたる監物には士分の血が脈打っているのだろう、と男は思った。

 ゆるく胡坐をかきカタリーナと相対する男は、一揆を率いる総大将の益田四郎時貞で、カタリーナの夫でもあった。籠城のさなか、有家監物を始めとする一揆指導者によって娶せられた。

平時であっても婚姻は年長者によって定められ、個人の感情などが考慮されることはない。舅となったことにより、監物は四郎と同等の総大将という立場を得た。

四郎の実父甚兵衛は幕府軍によって既に討ち取られ、いま現在一揆を率いる実質的な指導者は監物なので、妥当な役どころではある。

カタリーナより幾つか若くとも、元服し、妻帯もしているのに、四郎は前髪を束ねて垂れ下げ、童子のごとき髪形をしている。いささか奇矯と感じられる装いでも、小さな十字架を括りつけた額の下の両眼は聡明さを湛えていた。

「私は皆とともに、ここで殉じる。そなたは密かに落ちて生き延びよ」

 一揆軍が遠からずここで果てるのは、幼子にでもわかることだ。糧食は尽き、援軍の見通しはない。ひと月ほど前には、同教であるはずのオランダ船からも砲撃を受けた。幕府軍との交渉は平行線で、棄教しない限り、打ち落とされるのは時間の問題だ。そして棄教しようとする者はほぼ皆無だった。そういった者は隙をみて、この原城を脱け落ちている。

「厭です。わたくしも最期までここに、四郎殿のお傍におります」

 切れ長の目に強い意志を光らせ、カタリーナは四郎の言葉を遮った。

「ならぬ。義父にも誰にも知らせず、夜が明ける前にここを出よ。供の者も手配した」

 そう言い切ると、四郎は軽く手を打った。数秒して、屈強な体つきの中年男が一人、音もなく現れた。四郎の故郷である江部村出身のこの男は平九郎といい、かつては四郎の生家で使用人として働いていた。寡黙な男で、四郎への忠誠心は、信仰心と同程度に深い。

「平九郎がそなたを手助けする。皆に悟られぬよう仕度をし、すぐにここを出るのだ」

「なぜそのようなことを!」

 カタリーナは声を荒げ、強い眼で四郎を見た。この一揆によって生じた儚い縁でも、幾度か身体を交えて結び付けられた夫だ。キリシタンの法では、夫婦は生涯離別することなく、添い遂げるよう定められている。

 そしてその法は信仰を守り抜き、神のために喜んで命を投げ出す殉教を、なにより尊いこととしていた。殉教すれば神の前で最高の位につくことができ、全ての罪が赦される。天の国にはいかなる苦しみもない。宣教師からそう教わった。数回に及ぶ幕府軍との交渉で信仰が認められないことが明らかとなった今、カタリーナを含め、立て籠もる多くの者がそれを望んでいる。

「そなたには生きていてほしい。そう思った。ただそれだけだ」

 淡々とそう言うと、四郎は声の調子をあらためた。

「頼む。聞き入れてくれ」

 真摯な声と眼差しに、カタリーナはがくりと頭を垂れた。

 幼少時より神童と称されるほど叡智に富み、不思議と人を惹きつける資質のあった四郎は、甚兵衛や有馬遺臣などに一揆の旗頭として担ぎ上げられた。

キリシタンへの残虐な弾圧や、農民への苛政への義憤からそれを受け入れたが、本来の四郎は争いを好まない。まして四郎には、武将の経験も才もない。一揆軍の総大将という地位を重荷に感じていることを、カタリーナは察していた。

四郎を救世主の再来と信じて疑わない信徒たちのために彼ができるのは、ただ祈ることのみだ。籠城してからは本丸に作られたこの家の天守に籠り、ひたすら祈りを捧げていた。

私心なく、献身的な四郎が何かを欲することなど、これまでなかった。最初で最後になるやもしれぬ夫の望みを叶えるのが、妻である自分にできるせめてものことと思い極めた。

「……お恨み申し上げます、四郎殿」

 カタリーナは顔を上げ、不本意ながらも了承した。四郎の目元がわずかに緩んだ。

「恨んでよい。そなたを一族郎党や、全てから切り離すのだ。許せ、などとは申せぬ」

 夫婦の視線が絡み合う。静かな四郎の目線に、カタリーナは物問いたげな眼を向けた。それから立ち上がって、振り返ることなく天守から立ち去った。

佇んでいた平九郎は四郎を一瞥した。その視線をとらえた四郎は無言で頷いた。平九郎は頷き返し、それからカタリーナを追って退出した。これが今生の別れになることは、どちらにもわかっていた。

 四郎と、ときたま落ちる雨垂れの音だけが取り残された天守に、かすかな物音がした。

「もう、ここを立たれたのですか」

 次いで、夜陰に掻き消されそうなくらい、か細い女の声がした。

「たぶんな。おぬしの父御が供なれば、無事に落ち延びられるだろう」

 新たに現れた女は、声のみならず躰も細い。頬がこけ、粗末なきものに身を包んだその女の容色は、カタリーナと比べると格段に落ちる。それでも、その女を見る四郎の目は、言葉に尽くせぬほど優しい。戸口の傍らに端座する女に手を差し出す。

 女は躊躇う素振りを見せたが、結局は立ち上がって四郎に歩み寄った。痩せて荒れた女の手を四郎はそっと取り、身体を引き寄せる。女は息を呑み、全身を強張らせた。

「時貞さま。なにをなさいます」

「ともに地獄へ落ちてほしい」

 物騒な言葉に反して、その声は柔らかだ。女の背に両手を回し、その肩に顎を乗せた。

「天の法では、私たちは赦されぬ。それでも傍にいてほしい」

この一揆が、二人の距離を縮めた。幼少時からともにいて、互いに淡い思いを抱きあっていた。とはいえ、土地の有力者の嗣子と使用人の娘という立場では、真っ当に結ばれることなどありえない。キリシタンである以上、側室とすることも許されない。

女から、ゆっくりと力が抜けていく。それから体側にだらりと落していた両腕で、おずおず四郎を抱き返した。神や家族に許されなくてもいい。永遠の平穏に満たされているという天の国に召されずとも構わない。この一瞬のためだけに全てを投げ出しても、きっと後悔はしない。そう思った。

力を込めたら折れてしまいそうな細い身体を抱き締めながら、四郎は妻を思った。

カタリーナに殉教を許さず、逃げるように命じたのは、駒として担ぎ上げられて利用された自分が、舅の監物や一揆の指導者にできる、せめてもの意趣返しだった。

真っ直ぐで気性の激しいカタリーナを疎んでいるわけでは決してない。その直情さを、むしろ好ましく思っていた。共に死ぬのも悪くない。もしも心に定めた女がいなければ、そう思えたかもしれない。

妻を裏切って恋する女とともに死ぬ自分は、天の国へはいけない。妻と相まみえることはないだろう。二度と会えなくなった妻に神の加護があるように、四郎は心から祈った。


 一九九六年二月二十四日


 広々した和室には年齢のまちまちな六名が座していた。いずれもあらたまった装いで、厳粛な雰囲気だ。古びた掛け絵の祀られた祭壇がある室内は、ただでさえ冷え込みの強い季節の早朝五時とあって底冷えしている。淵辺龍之介は、気を抜くと震えそうな身体に力を入れて正座していた。

 つい先ほどまで、この場では洗礼の儀式が行われていた。

受洗したのは龍之介が三十二歳のときに授かった娘の瑞貴だ。先月の十五日で満一歳となった。健康で手のかからない子で、受洗の間も泣きだしたり儀式を妨げることなく、大きな目をぱちりと見開いて大人しくしていた。虹彩が緑がかった淡い茶色の瞳は、色白の肌によく映える。九州の一部で見られるという瞳の色は、母から受け継いだものだ。

今はその母、聖恵の胸に抱かれて、よく眠っている。その様は、掛け絵に描かれた聖母子像と似ていた。

龍之介よりひとまわり年下の妻、聖恵には秘密がある。

聖恵は島原・天草一揆を率いた益田四郎の子孫だ。初めて聞かされたとき、にわかには信じられなかった。しかし少なくとも、薩摩半島の西岸から三十キロメートルほど沖合に浮かぶ甑島の片隅にある集落、片野浦の住人にとっては厳然たる事実だった。

籠城していた原城があった島原から甑島は、そう遠くない。古くは平家の落ち武者など、権力闘争に敗れた人々が流れ着いた歴史もある島だ。聖恵の先祖とは別口で、甑島に逃げ延びた者も数名いたが、彼らは即刻処刑された。

キリシタンというだけで殺害されるのに、一揆の首謀者とされる益田四郎の身内と知れれば、むごたらしく嬲り殺しにされるのは目に見えている。匿っているのが露見すれば、その咎は集落全体に及ぶ。当時の島民たちはそう考え、隠し通した。

そうして益田四郎の子孫とされる人々は、その存在を隠匿され続けてきた。高い塀に覆われた家の奥まった一室でひっそり産まれ、ある程度の年齢になるまでは外に出ることは許されない。護られ、崇められ、そして畏れをもって育てられた。

成人したのちも集落から出ることはなく、外部の人間と接触することはない。天寿を全うすると秘密裏に弔われて土葬された。

いつしか四郎の子孫を匿うことは神意であるとされ、外の人間の目に晒すと恐ろしい罰が下されると信じられるようになった。

信じがたいことに、それは何百年も経った平成の今でも続いていた。

四郎の子孫とされる人間は自宅で産まれ、出生届を出されることなく、集落で隠されて育てられる。戸籍がないため、定期健診も予防接種も、就学すらできない。義務教育程度の勉強は親や集落の者から教わる。聖恵もずっとそうやって生きてきた。

そんな聖恵と、生まれも育ちも東京の龍之介が結ばれたのは、龍之介の職業ゆえだった。

大学在学中に龍泉寺淵という筆名で応募した新人文学賞で大賞を取った龍之介は、それから十年経った現在も、作家として生計を立てている。

子どものころ図書館で夢中になって読み耽ったシャーロック・ホームズやアガサ・クリスティが龍之介のルーツで、彼の著作の全てはミステリー小説だ。人気作家と呼んで差し支えない程度の売上げがあり、年収は同年代の友人たちの数倍ある。

三年前、鹿児島を舞台にした長編推理小説を書き上げた龍之介は、次作でクロ宗と呼ばれる宗教を取り上げることにして、単身で息抜きと観光を兼ねた取材旅行をした。聖恵と出会ったのはそのときだ。聖恵は十八歳で、龍之介は三十歳だった。年齢も育った環境も全く違うのに、出会った瞬間、龍之介は運命を感じた。

若く才能あふれる龍之介は、社交的な性格や人柄も相まってか、女性に困ったことがない。付き合った人の中には結婚を考えた人もいた。それなのにちょうどそのとき恋人がいなかったのも、生まれ育った東京から遠く離れたこの島を訪れたのも、聖恵に出会うためだった、と無条件に確信した。

その想いが龍之介の一方通行でなかったのは幸いだった。そうでなければ聖恵を攫っていたかもしれない。そのくらい深く強く、龍之介は聖恵を欲し、愛した。


甑島は上甑、中甑、下甑の三島に、大小二十数島の属島を含んだ群島だ。

いにしえより海上交通や貿易の要衝として栄え、遣唐使船が漂着したり、異国の船がたびたび接近してくるなど、島民たちは異文化と接する機会が多かった。

一五四九年にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教を広めた際、ザビエルを日本へ導いた弥次郎という男がいた。

弥次郎はザビエルが日本を離れたのちも布教に励んでいたが、仏教徒と諍いを起こして鹿児島を脱し、甑島へと流れ着いた。一五五二年のことだ。弥次郎によって、キリスト教は徐々に島内へ広まっていった。

一六〇二年、島津藩主の家久に招かれたドミニコ会の宣教師が布教を始めたのを機に、甑島のキリシタンは枝分かれした。そのころ八十歳を越えていた弥次郎と、弥次郎のもたらしたイエズス会の教えを遵守していた信者たちは、山を越えて片野浦に移住した。それがクロ宗の礎となった。

他の地域とは殆ど交流のない集落で、彼らは信仰を守り続けた。

一六一三年に江戸幕府によって禁教令が発令されてから一八七三年にキリシタン禁制の高札が撤去されるまでの二百六十年間、キリシタンは時の権力者たちに迫害され続けてきた。棄教や改宗を迫られ、拒むと凄まじい拷問がなされた。火責め、水責め、石抱きに加え、深さ二メートルほどの穴の中に逆さ吊りにする穴吊りという残酷な拷問も受けた。それでもなお拒み続けると処刑された。拷問で命を落とす者も多かった。

信念と信仰に殉じた夥しい数のキリシタンがいた一方、表向きは仏教徒となって信仰を守り通す潜伏キリシタンと呼ばれる者たちがいた。彼らは長崎県を中心とした九州の一部に住み、年に一度、役人の前で踏み絵を踏みながらも信仰を貫き通した。

全ての宣教師が追放もしくは処刑され、信教も制限されていた決して短くない年月においてそれを可能にしたのは、信者個人の信仰心の深さや意思の強さだけはない。キリスト教の伝来とともに信者の信心高揚や福祉活動を目的として結成されたコンフラリアという組織の存在も大きかった。禁教時代に入ったあともコンフラリアは密かに維持され、信仰を支える役割を果たした。潜伏キリシタンを構成する基盤にもなった。

潜伏キリシタンの中には、禁制が解かれたあとも正当なカトリックに改宗せず、独自の信仰を続ける者たちもいた。俗に言う隠れキリシタンだ。

長く続いた宣教師の不在は、いつしかカトリックの教義に仏教や民間信仰と結びついた新たな宗教を生み出していた。隠れキリシタンは、先祖から伝えられてきた信仰を継承することを選んだ。甑島のクロ宗もそのひとつだった。

迫害を長く耐え抜き、連綿と続いてきた隠れキリシタンの組織は、平成十年の今現在、そのおおよそが解散している。外海や平戸・生月島、五島列島などに僅かに残る程度で、解体した組織の信者たちはカトリックや仏教へ改宗していた。

戦後間もなく、この集落にもカトリックの鹿児島教区長司教がアメリカ兵とともに訪れて、正統カトリックに復帰するよう呼びかけたが、自分たちは浄土真宗の信者である、とキリスト教の影響すら否定した。正統性などよりも、祖先が守ってきた信仰を重要視していたからだ。

現在クロ宗を信仰する家庭は三十五戸ほどで、集落の過疎化や高齢化に伴って減少しているが、ここに生まれた者の全ては洗礼を受けるので、信者の絶えることはない。

鹿児島県史第二巻と五巻にもその存在は記載されているが、クロ宗の実態は謎に包まれている。信者が全容を口にすることがないためだ。

秘匿性の高さから、クロ宗は外部の人間から様々な憶測をもって語られることが多い。

その最たるものが、生き肝とりと呼ばれる秘儀についてだ。信者の臨終に際し、クロ宗の司祭が胸を切り開いて神に捧げる生贄として心臓を取りだす。そしてそれを信者たちに分け与え、みなで食する。そんな噂が、まことしやかに囁かれていた。

クロ宗の司祭は世襲制で、サカヤと呼ばれる。かつては庄屋で村落の長だったサカヤは、今も集落内で実権を握り、クロ宗を統括している。

そのサカヤを補佐するのが御透視役と剃刀役と呼ばれる二名だ。御透視役は子どもが生まれた際の相談役としてサカヤに次ぐ立場にある。これも世襲で、益田四郎の子孫が代々務めてきた。現在は聖恵が御透視役で、いずれは瑞貴が継ぐことになる。サカヤの補佐のほか、信徒の告解を聞き、生涯をクロ宗に捧げる。

剃刀役は、死人が出たときに葬儀を手伝うのが本来の務めだ。誠志はそれ以外にも祭事を手伝ったり、恭一の補佐をしていた。

 生き胆とりについて龍之介がサカヤの大倉正一に尋ねることができたのは、聖恵との結婚を決め、クロ宗の洗礼を受ける少し前だ。

初めて片野浦を訪れた頃には、とても尋ねることができなかった。あまりに不躾な問いだったし、万が一にも噂が真実ならば、秘密に迫った自分も害され、心臓を取り出されてしまうかもしれない。未知の宗教に対し、そんな恐れもあった。聖恵にすら訊けなかった。肯定されるのが怖かった。

ようやく口にできたのは、それが事実ではないと思えたからだ。三年ほど接して、それがわかった。この集落に住む者たちのほとんどは祖先を崇敬し和を尊む敬虔な信者であり、普通の勤め人や学生でもあった。

信者が集落内の話を外部に漏らすことは固く禁じられている。入信は構想を練っていたクロ宗にまつわる新作を断念することを意味したが、龍之介は潔く諦め、聖恵を選んだ。

 尋ねられた正一はホッホッと笑った。正一は今年で五十八歳になるが老成した印象で、実年齢より上に見える。和服姿でいることが多いからかもしれない。薄くなった白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけ、常にきちんとした装いでいる。三年前に早期退職するまで島内の小学校で教員をしていたためか、口調や物腰はいつも穏和で柔らかだ。

「その噂は知っています。実に荒唐無稽ですな。私の知る限り、そんな事実は一切ない」

 一笑に付すと、正一は片眉をあげた。

「日本にキリスト教が布教されたあと、外国人宣教師は赤子の血をすすり、生き胆を取って食べるというデマが流れたそうです。赤子の血というのはおそらく赤ワインで、生き胆は、おそらく牛肉かなにかでしょう。肉食の習慣がなかった日本人の目には、それが奇妙に映った。生き胆とりという噂も、そういったところから派生しているのだと思います」

「そうですか。おそらくはそんなところだろうと、僕も思ってはいたのですが……」

 心なしかほっとしたような龍之介に、正一は思い出したように言った。

「もっとも、日本でも死体は万病に効くという言い伝えがあって、昭和の初期まで薬喰いと称して人間の脳や肝臓を食する風習が残っていたようです。実際には万病に効くどころか、病を得る原因でしかありませんがね。なにかで読んだのですが、人食すると死病に罹るそうです」

 龍之介は頷いた。

「僕も聞いたことがあります。南方の島で弔いのために遺体を食べ、結果、脳病に罹患してしまった部族がいると。共食いは、やはり自然の理に反したものなのでしょうか」

「そうかもしれませんな。なにはともあれ、この集落にはそんな習慣など存在しません。どうぞご安心ください」

 気分を害した様子もなく正一が笑い飛ばしたことに安堵しながら、龍之介は応じた。

否定された内容にも胸を撫で下ろした。宗教観や価値観は様々だが、人食には本能的な嫌悪がある。脈々とそういう行為が続いてきたのだとしたら、いずれ自分も受けれなくてはいけなくなるかもしれない。正一は笑みを浮かべたまま話を続けた。

「噂によって外部の人間を遠ざけることができたので、集落の者もあえて否定はしませんでした。勿論それによるリスクは考慮しましたが、益田家のご子孫をお守りする為に無用な詮索を避けるという意味では、メリットは少なからずありました」

「物は考えようですね」

 素朴な感想に、正一の笑みは濃くなった。

「そうですね。それに、そのおかげでクロ宗が絶えることはない。我々には護らねばならぬものがある。共通の秘密は結束を強めます。隠れキリシタンは時代とともに消滅しつつありますが、この集落ある限り、クロ宗の信仰は続く」

 龍之介は嘆息した。物の本によると、昭和三十年代には三万名前後の信者がいたと推測される長崎の隠れキリシタン人口は、平成元年の段階で二千名程度まで激減している。

「どれほどお上に強制されても保ち続けた隠れキリシタン信仰の消滅しつつある理由が、信仰の自由にあるように思えて、なんだかアイロニックに感じます。まるでイソップ童話の北風と太陽みたいだ」

「恋愛と同じように、障害があったほうが信仰心も燃え上がるのかもしれませんな。歴史的に見ても、宗教が最も必要とされていたのは災害や戦禍、飢饉などで、人々が生きるのに汲々としていた時代です。平和になれば神に縋る必要はなくなる。おそらく現代の日本で最も熱心に神に祈っているのは、試験前の学生ではないでしょうか」

 苦笑交じりにそう言うと、正一は少し表情をあらためた。

「龍之介さん。この先ずっと、聖恵さんをお守りしてください。集落で先祖代々守り通した、いわば生きた御本尊です。聖恵さんをここからお出しすることはできないので通い婚という形となりますが、それでも夫婦です。いかなるときも気持ちを寄り添わせて、聖恵さんを支えてください」

 龍之介は頷いたが、胸中は複雑だった。

 正式な結婚という形にこだわりはない。

幸い三人兄弟の末っ子で、上の兄二人は結婚して子どももいるので、家族から結婚を急かされることもあまりない。互いに都内に住んでいるのに実家に帰るのは年に一度くらいなので、両親が龍之介の私生活について干渉する機会がそもそもない。会社員の兄二人と違い、文筆業という特殊な職業についているのも関係しているのだろう。

形がどうでも気にならないが、ともに過ごせる時間が限られているのは辛かった。

仕事の都合上、東京での生活を完全に捨てることはできない。そのせいで聖恵や瑞貴と離れて暮らすことが多いのは、龍之介にとって耐えがたいことだった。

医者にかかることがないためか、近親婚の続いている影響か、四郎の子孫とされる一族の者は総じて短命だ。聖恵の母も産後の肥立ちが悪く、聖恵を産んでまもなく早逝した。

集落の者はそれを当然と受け止めているけれど、聖恵や瑞貴になにかあったら、自分は正気でいられない。その気持ちは結婚して二年経った今、さらに強まっている。二人がこの閉ざされた土地で生涯を終えると思うと憤りすら感じた。

「そろそろ、おいとましましょう」

聖恵の声に、我知らず物思いに耽っていた龍之介は我に返った。立ち会った者たちも、帰り支度を始めている。

 龍之介の家族以外でこの場に居合わせたのはサカヤである正一と、正一の一人息子で瑞貴の代父母となった恭一、それから剃刀役の橋口誠志だ。

 カトリックと同様、クロ宗の洗礼時には実親に代わって親の役割と果たす代父母と呼ばれる者が必要となる。恭一は聖恵の従兄にあたるので、もともと瑞貴とは叔父と姪という間柄だが、代父母と洗礼を受けた者は家族同然の付き合いをするようになる。

「うん、そうしよう。それでは失礼いたします。今日はありがとうございました」

 龍之介が辞意を述べると、正一は軽く頷いた。

「お気をつけてお帰り下さい。ああ、祈りの言葉は覚えられましたかな、龍之介さん」

「ええ。あの、まあ、だいたいは……」

 もごもご呟く龍之介に正一は優しく笑いかけた。

「外の人間にはなかなか覚えられないでしょう。ゆっくり覚えればいい」

 寛容な言葉に、龍之介はもう一度頭を下げた。聖恵もそれに従う。正一は聖恵を見た。

「そういえば龍之介さんは、これからしばらく東京に戻られるのでしたな」

「ええ。仕事が終わり次第、すぐこちらに帰ってくるつもりです」

 龍之介の言葉を受け、正一は聖恵を見た。

「小さな子を抱えて一人では心細いですね。なにかあったら、すぐに言ってください」

 聖恵は微笑んだ。童顔で、二十一歳という年齢より幼く見えるが、浮かぶ表情は大人びている。物静かで、感情を露わにすることはほとんどない。日に当たることがないため肌は抜けるように白く、切れ長の目が涼やかだった。

「ありがとうございます。そうさせていただきます」

 そう言って一礼し、龍之介は聖恵を伴って退室する。背後にいた誠志が大きな体を屈めて正一と言葉を交わしているのが、視界の端に入った。

いつもは作業着姿の誠志だが、祭礼などのあらたまった席では和服をまとう。がっしりと上背があるので何を着ても映え、男性の目から見ても惚れ惚れする体つきだ。

大工をしている誠志は三十一歳で、手先が器用だ。付近の住人は、電化製品などの具合が悪くなるとまず誠志に見てもらい、プロの手が必要かどうか判断を仰いだ。簡単なものなら本業の合間に誠志が修理した。

誠志の祖父で今年八十二歳になった橋口為二郎も細かい作業を得意としているので、それが遺伝したのかもしれない。為二郎は長年勤めた大工の仕事を引退したのちも建物の修繕やこまごまとした手仕事をし、便利屋として集落内で重宝されていた。

龍之介が受洗するとき代父母になったのは為二郎だった。小柄で寡黙な老人で、なにかの折に龍之介が訪ねると、言葉は少ないながらも丁重にもてなしてくれる。

やはり大工だった誠志の父親は大柄だったという。瓦葺きをしているときに足を踏み外して早死にし、誠志はそれから祖父と母との三人暮らしだ。

龍之介は誠志が苦手だった。顔を合わせるたびに、そこはかとない悪意を感じるからだ。余所者の自分と聖恵が結ばれたことを快く思っていないのだろう。そう察していた。

それは誠志だけではない。

この集落で暮らすようになって二年が経ち、住民たちと世間話を交わす仲になった。

聖恵の夫という立場のせいか、ぞんざいに扱われることはない。集落の長である正一が親しく接してくれるというのもあるだろう。正一の一人息子である恭一も、同じように龍之介に接してくれる。

それでもふとした折に、住民たちと自分の間を阻む透明な膜のようなものを感じる。

誠志ほどわかりやすくはないが、やんわりと線を引かれ、その先に立ちいることを拒まれている。そんな気がしてならない。

無理もないことと龍之介は達観していた。地縁と血縁で結びついたこの場所で、自分は異邦人だ。すぐには無理でも、時間を掛けて親しくなればいい。そう思っていた。

聖恵との新居は外部から隠されるように、山頂近くの曲がりくねった坂道の上にある。対外的には大倉家の別宅ということになっていて、正一の家から徒歩で五分ほどだ。

正一の家を出た瞬間、明け方の凍てつく風が吹きつけた。南方に位置する島とはいえ、この集落は山の上にある。夏の間を通して涼しいのは有難いが、冬の冷え込みは厳しい。何日か前に降った雪がところどころ残っていて、足元も危うい。

妻の身体を案じ、龍之介は瑞貴を抱きかかえる聖恵の腰に手を廻した。聖恵は顔を上げて龍之介を見た。

「転んだら大変だし、寒いから」

 龍之介はそう言いながら、聖恵を北風から守るようにぴったりくっついて歩く。

単純な言葉と愛情表現に聖恵は微笑んだ。龍之介と出会う前は、こうやって自分に触れる者は誰一人いなかった。一定の距離を置かれることに慣れてはいたが、龍之介は最初からまったく隔たりなく、自然に接してくれた。それがとても嬉しかった。

出会った日のことは昨日のことのように覚えている。夕暮れどき、集落の奥まった場所にある母を始めとした祖先の眠る墓所を一人で掃除しているとき、龍之介はひょっこりと現れた。

道に迷った、と闊達に告げる侵入者を警戒しなかった理由は、自分でもわからない。

人懐こい笑顔のせいかもしれないし、人を寛がせる雰囲気のせいかもしれない。

外の人間に会うのは初めてで、とりあえずサカヤである正一の判断を仰ごう、と集落へ案内する短い時間に、様々な話をした。と言っても、話をしたのはもっぱら龍之介だ。

 物書きを生業にしていることや東京に住んでいること、甑島を訪れるのは初めてだということを楽しげに喋り、話に気を取られて転びそうになった聖恵の手を取ると、ずいぶん華奢な手ですね、とにっこり笑った。それからそっと離した。

 正一の家に着いたときは、不思議なくらいがっかりした。この男性ともう少し二人きりで話したかった、と思い、そんなふうに感じた自分に驚いた。

 龍之介の人柄に魅了されたのは聖恵だけでなく、正一も同じのようだった。

最初は正一も龍之介に対して距離を保っていた。

鹿児島大学や宮崎大学、長崎大学の民俗学の権威やマスコミの取材班など、様々な媒体がクロ宗についての調査をしに訪れたときと同じように、やんわり拒んで近寄らせなかった。

しかし何度も片野浦を訪れてきた龍之介に接していくうちに、ゆっくりと親しくなり、信頼関係を築いて、少しずつクロ宗について語り始めた。

龍之介は正一を訪れるたび、人目を盗んで聖恵にも会いにいき、密かな逢瀬を重ねた。

とはいえ肉体的な接触は一切なかった。龍之介は聖恵の意思を尊重し、適切な距離を保ったまま、交際を続けた。

 結婚を申し込まれたとき、聖恵は反射的に頷いていた。

クロ宗の掟では異教徒との結婚は許されない。はっきり定められていたわけではないけれど、いずれ自分は恭一と結ばれることになるだろうと思っていた。

聖恵より六歳年上の恭一は、かつて正一が勤めていた小学校で教員をしている穏やかな人だ。年齢もそれほど離れていないし、いずれ正一を継いでサカヤとなるので、聖恵の相手として申し分ない。

聖恵の父親は正一の弟なので、恭一は聖恵の従兄にあたるが、血の濃さ的に婚姻に問題はない。問題は、聖恵が龍之介と出会ってしまったことだった。

聖恵が龍之介との結婚を望んでいると正一に打ち明けると、集落ではちょっとした騒ぎになった。

どこの馬の骨ともしれぬ者と聖恵ではつりあわない。聖恵の父を始め、集落の者たちはそう猛反対したが、意外なことに正一は龍之介の改宗を条件に聖恵との結婚を了承した。正一が龍之介を気に入っていたからとも、余所者の血が入る危険性と近親婚が続く弊害を秤に掛けた結果とも言われている。

サカヤである正一の決定は絶対で、聖恵と龍之介は晴れて結婚することができた。

聖恵との結婚を認める条件としてクロ宗への入信を求められた龍之介は、一秒も迷わずそれを受け入れた。もともと無宗教だし、聖恵と一緒になれるのなら、どんな条件でも飲むつもりだった、と、あとになって龍之介は聖恵に語った。

結婚を機に実父とは疎遠になってしまったけれど、聖恵に後悔はなかった。

聖恵が結婚した一年後、恭一も集落に住む一つ年上の瑠衣子と結婚し、現在は二世帯で同居している。春には孫が生まれて三世帯になる予定だ。

結婚したとはいえ、二人の関係に法的な根拠はなにもない。聖恵は公には存在しない人間だ。互いの左手薬指に輝くプラチナのマリッジリングが、せめてもの証だった。

集落内でささやかな式を挙げたけれど、聖恵のことを外部に口外する者は誰もいない。世間的に、龍之介は独身のままだ。聖恵と住む家のほかに東京にもマンションを持っている。島にいる間は書き物をし、仕事や用事があると東京へ戻るという通い婚の形をとっている。

いつの日か龍之介はここの生活に倦み、自分と瑞貴を捨てて外の世界へ戻っていくのかもしれない。愛情を疑ったことはないが、帰る場所のある夫に対し、そんな恐れが聖恵の胸に長く巣食っていた。

正一も龍之介を外の人間と思っているのは、さっきの言葉からも推し量れる。正一だけではない。集落内でも、龍之介がここの人間と認められていないのは肌で感じている。

龍之介と離れたくない。瑞貴と三人で、いつまでも幸せに暮らしたい。

この幸福な日々がいつまで続くのかは龍之介次第だった。聖恵は瑞貴を抱えたまま身体を滑らせて龍之介の前に回り込み、夫の肩に顔を埋めた。

「どうした?」

 龍之介は足を止め、瑞貴ごと聖恵を抱き締めながら尋ねた。

「ずっと一緒にいたい」

白い息とともに吐き出された願いが龍之介の耳元を掠め、胸を締め付ける。

「僕もだよ。寂しい思いをさせてごめん。仕事が終わったら、すぐに帰ってくるから」

 聖恵は顔を上げた。

「本当に?」

「本当に」

 断言すると、龍之介は聖恵を抱く腕に力を込めた。

自身の作品の映画化が決定し、それに伴う打ち合わせがある。他にも雑多な仕事が詰まっていて、最低でも一週間から十日は帰ってこられない。率直に言って耐えられなかった。

龍之介と聖恵に挟まれた瑞貴がもがき始め、龍之介は慌てて身体を離した。

「ごめんごめん! 苦しかったな」

 謝りながら、瑞貴を抱き上げる。瑞貴は小さくクシャミをした。

「早く帰ろう。瑞貴もきみも風邪を引く」

 龍之介は右手で瑞貴をしっかりと抱くと、左手を聖恵の体に廻して歩き出した。聖恵は龍之介に身体を寄せた。

ひとかたまりになって歩き出すシルエットを窺う昏い視線には、龍之介も聖恵も気が付かなかった。


 七時四十五分発のフェリーに乗るため、家に戻った龍之介は一息入れる間もなく、六時に家を出た。

港までは車で行く。ここから一時間もかからない距離だが、山道の運転は不慣れだった。

舗装はしっかりされているとはいえ、道幅は狭くて傾斜も急だ。そのうえ残雪で路面のところどころが凍結している。余裕をもって出たほうがいい。

車ごと鹿児島の串木野港に着いたら、鹿児島空港まで二時間弱ドライブする。そこからさらに二時間のフライトが控えている。東京に着くのは夕刻で、控えめに評しても、ちょっとした小旅行だ。

何度も行き来し、移動にはすっかり慣れたけれど、聖恵や瑞貴と離れることにはいつまで経っても慣れない。慣れるどころか、辛さは増すばかりだ。聖恵も同じ気持ちなのは、昨夜の様子からも明らかだった。

「聖恵も一緒に行かないか」

 車のドアに手を掛けたとき、ふとそんな言葉が飛び出したのは、そのせいだろう。振り返ると身支度を整え、瑞貴を抱きかかえて見送りに出ていた聖恵はきょとんとした。

「どこに?」

 龍之介はドアから手を離すと、聖恵に向き合って真っ直ぐ目を見た。

「東京に、今これから」

 無意識に口をついた言葉に驚いたのは聖恵だけではなく、言った当人もだった。本当は心のどこかでずっとそれを望んでいたと、今さらながら自覚した。

 聖恵は目と口をぽっかり開いた。感情をそのまま顔に表すのは珍しい。それはそうだろう、と思いながら龍之介は言葉を継いだ。

「永遠にここを離れるわけじゃない。仕事が終わったら一緒に戻ってこよう」

 聖恵は困惑気に尋ねた。

「どうして急に、そんなこと」

「きみと離れたくない」

 問いを遮るきっぱりとした答えは、心からの言葉だった。

「きみと瑞貴を養うために、仕事を疎かにはできない。だけど別々に暮らすのは厭だ。だから瑞貴も連れて、一緒に東京に行こう」

 冷えきった早朝の空気に、短くない沈黙が漂った。聖恵は瑞貴をぎゅっと抱き締めて口を引き結び、まじまじと龍之介を見つめている。龍之介は苦笑した。

島はおろか、この集落すらろくに出たことのない妻には、いくらなんでも無理難題すぎた。そう自省して言い繕おうとしたとき、聖恵のくちびるが開いた。

「なにが必要かしら」

「え?」

 首を傾げる龍之介に、聖恵は笑いかけた。

「東京までは、何時間もかかるんでしょう? 瑞貴のおむつと食べるもの以外に、なにを持って行けばいい? 着替えもいるわよね」

今度は龍之介の口がぽかんと開いた。首を傾けて、妻の顔を見下ろす。

「……来てくれるの?」

 対する聖恵は晴れやかな笑みを浮かべていた。

「ええ。龍之介さんについて行く」

 そう言ったあと、ふいに不安な顔をする。

「もしかして、冗談だった?」

 龍之介は破顔した。大股に聖恵に歩み寄って抱き寄せる。

「冗談じゃないし、なにもいらない。必要な物は買えばいい。きみと瑞貴が来れば、それだけでいい」

 聖恵は再び笑んで、夫に肩に顔を埋めた。

 テレビや夫から見聞きしているけれど、東京に行きたいと思ったことは一度もない。生まれ育ったこの土地を離れるという発想自体、思いもつかなかった。

だけど龍之介の申し出によって新たな選択肢を得た。この不確かな関係を続けるために必要なのは龍之介の気持ちだけではない。自分にできることもある。

益田の人間がこの集落を出ると何かよくないことが起こるという言い伝えが頭をよぎったけれど、すぐにそれを振り払う。

なにもここを捨てるわけではない。ほんの数日出かけるだけだ。戻ってきたとき、周囲から叱責されても構わない。心は自然と定まっていた。

「瑞貴の食べるものは持って行きましょう。おなかを空かせたら可哀想でしょう?」

 現実的な提案に、龍之介は頷いた。コンビニのないこの島で、ベビーフードを買える店は数店で、開店時間はいずれも遅い。大人なら一食抜くぐらいなんということもないが、乳幼児の瑞貴ではきっと我慢できない。

「そうか。そうだな。準備にどのくらい時間が掛かる?」

 聖恵は素早く身体を離した。それから瑞貴を龍之介に託した。

「たぶん、十分もあれば」

 言い終える前に身を翻して家に駆けこむ。龍之介はほっそりとした妻の後姿を笑顔で見送った。聖恵の決断の速さには心底驚かされたけれど、シンプルに嬉しかった。

東京で、聖恵に見せたい場所や食べさせたい物がたくさんある。同じ時間を過ごして、思い出を共有できると思うとわくわくした。

そんなことはないと思うけれど、万が一飛行機の当日券が取れなければ、出発を少し伸ばしてもいい。担当編集者に連絡を入れたら、きっとなんとかしてくれる。国内線は身分証を提示する必要はないから、おそらく聖恵や瑞貴も搭乗できるだろう。

数分前まで想像すらしなかった道行きだが、聖恵と瑞貴と一緒ならきっと楽しい。そう信じて疑わなかった。

 靴を脱ぐのももどかしく家に上がると、聖恵は急いで収納庫の扉を開いた。

ふだんは聖恵の手によるものを食べているが、龍之介が東京から戻ってくるたび、瑞貴の土産として買ってくるレトルトパックのベビーフードがいくつもある。とりあえず三つ取り出して、大きなトートバッグに入れる。紙パックに入ったリンゴジュースと幼児用のお菓子、それから紙おむつも詰めた。それでおしまいだった。出港の時間が迫っている。悠長に荷造りをしている場合ではない。

 自分の物は、いつも嵌めているマリッジリング以外は何も持って行かなかった。化粧はほとんどしないし、財布すら持っていない。現金を持ち歩く習慣がないからだ。買い物をしたことは数える程度で、食料品や日用品などは、龍之介か正一の妻が買ってきてくれる。

ふと、収納庫の一番上の扉に目をやった。ガラクタばかりが押し込まれているその一番奥には、百万円の札束が隠してある。なにかあったら使ってくれ、と結婚して間もないころ、龍之介から手渡されたものだ。

一緒に郵便局のキャッシュカードも渡されたけれど、ATMの使い方がわからないし、そもそも郵便局に行く機会もないので、使ったことはない。両方とも龍之介からプレゼントされたショルダーバッグに入れて、収納庫にしまったきりになっている。

 龍之介から離れるつもりはないから、現金を使うことはないだろう。それにどうせ戻ってくるのだ。下手に動かさないほうがいい。わざわざ引っ張り出す時間ももったいない。

聖恵は足早に玄関に向かい、履きなれた靴を履いた。そっと扉を閉めて施錠する。それから夫のもとに戻った。

 龍之介はエンジンを掛けた車の中で待っていた。聖恵が助手席のドアを開けると、満面の笑みで瑞貴を差し出す。すでにエアコンが効いていて、車中は暖かだ。

聖恵は素早くトートバッグを足元に置き、シートベルトを締めて瑞貴を受け取った。朝早いので目が覚めきらないらしく、瑞貴はぼんやりしている。

「なんだか駆け落ちみたいだな」

 アクセルを慎重に踏み込みながら龍之介は言った。聖恵は笑った。

「もう結婚してるのに?」

 龍之介も笑った。

「たしかに、ちょっとおかしいか。でもそう思ったんだ」

 笑みが消えたのは細い山道を降り、港方面へ続くT字路を曲がろうとブレーキを踏んだときだ。ペダルはなんの抵抗もなく床についた。車は道なき森の中へと突っ込んでいった。


日曜日でも、大倉家の朝食は大体六時くらいだ。息子夫婦もそれに合わせて、一緒に食事をとっている。洗礼の儀式を行った今日も同じだ。今朝は恭一の姿はないが、嫁の瑠衣子は給仕をしていた。

ふっくらした体つきの瑠衣子は働き者で、やるべきことをてきぱきこなす。大きなおなかでも家事の手を抜くことなく、かえって義父母からたしなめられるくらいだった。

ふいに何かが衝突するような音が外から聞こえて、正一は箸に伸ばしかけていた手を止めた。瑠衣子は義父を見た。正一の妻のすみ江も台所から出てきて不安げに尋ねた。

「なんでしょう、今の音は」

 正一は眉をひそめながら立ち上がった。

「わからん。恭一と様子を見てこよう。あいつはどうした」

 問われた瑠衣子は首を振った。

「ついさっき誠志さんから電話があってお取次ぎしました。それからどうしたかは知りません」

 そういえば電話のベルが鳴るのを聞いた気がする、と正一は思った。どうせ間違い電話だろうと気に留めなかった。

早朝から電話を寄越したという誠志と、不在の恭一に不審を覚えながら、正一は自室に戻って上着を羽織った。玄関で靴を履いていると、扉が荒々しく開いた。途端に冷たい空気が吹き込んでくる。そこに息子の顔を見い出して、正一は眉を寄せた。

「なんだ、いつの間に出掛けていたんだ」

「大変なことになりました」

 質問を無視し、青白い顔で目を爛々と光らせながら恭一は言った。走ってきたのか呼吸が荒い。叫び出したいのを堪えているような、奇妙に押し殺した声だった。

「どうした?」

「龍之介さんが車の運転を誤ったらしく、山道に突っ込みました」

 簡潔な返答なのに理解ができず、正一は息子の顔を無言で凝視した。恭一は目を逸らすように下を向いた。

「助手席に聖恵さんがいます」

 事の重大さが一気に脳に到達して、正一は目を見開いた。慌ただしく駆け出して、思い出したように振り返る。

「どこだ!」

 恭一は鞭打たれたように身体を弾ませた。それから小走りに来た道を戻る。正一はその後を追った。

 車の在り処は、立ち込める白煙と赤子の泣き声ですぐにわかった。車に乗っていたのは聖恵だけでなく瑞貴もだったのか、と愕然としながら地面を蹴る足に力を込める。五分ほど走っているうちに、寒さは感じなくなっていた。

龍之介の車は斜面を滑り落ちて何本もの木々を打ち倒したのち、ようやく止まったようだった。つんと鼻を突く臭いで、ガソリンが漏れ出しているのに気付いた。

 ひしゃげた車の傍には誠志がいて、狂ったようにドアを開こうとしていた。ヒビの入ったフロントガラス越しに龍之介と聖恵の姿が見えた。血まみれで目を見開いたままシートにもたれかかって、身じろぎひとつしない。事切れているのは素人目にも明らかだった。

だらんと垂れた聖恵の両腕の間で、瑞貴が火がついたように泣いている。何が起こったか正確に理解はできなくとも、尋常ならざる事態であることは感じているのだろう。

「なんということだ……」

 正一が呆然と呟くのとほぼ同時に、誠志は助手席側のドアを力任せに抉じ開けた。

 誠志は泣きわめく瑞貴を抱き上げると恭一に手渡し、聖恵の肩を揺さぶった。

「聖恵さん! ああ、どうしよう! なんでこんなところに! 目を覚ましてください、聖恵さん!」

 鬼気迫る勢いだった。気を呑まれて立ち尽くしていた正一は、ふと奇異の念を抱いた。

 誠志の家は山の反対方向にあって、大人の足でも二十分はかかる。何故この場にいるのだろう、と思った。朝早く誠志から電話があったという瑠衣子の言葉を思い出す。

「恭一、どういうことか説明しろ。どうしてお前と誠志が今この場にいる」

 瑞貴をあやしていた恭一はしばらく言い淀んでから口を開いた。

「車の音が、おかしかったそうです」

「龍之介さんの車のことか」

 少し考えてから正一は尋ねた。あまりに衝撃的な出来事を前に、思考力が落ちている。

「ええ。何日か前、誠志が歩いていたら、龍之介さんの車とすれ違ったそうです。そのとき、いつもと違う音がしたように感じて気になった、と。今日東京へ立つことを知っていたから、出発する前に車の様子を見に行こうと思う。普段、あまり関わりがない自分がいきなり訪ねていったら驚くかもしれないから、一緒に来てくれないか。誠志からそういう電話があったので表に出て、それから少しあとに事故が起こりました」

 恭一の胸の中で、瑞貴は落ち着きを取り戻したようだった。泣き声は次第に静かになり、ぐったり弛緩した身体で恭一に寄り掛かっている。

 正一は息子の顔に目をあてた。恭一は瑞貴に目を落としているので、その表情を窺い知ることはできない。辻褄は合う。合うけれど、なにかがしっくりこない。

だけど、それについて追及するのは今でなくてもいい。

 息絶えた聖恵を掻き抱いて男泣きする誠志を一瞥し、それから車内に取り残されたままの龍之介を見る。なすべきことはすぐにわかった。

「恭一。瑞貴さんを連れて家に戻れ。それから毛布とスコップを持ってこい」

 恭一は怪訝な顔で正一を見返した。

「早く!」

 鋭く急き立てられて、恭一は弾かれたように身を震わせた。それから瑞貴を抱きかかえて家へと戻っていった。


 恭一は十五分ほどして、野良仕事に使うスコップと客用の毛布を抱きかかえて戻ってきた。かつて龍之介が泊まったときにもこの毛布を使った。そんなことを思い出しながら、正一は息子の手から毛布を取り、誠志に歩み寄った。

「恭一と一緒に聖恵さんを埋葬してくれ。これに包んで、ご一族の墓所へお連れするんだ」

 正一の言葉が聞こえなかったように、誠志は聖恵の身体を強く抱きしめている。

「誠志!」

 強い語調に、誠志はのろのろと涙まみれの顔を上げた。

「聖恵さんを外の人間の目に晒すつもりか! さあ、早く!」

 そう言いながら毛布を差し出すと、口調を少し和らげる。

「哀しむことはない。聖恵さんは天の国へ行っただけだ。いつかまた会える」

 誠志は腕の中にいる聖恵を見た。

左腕で身体を支えたまま、見開かれた瞼を右手の人差し指で辿るようにして閉じさせ、顔に付いた血を手のひらで拭う。

一度だけ優しい手つきで髪を撫でてから、毛布を受け取った。聖恵の身体を毛布で包んで、ゆっくり抱き上げる。それから墓所へ向かって歩き出した。恭一はスコップを手に、その後を追った。

 その様子を見届けると、正一はポケットを探った。タバコの箱とライターが指先に触れた。ライターを取り出して右手のひらにぎゅっと握りしめながら、誠志が開け放しにしたドアの脇に立つ。息絶えた龍之介の顔を一瞥し、小さくため息を吐く。

 初めて龍之介がここを訪れたとき、その天真爛漫さに惹きつけられた。小学校の教員をしていて多くの人間を見てきたからこそ、性質の良さがわかった。親しみやすいのに立ち入りすぎず、他人を尊重する姿勢を好もしく思っていた。

 聖恵との交際を打ち明けられて戸惑いはしたけれど、すぐに思い直した。

 この青年になら聖恵を任せてもいいかもしれない。そう思った自分は間違っていたのだろうか。正一は小さくため息を吐いた。

 助手席の足元に置かれたトートバッグに気付いて中身を覗くと、乳幼児用の食料と紙おむつが入っていた。龍之介と聖恵が瑞貴を連れてここを出て行くつもりだったと悟った。

「なんと恐ろしいことを……」

 正一は小さく呟いた。バッグを手にしたまま、もう一度ため息を吐いてドアを閉め、車の後方に歩き出す。そして染み出しているガソリンに火をつけた。

瞬く間に上がる火が、車に残されていたであろう聖恵の痕跡を消していく。それを眺める正一の目は、かつてないほど険しかった。


 駐在所に詰めている警察官が来る前に、車と龍之介は燃え尽きた。

「第一発見者は橋口誠志さんということでよろしいですか?」

 事情聴取のため自宅を訪ねてきた年配の警察官に尋ねられ、正一は頷いた。

「ええ。朝食を摂っているときに外から何かが衝突するような音が聞こえて、気になって息子の恭一と見に行ったところ、車が燃えていました。その傍に、橋口さんがいました。偶然居合わせたそうです」

 すらすら答える正一に、警察官は窺うような目を向けた。

「失礼ですが、亡くなった淵辺龍之介さんは大倉さんの別宅に頻繁に泊まっていたそうですね。どういったご関係だったのですか?」

 正一は視線を宙に当てた。

「関係……ですか。そうですね。強いて言うなら歳の離れた友人でしょうか。ご存知かとは思いますが、龍之介さんは龍泉寺淵という筆名で小説を書かれていました。いずれこの集落を舞台にした話を書きたいと取材に来た。それで知り合い、親しくなりました」

 警察官は無言でメモを取った。

他県から来た自分にはよくわからないが、甑島のこの一角に、クロ宗と呼ばれる宗教があることは知っている。気味の悪い噂があり、そのせいか前任者から深く立ち入らないよう勧められている。目の前にいるこの男がそのクロ宗の長であることも聞いている。そんなことを思い出していた。

 やがて海を渡って、所轄署から大勢の警察官が派遣された。現場検証の結果、龍之介の死因は山道での運転を誤った結果の事故によるものと判断された。

 著名な小説家の突然の死に、マスコミは島へと大挙して押し寄せたが、住人たちは固く口を噤み、事故について語ることはなかった。

 時の流れとともに龍之介の事故は風化し、やがて人々の記憶から薄れていった。


 二〇一六年九月二十二日


 畳張りの六畳の部屋は、ほとんど物置のようになっている。掃除は行き届いていてチリひとつないけれど、どこかガランとした雰囲気だ。

「一度でいいから、私も島を出てみたい。蒼海くんはいいよね」

ベッドに腰掛けて口をとがらせる益田瑞貴に、荷解きをしていた大倉蒼海は苦笑した。小作りで整った顔には品と知性がある。

「中学を卒業したら島立ちしないと、この島には大学はおろか高校すらないからね」

 そう言いながら、リュックサックのファスナーを開ける。ひょろりと背の高い蒼海は、手指も長く細い。その手でリュックサックの中を探って、目当ての紙袋を取り出す。

「はい。これ、頼まれてたやつ」

 手渡された袋の中身を確認した瑞貴は、独特な色合いの目を輝かせた。

料理のレシピ本が一冊とファッション雑誌が三冊、恋愛小説が二冊。いずれも蒼海が前回帰島したときリクエストしたものだ。読書好きの蒼海に影響され、瑞貴も本をよく読むが、自分で買いに行くことはできないので、自然と蒼海を頼ることになってしまう。

「ありがとう! 嬉しい。年末まで読めないと思ってた」

「どういたしまして。じいさんに感謝だな」

 何気ない返答に、瑞貴の顔は途端に曇る。

「感謝だなんて、そんな……」

 蒼海の祖父、正一は去年の年末に肺癌という診断を受け、余命半年と宣告された。

医師の予想を上回る生命力を示したけれど、癌は胃や肝臓にも転移し、治療は痛みを和らげる緩和ケアに絞られている。本人の希望で自宅療養をしているが、今週に入ってから正一の病状は急激に悪化した。

今春から鹿児島大学に通っている蒼海は、危篤の知らせを受けて帰省してきたが、悲しむ素振りはあまり見せない。高校から寮に入っていて、長期の休みにしか戻ってこないので、実感が湧かないのかもしれない、と瑞貴は思った。

 物心つく前に親を亡くして大倉家に引き取られ、ともに生活をしている瑞貴にとって、正一は実の祖父のような人だ。日に日に病み衰えていくのを傍で見ているのは、言葉に尽くせぬ辛さがある。浮かない顔の瑞貴を目にした蒼海は表情をあらためた。

「ごめん。不謹慎だった。いつもじいさんの世話をしてくれてありがとう」

「私はほとんどなにもしてない。伯母様がしてる」

 ぼそぼそ答える瑞貴を床から見上げながら、蒼海は少し笑った。

「母さんも感謝してた。そばにいてくれると、なにかと助かるって。それに瑞貴ちゃんはいるだけでいいんだよ。この家の中だけじゃない。瑞貴ちゃんは集落内でも心のよりどころなんだから」

「やめてよ、そんな大層なもんじゃないでしょ。それに感謝だなんて。一緒に住んでるから当たり前のことだし」

 同じ家で育ってきても、蒼海と瑞貴の生活は全く違う。

成長とともに幼稚園や小学校、中学校に通い、その後は島の外で普通の生活を送ってきた蒼海と異なり、瑞貴は家から出ることを許されなかった。

集落の人間としか顔を合わせず、テレビと蒼海が買ってくる雑誌くらいしか、外の世界に触れる機会はない。インターネットやスマートフォンもない環境なので、入る情報はごく限られている。それはこの先もきっと変わらない。

戸籍のない瑞貴は公的には存在しない人間で、人生のほとんどを家の中で過ごしてきた。

物心ついて間もないころからクロ宗の行事でサカヤの補佐をしたり、信徒の告解を聞いたり、神事を手伝ってきた。正一や恭一から義務教育と同程度の勉強を自宅で教わり、空いた時間は家事を手伝ったり、好きな本を読んだりしてすごしてきた。

 剃刀役の橋口誠志もなにかと瑞貴を気に掛けて、島の図書館で本を借りてきてくれる。

集落から出ることもできず、図書カードも持ってない瑞貴のリクエストに応じて、誠志は本を借り続けた。作業着姿の無骨な男が借りるには違和感のある少女向けの恋愛小説でも、一切文句を言わなかった。結果、誠志は恋愛小説が大好きな五十一歳の独身男性として司書や周囲の人間に認知される破目になってしまった。寡黙な誠志は反論することなく、その誤解を甘んじて受け入れていた。

あえて口にする者はいないけれど、いずれ自分と蒼海が結婚するのは決まったことで、子どもが生まれれば、その子も自分と同じ道を辿る。

蒼海と一緒になるのに抵抗はない。二つ年下でも瑞貴の頭ひとつぶん背が高く、いつも落ち着いているので、年齢差はそれほど感じない。姉弟同然に育ってきた幼馴染で、気心は知れている。瑞貴が遠慮なく物を言い合える唯一の人間で、最大の理解者でもある。

この生活を厭だと思ったこともない。他の生き方を知らない瑞貴にとって、ここにあるのは当たり前の日々だった。

それでも外の世界を見てみたいという欲求が、ふいに湧きあがる。そんな気持ちを口にできるのは蒼海にだけだった。

集落の人間は、自分が外の世界に関心を示すことを好まない。蒼海が買ってきてくれるファッション雑誌や小説を読んでいるところを見ると、あまり物事にこだわらない瑠衣子ですら表情を曇らせる。

そして外の世界への憧れのほかにもうひとつ、瑞貴にはこの島を出てみたいと思う理由があった。それに関しては蒼海にすら言えずにいる。

物思いに耽っていた瑞貴は、ドアをノックする音に我に返った。

「蒼海。入ってもいい?」

 瑠衣子の声に、瑞貴は慌ててファッション雑誌をベッドカバーの中に滑り込ませる。その様子を横目で確認してから蒼海は立ち上がってドアを開ける。

「あら、瑞貴ちゃんもここにいたの。あなたたち本当に仲がいいのね」

 そう言うと、瑠衣子は優しく目を細めた。それから蒼海を見る。

「なにか用?」

 蒼海は端的に尋ねた。素っ気ない息子に頓着せず、瑠衣子は答えた。

「おじい様がお呼びよ。蒼海に話があるんですって」

 蒼海は眉を寄せた。

「何の話」

「知らないわ。とにかく急いで」

「瑞貴ちゃんは行かなくていいの」

「ええ。蒼海にだけ話があるみたい」

 蒼海の眉間の皺が深くなった。ベッドに腰掛けていた瑞貴はレシピ本をぱらぱらめくりながら、隠したファッション雑誌に瑠衣子が気付かないよう祈っていた。

 ドアが閉まり、二人の足音が遠ざかるのを聞き届けてからファッション雑誌を取り出す。

 薄いページを破かぬよう、慎重に手繰る。着ることは一生なさそうなお洒落な服や可愛らしいアクセサリー、使い道はよくわからないけれどカラフルでポップな小物が氾濫する紙面に目を奪われる。

自分の財産を持たない瑞貴は、あらゆる面で大倉家の世話になっている。

瑠衣子が服を見繕ってくるので、瑞貴の趣味はほとんど反映されない。瑠衣子が好んで買ってくる小ざっぱりと清潔感のある服も決して嫌いではない。

だけどもっと明るい色や、ひらひらした服を着てみたい。密かにそう思っているけれど、買ってもらって文句をつけるのは憚られて何も言えない。

ヘアカットも瑠衣子の手によるものだ。物心ついたころからずっと、少し癖のある髪質を活かした真ん中分けのセミロングで通している。瑞貴の髪を切ることに関して、瑠衣子はもはやプロ級だった。

「外ってどんな感じなのかな」

 小さく呟くと、瑞貴は雑誌を閉じた。


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