銀髪の吸血鬼 その2
その姿には一切の対話の意志を感じさせない。蒼白い身体に赤い血がこびりつくのも気にせず、舞い降りた堕とし子は手当たり次第に斬りかかる。
「な、なんじゃあれは! なんなんじゃっ……!」
街の人々に続いて脱出していたクロエが騒ぎ立てる。付き人はクロエを庇いつつ、虐殺を続ける堕とし子を睨み付けた。
「諜報員から聞いていた姿とは随分違うな……。亜種とでもいうんですかね」
「ごちゃごちゃ言っとる場合か! わらわ、あんな死に方嫌じゃ!」
また一人、町民が袈裟に真っ二つに切り裂かれ、血が勢いよく噴出した。
「ご安心を、私も嫌です。しかし、逃がしてもらえますかね、これ……」
堕とし子の人間への接近速度は異様だった。瞬きの間に距離を詰め、もう一度瞬く間に人の身体はいとも簡単に切り裂かれていた。逃れられた者がいないであろうことは、足下の血の量が物語っていた。
「……動かなければ、大丈夫」
そんな二人に、傍らに立つミーリアが囁く。
「あれは、動きを察知して襲いかかってる。動かなければ、襲われることはない」
「確証は?」
「ないです。……でも、とにかくジッとして」
「――なぜそれを、彼らに警告しないのです?」
また一人、人が斬り捨てられる。
「そんな義理は、ありませんから」
ミーリアは容赦なく、はっきりと言い切った。
あまりにも冷徹で容赦のない言葉に、クロエと付き人の表情は凍る。
「……なにを、言っておるのじゃ? この弟子は?」
「警告していただけただけでも儲けものですね。……しかし、生きた心地がしないのは間違いない。正直震えてますよ、私の足」
「じ、じっとしていろと言われても……ど、どうすればいいんじゃ……そうじゃ、あれを早くやっつけるのじゃ! おい!」
「私は陛下のように人間離れしていませんから。――あなたはどうなんです?」
「……私だって、同じ事です」
殺戮を見つめるミーリアの瞳に色はない。
なんでもない、当たり前の光景を眺めているような自然さで、彼女は微動だにせず見つめていた。
「な、なんなんじゃお前……! お前狂ってるのじゃ! なんで平気な顔してられるんじゃ! こんなところでジッとしていたら妾まで狂っちゃうんじゃ! もう嫌なのじゃあああっ!」
「殿下!?」
クロエは付き人の腕を振り払うと、街の方へ向かって駆け出した。
「馬鹿ね」
ミーリアは一瞥してから、つまらなさそうにつぶやいた。
付き人が、クロエの背中を追いかける。
しかし、ミーリアはやはり動かない。当たり前だ、動かなければ殺されはしないのだから。
「いーやーじゃーーーーーーーー! 血も、死ぬのももうこりごりなのじゃああああっ!」
「殿下、お静か――」
堕とし子が、動いた。
蒼白い身体は、あっという間に付き人とクロエの背中に追いついた。
月の光が、鋭い腕先に閃いた。
「……せっかく教えてあげたのに」
わずか数分の間に聞き慣れた、人の身体の裂ける音が、響き渡った。
「――テメエェェェェェェェッ!」
黒い弾丸が、空から降り注いだ。
堕とし子は飛び退き、黒い風で編まれた剣が突き刺さる。遅れて降り立った相馬は、血走った目で堕とし子を睨み付けた。
「天誅―――――っ!」
退いた堕とし子の頭上に、葛葉が勢いよく飛びかかる。瞬間、堕とし子の胴体が回転した。
「んにゃっ……!」
「葛葉、退け!」
堕とし子の二本の腕が、伸びた。腕先は葛葉の心臓を的確に捉えている――瞬間、風が逆巻き、葛葉の身体が消えた。
◆
無事か。
(やー、アクロバティックレスキューありがとう。さすがにちょっと、ちびっちゃうかと思ったね。ちょっとだけ)
脳裏に響くのんきな声に内心呆れつつ、俺は刀を構え直す。
周囲には、嫌な血の臭いが満ちている。死体の数は、途中で数えるのをやめた。
(ソーマさん……あの堕とし子……)
ヘルメスの言葉に、俺は頷いた。さっきまで叩き斬っていた連中とは明らかに違う。
回転する胴体に伸縮自在の腕――恐らく足も伸びるか何かすると見るべきか。
立っているというよりも、浮かんでいるようにすら見える。
見た目は明らかに同じ堕とし子のようには見えないが、奴の頭部は他の堕とし子のものと共通している。
俺の様子を窺っているのだろうか、奴は一歩も動かない。
俺は柄を握り直し、深く息を吸い込む。
こいつらに思考があるかどうかはこの際置いておくとして、奴はさっき、俺ではなく葛葉に攻撃を仕掛けた。あの時点での脅威度は間違いなく俺の方が上だったはず。
あの時点で葛葉は空中で待機していたから、気取られたとも思えない。空中から襲い掛かられた瞬間に奴は反応し、首の下を一八〇度回転させるなんて芸当を見せてきたわけだ。
そこの差違は何か……攻撃を仕掛けたか、否か……?
そして、俺は今も攻撃を仕掛けていない。だから、こいつは動かない……?
「動体感知か――」
タネが割れれば何のことはない。
大樹を呑み込んだ時のように風で蹴散らしてしまえば話は早いが、あの規模を乱射するには燃料切れだ。それなら――斬り、倒すまで。
「誰も動いてくれるなよ……」
右足に、ゆっくりと体重をかけていく。
地面の砂を踏みしめる音と共に、堕とし子の身体が微かにブレた。
(瞬間移動!?)
目の前に現れた堕とし子の振り下ろす腕を、反射的に刀で受ける。一撃は決して軽くはない。
両腕に力を込め、堕とし子の身体を押し返す。一歩距離を詰め、刀の間合いに持ち込む前に、堕とし子の身体は再びブレていた。
こんなものは勘しかない。咄嗟に振り返り、振るわれた二本の腕を払い除ける。
払い除けた矢先、視界の片隅に腕が伸びたのが見えた――振り上げられた剣閃を刃で受け、腕力で押さえ込みにかかる。
しかし、堕とし子の力は尋常じゃない。明らかにパワー偏重の姿をしていたデカブツの堕とし子の馬力よりも、この細身の堕とし子のものの方が優れている。
――厄介な!
(刀の間合いに入ってこない……!)
両腕は伸縮自在。今は長いままの腕を振りかざし、俺に間合いを詰めさせない。
知能があるかはともかく、こいつには間違いなく戦術がある。
瞬間移動にも見える常軌を逸したフットワーク、精神的な隙もない。真っ当にやり合いたくないのが本音だが――そういうわけにもいかないんだよね!
(ソーマさん!?)
「縮地ってのはこうやるんだよ!」
◆
踏み込んだのは一瞬――黒い風の残滓と共に、距離を一瞬で詰め切った。
剣戟と共に黒い風の刃が奔る。堕とし子は後退の構えを見せた瞬間、風の刃は背後の大地を抉った。
堕とし子は後退を中断、腕と共に相馬へと襲い掛かった。
しかし、蒼白い剣戟は相馬の身体には届かない。彼を逆巻く風と刃を超えることはできず、それどころか腕の刃を削り取る。
実力差は歴然だった。いかに人間離れした能力を持ち、人を狩ることに特化していたとしても、剣士としての経験値があまりにも違いすぎた。堕とし子の振るう一撃の悉くを相馬は知り尽くしていた。
素人から学習したのかと思うほど、その太刀筋は素直だった。
運動性や反応速度は確かに人間のそれではない。魔力による身体能力の向上と戦闘経験によるアドバンテージを帳消しにし、五分の撃ち合いに持ち込むほどのものだ。
しかし、技量で相馬に敗北はない。
剣戟に無駄な動きは一つとしてない。風の刃もまた的確に堕とし子の一撃を払い落とす。そうして、堕とし子を圧倒する姿には凄まじいまでの殺気が満ちていた。
この堕とし子を――
人類種の天敵を――
完膚無きまでにねじ伏せるという、強い、強い意志の力が。
大樹の破壊にほぼ全ての魔力を使い切り、今の彼を動かすのは微弱な魔力と四肢に漲る残りわずかな体力しかない。
だがそれでも、最後まで実力差を覆させはしなかった。
「こうやって遊んでやるのは今回だけだぞ、化け物」
堕とし子の腕が、地に落ちる。
刀が翻るまでもない、風の刃がもう片方の腕を切り裂き、黒い小規模な嵐が噴き上がり、堕とし子の身体は呑み込まれた。
「俺と斬り結びたけりゃ、もうちょっとマシな腕を付けてこい」
相馬は荒く息を吐き、刀を鞘に納めた。
動くものは、もう、何もない。
血の臭いに満ちた戦場で、相馬は寸刻目を閉じ、祈りを捧げた。
「大丈夫……ですか?」
人の気配のまるでない、静かすぎる朝に、不安げな声が響いた。
「……身体は大丈夫。昨日の戦闘じゃ怪我もしてない」
平気そうに語る相馬の表情にも、少し疲労の色が見える。その視線の先には、ミーリア・バルゲルデの姿があった。
相馬の答えにひとまず安堵の表情を浮かべるミーリアだったが、冷静な声がその表情を険しいものへと変える。
「でも、燃料切れかな」
相馬の傍らで、葛葉が呆れ顔で腕を組む。
「あなた……」
「どもども。しばらくこの人ガス欠だから、私が出てきちゃいました。ま、初めましてじゃないし、いいよね?」
葛葉はニコニコ微笑みながら、ひらひらと手を振る。相馬の表情に比べれば、遙かに血色もよく、体調も良さそうに見えた。
「……全くー、昨日のあんな奴、私に任せてくれればいいのにさー。相馬が無茶してすっからかんになってさ、またでっかいのが降ってきたらどうするの? 私、あんなの焼き尽くすの無理だよ?」
「やる前から諦めないでくれ。――ま、そん時はそん時でなんとかするよ。今は、魔力の回復に専念してな」
「ほんとに頼むよ? 私、そこまで滅私奉公の精神持ってないからね。……で、」
葛葉の瞳がミーリアを睨み付けた。
相馬が、ゆっくり首を横に振る。
「やめとけ。……その話は俺がする。お前が汚れ役を買うことはない。お前は、生存者の捜索を頼む。もしかしたらまだ、生き残っている人がいるかもしれない」
「相馬、それだって十分汚れ仕事じゃない?」
「……ごめんな」
「ううん、いいよ。私はそーゆーの気にしないからね。良くも悪くも適材適所って奴だよ」
相馬は葛葉の頬を甲で撫で、背中をとん、と叩いた。
「んじゃ、ひとっ走りいってきま~す。あ、美味しいご飯が用意してあるといいなあ」
「あいよ」
葛葉はひらひらと手を振って、街の外へと駆け出していった。
◆
「いやあ、面目ない」
クロエの付き人の傷は深かった。
「……こっちの台詞だ。もっと早くにとって返してれば……」
「――なに、あれが来た時点で助かる命はなかったので。殿下と、あちらの女性が生き残っただけでも、十分でしょう」
「……あんた、達観してるんだな」
「ええ、まあ。ベルトランの現国王は滅びの日が近いと言っておりました。……私にとってのそれが、今日だったに過ぎません」
淡々と語る様子は、昼間会話した時と変わらない。
だが、その腹には治療の施しようがないほどの酷い刺し傷がある。
「……もしかしたら、アーティ・エルにとっての滅びも今日だったのかもしれません。今まで、二本の大樹がこれだけ近くに、落ちてきたことはなかった……。そこには、何かの意志があるとは思いませんか……」
「意志……」
今日現れた堕とし子は、量産型というような感じには見えなかった。進化したのか、ああいう種類もあるのかはともかく……アレが現れたのにも、何か必然性があるのかもしれない。
「……我々には、ラインハルト皇国に向かわなければならない任務があります。異端審問という、あまり楽しくない仕事です。ただもしかしたら……そんなことをしている場合ではないのかもしれません……」
「異端審問……?」
「あなたのような力を持つ人間達を糾弾するための、裁判……いいえ、儀式のようなものです。我々は、ラインハルトの幼王を異端審問にかけるつもりでいたのですよ……」
「アルを……」
「そして……宮廷魔術師を捕らえるのも、我々の任務でしてね……」
「何のために?」
「はっきりしたことは何も……それよりも、ぐぅっ……お願いしたいことが……」
表情が、苦悶に歪む。
「なんだ?」
「あなたの身柄を、殿下に預けてください……。あの方のお立場は、とても弱い……。何か、手土産を持っていかなければ、どのような扱いを……」
「――分かった。上手くやる」
「……ああ、ありがたい。あぁ、そういえば、私の名を伝えておりませんでしたね。私は、イゼイル・ヴェルフレン。この名も、もしかしたらあなたの役に立つかもしれませんから……」
――イゼイルはそう言い残して事切れた。
その言葉を聞いたのは、俺と葛葉、それにヘルメスだけだった。
彼の主は泣き疲れたのか、血塗れになりながらも眠りこけていた。
眠っていたから……殺されずに済んだのだろう。九死に一生というやつだ。
「――ミーリア」
緋の瞳は、イゼイルの物とは違う達観を帯びていた。
「……どう思った?」
「何に、ですか?」
「昨日のこと」
「……あれを間近で見たのは、初めてだったので。驚きはしましたけど……」
正直、人間のあんな無惨な死に方を見るのは久しぶりで、俺も少し堪えた。
だけど、ミーリアにそんな様子はまるでない。
(どんな人生を送ってこられたんでしょう……)
処刑されかけたり、自分の手で人間を一人殺したり――それだけで目の前の虐殺行為を平然と見届けられるような精神状態になるだろうか。
「何も思わない私は……異常でしょうか?」
問いかけているのに、彼女の瞳は揺らぎもしない。彼女の心の中で、その問いには答えが下されている。俺に問いかけているのは、確認なんだ。
自分は異常なのか、異常ではないのか――。どちらとも考えられる。二分の一に賭けるのは、まだ、少し怖い。
「ミーリア。その答えには時間をくれ。……あと、その質問で昨日の件についてはとりあえず納得した。次の問題は、また同じ事が起きた時にどうするかだ」
「どうするか……ですか?」
「俺と葛葉はデカブツや大樹の相手をしなきゃならない。昨日みたいな状況にまた陥ることは、あり得ない話じゃないだろ? ……その時に、人を守るための力がいる」
「――私が、守ると」
「ああ。……二度と昨日みたいなことを起こしたくない。俺の願いを聞いてくれるか」
「でも、私は力の使い方も……」
「方針変更だ。スパルタでいく」
「す、すぱ……?」
「厳しくやるってこった」
若干煮え切らない点はあるが、今はどうこう言っていても始まらない。
「ま、それは追々として……朝飯の準備をしよう」
主のいなくなった台所をお借りするのに、あまり罪悪感はなかった。人は、死ぬ時は死ぬ。
残された者が有効に使うのが努めというものだろう。
「さて……」
起きたばかりで、昨日着ていた寝間着姿のままのクロエは浮かない顔で、歯が溶けそうなくらいに甘い味付けをしたミルクティーを啜っている。葛葉とミーリアは思い思いにサンドイッチを頬張りながら、俺の方を見やった。
「これからどうするかだけど、案がある人?」
「はい!」
「はい、ノー天気金髪」
「昨日までの方針通りアル君のところへ行く!」
「……俺も同意見。お嬢様もラインハルトに用があるんだろ? 」
「妾のことは……クロエと呼ぶのじゃ。みるくちー、おかわり……ぐすっ……」
「はいはい」
べそをかき始めたクロエの頭を撫でて、俺はミルクティーのお代わりを入れに行く。
「どうぞ」
たっぷり注いだミルクティーをクロエに渡し、再び椅子に腰掛ける。
「うむ、くるじゅうないっ……えぐっ……わ、妾も……それに賛成じゃ。ラインハルトまで戻れば、ベルトランの城下もすぐそこじゃしっ……」
「だけど、ラインハルト側からじゃ門を開けられないんじゃ?」
「それは大丈夫じゃ、妾は王族じゃからあの鉄門を開けられる。あれは、王族が触れると開く秘術がかけられておるからの……」
秘術……ねぇ。
(魔術……なんでしょうか?)
魔術だったら、俺が見た時に気付くと思う。別口だろう。
「そ、それにっ……い、異端審問もしないとならぬっ……ひぐっ……あの馬鹿がいなくても、妾がやればできることを見せなければっ……」
「んじゃ、決まりだな。情報収集も必要そうだし、一刻も早くラインハルトの国内に入ろう。また化け物が降ってこないとも限らないし――」
ガチャン、と、激しい音が響いた。
「……ま、まだあれがくるのかっ……?」
クロエの足下に、ミルクティーの水たまりができている。
身体はぶるぶる震え、机が揺れ、銀の食器が音を鳴らす。
「……来ない」
「本当か? 本当に本当か?」
「ああ、もちろん。な、二人とも」
葛葉は大きく頷いた。ミーリアも話を合わせるように、数度頷く。
「大丈夫だよ、たぶん今のキミはこの世界で一番安全だし」
「な、なんでじゃ?」
「世界を救えるだけの力がある人と、そのご一行と一緒にいるから。私もこう見えて強いんだよ? 相馬は言わずともがな。……だから、安心して。ね?」
クロエは鼻水を啜りながら、何度か頷いた。
「わ、わかったのじゃ……あれ……というか、ぼいんぼいんは昨日おらんかったな……? あれ? どっから来たのじゃ?」
「あー、なんていうかな、助っ人みたいなものでね……ていうかぼいんぼいんって……」
(まぁ、葛葉さんはぼいんぼいんですよね)
うん、言わんとすることは分かる。痴女みたいな格好だもんなあ。本人はミニスカにパツパツの上着の方が動きやすいとかなんとか。
「まぁでも、ぼいんぼいんに悪い奴はおらんのじゃ。ソーマ共々信じておるぞ? ……というわけでソーマ、新しいのを入れて欲しいのじゃ」
「あいよ。……飲み終わったら出発しよう。出発が早ければ早いだけ、ラインハルトに着くのが早くなるからな」
街を出発して二日。深い森の中で、今夜は休みを取ることにした。
「今日はこれくらいにしておこう。雨も降らず、堕とし子も降らず、何事もなくここまでこれてよかったな」
「ほんとにね。相馬の電池は?」
「二割五分くらいかな? 雑魚とやり合うくらいなら十分できる。そっちは?」
「こうやってぶらつくだけなら平気だよ。伊達に長い間、あなたの相棒してないよ」
「そいつは心強い。……ぼちぼち、ミーリアの魔術指導をしようと思ってる。これだけ深い森の中なら、万が一にも人目に付くことはないだろう。お前にはクロエの監視を頼みたい」
「バラしちゃってもいいと思うけどなあ。イゼイルって人とあの子、アル君や相馬を裁判みたいなのにかけようとしてたんでしょ? ちゃんと正直に言っておいた方が、あとでごちゃごちゃせずに済んでいいと思うんだけどなあ」
「一理ある。ただ……アルに対しての出方を見たい。クロエは堕とし子をどうやって撃退したかを分かってない以上、アルの力を見ることで初めて、連中を倒すための力がどんなものかを知ることになる。それでも、魔術が異端だのなんだの言うのなら……」
「あの子、相馬が言うことだったら大体好意的に受け止めてくれそうだけど? 問題の芽を刈り取ることも重要じゃないかなあ」
「人の気持ちなんか分からないよ。……俺に依存してるだけじゃない?」
「……そこまで相馬が言うなら、私はもう何も言わないよ。相馬が言うことにも一理はあると思うしね。じゃ、今日はクロエお嬢様の相手をしてればいいかな?」
「うん。なるべく遠くで頼む」
「あいあいさ」
葛葉は敬礼と共に森の中へと消えていった。
(相棒か……葛葉さん、普段はちょっとあんなですけど……しっかりしてたんですね)
俺だってただのちゃらんぽらんの頭高野豆腐みたいな奴に命預けるのは無理だよ。
(コーヤドーフ……?)
頭に何も詰まってないってこと。
でもそんなことはなくて、あいつは優しくて、強くて、可愛くて、賢い――俺にはもったいないくらいの相棒さ。
(いいな~~~~葛葉さんは、ソーマにそんなに褒めてもらえて)
ヘルメスだって大事な仲間だと思ってるよ。――それに、これからはお前の出番だ。
(……分かってます。この世界のためには、色んな人の力が必要ですから)
木々の揺れる音がした。
「ソーマさん、お呼びですか?」
◆
葛葉さんに呼ばれてきてみたら、森の開けた場所でソーマさんが待っていた。
「よ。歩き通しで疲れてるだろうに、呼び出して悪いな」
「いえ、これくらいは……。私は人とは違いますから」
私という種は――いや、バルゲルデという一族は、人間という種を超えるのは当たり前のこと、吸血鬼という種の頂点に辿り着くために、ひたすらに血を吸ってきた。
ガスケウス・バルゲルデのもはや人智を超えた力にまでは及ばないけれども、私の肉体だって、けしてまともではない。
「ソーマさんは、大丈夫ですか?」
「俺の心配なんていらないよ。……さて、この前の話の続きをしよう。君には、魔術を身に着けてもらう。それも、付け焼き刃で実戦をこなせるくらいに強くなってもらう」
「つ、付け焼き刃で……ですか?」
「俺が――いや、俺だけじゃないな。今日は講師がもう一人いる。だから、付け焼き刃っても、そんなに悪いものにはならないと思うぜ」
ソーマさんの右手が促すように伸びて……小さな少女の白い衣が、宙を舞った。
「――こんにちは。こうしてお目にかかるのは初めてですね。私は、」
「ヘルメス神……!」
白い衣を纏った、美しい少女は――私がおとぎ話で知っている少女の姿と、寸部違わないものだった。この子が、アーティ・エルの人々に智慧を授けた――異能を人々に芽生えさせた原因……!
そう思った瞬間、私の身体の内側で、何かが燃え盛ったように感じた。
「ご存知でしたか。……その通りです。私はヘルメス。この大地の叡智を司るもの。今は、この身を来訪者に預けています」
「預けている……?」
「ヘルメスの命を俺の身体で守ってるって感じだ。貝ってわかる? 身はヘルメスで、殻は俺」
「さすがソーマ! 説明がお上手ですね! そういうことなんです!」
「いや、そんな感動して褒められるほどのことはしてないんだけどなー……」
ソーマさんは困ったように首筋のあたりを掻いている。
「……では、お二人は私が出会った時からずっと?」
「正確に言うと、もう少し前からですが……そういう風に解釈していただいて大丈夫です。あ、他にも質問がありましたらどうぞ! お答えできることには全てお答えします!」
ヘルメス神は私に向かってニコニコ微笑む。
神話でもそうだったけれども、実物もやっぱり……子供だ。
「ええと……その、来訪者というのは……」
「便宜上、ソーマのことをそうお呼びしています。ソーマは、この世界の外からやって来た方。本来、ここにあるべきではない人ですから」
「ええと……仰っている意味が……?」
ソーマさんは腕組みをしたまま、あの人が普段振るっている剣を示した。
「この剣の名前、分かる?」
「剣……ではないんですか?」
「こいつは刀っていうんだ。俺の愛刀でね。神様もぶった切った優れ物だぜ?」
「カタ……ナ……」
まじまじと見たのは今日が初めてだけれど、すごく細い……。こんなの、見たことない。
こんな細い武器で父様の拳と真っ向から打ち合うことなんて……可能なの?
「この世界に、こんな武器ある?」
「少なくとも……私は、見たことないです……。剣といえば両刃で、もっと幅が広くて、重いものと思っていましたから……。綺麗な刃ですね」
綺麗に澄んだ真っ黒な刀身には、私の醜い顔が映っている。
とても醜い、私の紅い瞳と白い肌――それに、銀色の髪。見ていてクラクラしてくる。
私は、刀から目を逸らした。
「他にも、俺の力も見ただろう? あんなことできる奴、他にいる?」
「いないと思います。……いえ、そもそも父様とまともな人間が打ち合えるわけがない、か」
「そういうこと。……納得してくれる? あと、引かない?」
「引くなんてとんでもありません。……あなたがどこから来たとしても、私の救い主であることに変わりはありませんから。ということは、葛葉さんも……」
「ああ。あいつもヘルメスと同じ。だけど、神様だなんてことはない。あいつは……人間じゃないけど、限りなく人間に近い存在だ。仲良くしてやってくれ」
「こちらこそ。……ヘルメス様、なぜ、私達に異能の力を授けたのですか?」
ソーマさんに聞きたいことは、実はあまりない。
私にとっては、私の命を何の見返りも保証もないのに救ってくれたことが全て。
だから、私も何の見返りを求めることなく、この人のために尽くそう。求めてくれること全てに応えてみせる。
「勘違いされていることですが……私は、本当に魔術について関わってはいないのです。様々な技術について、少しばかりの援助をしたことは確かにあります。でも、誓って、異能の力を授けたことはありません。……使い方を知らなかったわけではないですが……」
「それなら私の力は……」
「……私ができるのは、力と知恵を少しだけ強めること。火の扱いや道具の扱いを、人は最初から、心の底では知っていたんです。私はそれに少しの閃きを与えることができる……でも、何も知らない人類に覚醒を促したりすることはできません。ですから、その……」
「私の力は……勝手に芽生えたものだ、関係ないと。私が受けた辱めは私のせいだと……!」
牢の中。誰もいない。飢餓。埃だらけ。鉄格子――。
怖気が私の中を駆け抜けていく。
今こうして、ソーマさん達と一緒にいる日々で上書きしきれないような悪夢の三日間が。
「ミーリア!」
……嫌な思い出。心の底から唾棄すべき思い出。頭が、クラクラする。
「……ごめんなさい、その、平気、です」
よろけた身体をソーマさんが受け止めてくれていた。
「本当に平気?」
優しい声が耳元で響く。
「平気……です。ソーマさん、私を呼んだのはそれだけではないでしょう?」
「ああ。本題は、こっからだ。……ヘルメスへの質問はこれでいい?」
「今のところは……。望んだ答えではないですけど……」
この力の正体を私は知りたかった。
ヘルメス神のことを完全に信用したわけじゃない。嘘をついていることだってあり得る。
でもそれを探るのは、今じゃなくていい。
「君やアルに力が芽生えた理由は、俺やヘルメスが突き止める。……いつか、あの化け物共がいなくなった時、力が残ったままだと何かと面倒になるだろうしな。――んじゃ、次だ」
「私の力……ですね?」
「……はい。確認をさせてください。私は人々にそうしてきたように、あなたの力を強めます。御せないほどの力になるかもしれません。怖いかもしれませんが……ソーマが、あなたに力の使い方を教えてくれます。」
「俺達の世界じゃ、魔術師には必ず弟子と師匠がいてな。師匠が弟子に魔術のイロハを教え込むんだ。ま、安心しな。今からやばいことになっても、俺がちゃんと止めてやる」
「……はい!」
この人の言葉は、どうしてこんなに力強いのだろう。
この人に全て委ねていれば大丈夫なんだという根拠のない安心感を覚えてしまう。
知りたいと思った。――初めて会った時、この人の強さを目の当たりにしてから、ずっと私は心のどこかで、この人の全てを知りたがっていた。
「それではミーリアさん。このアーティ・エルのために……あなたの中に宿る常ならざる力の全てを引き出します」
ヘルメス様が私の手を取り、ぎゅっと握りしめた。
「……ごめんなさい」
小さな声が、私の胸を打った。ただそれは……痛みの鼓動だ。
「あうっ……!」
私の中から、何かが溢れ出そうとする。足の指からだんだんと感覚が遠くなり、私の目に映っていた景色が白い物へと変わっていく。
「すごい……! アルさんから力を引き出した時とは全然違う――」
痛みの鼓動は早鐘のように速くなり、激しく私の臓を打つ。
「あぐっ……うぅっ……!」
何かが、喉元から逆流してくる。咄嗟に空いた手で口元を覆ったら――何か冷たいものが、手の平を濡らした。
「これ、はっ……!」
「ミーリアさん……もう少しですから……!」
「……どうなってる?」
ソーマさんの声が、聞こえた気がした。
「あっ――ああああああああああっ……!」
白い世界が、紅く染まった。
「――! ミーリアさん!?」
◆
ヘルメスの幼い顔に血飛沫が降り注いだ。ミーリアの身体は膝から崩れ落ち、ヘルメスは少し怯えた顔でその姿を見つめている。
「大丈夫か?」
「わ、私は平気です……! ミーリアさんの方を……!」
「出血自体は魔力を引き出した反動としてはよくあること。気にしなくていい――って、そういうわけにもいかないか」
ミーリアの身体を担ぎ上げる。中身が入っていないように感じるほど、その身体は軽かった。
「――それに、よくあること、だけど……」
ヘルメスが力を引き出した時、周囲には凄まじい冷気が発散されていた。
魔力は正しい形で、一種の術式として機能していたわけだ。反動としての出血は、魔力を変換することができず、身体に過剰な負担がかかったことで発生する現象だ。
曲がりなりにもちゃんと術式として機能していた場合に出血することはあり得ない。
「とりあえず……今日はこれくらいにしよう。言い訳は俺がしておく。続きはまた明日」
「わかりました。……ソーマ、私、うまくできましたか?」
「ああ、上出来だろう。昨日まではまるで気配を感じなかったけど、今日はああして氷の力の片鱗が見えたんだから。……ごめんな、させたくもないことをこれで二回もさせちゃって」
ヘルメスは魔力を発現させたがらない。彼女曰く、それは人の有り様を根底から変えてしまう非道な行いであるからと。
アーティ・エルにはもとより存在するはずのないものを取り入れることに、神であるヘルメスが抵抗感を覚えるのも理解は出来る。
アルを覚醒させたときはやむにやまれぬ事情だったし、本人も力を望んでいた。
だけど、今回は違う。完全に俺達の都合だ。ミーリアも承知してくれていたとはいえ、こんなことになると知っていたら――。
「なりふり構ってはいられませんから」
「――そうだな」
ここからは俺の仕事だ。彼女の能力を伸ばし、一刻も早く実戦をこなせるようになってもらわなければならない。その為にも、彼女の性質を理解してあげないと。
「吸血鬼……ヴァンパイアか。クロエをあてにするわけにはいかないしな……ラインハルトで何か調べられればいいが……」
「……すいません……私、何にも知らなくて……」
「俺だって何にも知らない。おあいこだよ。そろそろ疲れたろ? 戻りな」
「はい。……せめて、私一人で実体を維持できればよいのですが……」
「ヘルメス一人でどうするのさ。焦る必要はないよ。いやま、焦りたくなるのはわかるけどさ」
俺だって余裕綽々ってわけじゃない。この前の一件は決して見過ごせる事態じゃない――。状況は加速度的に悪くなっている。このままではあまりにも、悠長が過ぎる……。
「……焦って物事が好転するわけじゃないんだから」
とどのつまりはそういうこと。
ただ、今、何かできることがあるとしたら――事態が悪化しないことを、祈るしかない。
森の中に入って二日目。わがままお嬢様の世話は葛葉に任せ、今日は川の側で早速実戦演習ということになった。
「体調は大丈夫?」
「はい。私たちの種は、血が流れることには慣れていますから。お気になさらないでください」
「吸血鬼が血を流すことに慣れてるって、なんだかちょっと意外だな」
「……血が流れなければ、啜れないじゃないですか」
「なるほど、そいつは確かに」
実に腑に落ちる説明だ。
「まあ、あんなに吐血してしまったのは初めてですが……あ、でも平気ですから! 本当に」
「分かったよ、見る限りは元気そうだしね。――んじゃ、早速始めようか」
俺は踵で地面を二度叩いた。黒い光が地を奔り、紋様を描き出す。
「それは?」
「今のが、ある意味魔術の全てだ」
「そ、そうなんですか……?」
「説明しよう。まず、こうして紋様を描き、輝かせているのは俺の魔力。昨日、ヘルメスが君の身体から引き出したものと同じだ。そしてこの紋様は術式。普段はこんなの使わないけどね」
「術……式……?」
「魔力が流れる道筋、とでも思ってくれ。術式によって定められた道を魔力が走ることによって、魔術が成立する。ただ、戦闘においていちいちこんな術式を構築していちゃ埒が明かない。そこで……」
俺は、自分の足下を示した。
「足、ですか?」
「踵でトントンってやったろ。あれが術式を起動させる鍵なんだ。他にも色々な鍵がある。剣の振り方とかね」
「なるほど……つまり、私も術式を覚えなければならないということ……」
「覚えてもらう必要はない。術式は一子相伝……と言いたいところだけど、他にも一人弟子がいるから、二子相伝になるのかな。とにかく、術式は俺が教える。ま、すぐに覚えられるよ、安心してくれ」
「わ、わかりました……! がんばります! ソーマさんのお役に立ちたいですから……!」
そんな嬉しい言葉に俺は微笑み、授業に移った。
「紋様を刻むのにも魔力を使うんですか……なるほど……」
「鉛筆の芯とか、ボールペン……じゃなかった、万年筆のインクみたいなものさ。微弱な魔力で構わない。重要なのは、魔力で紋様を瞬時に描くという動きを術式起動のキーに組み込むこと。……たとえば、こんな感じで」
刀を振ると、大きな紋様が浮かび上がる。
「これは風の刃を弾丸のように射出する術式だ。ちょっとした応用で風の刃を乱舞させたり、剣に変形させて射出させたりもできる。ミーリアだったら氷の刃を射出できるようになるだろう。実際にやってみるのは後として……どんな動作に関連づけるかってのが、」
「先ほどの足下に現れたものとは少し違いますね……」
ミーリアは興味津々といった様子で宙に浮かんだ黒い紋様を覗き込んでいる。
……ま、熱心な弟子というのは悪いもんじゃない。
「目の付け所がいい。さっきのでかいのは、大樹を破壊する時に使うような、バカでかい嵐を起こす時に使う魔術の紋様なのさ。円の中身がちょっと派手だろ? 剣が何本も連なっているみたいに。対照的に、対人戦闘ぐらいなら今見せているように、剣が三本、切っ先を重ね合わせているこの術式で事足りるってわけよ」
「なるほど、細かいところでも大きな違いなんですね……。覚えられるかな……」
「ゆっくりでいい。さすがに中途半端な状態のミーリアを実戦に出すつもりはないよ」
「それに、動作に関連づけるというのもあまり想像できません。……あ、あの! あと、その紋様に意味はあるんですか?」
「意味? 意味は……まぁ、ないかな。俺の師匠と一夜漬けで考えただけだし……」
「ソーマさんにも師匠がいるんですか?」
「もちろん。俺も、一年と少し前まではずぶの素人だったからな。だからってわけじゃないけど、ミーリアだって強くなれるさ。――ちょっと違うな。俺が強くして見せる」
「その師匠さんも、今はソーマさんが元いたところに……?」
「たぶん。……俺が、ミスってなけりゃな」
たしかに、俺はこの手で来訪神を滅ぼした。
しかし、気が付いたら俺は違う世界に運ばれてしまった。
つまり、世界の無事を確認できてはいないわけだ。……あるいは、世界はやっぱり救えなくて、滅んだ結果が今の状況――なのかもしれない。
「ソーマさん?」
「……ああ、ごめん。心に不健康なこと考えちゃってた。まぁ、なんだその、ずぶの素人だった俺でもまともな師匠がいればすぐにそれなりの魔術師になれるってことで。俺がミーリアにとって良い師匠になれるかは分からないけど、なるべく俺も頑張るから」
「あの……でしたら、私から一つご提案が」
「提案?」
「今日や明日にも、堕とし子が来ないとも限りません。学ばなければならないこともあるかとは思いますが――覚えなくてはならないことに関しては、簡単に済ませる方法があります」
ミーリアは、そのまま八重歯を示した。
「……お聞きになっているでしょうか。私達吸血鬼は血を吸うことで、その宿主の情報を集積する種族。様々なものの血を啜り、彼らが持つ優れた部分を吸収し、発展してきました。技術を模倣することはできませんが、情報や記憶を肉体に定着させることはできます」
ミーリアの親父さんの化け物じみた肉体のカラクリはそういうことね。
(……どういうことですか?)
「ミーリアの親父さんは、君とは比べものにならないくらいの種類と量の血を摂取してきたから、ああなったわけね」
(……すごい行い……ですね)
だな。人間の血を吸う習慣のない俺達には一生理解できやしないだろう。
「はい。……父はあの肉体だけでもとんでもないものですが、大変長命でもあるのです。どれだけの量の、どんな怪物の血を吸えばあのような身体に至るのか、私には分かりません」
「なるほど……だから血統の到達点、ね」
面倒な奴を敵に回してしまったのは間違いないが――どうも、ミーリアの略取や俺の存在はさして重要なことではないらしい。
それはそれで不気味ではある。が、不気味がっている場合でもない。見える脅威よりも、見えない脅威の方が今は重要だ。こと、世界にとっては特に。
「ソーマさん、私という種は忌むべき種族です。あなたにしようとしていることも、とても下賤な行いです。私の非礼を、許してくださいますか? 私は、あなたの役に立ちたいのです。ですから、あなたの血を……私に……!」
紅い瞳に微かな狂気の色を携えて、ミーリアは俺に掴みかかる。
そんなに必死にならんでも……とは、口が裂けても言えるような雰囲気じゃなかった。
「別に、気に病む事じゃないさ。血ならいくらでもあげよう。ただ……」
ヘルメスの意識を、一方的に切り離す。
「はうあっ……!」
全く準備できずに俺から分離させられたヘルメスが、地面に顔から突っ込んでいた。
「そ、ソーマ、なにするんですか!」
「血は俺のだけを吸えばいい。ヘルメスの血が混ざってるとは思えないけど、一応、念のため」
「ソーマさん……お気遣いいただいて、ありがとうございます。では、あの……い、いいでしょうか?」
「ああ。血を流すのにも慣れてるし。ちなみに、どこの血を吸うんだ?」
「えっ? え、ええと……その……館で血を啜る時は、その……本体と言いましょうか、その、血の持ち主の身体に触れることはありませんので……」
言いにくそうに話すミーリアの口振りから、なんとなく食事風景の想像はできた。
なみなみ注がれた赤い血の器を回し飲みしていたに違いない。
まあ、この前館で見た人達全員が動物に噛み付いて血を吸うところを想像すると、その方がまだマシだろう。血をすっからかんに抜かれてしまった被害者には心の底から同情するけど。「ですので……その、指先か何かを切っていただければ……」
「そんな動物に餌やるみたいなやり方でいいのか? もっとこう、ガブっとやるとか……?」
「が、ガブっとですか!?」
「俺の知ってる吸血鬼は、だいたい首筋にがぶっと……」
「えぇと……ソーマさんの世界の吸血鬼の方は、野性的……なんですね」
「が、がぶっとはだめです! わ、私が見ていられません!」
「で、ですから餌をやるような具合に、指先の血をいただければ……」
「血はほんのちょっとでもいいのか?」
「……あ……」
ミーリアは量についてはまるで考えてなかったのか、一つ、ぽんと手を叩いた。
「量については……あまり考えたことがなかったです……。一滴とかでもいいんでしょうか。そんなことないですよね、父は杯一つ分の血を飲んでいましたし……」
「ま、とりあえず試してみようか」
手の平に風の刃を発生させ、指先ではなく、手の平を一文字に切り裂く。
「ひああああああああああっ!?」
ヘルメスが卒倒した。
「ヘルメス様! そ、ソーマさん……」
「いや、指先じゃだめだろうと思って……」
「わ、わかりました……だ、大丈夫でしょうか、ヘルメス様……」
噴き出した血を見て卒倒しているヘルメスをよそに、ミーリアは俺の手の平からドクドクと溢れる血を指先ですくい、口元へ運んだ。
「……どう?」
ミーリアは整った眉を珍しくひそませ、ゆっくり首を横に振った。
「血……です」
「まあ、血だろうなあ。特に変わったことはない感じ?」
「はい。恐らく量が足りないのだと……。というかあの、傷は大丈夫なのですか?」
「ああ、これくらいへーきへーき。他人よりは頑丈かつ便利な身体だからね」
どうやら手の平から十分な量の血を供給するのは無理そうなので、いつまでもダラダラ血を垂れ流していてもしょうがない。右の手を握り込むと、指や爪に血がこびりつきつつ、傷口が塞がれていった。
「すごい……魔術は、そんなこともできるんですか?」
「こいつは魔術じゃなくて、俺の身体的な特徴ってやつ。神様ぶち殺すには、死なない肉体くらいはないと話にならなかったのさ」
この身体を手に入れる代償が、神殺し。
思えば、俺の身体をこんなに便利にしてくれた奴は、来訪神を仕留めたあとに何が起こるのかを分かっていたのかもしれない――なんて考えたところで後の祭りだ。
「じゃあ、ソーマさんは不死……?」
「いや、回復力が異常に高いってだけ。再生する時には傷を負った時の痛みを味わう。肉体は死ななくても精神力が焼き切れる。あるいは、回復不可能なレベルのダメージを受ける。身体が真っ二つとか、脳幹をやられるとか、死ぬ時はあっさり死ぬんだとさ」
それでも人並み外れて粘り強いことに変わりはない。上手く使えば、大事なものを守れる。
「だから、痛みとかを心配することはないよ。――さて、どうしようか?」
「ええーと……ではその、ソーマさんが仰っていたように……がぶっと……」
「りょーかい。どこでもいいぞ」
少し俯きがちに、ミーリアが近付いてくる。
「あ、あの……本当にどこでもいいんですか……?」
「首でも腕でも肩でもいいぞ。あ、上着が邪魔だな」
風で編まれた黒衣を解き、アンダーシャツ一枚の姿になる。
「服……ボロボロですね」
「着た切り雀なのさ。俺がいた世界は鎧とか使われてなかったから、鎖帷子とか着慣れなくて。それに、魔術で戦闘用の服を作った方が遙かに効率的でね。……さ、どうぞ」
ミーリアは両手を俺の肩に乗せ、俺がああ言ったからだろうか、ゆっくりと首筋に顔を近付けてきた。
息遣いが、首にかかる。熱いような冷たいような、不思議な吐息だ。
ただなかなか、その刺激が来ない。牙が皮膚を突き破る感覚が……。
「こわい?」
「……浅ましい行為です……。自分の下賎さが嫌になります」
「俺は嫌になったりしないよ。これは、俺にとっても必要なことなんだから。……どうしても嫌なら、やっぱり一から段階を踏んでいこう。どうする?」
「私が言い出したこと……ですから。行きます……」
すう、と息を吸う音がしてすぐ、硬く尖ったものが、俺の中に入ってきた。
表皮が裂かれたところから血が流れ、右肩を伝っていくのを肌で感じる。上手い具合に深めに歯が食い込んだのか、結構な量だ。
上手く口元が隠れてしまっているから、喉の鳴る音でしか彼女に血を与えられているかは判断できない。ただ、喉が鳴る度、俺の身体を抱きしめるミーリアの腕の力は強くなった。
……なんというか、いざ血を吸われてみるとてんで大したことはない。
ただ、お互いに密着して、俺の一部を差し出すだけのこと。過剰に意識することもない。
これは必要なことだ。過程を短縮し、堕とし子と一日でも早くやり合えるようになってくれれば、それだけ守れる命と猶予が増える。
だから俺は、ミーリアの気が済むまでそのままでいた。
◆
男の人とこれだけ近付いたのは初めてだった。
相手は生きている人で、知らない仲ではない――それどころか、私にとっては初めてと言っても過言ではないくらいの友人だ。
そんな人から、生き血を啜る。必要なことだと分かっていても、やはり気は進まなかった。
でも……ソーマさんの首に歯を食い込ませ、血が私の口内に流れていった瞬間――。
そんな後ろめたさは、消し飛んでしまった。
生きている友人の血の味はとても甘美で、指先のひとすくいとはまるで違った。
ソーマさんの血が私の四肢に染み込み、熱く煮えたぎっていくのを感じる。その血潮が刻み込むのは、魔術の知恵だけではない。
私にはよくわからないものが、いくつも頭の中でくるくる回った。
四角い建物、高い高い塔のようなもの、記号のような文字、見たことのないような服を着た人達――私の中に満ちる情報が、私の知らないことを教えてくれる。
もっと知りたい。
もっと踏み込みたい。
明らかに十分量の血はいただけた。それでも私は欲してしまう。
夢中になって血を啜る私はきっと――バルゲルデの名に相応しい姿であることだろう。
首筋への接吻を終えて、私はゆっくり顔を離した。
口の中は、相馬さんの味でいっぱいだった。奥歯の内側にこびりついた血を、いじらしく舌先ですくって嚥下する。
「どう?」
優しく問いかける声に、私は顔を上げて微笑んだ。
「とても美味でした。法条……相馬、さん……」
私は、頭の中にこびりついた本当の名前を口にした。
相馬さんは少し不思議そうな顔をしてから、なるほど、と小さく頷いた。
「魔術だけじゃなく、俺の世界のことも……」
「……す、すいません。覗き見をしたみたいで。それに、私の中でもまだ整理しきれていなくて、全てを理解したわけでは……」
「別に、見られて恥ずかしいことは多分ない。多分……。ヘルメスだって知ってることだし。――おーい」
相馬さんは気絶しているヘルメス様を引っ張り上げると、小さな頬をぺしぺしと叩いた。
「んん……」
「用事は済んだ。俺の中に戻ってくれ。文句は後ほど」
ヘルメス様の姿は、相馬さんの手の中にかき消えた。
「で、吸血鬼は吸い取った情報をすぐに使えるようになるのか?」
「そう……ですね、身体に馴染んで情報が定着してくれば。あなたの名前は、一番に覚えることができました! 字も書けますよ?」
「そりゃいい。いつか見せてくれ。――馴染むのにはどれくらいかかる?」
「人の記憶や情報をいただいたのは初めてなので、どれだけかかるか……。ただ、魔術に関しては事前に少し教えていただいていた分、すぐに馴染むと思います」
「わかった。……となると、しばらくは待ちか。その間に、他にできることを探そう」
相馬さんは少し悩むような素振りを見せてから、「皆の所に戻ろう」と言った。
「今日は、これで終わりですか?」
「うん。功を焦っても仕方ない。何事もコツコツと、な」
私の行いのことなどまるで気にしていないように――いや、本当に気にしていないのだろう。
この人は私の味方でいてくれる。吸血鬼である私の浅ましい行いを見た後でも。
垣間見た記憶の中には、たくさんの人々がいた。
この人はどんな人でも受け容れてくれる。
だから私も、受け容れてもらっている。それは相馬さんにとって、特別なことじゃない。
でも私は――特別に、なってみたい……。
「あ、おかえりー。もー、二人してなにしてたの? こちとら子供のお守りで……」
「何が子供じゃ! 妾は立派な皇女じゃ! ソーマ、葛葉は妾へのそんけーがないのじゃ! おぬしからも何か言ってやってたも!」
「いやあ、葛葉の言っていることは一ミリも間違ってなくて……。それに、大人扱いしていいんだったら、寝る前と深夜のおしっこにも……」
「ぐぎゃぎゃぎゃがががががああああっ! 言うなああああああああっ!」
「――いやあ、バレてないと思ってたなんて、ほんとに子供だねえ……」
葛葉さんの言葉に苦笑してしまいつつも、どこかで私は羨望の眼差しを向けてしまっていた。
相馬さんと共に、こちらに渡ってきた人が――特別でないはずがない。
あのベルトランの皇女だって……。
でも、私は――。