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法条相馬という男  作者: 風見どり
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銀髪の吸血鬼 その1

 牢に入れられて三日目。

 初めて、尋ね人がやってきた。

「……姫様、申し訳ありません」

 どこかで見た覚えのある人――きっと使用人の一人だろう――は、そう言って、手に持った拘束具を示した。

「……ああ、私も首を撥ねられるのですね」

「すいません、すいません……あたしらには何も……」

「いいんです。まだ吸血鬼らしい死に様でしょう。もう少し陰惨なやり方で殺されると思っていましたから、まだ慈悲があると言えましょう」

「――すいません、すいません……」

 使用人は謝り続けている。でも、牢の鍵を開けようとはしない。

「……安心してください。私は人を無闇に殺めたりはしませんから」

 今、ここでこの小心な使用人を凍らせて、砕いて、逃げ出すことだってできる。

 でも、そうしたって意味がない。そんなことをしてまで拘るほど、生に執着したくない。

 私は人を殺めたのだ。首を撥ねられるには十分すぎる理由だろう。

「……行きましょう。死ぬにはいい日ですよ」


 慣れ親しんだ城を出て、子供の頃に遊んだ中庭には、物々しい断頭台が用意されていた。

 門の外には、領内の人々が集まっているのが見える。

 この断頭には二つの意味合いがある。

 一つは、身内から出た背教者を正当に処分したことを示すため。

 そしてもう一つは――身内だから断頭で済ませてやったということ。

 私の首は背教への抑止になるだろう。

 しかし、父様は分かっていない。

 背教とは望んでなるものではない。

 ヘルメス神の気まぐれによって、私は教えに背かされたのだ。

 だからきっと、私の首を撥ねたところで、しばらくすればまた、可哀想な背教者が現れるだろう。その人にどんな仕打ちが待っているか――想像するだけでもおぞましい。

「死化粧はいらないのか?」

 私を連れてきた使用人が、断頭台を降りていく。

取り残された私を見下ろすのは、父の巨体だ。

「ええ、必要ありません。……姉様方に比べて、私の顔は整っていませんから」

 含み笑いが聞こえた。姉様達の綺麗な顔が歪んでいる。

「そうか。――ならば、始めよう」

 誰かに介助してもらう必要はない。

 私はギロチンが降りるところに首を差し出せばよいだけだ。

 これから五分もしないうちに、きっと私は死ぬだろう。

 どうせなら……今度は血をすするあさましい種族なんかではなくて、ここではないどこかで、普通の少女として生まれたい。もしかしたら、そこでは私の力も誰かが受け入れてくれて、この醜い顔をそしられることもないかもしれない――。

「我が末子、ミーリア・バルゲルデは誉れ高きバルゲルデの血統にありながら、アーティ・エルの教えに背き、その身と心を背教に落とした! 哀れな召使いを氷の棺に封じ、あまつさえそれを砕いたのだ! そのような蛮行、許すことはまかり通らん! 故に、今日、このものの首を撥ねてくれよう! 醜い顔を我が城門に掲げ、背教者への楔としよう! それが、ミーリア・バルゲルデがこのバルゲルデ領にできる最後の奉公である! さあ、ギロチンの刃は研がれた――執行の時である!」

 ――城門の外からの声はあまり聞こえない。

 その分、庭に集まった姉様達が歓喜の声をあげている。

 不思議と哀しくなかった。だから、きっと、これが正しいことなんだろう。

 父様が、断頭台の側に近寄ってきた。

 いよいよだ。

「愛すべき民よ――見るがいい、これが背教者の末路である!」

 父様が、手刀を縄へ振り下ろす。父様の手が触れた瞬間、縄ははじけ飛び、私の視界に一瞬、縄の切れ端が見えて――




 私の意識は、十秒以上連続していた。

 そんなことはあり得ない。刃はすぐに降りてくるはずだ。私の首は身体から離れて、そこで、終わる。でも、私はまだ終わっていない。

『……手短に聞きたい。君はまだ、生きていたいか?』

 頭の中で、声が聞こえた。

『声は出すな。この声は君にしか聞こえていない。君の考えていることは俺が分かる』

 おそるおそる、頭を動かした。

 ギロチンの刃は、宙で止まっていた。その刃をせき止めているのは、黒い剣。

 でも、それが見えているのは私だけみたいだ。父様は困惑気味に刃を見上げ、それから、

「……貴様、この期に及んでまだ背教するか!」

『――まずい。さっさと答えろ。死にたいなら無粋な真似はしない。だけど、九分九厘死にたくても、残り一厘でも何か、生きていたいと思う気持ちがあるのなら――俺は、全身全霊を持って君の命を助けてみせる』

 一瞬前の私なら、それでも死ぬことを選んだかもしれない。

 この世界には希望なんかなくて、私のことを気にかけてくれた人もこの手で殺めてしまって、だから、

『――ああ、承知した』

 ギロチンをせき止めていた剣は、宙を舞う。

 私に死を与えるものが、崩壊する音がした。私の身体を固定していた器具が外れ、身体が動かせるようになる。

「それじゃ、約束を果たそう」

 救済の声と共に降り立った私の救い主は――私とほとんど背格好の変わらない、黒衣を纏った人だった。

「……ほう。ただの子供、ではなさそうだ」

「お、いいね。そういうあんたもただの人間じゃなさそうだ。人間の身体が耐えられる筋肉の付き方じゃねぇだろそれ。邪魔そうだから、俺が削ぎ落としてやるよ」

「――性格はクソガキの類のようであるがなぁッ!」

 ドン、と、大地が震えた。

 父様の踏みしめた足が処刑台として設けられた床にすらヒビを走らせ、一気に踏み込む。

「わお、人間やめてんじゃん」

 父様がもっとも得意とする、右の掌底。人の身体は当然のこと、鋼の鎧すらも砕く一撃だ。

 並の人間が受けて耐えられるわけがない。

「だめ、父様はまともにぶつかり合って勝てる相手では……!」

「勝てないって? そいつはやってみなきゃわかんないな」

 黒衣の人は、ま、安心しなよ、と続けた。

「これでも、割と強いんだぜ?」

 風に黒衣をはためかせながら届いた声には、言いようのない安心感があって、

 私は、この人は正真正銘の救い主であることを、確信した。


                       ◆


 深い踏み込みと共に、巨体は右腕を振りかぶり、一瞬で肉薄した。

 巨体の後方には足の形にえぐり取られた地面があり、男が跳んだことを示していた。

「まずは……お手並み拝見といこうか!」

 黒衣の男は何もない空間に右手を掲げ、筒から何かを引き抜くかのような動作を見せ――空から突如現れた漆黒の刀身でもって、その拳を迎え撃った。

 刀身が拳の皮膚を斬り進む――が、

「かってっ……!」

 鋼鉄の如き皮膚は全く刃が進むことを許さず、それどころか押し返し、砕かんという勢いで、さらに力を込めていく。

「確かにこいつは……!」

 黒衣の男は両手を刀の柄に添え、手を両断せんとばかりに踏み込みを強める。

 通常、この程度の剣であれば触れただけでも砕けている。見た目、男が握る剣――刀、という単語を彼は知らなかった――は、ただの剣よりも遙かに薄い。そんなものが、よもや自らの拳と鍔迫り合うはずがない。

 双方はすぐさま、自分の相手が簡単な相手ではないことを悟った。

「――なんという堅牢さ!」

 双方は瞬時に無駄を悟り、互いに仕切り直しとばかりに飛び退いた。

 黒衣の男は左手でミーリア・バルゲルデを抱えた跳躍であったが、そのハンディを感じさせない俊敏さを見せる。

「……なるほど、確かに君の言う通りだ。アレは、ヤバイ。刀が通らない皮膚って反則だろ。見た限り強化系の何かがかけられているわけでもなさそうだし……生まれつきか?」

「……父、ガスケウス・バルゲルデは一世紀以上生きている吸血鬼(ヴァンパイア)です。父の身体の中に蓄えられた血は私達の比ではありません。血が身体の中で凝縮され、あの鋼の肉体を形作っているんです」

「ヴァンパイア……ありゃ、杭で心臓貫くどころか、貫く杭が裂けるチーズにされるな」

 聴衆やミーリアの家族――バルゲルデの一族に連なるヴァンパイア達は、固唾を呑んで様子を見守っている。先ほどの剣戟でもって、この両者は「まとも」ではないことを理解したのだ。

「あ、あの……」

「ん?」

 黒衣の男は視線をガスケウスから外さないまま応える。

「あなたは、一体……?」

「――ふむ、それは我が輩も聞きたいところであるな」

 刀とぶつかり合った右の拳をさすりながら、ガスケウスが問いかける。

「その剣も相当な業物であろうが……ただの業物であれば我が輩の拳の前に砕け散るはず。ミーリアを庇い立てするあたりから察するに、お主、ラインハルトの宮廷魔術師とやらか」

「へえ、俺の噂、もうこんなところまで届いてんの? いいね、有名人になるのは子供の頃からの夢だったんだ」

「あぁ、当然であろう。――ラインハルトに降り注いだ救いの大樹を単身で撃退、堕とし子の群れを城内のわずかな戦力で殲滅。流言の類だと思っていたが、その認識は改めなくてはならぬようだ」

「お褒めに与り恐悦至極。お褒めついでに見逃していただけませんかね。ここはギャラリーが多すぎる。……後先考えずに暴れ回るほど俺は人間性失ってないんでね」

「……ほう、今ので全力ではないと」

「当たり前だろ。こちとらダテに決戦兵器やってねぇんだよ」

「――ならば、少し本気を見せてもらおうではないか?」

 ガスケウスは再び跳躍、男との間合いを一気に詰める。

 今度の一撃は拳ではない。その手の平は広げられている。男は対処に迷い、陽光に鋭いものが輝くのを見た。

 咄嗟に身体を反らしたものの、男の身体からは黒いものと、少量の血が散った。ただでさえぐちゃぐちゃになっていた断頭台の土台は完膚無きまでに粉砕され、空に散るものに木片が混ざる。

 男はミーリアの手首だけを握って自らの方へ引き寄せたが、ガスケウスにはまだもう一本腕がある。その手は手刀を形作り、ミーリア目がけて振り上げられようとしていた。

「んにゃろっ……!」

 右に握った、刀では手刀を防げない。

「もらったッ!」

「それはどうかにゃ?」

 爆ぜる音が、一つ。

「ぬ――」

 ガスケウスは、自らの懐に見慣れない金髪の女が潜り込んでいたことに気付いた。

 ――あり得ない。

 この断頭台にあった気配は自分を三つ。伏兵の気配は全くなかった。だとすれば、この女はどこから湧いたのか、答えの出しようのない思考が瞬時に巡り――腹部に迸った爆発が、それを中断した。

 ロケットのようにガスケウスの身体は吹き飛び、一族の輪の中にぶち込まれる。

 なおも紫電が爆ぜる左手を閉じ開きしながら、金髪の少女は黒衣の男に振り返った。

「足手まといがいるのにやんちゃしすぎでしょー。人間が真っ二つになるのはちょっとグロすぎるから出てきちゃったよ。大体あれ、今ので死んでないんだから、生物としてのスペックが違いすぎるよ?」

 少女の言葉通り、輪の中に吹き飛ばされたガスケウスは既に身体を起こし始めている。

「ん、ちょっと舐めてた」

 その姿を認め、黒衣の男の目の色から、余裕が消えた。

 しかしそれは、窮地に陥ったそれではない。

「この子を頼む。早々追いかけられないように、腕一本ぐらいは持っていく」

「りょーかい。無理しないでね」

「ん。頼むぞ」

「え、あ、あの、ちょっと……?」

 ミーリアの身体を、金髪の少女が軽々と抱え上げる。

 戸惑い気味の声に、少女は太陽のような笑顔で答えた。

「大丈夫大丈夫。あいつ、ああなったら世界全部敵に回しても一週間戦い続けられるくらい強いから。ああ、でも惜しいな、相馬が言うように、ここはギャラリーが多すぎるね」

「それは、どういう……?」

「世界一つ、国一つ守れる人が、街を一人で壊せないわけないでしょ? ――無駄口叩いてる暇はないね。じゃ、ちょっと捕まっててね。ビリビリするかもだけど、許してね……!」

「な、なにをする気で――」

 左手に閃いていた紫電が、今度は足下に発生する。

「ひ、ひえええええええええっ!?」

 その足で力強く地を蹴った少女の身体は、軽々と城壁の上部へ飛び上がり、二歩目で空の彼方へと消えていった。ミーリアの悲鳴を伴って。

「さて……オッサン、こっちは足手まといいなくなったぞ」

「――そのようであるな」

 ガスケウスは既に復活している。恐らく少女の跳躍を止めようと思えば止められたろうが、彼にその気はまるでなかったらしい。

「でも、葛葉(くずは)の魔術をまともに食らって気絶もしないなんて、あんたほんととんでもないな。真人間が食らったら上半身と下半身真っ二つになるんだぞ、アレ」

「ちょうどいい内蔵の運動になったわ。明日の大便が楽しみだ」

 そう言って、ガスケウスは発達した八重歯を見せつけて笑う。

 先ほどの一撃はあらゆる下準備なしで放てる一撃としては最高に近いであろうことを、ガスケウスは刹那のやり取りのうちに読み取ったらしい。

 あの程度は自分の敵ではない――とでも言いたげな笑みである。

「明日の朝を迎えられると思うなよ……って言いたいところだけど、無駄な殺生はしない主義でね。ま、二、三日立てないくらいで勘弁してやるよ」

「フン。どこまでもスカしたむかつくガキよ」

 介添えの手をはね除け、ガスケウスは大股で再び処刑台へと昇っていく。

「……だが、我が輩がこうしてお前の相手をしているのも思い通りなのだろう?」

「当たり前だろ。俺の目的はあの子だ。ここから遠ざける時間を稼げりゃいい」

「そして、お前は我が輩を通すつもりはない、と」

「だな」

 ガスケウスは指の骨をバキボキ鳴らし、男を真っ直ぐ見据えた。

「一つ問う。我が輩の娘にお前は何を期待している?」

「――あの子の力を貸して欲しいだけさ。俺の一人の力じゃどうにもならないことをしようとしてるんでね」

「なにを、するつもりだ?」

 黒衣の男は、笑って答えた。

「この世界を救う」

 ガスケウスは目を丸くし――豪快に、笑った。

「ガッハッハッハッ! 世界を救うか、そうか……! 前から疑問だったのだ、ラインハルトのような小国になぜそのような使い手が固執するのかと……! 世界を救おうなどという大それたことを本気でやろうとするお人好しは、小国一つすら見捨てたりはせんだろうな!」

「わかってるじゃねぇか」

「……正気ではない。この世界が病みきっていることは、お前も分かっているだろうに」

「生憎、この世界には来たばっかりでね。病みきっているかどうかは、世界を一通り回ってから考えることにする……!」

 躍りかかろうとする男を、ガスケウスは制した。

「――最後に二つ問う。ここに来たのは偶然か。偶然であるならば、世界の救済を目指す貴様が、なぜ我らに真っ向から刃を向けるような真似をする?」

「……偶然通りかかっただけ。そして、あの子は俺に生きたいと願った。俺は彼女を往かしたいと思った」

「利用価値があるからか?」

「あんな綺麗な子を殺すなんてもったいないしな。……で、二つ目は?」

 ガスケウスは静かにファイティングポーズをとる。

「……名は? 決闘の相手の名は知っておきたい。死体では名乗れぬしな」

「――そっくりそのまま返すぜ、筋肉ダルマのオッサン」

「……我が名はガスケウス・バルゲルデ。誇り高きバルゲルデの血統、その到達点である」

「ご丁寧に。なら、俺もちゃんと名乗りましょうかね」

 切っ先と視線をガスケウスに向け、

「俺は法条相馬(ほうじょうそうま)。二回目の世界救済に挑戦中の魔術師だ」

 高らかに、そう名乗った。



 ガスケウスが一人、その場で膝を突いていた。

 法条相馬の姿はない。その拳には無数の剣戟の跡が残る。

「恐ろしい男よ……。よもや、半日近くも戦い続けるとは……」

「お父様!」

 バルゲルデの血統の者達が近寄ってくる。既に、時刻は彼らの時間――夜になっていた。

「ううむ、大丈夫だ。一人でも立てる。……日が落ちれば勝機もあるかと思ったが、存外早く退きおったわ」

 ガスケウスは、どっこいせ、とかけ声一つで立ち上がった。

 断頭台の上はもう悲惨な有様で、周囲の庭にも被害は及んでいる。

「くうっ! もっと早くに日が落ちていれば、お父様が負けるはずなかったのにぃっ!」

「いやいや、そもそも父様は本気を出されていなかったじゃないか。人間相手に手加減していたというのに、あの男……」

「……アレも手を抜いておったわ。よもや、剣一本とあの肉体だけで救いの大樹と堕とし子の群れを撃退できるはずがない。我らに披露したのは決戦兵器の一端よ。まぁよい、ミーリアはくれてやろう。我が輩の手で始末するのが親の勤めとも思ったが……あの男と共に歩むのも、あれには辛い道程になるであろう」

「どういう意味でございますの?」

「……まぁ、よいではないか。ふむ、腹が減ったな。だいぶ酷い有様になってしまったが、庭の片付けは明日にしよう。夕餉の準備をせよ。今日は我が輩も血を使いすぎた」

 ガスケウスの言葉に一族の者達は頷き、ヴァンパイア達は城の中へと帰っていった。

 ――丸い双子月は、空にこうこうと輝いている。


 月を見上げて、幼王はため息をついた。

 幼き王の名は、アルバーン・ラインハルト。銀嶺ファルエットの麓、バルゲルデ領から幾つかの領地を挟んだ小国――ラインハルト皇国を統べる、若干十五歳の若き王である。

「……どうかされましたか?」

 すかさず、付き人の少女が尋ねる。

「気が重くて」

「明日の面会ですか?」

「それ以外に何があるのさ。救い主は旅に出ましたなんて言って、彼女が納得すると思う?」

「思いませんね」

「でしょう。ソーマさんも人が悪いよ、全く……」

「とはいえ、あの方がいたところで、それはそれで彼女が悪知恵を働かせるでしょうから。結果的にはよかったのかもしれませんよ?」

「ソーマさんは、あの程度の人が御せる人じゃない。ソーマさんは頭もキレるし、堕とし子とも戦える。ヘルメス様や葛葉さんだって、僕達にとっては貴重な力だ。それは、あの人も分かっている。だから、わざわざ来るんでしょ」

 柔らかい金色の前髪の隙間から、翡翠の瞳を覗かせて、アルバーンは続ける。

「向こうには僕が背教者だっていう情報がある。こうして皇国に押しかけてくるのは、表向きには背教者――つまり僕への弾劾が目的だ。そこで対処を間違ったら、今度こそラインハルトは人の壁に……肉壁にされてしまう」

「……でしょうね」

「完璧に立ち回れたとしても……肉壁にされるのは変わらない。僕が、民の盾になることはできるけど……」

「その時は、私もお供いたしますよ」

「僕は父さんから教えてもらったよ、臣を道連れにする王はもっとも愚かな王だって。――だから、君に付き合ってもらうことはないし、そうならないために、明日は頑張る。もしかしたら、意外と話を分かってくれるかもしれないしね」

「法条相馬……あの人がいてくれれば……」

「ソーマさんは、アーティ・エルの人じゃない。まして、ラインハルトの人でもない。僕達があの人に依存しすぎちゃいけない。あの人は世界の救い主であって、僕達を救うために来てくれた人じゃないんだから」

「ですが……」

「――あの人が側にいてくれるなら、甘えたいっていうのが本音だよ。あの人は僕よりもずっと場数を踏んでる。どんな苦境でも、きっと最良の答えを見つけてくれるさ。大樹が現れた時みたいに」

「陛下。あの方は、確かに世界にとっての救い主でしょう。しかしながら、我々はその救い主によって紛れもなく救われたのです。あの方は既に……我々の救い主でもあるのですよ」

「それは……それこそ、僕達の勝手な押しつけだよ。きっと、そういうのがイヤでソーマさんは、先に行ってしまったんだ。――僕なら大丈夫だよ、ハリエット。一人でも、上手くやれる」

「……でしたら、物憂げにため息をつかないでください」

「善処します。君も、もう休むといい。明日は早いんだから」

「わかりました。陛下も、よくお休みくださいね」

 ハリエットは一礼して、謁見の間を辞去した。

 一人残ったアルバーンは、手の平の上に炎を渦巻かせ、強く握り締めた。

「僕だって……一人でも……!」

 逆巻く炎は槍へと変わり、三叉層を握り締め、幼王は目を閉じる。

 脳裏に蘇るのは、災厄を振り払った煌めく燈と、鈍く輝く黒い風。

 今、風の繰り手はいない。国の盾は己しかいないのだと、握りしめた拳に力を込めて、幼王は夜が明けるまで、玉座に在り続けた。


 ラインハルト皇国は、極めて微妙な立ち位置にある。

 それはアーティ・エル全土への堕とし子襲来以前から変わらない。

 ラインハルトは、いわば人の壁であった。相馬達が通り抜けようとしたバルゲルデ領は国家を名乗っていないだけで、ラインハルトを遙かに上回る兵力を持っていた。

 兵力だけではない。バルゲルデを支配する一族はヴァンパイア――常人では到底太刀打ちできない異種である。彼らが他国への侵攻に熱心ではないだけで、ひとたび彼らがその気になれば、銀嶺の麓全ての制圧が可能と見られていた。

 故に――銀嶺の麓最大の国家、ベルトランはバルゲルデ一族が領地を築くといち早くラインハルトを飲み込み、非常時の保険(・・)にした。ヴァンパイア達が、その気になってしまった時のために、ベルトランとラインハルトの間に巨大な鉄の扉を築いた。

 ラインハルトから先に、怪物達が押し寄せてこないように。

 幸いなことにも、ヴァンパイア達は全くその気を見せなかった。

 ラインハルト皇国には長い間平和な時間が流れていたが――それは、先日一変した。

 別種の怪物が、空からやって来た。堕とし子の襲来の折、ベルトランは鉄扉を閉ざし、堕とし子の侵入はもちろんのこと、ラインハルト皇国の人々の脱出も許さなかった。

 ラインハルトの崩壊は時間の問題と言えたが――窮地に、救世主が現れた。

 黒い風と共に現れた青年――法条相馬は鉄扉の前に集まり、扉の開放を求める人々の盾となった。ほぼ三日三晩不休で戦い続けた相馬は襲来した堕とし子を駆逐し、彼らの母胎である巨大な大樹すらも、単身で斬り落とした。

 その戦闘には、ラインハルトの幼王も参加していた。

 急造の炎の魔術は怪物達を焼き尽くし、民を守り続けた。


 しかし、この土地で魔術を振るうこと――それは、許される行いではない。

「全く、属国風情が厄介なことをしでかしてくれたものじゃ。ベルトランに直行じゃと思ったのに、わざわざラインハルトに寄って異端審問してからなど……なんでじゃなんでじゃ、なんで妾が手を煩わせなきゃならんのじゃ!」

「厄介なことをしでかしてくれたから、ですよ。殿下」

「うー……属国風情が……」

 荷馬車に揺られながらぼやき続ける女は、クローエン・ベルトラン。

 ベルトランの第七皇女。正直言って、皇女の中でも立場は低い方だ。

「……まあ、点数を稼ぐことも重要ですよ、クロエ様。少なくとも本国の皆様に異端審問なんてことはできっこありません。汚れ仕事であったとしても、これも立派な仕事です。できないよりは、できた方がずっといい」

「わかっておる。……実際どうなんじゃろな。怪物共を倒せるのであれば」

「クロエ様、それ以上はやめた方がよろしい。誰が聞いているかわかりません」

「――まあ、の。ラインハルトの王は十五じゃったか。その年では後先考えずに、己のすべきことだと信じて力を振るったのじゃろうに……」

「民を守ること――それは、間違いなく美徳でしょう。称賛に値する行いだ。しかし、今は、ただ称賛を受けられる時勢でもない。ところで、ラインハルト王のことばかり仰いますが、本題は忘れておりませんね?」

「わかっておる」

 クローエンの語気が強まる。

「宮廷魔術師とやらの方が、属国風情にはもったいない代物よ。じゃが、もうラインハルトにはおらんのじゃろ? 果たして戻ってくるのかのう……」

「……さあ、どうでしょうか。クロエ様、我々にしてみれば、どちらでもよいのですよ。宮廷魔術師が現れないならば、彼はラインハルトに執着していないということ。ならばよし。我々の立ち回り次第で、彼をこちら側に引き込むことは可能でしょう」

「通りすがりの、縁もゆかりもない国のために三日三晩戦うような輩が簡単に鞍替えするかのう。……いや、だからこそか?」

「ええ。そのようなお人好しが、一度救ったものを見捨てるものですか。……間違いなく、揺さぶれば宮廷魔術師は現れます。クロエ様、もうすぐ本日の宿を取った街です」

「ほうか。ようやくこの尻の痛みからも解放されるようじゃ……」

「ゆっくりお休みください。異端審問での失敗は許されませんからね」

「分かっておる」

 荷馬車は、小さな街で止まった。


                       ◆


 バルゲルデ領から脱出して三日が経った。

「……すいません、日中はあまり動けなくて」

 ミーリアは青い顔をしながら、俺の後を付いてきている。

「吸血鬼は万国共通らしいなぁ。ま、いいさ。そこまで急ぐつもりもなかったからね。追っ手も来ていないし、君に無理をさせないで済むなら、そいつに越したことはない」

「ソーマさんは、吸血鬼のことをご存知なんですか……?」

「うーん、辞典的な知識として、かな。実物を見たのはこの前が初めて」

 どうも東欧の奥地にいるらしいという話は聞いたことがあったが、この目で確かめたことはない。

「ソーマさんはなんでも知っているんですね……。お料理も上手ですし……」

「料理は趣味みたいなものだからね。気に入ってもらえたなら嬉しい。相手に喜んでもらえてこその料理だし」

 食材は以前の世界で戦ってきた時のものを、魔術が使用できる限りいつでも出現させることができる。言うならば簡易式倉庫のような魔術だ。本来の用途は、あっちの世界が生きるか死ぬかの瀬戸際、外部からの援助もろくに望めない状況下で生存するため、非常食として持たされたわけなのだが、これが実際、アーティ・エルでは重宝している。

 押し付けられた時は一年分なんてとんでもないと思ったが、なかった時のことを思うとゾッとする。ま、アーティ・エルの食料が俺達の身体の毒になるというわけではないが、道端にホテルなんて気の効いたものはない以上、どうしても野営が多くなる。一々食料を持ち運ぶ手間が省けるのは大変ありがたいのだ。

(料理が趣味とか言って女子力アピールしないでもらえますかー)

 アピールして何になるんだよ。

「ソーマさん?」

「ああいや、こっちの話」

 そう、今森を歩いているのは俺とミーリアだけ。葛葉とヘルメスの姿はない。

(吸血鬼の女の子は確かにレアリティ高いと思いますけどねー。別にー、戦友以上の関係にー、ならなくてもー、いいんじゃないですかねー)

 下心なんてありゃしませんよ。

(……どーだか)

「……ソーマさん、大丈夫ですか? お加減が優れないのですか?」

「問題ないよ。さっさと街で宿をとって落ち着きたいね。話さなきゃならないこともあるし」

 結局、未だにミーリアとは落ち着いて話せていない。

 他愛のない会話くらいはしたが、あんな状況に陥っていた理由のような踏み込んだ話を切り出すタイミングはなかったのだ。

(早い内にそこら辺、確認しておきたいよね)

(能力があるのは間違いないでしょうけど、何があったのか、どれほどの力なのか、とか……詳細はどう頑張っても窺い知れませんからね)

 脳裏に響く賑やかな声に、一つ頷く。

 俺の頭の中はだいたいいつもこんな感じだ。

人間が都合三人も入っていると毎日が大変豊かだ。

(えへへー、感謝してね♪)

「へいへい、ありがたやありがたや……」

「ソーマさん……?」

「ああいや、こっちの話」

 我ながらどうしようもない誤魔化し方をしつつ、俺達はようやく鬱蒼とした森の中を脱出した。ラインハルト皇国までは、あと五日――いや、一度来た道だし、四日ほどだろう。

(はー、ようやく温かいところで休めるね。今日は一緒のベッドで寝ていい?)

 アホ。こっちの世界のお金が無尽蔵にあるわけじゃないんだぞ。人数分の金を払う羽目になったらどうするんだ。

(……お金くらいなら私がちょろっと……)

 神様が非行に走るのはやめなさい。


 行きは寄り道している暇はないと、道なき道をバルゲルデ領までの最短距離でぶち抜いてきたから、途中の街に寄ることはなかった。

 俺だって、早くお家に帰れるものなら帰りたいのだ。

 現状、このアーティ・エルから元の世界に戻る手がかりは全くない。そう、全くないならば、ひたすら前に進むしかない――と思っていたわけ。

 もっともそいつは今も変わらないが、無理なものは無理と割り切るくらいはできる。

(ほんと、びっくりするくらい手がかりないもんねえ)

(アーティ・エルは広いですから……。我々が行き来しているこの地域が世界全体の何分の一にあたるか、私にすらわかりませんし)

(変な話だよね。ヘルメスちゃん、神様なのに世界の状況を俯瞰できていないなんて)

(……私を含め、この世界の神々は、ソーマや葛葉がイメージするほど強い力を持っていません。この状態を見れば、お分かりでしょう?)

 神様というととんでもない力を持っているものだ――なんて先入観を、俺や葛葉は持っている。アーティ・エルに渡る前、俺達と刃を交えてきたのは「神々」だ。

 あるいは、来訪神――。彼らは外からやって来た。今、俺達は世界の外にいるわけだが、恐らくこういう意味での「外」から来たのでもない。

 奴らの由来は全く異なるところ――人が踏み入れてはならない領域から、やって来たのだ。

(その神々は……多元世界の住人……とでも言うのでしょうか……。我々とも桁違いの力を持っているのでしょう。はあ、もう少し私に力があれば……。というか、そもそも世界がこんな状況にはなってないですよねぇ……)

(相馬がいないと意識も維持できないくらいだもんねぇ……。でも、それだけ力のない神様って、本当に神様なのかなぁ……)

(神なんて名折れです。ただの人間よりも不便な身体ですよ……。まあでも、霊体化できるのは便利ですけどね。昔はともかく、今はソーマや葛葉さんとお話できますし……!)

 そいつは何より。

(それでそーまー。私達はいつになったら暖かいベッドで休めるんですかー?)

「……いつになるんだろうねぇ」

 俺達がやって来たのはオルファンという小さな街だった。が、何やら小さな街には不釣り合いな上客が来ているようで、街中はてんやわんやの大騒ぎ、宿はどこも一杯という有様なのだ。

 この街は一応ベルトランとかいう国の領土になるそうだ。俺の記憶が正しければ、ラインハルトを属国としている巨大国家、だったか。

 ベルトランという単語に関連づけて記憶しているのは、ラインハルトにあったバカでかい鉄門だが――。

(あれは胸糞悪かったねー。ま、相馬とアル君、それに私がいたからどうとでもできたけどさ。私達がいなかったら……)

 人間が全滅した時点で連中は引き下がる――殺し尽くせば満足するという算段だったに違いない。あの壁は対堕とし子だけのためじゃないだろうが、少なくともあの日、壁は十二分に役割を果たしたと言えるだろう。

(いくらベルトランの領内とはいえ、ラインハルト皇国を超えてしまったら外国と同じようなものですよね? 一体どうして……?)

 さあねえ。気になるならご本人にでも実体化して聞いてみたら?

(……ご機嫌斜めですか?)

(斜めだねえ、これは……)

「……はあ」

「なかなか、入れませんねぇ……」

 ミーリアも浮かない顔で宿の入り口を見つめている。

「何を揉めてるんだか……」

 宿の中にはどうも厄介な客がいるらしく、さっきから閉鎖状態だ。

「かれこれ二時間……ですか」

「太陽の光は大丈夫?」

「ええ、これくらいなら平気です。……少し、意識が朦朧としますけど……」

「ダメなんじゃないか。まだ日が落ちるまでには時間がある。先客さんには退いてもらおう」

「で、でもっ……!」

「俺達の世界ではね、ああいううるさい客には強硬手段をとっていいことになってるの」

(う、うーん……なってるかな……?)

 少なくとも、俺はそういうことにしてるの。


 ドアをゆっくり押し開けると、わがままを具現化したようなちびっ子が、ぎゃあぎゃあと喚き散らしていた。

「だーかーら! こんなまずい食事は食えんと言っておるのじゃ! まずすぎるのじゃ! こんなの食べたら、妾の歯茎が融解して妾の可憐な口が台無しになってしまうのじゃ!」

「そ、そんなこと言われましても……」

「閣下、まずい食事は私の望むところでもありませんが、文句を言っても仕方がありません。この街に宿は一つしかないのですから。……なんなら、不眠不休でラインハルト皇国を目指して、あなたの小振りなお尻をさらに割って差し上げましょうか?」

「うう……そ、それは勘弁してほしいのじゃ! で、でも! まずい食事も勘弁してほしいのじゃ! もっと腕の立つ料理人はおらんのか?」

「そ、そう言われましても……」

 ミーリアをひとまず宿の中に入れて、俺は小さく囁く。

「……知ってる?」

「いいえ……」

「むー! 食事事情を改善しないと、本国から統治官を派遣するぞ! こわーくて、人の心がまるでわからんような人間のクズを厳選して送ってやるのじゃ! 覚悟せい!」

 本国――ねぇ。

(……ねえ、もしかしてあの子、ベルトランの偉い人……?)

(口振りはそのように聞こえますね。……見る限り、高級そうな服です。付き人の方もちゃんとした格好をされています。この辺では珍しいですね)

 それよりも、彼女の問題は解決できそうだ。

(……ああ、なるほど。それじゃ、せーぜーがんばって)

(葛葉さん……)

(この犯罪者! ロリコン! 女ならなんでもいいのか! くたばれ! お前の性感帯をヘルメスにバラしてやる!)

 へーへー、想像するだけでおぞましいことですよ。

(せーかんたいって……なんですか……?)

「――ちょっと失礼」

 俺はがなり立てる小さい子と、宿の主人らしき男の人の間に割り込んだ。

「……なんじゃ、無礼者」

「これはこれは、小さなお嬢様。失礼いたしました。……ちょっと立ち聞きをさせていただいたんだけど、腕のいい料理人を探しているって?」

「……というか、食えるものを作れるヤツを探しておるのじゃ」

「え、そんなにまずいの?」

「……失敬。いえま、ここだけの話、そこまで美味しくないわけではないんです。庶民の感覚でいえば、十分美味と言えるでしょう。ですが、この方ちょっと舌が肥えていまして……」

「だったら、俺が食事を作ろう」

 付き人の男と女の子は目を丸くした。

「これでも、腕に自信はある方なんだ。どうかな?」

「…………むー。まぁ、よい。なかなかよい面構えをしておる。まずい食事を作ったら、妾が「だんしょう」として囲ってやろう!」

「……だんしょう……?」

「男娼、ですね。……申し訳ありません、少々性に奔放な環境で育っておられているので」

 最高、寒気がするね。

(ちょっとちょっと! なに勝手にわけわかんない話に承諾してんのよ!)

「ソーマさん、そんな無茶な要求を飲んでまで泊まっていただかなくても……」

 葛葉やミーリアは止めてくれるが、俺にはこのちびっ子を満足させる自信があった。

 ――持つべきものは、濃い味付けと化学調味料だ。


「なんじゃこりゃああああああっ! めちゃ、めちゃうまいのじゃ!」

「はっはっは、それほどでも」

 女の子はデミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグにかぶりついている。

 添え物にはポテトフライとミックスベジタブル。少量のミートソースがかかったパスタに、白いご飯も付いている。

「おぬし、名の知れた料理人か?」

「いやいや、そんな大したものじゃ」

「それじゃ、なんじゃ? 何者なんじゃ?」

「通りすがりの旅人ですよ、お嬢様」

「そーかそーか。ならば、妾に出会ったことを光栄に思うがよい! 妾はベルトラン帝国第七皇女、クローエン・ベルトラン。……クローエンとベルトランの間にはごちゃごちゃ名前があるんじゃが、妾もろくに覚えておらぬから、おぬしも覚えんでよい。クロエ様と気軽によぶがよいぞ」

「……はいよ、クロエ様」

 ――勘は当たりだな、ヘルメス。

(ベルトランの王族の方……ですか。どうしてここにいるのか、いよいよ分かりませんね)

 探りを入れれば、勝手に喋ってくれるさ。

「おぬし、名は何という?」

「ソーマ」

「ソーマか! よし、ソーマ! おぬしを今日から妾の専属料理人に命じる! よいな?」

 クロエは傍らの付き人に視線をやる。

 付き人は表情を引き攣らせつつも頷いた。

「よし! ああ、店主! お主達は部屋を最高の状態にしておくのじゃ! 部屋は……あ、そっちのおなごはなんじゃ?」

「ああ、この子は俺の弟子でして」

「……なるほど! ふっふっふ、妾は気が利くからな、弟子はソーマと同じ部屋にしてやろう」

「ええっ!?」

 ミーリアが大きな声をあげるが、目で制す。

 ここは、言うことに従っておく方がよさそうだ。

(出会って一週間も経ってないのに同衾だよ……)

(はははは……)

 まだ何もしていないのに、どうして俺がここまで言われないとならないんだろう。


 クロエ様に気を使っていただき、俺達は無事に(しかもタダで!)暖かいベッドで眠れることとなった。

 ただ、俺達にとってはそれだけじゃない。ちょっとした結界の構築が可能になったのだ。

「この部屋に結界を張った」

 宿の人が好意で用意してくれたラフな格好に着替え、ようやく一息吐く。

「……結界?」

「防音効果が強いが、一応人の目を欺く効果もある。この部屋に入ってくる人には、床で寝てる俺と、ベッドの上で寝てるミーリアの姿しか見えない。もちろん、そこにあるように触ることもできる」

「す、すごい……」

「もっとも、魔術の素養が少しでもある人間には見抜かれるだろうがね。……それでも、この世界の人々のほとんどには有効だ。――さて、ここなら、安心して話してくれるかな?」

「私のこと……ですか」

「ああ。隠し事はしなくていい。俺は君が何をしたとしても見捨てないし、何を考えていたとしても、最初にした約束は守る。――君が望むなら、俺のことも全部話そう。包み隠さず」

(……いいの?)

 話すくらいわけないさ。信用させる、となると難しいけどね。

「ソーマさんには、助けていただいただけでも十分です。これ以上、何を話していただくというのでしょう。あの状況に介入しても、あなたには何も得がなかった。なのに……」

「ありがとう。そう言ってもらえるとありがたい。……それで?」

 ミーリアは、ゆっくり顔を上げる。すっかりくたびれていた服から着替えたことで、いいとこのお嬢様にしか見えない。

「……私に力があると気付いたのは、半年ほど前です。ある朝、眠気覚ましの水を飲もうとしたら……触れた瞬間、水が凍ってしまったのです」

(典型的な氷雪系だね)

 葛葉の声に、心の中で一つ頷く。

「正確に言うと……唇に触れた瞬間、でした。最初は何が起こったのかわからなかったんですが、すぐに大体を察することができました。私は、ヘルメス神の加護を受けたのだと……」

 部屋に備えてあったコップに水差しから水を注いで、ミーリアに渡す。

 水に異変はない。

「……力がいつ発動するのか、私には全く分かりません。あの時も、と、とつぜっ……」

 ミーリアの瞳から涙が溢れ出し、声は嗚咽に変わってしまった。

(制御できてないわけじゃないよね? 感情が昂ぶると発動しちゃうのかな……?)

 寝起きにテンションマックスになるか?

(確かに……。それじゃあ、制約系?)

 恐らく。まだ断定まではいかないが、そういうことだろう。

(えぇと……その、「系」というのは、ソーマ達の分類ですか?)

 その通り。俺達の魔術行使には大まかに言って三種類の状態がある。

 一つ目は、俺や葛葉のように完全な制御下で行使される魔術。「制御系(パッシヴ)」なんて呼ばれ方をすることが多い。俺達にとって、風や雷土を操るのは呼吸なんかと変わりない、自然な所作として完成している。

いわゆる魔術師と呼ばれる者達は、この状態になって一人前なのだ。

 二つ目が、葛葉が言った「制約系(アクティブ)

 魔術行使に必ず、条件が必要となる系統だ。

たとえば、ある決まった呪文を唱えなければならない。

たとえば、靴で二回、地面を叩かなければならない。

たとえば、武器を握った状態でなければならない。

あくまで一般論だが、一つ目と二つ目、両方を使いこなす魔術師がほとんどだ。

――そして、三つ目が暴発系。

魔術を行使する際に必要なのは魔力と術式だが、三つ目は術式を必要としない。

綺麗な言い方をすれば、奇跡といっても差し支えない。しかし、呼び方が「暴発」であるのにはそれなりの理由がある。

魔力はガソリン。術式は車とでも思えばいい。車を動かすための機構を通さずにガソリンを燃やせばどうなるか――。ただ、炎が燃えるだけ。

ただのボヤで済めばいい。だがもし、それが世界を覆い尽くすような大火を生み出すものとなれば――それは奇跡などではない。災厄だ。

 魔術師は誰しもが暴発型の魔術を発現させ、その後、訓練を経て、何かしらの制御の術を身に着けるわけだが――この世界に、魔術の訓練を付けてくれるような先達はいない。

(結局、そこが大問題だよね。力をポンポン濫用されて、それがもし人間に危害を加えるものだったとしたら、そりゃもう堕とし子と大差ないし……)

(……魔術なんて、ない世界だったのですが)

 そう、アーティ・エルにおいて魔術はあり得ないものだった。

 堕とし子もまた、あり得ないものだったが――今、世界にはこの二つが加速度的に出現し始めている。

 現実問題、両者が存在している以上――取るべき手は一つ。

 堕とし子よりは話が通じるであろう、魔術が発現してしまった人々を保護し、技術を教え込む。かつて、俺がそうしてもらったように。

「す、すいませんっ……」

 ミーリアの嗚咽はようやく止み、自分を落ち着かせるように、水を一口、口に含んだ。

「怖い?」

「はい……私、もしかしたらソーマさんまで……って、思うと……怖くてっ……」

「大丈夫。俺は死なないよ。――神様にだって、やられやしない」

 ミーリアの隣に座って、俺はゆっくり肩を抱いた。

「ましてや君に殺されることもね。だから、俺は君を怖がらない。排斥もしない。いついかなる時も、俺は君の味方で居続けよう。そいつが、俺の約束だ」

 ミーリアの身体を縛っていた緊張感のようなものが、ふっと消えた。

「ソーマさん……」

「――だから、話してみて。君が、してしまったことを」

「はい……。あの朝、私はいつも通りに目覚めると……館の使用人が、私に朝餉を持ってきてくれていました。私はそれを受け取った時……ほんの少し、使用人が手を滑らせて……お盆に乗った朝餉をひっくり返して、私の身体にかけたんです……」

 ミーリアは己の右手を強く抑える。

「お皿も割れて酷い有様でした。その時は火傷も酷かったですし、破片で指を切ってしまったんですが……」

「――それで、使用人を凍らせちゃったのか」

「はい。全然、どうなったか分からず……気が付いたら、凍っていました……。私が呆然としているところに他の家の者達もやって来て、部屋の有様を見て……彼らは激した私が、使用人を殺したのだ、と……」

 ミーリアの身体はぷるぷると震え出した。俺は身体を抱き寄せ――。

(うっわー! 過剰なスキンシップだー! セクハラだー! イケメンだからってなにしても許されると思うなよー!)

(ソーマはミーリアさんを励ましているだけじゃないですか? 葛葉さん、さっきから文句ばっかりですよー)

 という賑やかな声になるべく反応しないようにしつつ、言葉の続きを待つ。

「――その後は、ソーマさんのご存知の通りです」

「ちょっと待ってくれ。君が捕まっている間、氷の力は?」

「いいえ、全く……」

(精神的、身体的に不安定になったタイミングがキー……?)

 決めつけるのは早い。牢屋にいる間だって、不安に駆られるタイミングはあったろう。

「あ、いえ、そのっ……私の牢には気味悪がって誰も寄りつかなかったので……その、身体に触られるようなこともなかったですからっ……!」

(うっわ、サイテー! あんたなに聞いてんのよ!)

(……? え、ええっと……?)

 いやいや、俺何も言ってないし聞いてないだろ。なんで責められなきゃならんのじゃ。

 ……しかし、そうなると能力発動の再現は難しそうだ。

(付きっきりで相馬が監視するしかなくない? 相馬だったら、間違って凍らせられることもないだろうし、万が一、億が一の時は私が助けられるしね)

 ありがたい限りで。頼りにしてるよ、葛葉。

(……たまーに優しいこと言ったって無駄なんだから。あり、なんか人の気配する?)

 ミーリアから少し手を離し、外の様子を窺う。

「その、外の方からは今の様子は見えてない……んですよね?」

「うん。楽にしていてくれ。――少し模様替えをしよう」

 軽く術式を改変し、ミーリア一人がベッドで眠っているように見せかける。

(……キザすぎて胸焼けしない?)

(え? そうでしょうか……ステキ……じゃありません?)

(……は~……。こうしてうら若き少女が毒牙にかかっていくんだね……。悪いことは言わないよ、ヘルメス、悪い男に捕まらないように……って、もう遅いか)

 全方位に人聞きの悪いことを言いやがって。

 などと毒づきつつ、俺が部屋の戸の前に立つと同時に、外からも賑やかな声が聞こえてきた。

「ソーマ~起きているかの~」

「起きてますよ、お嬢様」

 戸を開けると、クロエがぴょんぴょん跳ねていた。

「おお、起きておったか。妾な、寝る前のアツアツであまあまなミルクティーが飲みたいのじゃ。作ってくれんかの?」

「もちろん。……それより、お嬢様がこんな夜に、一人で出歩いていいんですか?」

「なにを言っておるのじゃ。妾は立派な王族ぞ? ここは妾の国。一人で出歩くなんてわけないのじゃ」

「なるほど」

 平和ぼけしているというかなんというか。

「ミルクティー♪ ミルクティー♪」

 堕とし子だとか魔術だとか、異常が知覚にないときの、アーティ・エルの人々は、みんなこれくらいのんびりしていたのかもしれない。

 ぼけられるくらいの平和なら、その方がいいに決まっている。


                      ◆


 街の灯りは落ち、闇の帳が落ちている。

「はー……王族の方が来るとこれだから……」

 街の外、北側の門の近くでたばこを吹かしながら、宿屋の主人は馴染みの雑貨屋に愚痴っている。

「まあまあ、金はたんまり落としていってくれるんだ。それでいいじゃないか」

「そりゃ、あの人らが泊まってないから無責任なことが言えるんだ。失礼なことでもしてみろ、俺のいとこみたいに……」

「ありゃ、運が悪かったんだよ。あんときは上の方の王族だったんだろ? そんな人にサラダをひっくり返したってなりゃ……」

「運が悪かったじゃすまないよ、こっちは……。はあ……さっさと嵐が過ぎ去ってくれることを祈るしかないわな」

 石壁にたばこを擦りつけて火を消すと、宿屋はため息をついた。

「そろそろ戻るわ。今、旅のお兄さんが厨房使っててね。ぼちぼち終わる頃だろう」

「あー、あの人ね。ただ者じゃなさそうだけど、なんなんだろうな」

「さてね……。まあ、あの面倒なお姫様の相手を引き受けてくれるなら文句ないさ」

 あー、不景気不景気とぼやきながら、主人は肩を回して、宿の方へ戻っていこうとして――

 大気が、揺れた。

 大気だけではない。明らかに、地が揺れていた。

 誰の目にも明らかな異常――恐らく、アーティ・エルで今もっとも忌避すべき異常だ。

「な、なんだ……」

「おい旦那! あれ見ろ!」

 雑貨屋の指差す先、宿屋はぼんやりとした蒼白い光を見た。

 空から、一本の木が墜ちてきている。種子が大地に根差すように、ゆっくりと。

 その木が運んでくるのは、滅びの種子。

 アーティ・エルの人々はそれを「滅びの大樹」と呼んでいた。

「……なんてこった……!」

 雑貨屋の手から、たばこがぽろりと落ちた。

 大樹は滅びの尖兵を産み落とす。

 産み落とされた彼らの名は堕とし子。アーティ・エルにおける、人類種の天敵である。

「うわああああああああああっ!」

 大の男二人は、人目も憚らず絶叫し、逃げ出した。

 既に彼らの目には、蒼白い身体と異常に発達した四肢を持つ怪物が映っていた。

 産み落とされた彼らの侵攻は驚くほど速く、残虐だ。

 彼らは、障害は全て打ち壊す。壁も、家も、城も、関係ない。程なくして、のどかな街には男達のものとさして変わりない悲鳴が轟き始めた。


「――大きな街を狙うんじゃないのか」

 宿屋の屋根の上、既に相馬は臨戦態勢に移っていた。

 漆黒の刀身を持った刀に、無数の風によって編まれた黒衣。

 黒衣は薄手のように見えて、刃や弾丸の一切を通さない。魔力の通った風の集合体は下手な金属で出来た重鎧よりも遙かに堅固である。

「あんな脳味噌入ってなさそうなヤツにそんな知恵なんてあると思う?」

 葛葉も実体を見せている。単騎で怪物達を攻め落とすだけならば、相馬一人でも事足りる。しかし、人命を守りながらの防衛戦となれば話は別だ。

 世界を守るのと同じく――街を守るにも、戦力が必要だ。

「知恵とかそういう問題じゃない。大きな街や国を狙って木を落とし、あの化け物共に侵略させる。それが、連中の生物としての習性……だと俺は思ってた。習性はそう変わらない。動物や虫が異常行動をしたら、世間は騒ぎ立てるだろ?」

「……なるほど」

「話が通じる相手だと探りも入れられるが……ま、望み薄だわな」

 産み落とされた大樹になった堕とし子達は、周囲の森などには脇目も振らず、次々とこちらへ向かってきている。

「葛葉は街の南半分を頼む。俺は入り口で迎撃。前にラインハルトに落ちてきたのよりはだいぶ小さい……一晩保たせれば十分と思いたいね」

「今度はコンパクトサイズの侵略基地か。でも実際、敵の規模にあわせた自軍の増産プラントを打ち込んで、そこから半無限に戦力を絶え間なく投入する――負ける方がおかしい戦略だよね」

「だけど、俺は負かす」

「そりゃー、敵さんも一騎当千どころの話じゃない化け物がいるなんて思ってないって。……ぼちぼち来るよ。あの吸血鬼の子とお嬢さんは任せて」

「サンキュー。――戦闘開始(セット・アップ)


 街に、一際強い風が吹いた。

 それはただの風ではない。重く、鋭い風だ。

 破壊者を阻み、断つ――無尽にして無形の剣。

「超えられるもんなら超えてみな」

 小さな街の石造りの門を背に、救世主は凄絶に笑った。

 堕とし子の群れの第一陣が、相馬と激突した。

 相馬にとっての大前提は、堕とし子を一匹たりとも街の中に侵入させないこと。

 堕とし子に対して壁は役に立たない以上、横を抜かれれば終わりだ。

 ――完全な防衛。それが、己に課した「責務(ミッション)」であった。

「――――――っ!」

 堕とし子に発声器官はない――らしい。

 が、明らかに彼らは何らかの声を発していた。相馬にはもちろん、ヘルメスやアーティ・エルの人々にも理解できないものだったが――。

「もっとまともに喋りやがれ!」

 振り抜いた剣戟が、堕とし子の一体を胴体から真っ二つに叩き斬った。

 剣と共に舞った風が脇を抜けようとする堕とし子を捉え、すり潰していく。

 堕とし子達は螺旋状になった風の内側に取り込まれ、次々と小さな破片へと変わっていった。残虐とも言えるほどの容赦のない攻撃だったが、相馬の手は止まらない。

 否、止めれば確実に堕とし子に横を抜かれる。緊張の糸を途切れさせることなく、未だ続く堕とし子のラッシュを捌き続けなければならない。

 相馬の前方に展開された不可視の風壁。ほとんどの堕とし子はこれを超えることすら叶わず、蒼白い塵へと果てていく。だが、中には幸運にも風壁を抜け、相馬に肉薄する堕とし子が現れる。

 しかし、肉薄した時点で勝負は付いている。

 肉薄するということは、相馬の右手の刀が届くということ。

 それは同時に、堕とし子の発達した右腕が届くということも意味したが――腕が、相馬に触れることはない。

 法条相馬の剣戟に音はない。刃に伴うのは、微かな揺らぎのみ。

 一瞬の接触で勝負は決まり、彼の眼前には物言わぬ異形の肢体が積み重なっていった。

「手を変えてきたわけじゃない、か」

 怪訝そうに眉をひそめながら、相馬は柄に左手を添える。

 夜明けはまだ遠い――が、確かに時は進んでいた。


「やー、やっぱ凄いや、相馬は」

 宿屋の屋根に、無骨な片刃剣と共に陣取る葛葉はのんきにつぶやいた。

「あの、援護しなくて本当にいいんでしょうか……」

 傍らにはヘルメスがいる。その姿は完全に実体を持ったものではなく、月明かりを少しだけ透かす、半透明の姿だった。

「ま、ほんとならあそこで止めるのは私で、相馬には向こうのでっかいのを叩き斬ってもらえば話は早いんだろうけど」

「けど?」

「私は相馬ほど強くないから撃ち漏らしがあるかもしれないし、向こうの出方は誰にも分からない。だから、私は後方待機ってわけ。不測の事態が起きた時に、即動ける人がいるとなかなか楽でしょ?」

「なるほど……でも、不測の事態って……?」

「分からないから不測なんでしょ。――街の人達は逃げ始めてるみたいだね」

 葛葉の視線の先には、各々、思い思いの貴重品を抱えて、脱兎の如く街の南側の門に殺到している人々の姿があった。

 その中には、あのわがままな王族や吸血鬼の少女の姿もあった。

 葛葉は少し安心させるように微笑み、すぐに戦場へ視線を移した。

「ソーマの力も……怖いんでしょうね」

 風と共に黒衣が踊る怒濤の如き剣舞は鮮やかで、圧倒的だ。

 相馬の細腕は堕とし子の身体を軽々引っ掴んで地に押し倒すとそのまま魔力を流し込み、バラバラに爆散させる。背後をとった別の堕とし子は、相馬が振り返るまでもなく、風で四肢を引き千切られていた。

「……数が多い」

 葛葉が険しい顔でつぶやいた。

「どういう……ことですか?」

「相馬の風で処理し切れてない。前の時と同じか、もしかしたらあの時よりも多いかも……」

「でも、木の大きさは前よりも明らかに小さいですよね?」

 葛葉とヘルメスの目から見える大樹は、以前彼らがラインハルト皇国で目撃したものの三分の二程度の大きさだ。

「……製造プラントとしての能力は、あの大樹の大小に関係ないってことだよ!」


 襲い来る堕とし子に、魔力を帯びた蹴りが炸裂する。体は一瞬で崩れ去るが、すぐに次の堕とし子が迫る。のっぺりとした顔に、感情は何もない。相馬は憎々しげに歯軋りし、風の刃で両断した。

「多すぎじゃねぇの……」

 別段、体力に問題はない。

 問題は、状況だ。

(数が減らない……。いや、前回の襲撃の時はこんなもんだったか。大樹の大小は敵の量には関係ない。なら、大小がある理由はなんだ……? いや、それよりも……)

 前回、ラインハルトの街を守る際には、はっきり言って相馬一人でカバーできる街の大きさではなかった。ある程度の家屋は切り捨て、人命を優先することが出来た。

 それはつまり、相手取らなければならない敵の数も最大よりは少なかったことを意味する。

 しかし今回は、敵の全てが押し寄せてくる。

 恐らく敵は減らない。いや、それどころか増えることだって考えられる。

 その全てをこれまで通りに捌けるかどうか――判断に時間はかからなかった。

(葛葉!)


 相馬の呼びかけに、葛葉は目を見開いた。

「どした?」

(こりゃたぶんどうしようもない。……木を切り倒す。今の持ち場、頼んでいいか?)

 離れた魔術師同士の会話法、念話が葛葉の脳裏に響く。

「わかった。確かに、こりゃどうしようもなさそうだしね」

 片刃剣を軽々担ぎ、葛葉は立ち上がった。

「それじゃ、葛葉ちゃんもちょっと無双しちゃいますかね♪」

 剣に、稲妻が迸る。

(頼りにしてるよ、相棒)

 金色の長い髪が翻り、雷鳴と共に、跳んだ。

 相馬はそれを確認し、低く腰を落とすと――一迅の風と共に、大樹へ向かって突進した。


 進むことしか知らぬ怪物達を、法条相馬の刃は呑み込む。大樹への最短距離の間に存在する堕とし子は全て、反撃の糸口も与えられずに断ち斬られた。

「邪魔だ――」

 四肢と刃が唸り、堕とし子達の群れを食い破る。

 群れを切り抜けた先で、相馬は立ち止まった。

 滅びの大樹は、相馬の眼前にそびえていた。敵が接近したにもかかわらず、一切防衛機構を働かせようとはしない。ただそこにあるオブジェのようだが――確かに、この木は生きている。生きているものを生み出すのだから――生きていると言っても問題はないだろう。

 大樹という名の通り幹からは無数の枝が生え、丸まった堕とし子達が果実のように成り、熟れすぎた果実がそうするように、ぽとりと地に落ち、人類種の天敵としての行動を開始する。

「手っ取り早く済ませるか」


「どりゃあああああああっ!」

 無骨な一撃が堕とし子の頭から真っ二つに叩き斬る。

 地に剣がぶつかり、爆ぜた雷撃が奔った。

 雷撃が触れた堕とし子達の肉体は赤く燃え、焦げ、絶命する。

「は~い、どんどんいらっしゃい! ま、こっちにかまけてる間にあんた達の寝床は吹っ飛んでるでしょうけどね!」

 法条相馬が操るのが黒い風なら、葛葉が操るのは紅い雷土。

 彼女が操る雷土には焔が宿る。雷土で焼けるのではない、葛葉の雷土に触れるものは二度燃える――炎が焼き、雷土が焼く。二度焼かれた敵は、金髪の絶姫に跪く。

「ま、どんだけ頭を下げても私は相馬一筋だけど?」

 相馬に及ばないなどとんでもない。

斬り捨てられた堕とし子達と同量の焼け焦げ跪く堕とし子達を前にして、葛葉は嗤った。


 手段を選んでいる時間はない。相馬は地に刃を突き立て――溢れんばかりの魔力を、刀身に注ぎ込んだ。

「呑み込め、全て」

 巻き上がった嵐は大樹を瞬く間に覆い隠した。救済の風は世界の大敵を食い尽くす。それは、法条相馬がどの世界にあっても変わらない。

 大樹を排除する方法は幾つかある――と相馬は考えていた。手っ取り早いのは幹を叩き斬る方法。今日飛来した幹の太さはおおよそ1・5メートル。十分に刀で両断できる。

 しかし、刀で両断しても成っている堕とし子達が行動不可能になるかどうかは分からない。

 それならば、枝に成っている堕とし子ごと全て切り裂いてしまえばいい――。大樹に対して導き出した現時点での最適解は、樹を丸ごと魔力で練り上げた嵐で取り込み、磨り潰すこと、だった。

 莫大な魔力の奔流は大樹の表皮を削ぎ、未熟な堕とし子達を消していく。

 嵐はウツボカズラの如く、樹を瞬く間に飲み干した。

 風によって巻き上がった、蒼白い粉末が空から街へと舞い降る。

「いっちょあがり」

 相馬は刀をくるりと遊ばせ、鞘に納めようとした時――もう一度激しく、地が揺れた。

 先ほど、宿の中で感じた揺れよりも少し小さかったが……不吉な気配に大差はなかった。


 二本目が、空を割って降ってきた。

 街から逃げ出した人々の前に突き刺さった大樹は、ラインハルトに落ちてきたものとも、ついさっき落ちてきたものとも大きく異なっていた。

 それは、針のように細かった。人一人分の幅しかない。空を覆い尽くすような枝もなく、言うならば枝が一本、突き刺さっているというような具合だろうか。

「な、なんだ……?」

 着の身着のまま逃げ出した町民達は、数歩後ずさりしながら、闇の中にぼうと輝く蒼白い異形を見つめている。彼らはまだ、後方の堕とし子達が滅んだことを知らない。

 故に、街へと戻る選択肢はなかった。

 命を守るためには、先に進むしかない――幸いにも、落ちてきたもう一本には堕とし子が成っているようにも見えない。町民達は意を決し、その脇を通り抜けようと歩き始めた。

「落ちてきただけ……か?」

 何人かの町民達が通り抜けても、細い大樹は何の反応も示さない。

 少なくとも現時点では人に危害を加える気配はなかった。町民達は我先にと、一刻も早く死から逃れるべく、大樹の向こう側へと殺到する。

 そんな人々のうちの一人の肩が大樹に触れた。

 人々は唸るような声を聞いた――恐らく相馬や葛葉は、機械の駆動音か何かと認識するであろう音だ――瞬間、ぱしゅ、と、気の抜けた音が短く響いた。

 それはあまりにも呆気なく、どうにも現実味がなかった。

 左肩から袈裟に斬られ、跳ね上がった生首は一瞬の静寂を与え――すぐに恐慌へ転じた。

 送り込まれたものは、大樹ではない。ただ一体の堕とし子だった。




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