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ピーナッツバターの采配

作者: 末宮

 

 ロマンティックな夢ね

 まるい素敵な夢ね

 リズムに乗せて、運んでくるのね


                 ――――――ザ・ピーナッツ『シャボン玉ホリデー』

 

 *

               

「あっ……」


 スルリ――――食パンは私の手をすり抜け落ちる。そして、ベチャっと不穏な音を立て床に着地した。


 母がこの場にいれば、きっと”言わんこっちゃない”と言っただろう。それから冷え切った声で”自分でかたずけてね”と付け加えるに違いない。


「もう、時間ないのに!」


 生の食パンにピーナッツバターの朝ご飯が私は好きなのだ。

 しかし、今朝に限ってリビングに両親がおらず、ちょうどいい時間に目が覚めなかったというだけの話。

 冷蔵庫をあけ放ち、そこから直接ピーナッツバターを食パンに塗りたくるという行為は至極当然のことじゃないか。いちいち瓶を取り出して、用が済んだらまた仕舞う――なんて、タイムロスでしかない。

 そう、そのことはいいのだ。私がどれだけ怠けていようが、私も世間も困りはしない。


――問題なのはピーナッツバターを塗った面が床についてしまったことなのだ。


 布巾を濡らして、床をふく。

 すでにいつもの電車には間に合わない。そして、パンはもう食べられない。


1、



「どした? 具合悪いの?」


 机に突っ伏す私の肩を叩いたのは友人の菜々子である。


「いやあ、そういうわけじゃないんだけどさ……」


 私は、この友人に事の顛末を説明した。なぜ私はホームルームの中盤で教室に現れ、恥をかき、机に沈んだのか。

 すると菜々子はひとしきり笑ってから、


「あるある、そんなことあるわよね。あたしなんて、暗いところで歯ブラシに歯磨き粉つけると、いつもブラシの背に歯磨き粉乗っけちゃうわ」


「えええ、それは経験ないなあ。逆に器用じゃない? そんなに暗くてよく落とさないね」


「そう? でも口に入れた時に違和感あってすごく嫌なんだよ。まあ今日のあんたの悲惨さと比べたら大したことないけどね」


「そうよねえ……朝から凹むわよ」


 つい沈んだ声を出してしまう。もう済んだことだ――そう理解しているつもりなのに、やはり頭で納得したところで心ってやつは一筋縄ではいかないものだ。

 しかし、そんな私に菜々子は言うのだった。


「でもそれって可愛いと思うわよ」


 私は耳を疑った。あまりに突拍子のないことを言うので菜々子はふざけているのかと思ったが、そういう風でもなかった。


「なによ、どういうこと?」


「だってそうでしょ。それくらいのことで凹むあんたは、なんていうか……可憐? それは違うか……子供っぽい? 合ってはいるけどちょっと違うかなあ――」


 ブツブツ一人問答を始めてしまった。

 

「今ちょっと馬鹿にしなかった?」


 私が口をとがらせて見せると菜々子は、


「あら、バレた?」


 とお道化る。


「少しは励ましてよ、もぉ」


「ごめんごめん――でもさあ、やっぱり可愛らしいわよ」


 性懲りもなく同じ言葉を重ねるので、今度は頬でもつついてやろうと、菜々子を見ると、やはり茶化すような素振りはなく、どこか遠くを見ていた。


「なんかさあ、年を取るたびに”どうでもいいや”って思うことが多くなる気がしない? あんたはどうだかわからないけど、あたしなんか学校に遅刻して気まずい気持ちで教室に入ったって、ホームルームが終わるころにはどうでもよくなってるわよ」


「ううん、そうかなあ?」


「昔は違ったわ――それこそ小学生の時なんか、道草くって遅刻したことが何度かあったけど、そのたびに「怒られるんじゃないか」って心臓バクバクで教室のドアを開けたものよ」


「ウフフ、なんだか急に年を取ったみたいね」


 妙に神妙な様子の菜々子が可笑しくて私が茶々を入れると、今度は菜々子が口を尖らせた。


「とにかく! それくらいのことで生真面目に凹むことができるあんたは可愛いって話よ」


 これで終わり。と言わんばかりに語尾を切る菜々子だったが、こちとら納得できない。いまいち何を言いたいか分からないし、可愛い可愛いと言われて居心地が悪いのだ。


「でも、菜々子の言う”どうでもいいや”ってのは、いい事なんじゃないの? それってつまり、物事に慣れるってことでしょ? ぎこちないより慣れてる方がいいじゃないのよ」


「それは――そうかもしれないけど、ううん……」


 考え込んでしまった。

 菜々子は勉強ができる。しかし、アドリブは苦手な性分なのだ。頭がいい分、色々な事柄に気が回ってしまい、まとめる段階で情報過多になってしまう。私はよく悩みこむ友人をそう評価しており、本人に言ったこともあるのだが「じゃあ今から物書きを目指すわ。これで欠点が長所に変わった」と返されてしまった。やっぱり頭はいい。


「あたしが言いたいのは――えっと……慣れることはできるけど、慣れなくなることはできないってこと……日本語になってる?」


 私は苦笑する。しかし、言わんとするところは分かった。


「不慣れだった頃の気分は、慣れてからは味わえない?」


 菜々子は「そう、それそれ!」と言って手を打った。


「慣れることは誰でもできるけど、いつまでたっても新鮮な気持ちを持っていられる――それは才能よ、得難い個性ってやつよ、うん」


 大層満足げな菜々子だったが、私はやはり腑に落ちない。


「やっぱり、それはいい事じゃないわよ。子供っぽいのが治らないってことじゃない。いつまでも子供じゃダメでしょ?」


「そんなことないわよ」


 きっぱり否定されてしまう。そして菜々子は少し考えてから、


「そりゃ生活に支障が出るほど子供じゃいけないけど、それとこれとは別よ。子供の心を持ったまま責任ある大人として生きることは、決して不可能じゃないと思うわ」


「そうなの?」


「うん、きっとそう。もし神様と友達になったら、あたしをそういう人間にしてくれってせがむわ」


「きっと神様も頭を抱えるでしょうね」


「もう!」


 熱っぽく話す菜々子と、そんな様子を「面白いな」なんて思いながら会話を楽しむ私。

 それはありふれた日常の一コマであり、どこまでも平行線のまま答えはないのだった。


2、



「ええと今日は……出席番号二十三番の生徒――授業が終わったら前に来い。いいか?」


「……はあい」


 もうじき一限目が終わろうという時である。 

 私が生返事をすると一瞬先生と目が合う。ついでに斜め前の席でサムアップする菜々子が視界に入る。

 ご愁傷様――ありがとう。



 授業が終わり、私は巻物(日本地図)を抱え、先生の隣を歩いていた。


「今時こんなの使わないでプロジェクターで済ませればいいのに……」


 ぶつくさ独り言ちる私に先生は苦笑いで言った。


「なんだ、機嫌悪いのか? 朝飯でも抜いたか?」


「子供じゃないんだからそんなことでイライラしませんよ」


 イライラして答えると、先生は後頭部を掻いて「だよなあ」と呟いた。

 目上の人間に対して少し失礼な態度ではないか。我ながらそう思わんこともないのだが、この教師に限っては「そんなもんかなあ」なんて結論に至るのだ。

 見た目は若々しく、背も高く、顔も悪くない。しかし、いつもしわしわのシャツを着ており、たまに無精ひげを生やしている。皆の前ではあまり喋らないが、こうして少人数で行動するときは割かし口を利く。どこか気の抜けたような人であり、生徒に恨まれることは少ないようだが、特別好かれているわけでもない。

 いい意味で明け透けであり、悪い意味で人間らしい――そんな先生なのだ。


「まあなんだ、悩みがあるなら聞くぞ?」


 真面目なのか何なのか、判断に困る真剣さで先生は見当違いの質問を投げかけてきた。

 私は菜々子に「可愛い可愛い」と責められた手前少し悩んだが「まあ黙って歩くよりは」と踏ん切りをつけて話し始めた。


「悩みというより愚痴なんですけど、実は今朝――――」


 先生はどこか気の抜けた風で、しかし真面目に私の愚痴を聞いた。



 資料室は先生の根城であり、隅の方にデスクがある。物が雑多に積みあがった倉庫同然の空間なのだが、僅かにコーヒーの匂いがしみ込んでいる。

 私が今朝のことを話し終えると先生は「ハハハハ」と軽く笑った。


「君は貴重な経験をしたね。正直羨ましいくらいだよ」


 言うに事欠いて「羨ましい」ときた。

 私は巻物を片付けつつ抗議する。


「羨ましい? 私は悲惨な目にあったっていうのに……元を正せば自業自得ですけど」


 尻すぼみに抗議する私に、先生は窓辺の多肉植物に水をやりながら話す。


「失敗する可能性があるなら必ず失敗する――マーフィーの法則っていうんだけど、君が経験したのはまさにその紋切型のような事例だね」


「もんきりがた?」


「お決まりという意味だよ。トーストを落としたとき、バターを塗った面が下になる確率はカーペットの値段に比例するってね。面白いだろ? すでにこの世界には今日の君と同じ悲しみを味わった人間がいて、そのことに名前までついている」


「へえ……」


 まったく知らなかった。

 さすが教師だなあ、と素直に感心してしまう。


「法則だなんてなんだか大げさですけど、それって何か役に立つんですか?」


「いや、ただの経験則――というよりユーモアの類だよ」


「はあ……」


 つい気の抜けた返事を返してしまったが、そのセンスは分からないでもない。割とどうでもいいことを大げさに取り上げて滑稽さを笑う。どこか異国的な冗談の形である。


「僕はそういう経験をしたことがない。いや、もしかしたらあるのかもしれないけど、印象に残ってないんだ」


「だから”羨ましい”ですか? 先生も私みたいな悲劇を味わいたいと?」


「そうなんだが……少し違うか」


 先生は一瞬腕時計を見てから、


「君はなぜ今朝の出来事を僕に話してくれたのかな?」


 突然の質問に面食らう。

(なぜって、たいした理由はないんだけどなあ)

 素直に答える。


「話の種というか――黙って歩くのも嫌だったし、それに先生は話を聞いてくれそうな雰囲気だったから」


 すると先生はうんうんと頷いて、


「僕もそういうつもりで聞いていたよ。君は腹を立ててはいるけど、そこまで深刻に捉えてはいない。違うかい?」


「そんなこと……!」


 否定しようとして、言いよどむ。

 その通りなのだ。私は私なりに今朝の出来事に対して腹を立てている。しかし、それを人に話すとき、そんなに抵抗はなかった。よく考えれば、自分のだらしなさをさらけ出しているのに、それすら織り込み済みで話したのだ。

 なぜ……いや、そんなこと分かってる。


「面白いかなって、話せば面白がってくれる気がしたんです。実際、菜々子も先生も笑ってくれた」


 先生はまた頷いて、


「自覚はなかったみたいだけど、君はトーストを落としたという出来事をマーフィーの法則として捉えている。僕はそれが羨ましいんだよ」


「でもそんなの誰だって……法則を知っている先生なんかは真っ先に気づくでしょう?」


「気づく気づかないじゃないんだ。それに知識ってやつは人の目を曇らせることがある。そういう感覚はまだ君とは縁遠いかもしれないけどね」


「うーん……分かるような分からないような」


 私は首をかしげる。先生は軽く笑って、


「いやいや、そんなに悩まなくていいよ。悪かったね変な話になってしまった」


 これまでの会話を払拭するように頭を振る。


「でも、できれば、ぼんやりとでいいんだけど今日僕がした話を覚えていてほしい。いつかハッとする時が来るんじゃないかと思うんだ」


「ハッと――ですか?」


「ああ、推理小説の解決篇で意外なものが伏線だったと気づく展開があるだろ? そんな感じでさ」


「はあ……覚えてたら、覚えておきます」


 私が曖昧に答えると、先生は「ありがとう」と、少し照れくさそうに言った。

 どうも釈然としない。意味のあることを言われているような気がする。そして、その尻尾をつかんでいる気もする。頭の出来が違いすぎると会話にならない。そんな説をどこかで聞きいたことがあるけど、そういうことなのだろうか。

 いずれにせよ、先生の話は忘れないよう努力しよう。なんて、いつの間にか前向きになっている自分に気づき、苦笑する。

 そのときチャイムが鳴った。


3、



「せんぱぁーい!」


 廊下を歩いていると、聞き覚えのある声が聞こえた。

 振り返ると、小柄な女の子が早足でこちらに近づいてくるところだった。


「春香ちゃん、こんにちは」


「こんにちは、先輩」


 挨拶をかわす。この子は一つ下の後輩であり、実は家も近く、昔から仲がいいのだ。礼儀正しい喋り方は彼女の個性だが、先輩と呼ばれるのはこそばゆい限りである。


「お昼学食ですか? 珍しいですね」


「まあねえ、色々あったというか、盛大にお腹がすいたというか……」


 どう説明したものかと考えていると、春香ちゃんは察しがいいので、


「何かありましたね?」


 と詰め寄ってくる。


「うん、実は今朝――――」


 春香ちゃんは実に素直に私の愚痴を聞いてくれた。



 私たちは定食の乗ったお盆を持ち、苦労して見つけた窓際のカウンター席に並んで座った。

 箸を持ち「いただきます」と呟くと、隣に座る少女の目から星がこぼれていた。


「それって、とってもファンタジーですよっ!」


 そのセリフには十日間断食をした修行僧の箸すら止めてしまうほどの力がこもっていた。私は箸を持ったまま聞き返す。


「ファンタジー? 何の話?」


「ですから、そのピーナッツバター事件のことです」


 ああ始まってしまった。と、私は思った。

 春香ちゃんは小さいころから典型的なよいこであった。しかし、唯一欠点を上げるとすれば、物語に傾倒しすぎてしまう点である。

 絵本に始まり、アニメドラマ小説映画――中でも夢と希望が詰まった砂糖の塊みたいなお話が好きなのだ。


「きっとピーナッツバターを塗った面が下になって落ちたことに意味があるんですよ。そうでなくてはいけない理由――運命ってやつですね。その因果の繋がりに気づかせるために今日先輩はトーストを落としたんだわ」


 鼻息荒く独り言ちる春香ちゃんをよそに、私は豚のしょうが焼きを頬張る。

 少ししょっぱいけど、それがいいのだ。親しみやすい味というやつだ。少なくとも甘すぎるよりずいぶんいい。


「ねー聞いてますか? 食べながらでいいですからせめて相槌くらい打ってくださいよお」


 春香ちゃんは私の服の裾をつまんで甘えた声を出す。菜々子よ、可愛いとはこういうことだよ。

 私は「いやあ、あまりにも”うんめぇ”もんだから」というギャグをすんでのところで飲み込んで、


「ごめんごめん、でも、運命って信じてない人間にとってはただの偶然でしょ? しかも私の場合、そのピーナッツバター事件のせいで学校に遅刻したわけだし――なにか特別な意味があるとは思えないなあ」


 ええでも……と、口惜しそうに呟きはしたものの、春香ちゃんは自分の食事に取り掛かった。

 しばらく二人とも無言で食べる。

 隣をチラリと見ると、春香ちゃんは生姜焼きを口に運びながら何か考えているようだった。私はやれやれと思う反面、皿が奇麗になったとき、彼女はどんな切り口で砂糖をばらまくのか楽しみでもあるのだった。



 春香ちゃんの希望で図書館へ寄ることとになった。食堂は人が多く、食後の余韻など味わうことはできないので、私は素直に付いて行くことにした。


「先輩、宗教っていうのはファンタジーじゃないんですよ」


 特別教室が並ぶ人気のない廊下に差し掛かったところで、春香ちゃんは突然そんなことを言った。


「えっと、そりゃそうでしょうよ」


 私が戸惑いながら言うと、彼女は何かに気づいたようで苦い顔をした。


「すみません。前置きを忘れました」


 と言って、意外なことに甘味のない話を始めた。


「宗教とファンタジーって似てると思うんです。こうだったらいいな、素敵だな――っていう妄想を形にしたのがファンタジーです。作者の提示する妄想に見る人間が共感する。それがファンタジーという娯楽のあるべき姿です。それって宗教そのものだと思いませんか?」


「えええ、そんなこと……」


 否定したかった。宗教とファンタジーはまったく対極にあるというイメージがあったからだ。

 しかし、こうだったらいいな、妄想、共感――それらのキーワードを加味すると、


「神様がいたらいいなっていう妄想を共感しあうのが宗教ってことか」


「その通りです。一見正反対に見える両者ですが、根っこにある仕組みは同じなんです」


 なるほどなあと思う。

 彼女は続ける。


「でも、宗教とファンタジーは別物だと言いました。その理由は、妄想を望む理由の違いです」


「理由?」


「はい、宗教には終末思想というのが根本にある場合がほとんどです。最後の審判、アルマゲドン、スカラ……特殊な電磁波とか、バリエーション豊富ですが、要するに人類、あるいは自分が死んでしまう、滅びてしまうことへの恐れが終末思想です」


 聞いたことがある単語がいくつかあった。そういうもんか、と思う。

 春香ちゃんの話には説得力がある。それこそ宗教の勧誘なんかしたら一財産築けるのではないか――なんて身も蓋もないことを考えてしまうほどに。


「つまり宗教の妄想とのかかわり方は”死”というマイナスの感情が元になっているんです。一方ファンタジーは……って、あとは分かりますね」


「うん、なんていうか、こうなったらもっと良くなるのに。っていう感じかしら?」


 大きくうなずいた春香ちゃんの目から、また星がこぼれた。本当に好きなんだなあ。


「それで、結局何が言いたいの? ピーナッツバター事件になぞらえて話したのよね?」


 春香ちゃんは一瞬ポカンとしてから「ああ、そうでした」と言って頷いて、


「つまりですね、今朝先輩が床に落としたピーナッツバタートーストは、アリスにとっての白兎にもなりえるし、宗教家さんにとっての怪しい電波にもなりえる――ということです」


 もはやお手上げである。噺家の真似をして「その心は?」と素直に聞いてみる。


「白兎も怪電波も変化の予兆なんです。近い未来に、何か起こるかもしれないと信じる人間に思わせるサインのようなものです」


「私にとってそれが今朝のトーストだったと? ……ちょっと分からないわね」


 少し言葉を探してから、


「怪電波のことはよく知らないけど、不思議の国のアリスの白兎って、人間の言葉をしゃべってたり、二足歩行で走ったりするでしょ? 普通じゃないわ。だからこそ春香ちゃんの言うサインになるんじゃないの?」


「たしかにそうですね――」


 春香ちゃんの目が光る。


「しかし、普通か異常かなんて時と場合によって変わってしまう頼りないものです。現に宗教はお金や欲のため、ある事柄に屁理屈をくっ付けて異常なものだと言い張る場合がほとんどですから」


「どうでもいいけど、宗教について詳しいのね」


 私が少し呆れて言うと、春香ちゃんは「ファンタジーを守るための盾として勉強しました」と説明してくれた。意味はよく分からない。


「ええと、春香ちゃんの言うことをまとめると――アリスの白兎は特別である必要がある。でも、普通か異常かは判断できないってことになるわよね。それって矛盾してない? それじゃあどうやって特別だと判断すればいいのよ?」


 お昼を食べたばかりでボンヤリとしている頭をどうにか動かし聞いてみる。

 しかし、春香ちゃんはあっけらかんと答えるのだった。


「そんなの簡単です。ビビッときたものを信じればいいんですよ!」


「えええ……宗教まで持ち出してそんな結論なの?」


「はい、私は先輩のピーナッツバター事件の話を聞いた瞬間、ビビッと来たんです。きっと、先輩にはこれから不思議で素敵な出来事が起こって、それらはピーナッツバター事件が切っ掛けになっていて、最後に意味があったことに気づくんです。だからファンタジーであり運命なんです」


 春香ちゃんは「です、です、です」と力強く断定する。

 私はそれに気圧されたというわけではないけど、つい「そう考えた方が得かもね」なんて言ってしまう。

 すると、春香ちゃんは今日一番の笑顔で「そうですよ!」と言った。

 きっと、彼女とて本気で信じているわけではないのだ。宗教まで持ち出して私に熱弁を振るったあたり、彼女は根っこのところで論理的であり、本当の意味での夢見る少女ではないのだ。

 しかし、私はそんな春香ちゃんこそファンタジーを語るにふさわしい人物なのではないか――そう思うのだった。


4、



 可愛い後輩命名『ピーナッツバター事件』に端を発する軽い憂鬱は、放課後になるまで私を苦しめた。


「ねーねー聞いてよ」


 帰宅部である私が、夕暮れの教室で和気あいあいとしているカードゲーマー達に絡んだのはそれが理由だった。

 ガキっぽい藤本は「うるせえなあ」なんて言ったけれど、ちゃんと話を聞いてくれた。カードゲーマーという人種は、下手なセールスマンなんかより、よっぽど社交的なのだ。それは、カードショップという環境で老若男女問わず対戦するからなのだとか。今、目の前で藤本と対戦している高木が以前教えてくれた。


「アハハ、それは災難だったね」


 その高木が、ピーナッツバター事件を話し終えた私に笑いかけた。


「笑い事じゃないわよ、教室に入るとき、すっごく恥ずかしかったんだから」


「自業自得ってやつじゃねーか、ドジなやつ」


 藤本はニヤニヤ笑いながら言った。

 律儀に私と話している間も、二人は手を止めることはない。机の上に並んだカードをかなりのスピードでさばいている。この手のカードゲームは、本来ならば、あれこれ話しながら進めるらしいが、大会に何度も出場しているこの二人は熟練者であり、細かい工程は省いているのだとか。


「もお、私がドジとかだらしないとか、そんなことはどうでもいいのよ」


 私が大きい声を出すと、藤本に「そこまで言ってねえよ」とツッコミを入れられてしまった。


「よりによって朝の忙しい時にアンラッキーが起こらなくてもいいじゃない――半分の確率で遅刻したってのがやるせないのよ」


「半分の確率?」


 と高木。


「うん、だってピーナッツバターを塗った方が下にならなければ私は遅刻せずに済んだわけでしょ? 表と裏で半分の確率じゃない」


「ああ、なるほどね」


「原因が私にあったとはいえ、とどめを刺したのは運じゃない――あれ? じゃあ私半分しか悪くないじゃん」


「お前なあ……」


 藤本は眉をひそめて、


「その二択に突入した時点で、完全にお前が悪いだろ。冬にパンツ一丁で寝て風邪ひいて『運が悪かった』って言ってるようなもんだぞ」


「それは違うでしょ」


「……僕も違うと思う」


 藤本は一瞬黙って、咳払いで何かを払拭した。


「と、とにかく――運のせいにすんなってことだよ、単純な運ならともかく、お前のそれは『操作できる運』じゃねえか」


 ん? と引っかかる。


「なによそれ、操作できる運?」


 私は首をかしげるが、高木は納得したようだった。


「なるほどね、言われてみれば確かにそうだ」


「どういうこと?」


「たぶん僕や藤本はカードをやってるから身に染みて知ってるんだろうな。えっと、僕らがやってるカードゲームがトランプや花札と一番違うところは何処だと思う?」


「違うところ……?」


 高速で行き来するカードを見て考える。


「……やたらと高い」


 これまたいつか聞いたにわか知識を披露してみる。藤本はコントのようにズッコケていた。


「ごめん、聞き方が大雑把すぎたね。僕が言いたかったのは使うカードの種類が選べるかどうかってことなんだ」


「ああ、なるほど」


 彼らがやっているようなカードゲームにはカードによって強い弱いがある。実際やったことのない私でもそれくらいは理解できる。

 つまり、組み合わせがきまっているトランプや花札と違って強いカードを選んで使うことができる――と言っているんだろう。


「だから、こういうカードゲームは、ある程度引くカードを操作できるんだよ」


「え? ……も、もうちょっと詳しく」


 そこで私の脳は限界を迎えた。


「ったく、頭悪いなあ。ほしいカードをいっぱい入れれば、それだけ引く確率が高くなるってことだろ。テスト前に山を張る範囲を広げれば、それだけ本番で正解率が上がるのと同じだ」


「ああ、そゆこと――でもその例えは違うんじゃない?」

 

「そうだね、範囲を広げられないから山を張るんだよ藤本」


 藤本はまた少し黙ってから「うるせえ!」とキレた。


「そうか、確率は確率でも、その割合を変えられるから操作できる運ってわけね。高木君頭いいわね」


「いや、最初に言ったの俺だからな」


「ピーナッツバター事件の場合、椅子に座って皿の上で作業していれば、トーストの裏表の運にたどり着く可能性がかなり減らせただろうね」


「ううむ、そりゃそうよね……」


 ぐうの音も出ない私であった。


「しっかし、二人ともちょっと変わってるわよね。いつもそんなこと考えてるの?」


「いつもってことはないけど、やっぱりカードをやってるからかなあ――ね、藤本?」


「まあな――って、ああ!」


 藤本が突然渋い顔になる。どうやら負けたらしい。悔しがるのもほどほどに、ケースから新しいカードを取り出してあれこれ考え始めた。

 私の愚痴に付き合いながら頭の半分と手ではしっかりカードをやっているんだから大したものである。


「カードゲームにも有名プレーヤーっているんだぜ、甲子園常連校みたいに大会出るたび入賞するような強い奴がさ」


「へぇ、でもそれって普通じゃないの? 強いから勝つんでしょ?」


 突然何を? という感じだった私に高木が補足してくれる。


「上手い下手はあるけど、どうしてもカードゲームにはプレイヤーレベルの限度があるんだ。こんな時はこうする――みたいな定石をやり取りするゲームだからね。そうなると、あとは運が重要になってくる。いくら操作できるとはいえ、同じカードが連続で来たり、欲しいカードが全然来なかったり、想定できないような偏りができるんだ」


 すると藤本が「そうそう」とうんざりした風に言う。何度もそういう経験をしているのだろう。


「つまりよお、うまい奴が集まる大会でも運が良ければ初心者が優勝できんこともない。逆に言えば、どんなにうまい奴でも負ける時は負けるってこと」


「なのに勝ち続けてる人がいるのね」


「ああ、そういう奴を知ってるからこそ俺たちは確率について考える。一枚違うだけで勝率が全然違うんじゃないのか、勝ち続けてる連中は、もっと突き詰めて考えてるんじゃないのか――挙句の果てにシャッフルの仕方まであれこれ試したりな」


 二人は顔を見合わせて笑った。なんてわかりにくい冗談なのだろう。


「うーん、そこまで言われちゃうと『半分しか悪くない』なんて言ってた自分が恥ずかしいわね」


「ハハハ、そんなことはないと思うけど。まあ、これからは気をつけたほうがいいかもね」


「ドジは気をつけても治らねえよ。どんなに気合を入れてもレシピを知らなきゃ料理はできないだろ」


「こんな時だけ上手く例えるな!」


 思い返せば、慰めてもらおう――なんて甘ったれた考えで話しかけた部分もあったような気もするが、いつの間にか私の憂鬱は幾分か軽くなっているのだった。

 二人は一言も私を慰めなかったにもかかわらずである。

 それは二人が身を置く勝負の世界を垣間見たからだろうか、いやそんな早合点は藤本あたりに言わせれば「全然分かっちゃいねえ」と突っぱねられるだけだろう。

 しかし、たまにはこういう時間もいいものだなあ――なんて、しみじみ思うのだった。



 *



「ふぅ――」


 なんだか私は疲れていた。

 普段であれば、人並みに夜更かしくらいするのだけれど、今日は早く眠りたい気分だった。

 電気を消して布団に入り、今日一日のことを思い返す。

 何をおいてもピーナッツバター事件のことばかり考えていた一日だった。手あたり次第いろいろな人に話したわけだが、みんな違う切り口で私に話をしてくれた。

 すでにとろけ始めている脳みそでは、詳細に思い出すことはできないが、それら一言一言は私にとって重大なことのようにも思えるし、全く役に立たない事柄にも思える。

 とにかく、取り留めがないのだ。

 きっと、今日一日中感じていたやるせない気持ちも一晩寝て起きれば風化して、そのうち「そんなこともあったねえ」なんて菜々子あたりと笑いあったりするのだろう。もしかしたらその頃には聞いた話の半分も覚えていないかもしれない。

 まあ、その程度の出来事だったんだわ――なんて、割り切ることもないのかもしれない……。



 *



――少女は眠りに落ちた。そして、夢を見なければならない。



 *



 何の前触れもなく、私はそれと対峙している。

 あたりは明るくも暗くもなく、それは目に見えないし、きっと存在していない。

 しかし、たしかにそこにいる。


「こんにちは、待っていたよ――いや、そういうわけじゃないか。待ち遠しくはあったけどね」


 そうだろうな、と思う。それが喋りだすことは分かっていたのだ。


「えっと、誰?」


 私は遠慮なく聞く。

 こういうことはよくあるのだ。そして、そんなときは毎回、質問しつつ意識の奥では相手の姿かたちを想像している。


「誰と聞かれれば誰でもないとしか言いようがないけど、そうだなあ……きっとピーナッツなんて呼ばれるのがしっくりくるんじゃないかな」


「そうね、見た目からしてそのまんまね」


 至極当然だと思う。私は”ピーナッツ”のことが見えないけれど、まさにピーナッツの形をしていて、枝のような手足と、どこか気取った山高帽を被っていることが分かる。

 それはきっと、数秒前――私がそう想像した瞬間に決まったことなのだ。


「我ながらいい名前だね、どこか昭和な響きがある。いや、私は平成生まれだけど、彼女たちの歌声を聴く機会はそう少なくないだろ?」


「何の話をしてるの?」


「わからない? ちぇ、君はウィットが分からないんだね。つまりさ、なつかしいって感情は記憶の積み重ねから生まれるけれど、必ずしも本当の記憶が元になってなければいけない――ということはないのさ」


「記憶に本当も嘘もないでしょうよ?」


「そう? それじゃあ、君がニューシネマパラダイスを見て「年寄りの恋愛なんて反吐が出る」と感じたとする」


「ちょっと、そのニューなんとかが何かは知らないけど、私はそんな乱暴なこと思わないわよ」


「冗談が分からないならまだしも知らないのかよ……」


 ピーナッツの顔には特徴がない。顔がある――ということしかわからない。しかし、この時ピーナッツはドッキリを仕掛けられ、ばらされたような顔をしていた。


「映画だよ映画、タイトルにもシネマって入ってるだろ――まあいいや、つまり、映画やらアニメやらの作り話を見た記憶は嘘の記憶じゃないのかってこと。いや、言いたいことは分かる、作り話として見てるんだから嘘もホントもないって言いたいんだろ? でも何となく分かるよな? 感情移入とか深層意識とかそういう領分の話さ」


 私はどこか投げやりに「まあ、そうね」と生返事を返す。するとピーナッツは満足げに頷いた。


「それじゃあ本題に入ろうか。うすうす気づいてるとは思うが、俺がこんな格好をしてるのには意味がある。なんだと思う?」


「ピーナッツバター事件について何か言いにきたんでしょ? 頼んでもないのに」


「まあ外れちゃいないが、ちょっと違うな。私は君の知り合いたちのように好き勝手言いにきたんじゃなくて、この一連の”御話し”にピリオドを打ちにきたのさ」


 ここで私は違和感を覚える。これは夢だ。いつもなら私の思い通りに進むはずなのだ。いや、そうならないこともあるにはある。しかし、そういう時は絶対に後で気づくものなのだ。それは”終わる”ためにそうせざる負えないから、そうなるのであって、だからこそ今ピーナッツが私の思い通りにいかないことが不思議なのだった。


「春香ちゃんは言っていたね「ピーナッツバターを塗った面が下になって落ちたことに意味があるんですよ」って――実はその通りなんだ。私はそれを伝えに来た」


「えっと、え? そうなの?」


 私の頭は混乱しつつある。というより、これからピーナッツが喋ることに怖がっている。聞いてはいけない、絶対に聞いてはいけないのだ、と私の芯のところが警鐘を鳴らしている。


「春香ちゃんは印象に残った偶然を運命と捉えた。これは、ありふれた運命の定義だけど、それでよかったんだろうね。会話がメインなんだから捻くれた運命論なんて必要なかったんだ。さて、春香ちゃんについてはこんなところかな」


「…………」


 私は黙って聞くことしかできない。耳をふさぎたいのだけど、そうできないことを知っているのだ。


「次は、そうだなあ――菜々子はどうかな。彼女は普通の友人だったね。君のことを可愛らしいと言っていたが、あくまで日常の一コマの範疇に留まった素晴らしいキャラだったね」


「キャラ……?」


 人形劇を後ろから見ている気分だった。胸のあたりが苦しくなって、全力疾走した後のように息が上がっている――そんな感じだろうか。


「時系列で行くと次は先生だね。彼は唯一の大人として意図しないユーモアの大切さを説いていたけど、僕に言わせれば君はユーモアってやつを何もわかっちゃいない」


「もう……やめない?」


 なんとか言葉を絞り出すが、ピーナッツはそれを無視して、


「最後は藤本と高木だね。彼らは確率についてカードゲーマー視点で語って聞かせた。内容はともかく、放課後の教室で意外な組み合わせが仲良くしてるって光景は不思議とあるよなあ――案外そういう知り合いの方が長い付き合いになったりね」


「あ……ああぁ」


「さて、そろそろ幕だ。訳知り顔で一通りストーリーを辿っってから、ピーナッツはまとめに入る。言い残すことはあるかい?」


――あるわけないか。


 私、ピーナッツは誰も居なくなった空間で一人講釈を垂れる。ここは、現実と非現実、フィクションとノンフィクション――その全ての要素を内包している。


 さて、彼女はトーストを落とした。そして、運悪くピーナッツバターを塗った面が床についてしまい、そのせいで朝食が食べられず学校に遅刻した。

 そのことに意味があるのだとしたら、それは始まるためなのである。

 もしかしたら電車に遅れたせいで事故を回避しただとか、食べ損ねたトーストには毒が入っていただとか、そういうもっともらしいドラマが待っていたのかもしれない。

 しかし、そんな可能性は妄想の域を出ないと断言できる。なぜなら、そんなのありふれていて、面白みがないからだ。

 だからこそ”始まるため”なのである。意味を還元しきった普遍的なテーマだ――なんて言うつもりはない、結局は苦肉の策であり、逃げなのだ。


 さっきの私のセリフを引用しよう「なつかしいって感情は記憶の積み重ねから生まれるけれど、必ずしも本当の記憶が元になってなければいけない――ということはないのさ」ってね。どうだろう、このへ理屈について考えるとき、昭和の街並みなんかを思い浮かべて、逆説的に考えれば、あながち間違ってないんじゃないかって気がしないかな?


 私はそう思う。だからこそこの物語は生まれた。きっと「ピーナッツバターの采配」は、あなたにとって偽物の記憶にはならないからね……。



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