敵の駒の動き
「き……さん……」
うーん、むにゃむにゃ……何だか声が聞こえるよ……。
「きは……ん……」
八千代ちゃんの声かな?
あと5分……。
「木原さんッ!」
「うわッ!?」
私は飛び起きて、あたりを見回した。
あれ? ここはどこ? 家で寝てたんじゃなかったっけ?
「木原さん、そろそろ帰りましょう」
鞄を持った八千代ちゃんが、そばに立っていた。
帰る? ……あ、そっか、ここは部室だね。寝ぼけてたよ。
「今、何時?」
「5時過ぎです」
うわ、ずいぶん寝ちゃったね。他に誰もいないし、帰ろうか。
私たちは荷物を整理して、部室を後にした。
「八千代ちゃんは、どっちの方向?」
「中町の方角です」
中町……あ、同じだね。
「私もそっちだよ。一緒に帰ろうか」
私たちは校門を出て、夕暮れ時の駒桜市を進む。
空が奇麗だね。それに、お腹が空いてきたよ。
帰ったら夕食だけど、ちょっと我慢できないかな。
「ねえねえ、そこの喫茶店に寄って行かない?」
「喫茶店ですか? もう遅いのですが……」
「大丈夫、ちょっとジュース飲むだけだからさ」
私は八千代ちゃんの手を引っ張って、喫茶店に入った。
私はクリームソーダ、八千代ちゃんはコーヒーを頼んだ。
品物が出たところで、私はストローに吸い付く。
美味しいね。頭を使った後は、甘い物に限るよ。
八千代ちゃんは、黙ってコーヒーを飲んでいる。
あんまり喋らないね。話を振ってこないタイプかな?
「……ねえ、次は、何を覚えたらいいと思う?」
「そうですね……そろそろ持ち駒に入ってもいいですが……」
持ち駒? 何かな、それ?
駒ならもう持てるよ。
私が質問しかけたところで、八千代ちゃんが先に口を開いた。
「ただその前に、敵の駒の動きを覚えた方がいいですね。木原さんはこれまで、王様以外の敵がいなかったのではないのですか?」
王様以外の敵……。
そうだね、ないね。
大川先輩は、いつも王様しか使わなかったし。
「ないよ」
「では、そこから始めましょう」
「敵の駒は、こっちの駒と同じじゃないの?」
新しいのがあると、困るんだよね。覚えるのが大変だから。
「はい、同じです。但し、『敵の駒は常に逆さまに動く』ことをお忘れなく」
逆さまに? どういうことかな?
「将棋は常に、プレイヤー同士が向かい合って行うゲームです。そのとき、敵の駒はこちら側に正面を向けているわけですから、当然に、動ける範囲が逆さまになります。まあ、説明するよりも見た方が早いと思いますので、ざっと並べてみましょう」
そう言って八千代ちゃんは、鞄から小さなプラスチック盤を取り出した。
うわ、ちゃんと携帯してるんだね。偉いよ。私もそうしようかな。
「基本的な動きは押さえていますから、並べるだけにしますね」
《敵の歩》
《敵の香車》
《敵の桂馬》
《敵の銀》
《敵の金》
《敵の角》
《敵の飛車》
《敵の成駒(と金、成香、成桂、成銀)》
《敵の馬》
《敵の龍》
あ、なるほどね、動ける範囲が逆さまって、こういうことなんだ。
上下対称な角、飛車、馬、龍は、変わらないんだね。
「ありがとう、理解したよ」
「初めのうちは大変かもしれませんが、じきに慣れます」
確かに、慣れの問題な気もしてくるね、将棋のルールって。
「さて、敵も駒を持つということは、それだけ戦力がアップするわけです。ですから、これまでは王様を捕まえることができた形でも、急にできなくなったりします。とりあえず、実例をひとつ挙げてみましょう」
八千代ちゃんは、銀と歩を選んで、盤の上に配置した。
「今、私のターンと仮定して、これは詰んでいますか?」
えーと、これは、どこかで見たよ。確か……大川先輩の宿題だったかな。
今は八千代ちゃんのターンだから、次に王様を動かさないといけないよね。でも、どこに王様を動かしても、歩か銀で取れちゃう。だから……。
「うん、詰んでるよ」
「では、こうすると?」
八千代ちゃんは、駒の山から歩を摘まみ上げて、それを王様の上に置いた。
これは……。
「詰んでるんじゃないかな?」
王様をどこへ逃げても、結局取られちゃうよね。
それどころか、9筋二段の歩が邪魔で、逃げ道が減ってるよ。
「私は王様を動かしませんよ」
「え? パスは反則だよ?」
「パスではありません……こう指します」
八千代ちゃんは王様を無視して、歩に手を伸ばした。
「……あ、そっか」
私は唖然とした。
そうだね、歩がいるから、必ずしも王様を動かさなくていいんだね。
でもでも、王様が逃げられない状態なのは、変わらないよ。
「それじゃ、助かってなくない? 王様の逃げ道が増えてないよ?」
「待ってください。次は、木原さんのターンですよ」
……そうだね。私のターンだね。うっかりしてたよ。
だけど、これって……。
「動かして良さそうな駒がないね……」
歩を8筋一段に成ると、王様に取られちゃうし、銀を9筋二段になっても、やっぱり取られちゃう。歩と銀の片方を取られたら、もう絶対に捕まらないよね。
「動かさないと、パスで木原さんの負けですよ?」
うぅ……そうだね……パスはできないから……。
せめて、駒を取られないようにするには……。
「こうかな?」
私は、銀を7筋二段に成った。
この銀は成らないと、次に歩を取られちゃうんだよね。
だから、これしかないんじゃないかな?
八千代ちゃんは軽く頷き、王様を9筋二段に逃げた。
「私が銀を動かしたから、王様はそこに行けるんだね……」
「そうです。このために、歩を移動させたのです」
歩が1枚いるだけで、すごく面倒だね。
でも、まだ諦めないよ。歩を成って……。
「あッ……」
「これはもう、捕まりませんね」
八千代ちゃんはそう言って、コーヒーを飲んだ。
うーん、私は腕組みをして、もう一度考えを巡らせる。
歩が1枚増えただけで、捕まらないなんてことがあるのかな?
どこかで間違えたんじゃない?
可能性があるのは……。
「ここで、こうすると?」
私は歩を成らずに、成銀を引くことにした。
八千代ちゃんはカップを皿に戻し、しばらく盤を見つめる。
私の予想だと、これで詰むんじゃないかな?
こうやって……。
(※図は数江ちゃんの脳内イメージです。)
これで、八千代ちゃんの負けだね。
私がホッとしていると、八千代ちゃんは、全く違う手を指してきた。
あれれ? また歩?
「これで、9筋に逃げ道ができましたね。そちらは、攻め駒が足りないのでは?」
「……」
足りないね。歩か成銀を動かさないといけないけど、どっちも良くないよ。
「……ギブアップ」
私は降参して、アイスクリームを口に含んだ。
「ごめん、正解は?」
私が答えを訊くと、八千代ちゃんは小首を傾げた。
「正解はないですよ」
「ない……? どういうこと?」
「さっきの配置は、どうやっても詰みません」
あ、そうなんだ……。歩が1枚増えただけで、捕まらなくなるなんて……。
歩の力を舐めてたね。反省。
「そばに歩があると、絶対に詰まないのかな?」
「そんなことはありません。例えば……」
「これはどうでしょうか?」
香車と桂馬のコンビだね。私が苦労した奴だよ。
「さっきと同じで、詰まないんじゃないかな?」
「そうでしょうか? まず、歩を突きますよね」
だね。王様を動かすと、香車で取られちゃうからね。
「私は桂馬を成るよ」
これは、成らないと反則負けなんだよね。二段目の桂馬は、動けないから。
「はい、ここで私の番なのですが……」
八千代ちゃんは、まず王様を縦に逃げた。
あれ? それは……。
「それだと、香車を成って詰んじゃうよ?」
香車を成らずに、成桂を8筋二段目に寄っても詰んでるよね。
「ええ、そうなんです。しかし、仮に歩を突いても詰みますよね?」
歩を突いても……うん、詰むね。
「要するに、これは捕まるんですよ」
そっか、これは王様を必ず取れるんだね。
さっきと結論が違うから、逆にびっくりだよ。
「じゃあ、香車と桂馬のパターンは、歩がいても王様を捕まえられるんだね」
「いえいえ、そうとも限りません。これならどうですか?」
八千代ちゃんは最初の局面に戻した後、歩を二段目でなく三段目に置いた。
「それは、今やって……」
「違います。私はまだ動かしていません。初期配置が、こうなっている場合です」
それって、何か違うのかな? 味方の歩が王様から離れてるよ?
「まずは、私のターンです。王様は動かせないので、歩を突きます」
「さっきと同じように成るよね?」
私は桂馬を跳ねて、それをひっくり返した。
「王様を縦に逃げます」
「そこで香車を成って……」
私が香車を成ると、八千代ちゃんは、すかさず王様を縦に逃げた。
「あッ……」
「……捕まらないね」
「ですね、これは逃げられます」
捕まったり捕まらなかったり、基準がよく分からないね。
私は、3つの局面を交互に作り直して、じっくりと考えてみる。
【第1図】
【第2図】
【第3図】
まず、王様に歩が味方してるのは、どれも同じだよね。
私の駒は、1番目が歩と銀、2番目と3番目が香車と桂馬だね。
私の方の配置には、2パターンしかないよ。しかも、王様の位置は全部一緒。
違うのは、八千代ちゃんの歩の位置だけ。
「うーん……何か法則があるのかなあ……?」
空っぽのガラスコップ片手に考えていると、八千代ちゃんは静かに目を閉じた。
「法則ですか……あるにはあるのですが、やや複雑ですね」
そっか、複雑なんだ。でも一応、教えてもらおうかな。せっかくだし。
「ちょっとだけ説明してよ」
私がお願いすると、八千代ちゃんは1番目のパズルに戻った。
「まず、この9筋二段にいる歩は、どういう役割を果たしていますか?」
「役割? ……王様を守ってるんじゃないの?」
「いいえ、違います。この局面に限って言えば、歩は王様を守っていません。むしろ、9筋二段目の逃げ道を封鎖しているので、邪魔な駒です」
「???」
それって、おかしくない?
歩が王様を守っていないなら、何で詰まなくなるのかな?
「じゃあ、この歩は何をしてるの?」
「この歩は、『王様の代わりに動く』という役割を果たします。一番最初の、歩がいない状態に戻ってみましょうか」
八千代ちゃんは盤の上から、歩を取り除いた。
「このとき、なぜ王様は捕まるのですか?」
それはね……。
「王様をどこに動いても、歩か銀で取られちゃうからだよ」
「そうです。そして私は、パスできません。これが重要です」
そうだね。パスできたら、王様を動かなくても……。
「あ、そっか……」
私の呟きに、八千代ちゃんも顔を上げた。
「気付きましたか? 歩は、王様が動かないように、パスの役割を果たしているのです。このような歩の動きを、『手待ち』とか『パスのような手』と呼びます。パス自体はできないのですが、特に意味のない動きをして、あたかもパスしたかのような状態を作り出しているわけです」
なーるほどね。これは目から鱗だよ。
今までは、敵の駒が王様だけだったから、こういう状況は発生しなかったんだね。
「分かったよ。この歩は、王様の代わりに動いてくれてるんだね」
「その通りです。飲み込みが早いですね」
でしょでしょ。自分でも、そう思うよ。
「ってことはさ、歩は9筋二段にいなくてもいいんだね」
「それも当たっています。王様の代わりに動けるなら、どこでもいいのです。例えば……」
八千代ちゃんは歩を持ち上げて、右下にワープさせる。
「ここに歩がいてもOKです」
え、ほんとかな? さすがにこれだけ離れていると……。
「やってみましょうか?」
あ、疑問が顔に出てたかな。
「そうだね、やってみよう」
「まず、私は王様を動かせないので、歩を成ります」
「オッケー、じゃあ、私は……」
……あれ? もしかして、銀を成るしかない?
8筋一段に歩を成るのは取られちゃうし、銀を7筋二段に成らないで上がるのは、王様が8筋二段に来て困るよね。
「こうかな?」
「そうですね。それが最善です。しかし……」
八千代ちゃんは、9筋二段に王様を逃げてきた。
えーと、下に逃げられないように、成銀を引いて……。
八千代ちゃんは、王様をさらに縦へと逃げる。
「……全然ダメだね」
「そうなんです。歩が9筋にいない分、王様はもっと逃げ易くなってるんですよ」
ふむふむ、そう言われてみると、そうだね。納得。
「そしてこれが、2番目のパズルで王様が捕まってしまう理由なんです」
2番目のパズルは……。
これだね。
「どういうこと?」
「さきほども言った通り、9筋二段の歩は、王様の逃げ道を封鎖しています。最初のターンに歩を突けば、確かに逃げ道はひとつできるのですが、移動先の9筋三段目で、邪魔な駒になってしまうんですよ」
あ、ほんとだ。この歩が邪魔になって、王様が逃げられなくなってるね。
「分かったよ。だったら3番目のパズルで王様が捕まらないのは、歩が離れてて邪魔にならないからなんだね」
「ご名答。と、そろそろ帰りませんか?」
えっと、今、何時かな?
私は壁の時計を見上げる。わお、もう7時だよ。これは帰らないとね。
「じゃ、八千代ちゃん、今日はありがとね」
私は鞄の中から財布を取り出した。
席を立とうとしたところで、ふとあることを思いつく。
「あ、そうだ、八千代ちゃんも、何か宿題出してよ」
今日は昼寝しちゃったから、宿題を訊いてなかったよ。
「宿題ですか……。では、ふたつほど」
八千代ちゃんは眼鏡を直して、王様と歩と銀を配置した。
「これが詰むかどうか、それを検討してください。もちろん、最初は王様側のターンです。それと、もうひとつ」
八千代ちゃんは、銀を角と交換する。
「これも同じように検討してください」
この組み合わせ方、初めて見た気がするね。
どうなんだろ。予測がつかないや。
「りょうかーい。じゃ、また明日、学校でね」
【今日の宿題】
最後の2つの図において、王様を必ず捕まえることができるかどうか、検討しなさい。なお、最初に動くのは、王様側とする(必ずしも王様が動く必要はないので、注意)。
《将棋用語講座》
○手待ち
その手自体には積極的な意味がなく、相手の出方を窺ったり、ミスを待ったり、あるいは他に指す手がないのでとりあえず指したような手を、手待ちと呼ぶ。一手パスという表現もあるが、この「パス」は、何も指さないという意味ではなく、特に意味のない手を指すという意味であるから、注意が必要(本来の意味でのパスは、将棋にはない)。