馬、龍
昨日の「成る」は新鮮だったね。
これでまた、将棋が少し楽しくなったよ。
今日も勉強しようね。
「頼もう、頼もうー」
私はちょっとふざけた挨拶で、ドアを開けた。
うわ、今日も部室は盛況だね。
「あ、木原さん、こんにちは」
「大川先輩、こんにちは」
「宿題は、やってきましたか。」
もちろんッ! 昨日の宿題は、簡単だったね。
私は大川先輩の前に座って、早速駒を動かす。
「まず、最初に考えたのは……」
「こう並べて」
「こう動かしまーす」
歩がと金に出世して、詰みだね。
「正解です。残りの4つもやってしまいましょう」
そうだね。これはあんまり、時間をかける必要がないね。
さくッとやっちゃうよ。
《銀桂》
銀を成るのも、もちろん正解だよね。
《桂歩》
《桂桂》
桂馬2枚で詰んだのは、初めてじゃないかな?
《桂香》
「はい、正解です。では、残りの成駒に取りかかりましょう」
やったね。
確か、残りの成駒は……馬と龍だったかな?
「まずは馬からですね」
「馬は、角の成駒です」
「まさか、金と同じ動きになるってことは、ないですよね?」
私の確認に、大川先輩も苦笑いする。
「いえいえ、弱くはなりません。あくまでも、出世ですから。馬の動き方は……」
「こうです」
うーんと、これは……。
「縦と横に動けるようになった、ですか?」
私の呟きに、大川さんはにっこりと笑う。
「はい、その通りです。そして、それがそのまま、龍のヒントになります」
大川さんは飛車を取り出し、それを裏返した。
「これが龍ですね。龍の動き方は……」
「こうです」
「……斜めに動けるようになった?」
「はい、正解です。つまりですね、馬と龍は『角と飛車が、今まで移動できなかった方向に、1マスだけ移動できるようになる』です」
今まで移動できなかった方向に、1マスだけ……。
あ、そっか、分かったよ。
角は縦と横に移動できないから、馬はそこへ1マスだけ移動できるようになる。
飛車は斜めに移動できないから、龍はそこへ1マスだけ移動できるようになる。
こうだね。
「分かりました。でも、1マスしかパワーアップしないんですか?」
何か、あんまりインパクトがないよね。本当に強くなってるのかな?
どうせなら、縦横斜め全部に好きなだけ動ける駒になって欲しかったよ。
「1マス分パワーアップするだけでも、かなり違います。試してみますか?」
大川先輩はそう言って、いつものパズルを始めた。
「馬プラスαの2枚で、王様を詰んだ状態にしてください。但し、王様は……」
大川先輩は、王様を端に寄せる。
「ここにいるものとします」
端っこの王様だね。これは、円ちゃん(冴島ちゃんの下の名前)と一回やったよ。
「並べた後、先に動けるのは、どっちですか?」
「王様の側です」
よーし、いつも通り、金からいくよ。
《金馬》
「はい、正解です。ここから応用できますね」
うん、そうだね。どんどん駒を替えていくよ。
《銀馬》
《香馬》
《歩馬》
《飛馬》
《龍馬》
「小駒の成駒は全部、金と同じ動きだから、と金、成銀、成桂、成香は省きまーす」
「それで結構です。残りは、角馬桂ですね」
そうだね。まずは、馬2枚をやるよ。
《馬馬》
角は……あ、こっちを角に替えても詰むね。
《角馬》
最後に、桂馬は……うーんと……。
分かった、ここだね。
《桂馬》
「できたー」
「全問正解です。おめでとございます」
大川先輩は、パチパチと手を叩いてくれた。
えっへん、どんなもんだい。
「さて、馬の強さが分かりましたか?」
馬の強さ?
あ、そうだね。これ、馬の強さを確認してたんだよね。
でも、やったばかりだから、実感が湧いてこないよ。
私が曖昧な態度を取っていると、大川先輩は先を続けた。
「馬の他に、『全ての駒の組み合わせで詰む』駒は、この局面でありますか?」
全ての駒の組み合わせで詰む駒?
それって、歩プラスαとか、香プラスαとか、そういうことかな?
「えーと、歩は詰まないのがたくさんあるし……例えば、歩2枚とか、歩と桂馬とか……あとは……香車も、桂馬と一緒の場合は詰まないし……」
確か、銀2枚もダメだったよね、王様がここにいる場合は。
金は歩や桂馬と一緒のときに詰まないし、角も同じ。飛車も、歩や桂馬のときは詰まないね。あれ? そうすると……。
「そっか、プラスαのαが何でもいいのは、馬だけなんですね、この形だと」
「はい、その通りです。他の駒の場合は、詰まない組み合わせがあります。しかし、馬はどんな組み合わせでも詰むんですね。但し、この局面では、ですよ」
分かったよ。だったら、馬はかなり強いね。納得。
「龍も試してみていいですか?」
「もちろんです」
先輩は馬を仕舞って、龍を渡してくれた。
じゃ、さっきと同じ要領で。
《金龍》
《銀龍》
《桂龍》
《香龍》
《歩龍》
馬龍は、さっきやったから省略するよ。
小駒の成駒も、全部省略。
《龍龍》
じゃじゃーんッ!
凄いッ! 龍も全部の組み合わせで詰むねッ!
「正解です。少しは、馬と龍の強さが分かりましたか?」
「分かりました。移動できない場所へ移動できるようになっただけで、こんなに違うんですね」
見直したよ。多分、最強の駒なんじゃないかな?
「それは良かったです。では次に、角と飛車を成る練習をしましょう」
成る練習? それって、前回やったよね?
「何か、特別なルールがあるんですか?」
「いえ、ありません。歩や香車と同じです。ただ、移動できる範囲が多いので、角と飛車を成るときは、注意が必要なんです。少しやってみましょう」
大川先輩は、前と同じように、テープで色分けされた盤を持ち出して来た。
そして、飛車を5筋五段の地点に置く。
「この飛車が成れる範囲を答えてください。……と、その前に、復習ですね」
大川先輩は、ホワイトボードに、前回と同じルールを書いた。
1、中立地帯あるいは自陣から、敵陣へ駒が移動したとき、パワーアップできる。
2、敵陣の中を移動したとき、パワーアップできる。
3、敵陣から、中立地帯あるいは自陣へ駒が移動したとき、パワーアップできる。
「では、どうぞ」
よーし、まずはルールを確認するよ。
赤で囲まれたところが敵陣、青で囲まれたところが自陣、真ん中が中立地帯。
飛車は中立地帯にいるから、2と3は適用できないよね。
つまり、1だけ考えればいいってこと。
赤で囲まれたところへ移動すれば、パワーアップ、つまり、成れるね。
だから……。
「この3ヶ所でーす」
「はい正解です。それ以外にありますか?」
「それ以外は……」
ないね。1が適用できるのは、この動き方だけだよ。
「ありません」
「それも正解です。では、置き場所を変えましょう」
「ここだと、どうなりますか?」
……今度は、飛車が敵陣の中にいるね。
だから、ルール1は適用できないよ。2と3だけについて考えようね。
まずは、2から考えるよ。敵陣の中を移動しているのは……。
「ルール2だと、このラインで全部成れます」
「その通りです。横に動くのは全て成れますし、5筋一段目と二段目も成れますね」
やったね。次は、ルール3を適用するよ。
えーと、敵陣から、中立地帯あるいは自陣へ……。
ん? 意外と広いよ。もしかして……。
「このライン全部ですか?」
私が駒を一気に動かすと、大川先輩は笑顔で頷いてくれた。
「はい、そこも全部成れますね」
わお、凄いね。
三段目から一気に九段目まで下がれて、しかも成れるなんて。
自陣で成ったのは、初めてじゃないかな? 大駒のメリットだね。
「大駒については、敵陣から自陣へ移動するときも成れる、ということを忘れないでください。では、角もやってみましょう」
大川先輩は、角を5筋四段の地点に置く。
もう簡単だね。だいぶ覚えたよ。
「右斜め上と左斜め上のライン、全部ですね」
「はい、正解です。この場合は、どうですか?」
これも簡単だよ。飛車と同じ要領だね。
「このライン全部です」
「かなりスムーズになりましたね」
でしょでしょ、これでもう、ばっちりかな。
「新しい駒は、もうないんですよね?」
「ありません。王様、飛車、角、金、銀、桂馬、香車、歩、それに成駒の龍、馬、成銀、成桂、成香、と金を加えて、総勢14種類。但し、成銀、成桂、成香、と金は、金と同じ動きですから、動作のパターンに関して言えば、10種類だけですね」
最初は心配になったけど、名前が14種類、動きが10種類。何とかなりそうだね。
RPGのジョブの方が、もっと多いんじゃないかな。
「では、駒の動かし方について、総仕上げをしましょう」
「宿題ですか?」
「いえ、成りに関するルールの補足です。ふたつありますから、順番に説明しましょう」
大川先輩は、ホワイトボードに向かって、4番目のルールを付け加えた。
4、成った駒は、出世前の状態に戻せない。
「これは重要なので、ぜひ覚えておいてください」
成った駒は、出世前の状態に戻せない……。格下げはできないってことだね。
「例えば、成銀は銀に戻れないってことですか?」
私はそう言って、成銀を銀に戻してみた。
「はい、それは反則負けです。他にも、龍を飛車に、馬を角に、成桂を桂馬に、成香を香車に、と金を歩に戻すことは、盤上では禁止されています」
「盤上では? 盤上じゃなきゃ、戻せるんですか?」
「あ、それについては、また今度説明しますね」
そっか、まだ何かルールがあるんだね。
でも、駒は盤の外に出れないんじゃなかったかな?
「とりあえず今は、『成った駒は戻せない』と覚えておいてください」
「はーい」
返事はしてみたけど、そもそも戻そうと思わないよね?
だって弱くなるんだよ? それとも、例外があるのかな?
「さて、もうひとつの追加ルールは、ちょっと難しいですよ」
5、一段目に移動した歩と香車、一段目か二段目に移動した桂馬は、必ず成る。
……ん、ほんとに難しいの来たね。
今までは「成ることができる」だったけど、今度は「必ず成る」だよ。
あ、その前に、ひとつだけ確認し忘れてたことがあるね。
「先輩、ルール1から3には、『パワーアップできる』って書いてありますよね。じゃあ、パワーアップしないこともできるんですか?」
私の質問に、大川先輩は、しまったという顔をした。
「すみません、忘れてましたね。その通りです。『パワーアップできる』、つまり『成ることができる』というのは、選択権があるという意味で、成るか成らないかは、プレイヤーの自由です」
なるほどね、じゃあ……。
「これは反則じゃないんですね?」
私は銀を使って、成らないバージョンを作る。
「はい、それは反則ではありません」
「成らないを一回選択したら、成る権利は放棄されるんですか?」
「いいえ、そんなことはありません。これまで書いたルールを、素直に読んでください」
そっか、一回成らなかったら次は成れないなんて、書いてないよね。
深読みする必要は、全くないみたい。でも、一応確認しておくね。
「じゃあ、これも反則じゃないんですね?」
私は、1回目の移動で成らずに、2回目の移動で成った。
「はい、それも反則ではありません」
うん、分かったよ。成る成らないは、条件を満たしている限り、私の自由。
大事なところも押さえたし、ルール5に移ろうね。
5、一段目に移動した歩と香車、一段目か二段目に移動した桂馬は、必ず成る。
「『必ず成る』ってことは、成らないとどうなるんですか?」
「反則負けになります」
え、そうなんだ。変わった反則だね。
パワーアップしないとペナルティだなんて。
成る成らないの自由が制限されてるよ。
「えーと、一段目に歩か香車、一段目か二段目に桂馬……」
こうだね。
「その通りです。その局面が出現した時点で、木原さんの負けになります」
わお、厳しいね。これは注意しないと。
でも、何でだろ? 私は盤面を睨む。そして、あることに気付いた。
「あ、これって、歩も香車も桂馬も、全然動けなくなってるんですね」
大川先輩は、パシリと両手を合わせる。
「ご明察。実はですね、このルールは、もっと大きなルールに言い換えられるんです。すなわち、『他の駒に邪魔されているわけでもないのに、移動できない駒が発生した場合、その駒の所有者が反則負けになる』というルールです」
……長いね。ちょっと整理しようか。
他の駒に邪魔されているわけでもないのに……。
うん、今並べられてる桂香歩は、他の駒には邪魔されてないよね。
で、移動できない駒が発生していて、どれも私の駒……。
そうだね、この状態だと、私の反則負けになるよ。
「歩を成るとと金、香車を成ると成香、桂馬を成ると成桂になるから……そうすると、今度はバックできて、動けるようになるんですね」
「はい、ですから、正確に言うと、『成らないといけない』のではなく、『もし成らない場合には、他の駒に邪魔されているわけでもないのに動けない駒が発生して、負けになる』というわけです。『反則負けが嫌なら裏返せ』ということですね」
なるほどね、分かったよ。
「でも、何でそういうルールがあるんですか?」
私の質問に、大川先輩は困ったような顔をした。
首を曲げて、歩美ちゃんたちの方に声を掛ける。
「駒込さん、冴島さん、『一段目の歩と香車、または一段目か二段目の桂馬は、成らないと動けなくなって負け』というルールは、何であるんですか?」
あらら、先輩は知らないんだね。
質問された歩美ちゃんと円ちゃんも、盤を挟んでお互いに顔を見合わせる。
「さあ……そういう疑問自体、持ったことないんで……」
円ちゃんの返事。
それは良くないなあ。何でも疑問を持とうよ。
私は、円ちゃんが男装してることを疑問に思うよ。うん。
「そのルールがなくても、普通は成りますよね。行き場のない駒は十中八九、邪魔にしかなりませんから。持将棋か詰め将棋の作図成立・不成立のときくらいしか、問題にならないのでは?」
と歩美ちゃん。何だか、業界用語が飛び交ってるね。
ちんぷんかんぷんだよ。
ただ、誰も本当の理由は知らないっぽいかな。
大川先輩は申し訳なさそうに、こちらへ向き直った。
「すみません、ちょっと分からないですね」
「えっと、将棋ルールブックとか読めば、書いて……」
そのときだった。がらりと部室のドアが開く。
お客さんかな?
ドアの向こう側に現れたのは、三つ編みお下げの眼鏡少女。
何だか、凄くお堅そうな子……って、クラスメイトの八千代ちゃんだよ。
「八千代ちゃ……」
「お、傍目じゃねーか。ちょうどいいところに来たぜ」
円ちゃんの台詞に、八千代ちゃんは眼鏡を直す。
「冴島さん、何か?」
「おまえなら知ってるだろ。『一段目の歩と香車、または一段目か二段目の桂馬は、成らないと動けなくなって負け』ってルールは、何であるんだ?」
そうそう、それが知りたいんだよね。
「ルールの内容ではなく、ルールの存在理由ですか? 難しい質問ですね……」
しかめっ面をした八千代ちゃんは、しばらく目を閉じた後、私に視線を移した。
「……木原さん、こんなところで、何してるんですか?」
それはこっちの台詞だよ。八千代ちゃんが将棋部だったなんて、知らなかったな。
「あのね、将棋部に入ったの」
「そうですか……ということは、さきほどの質問も木原さんの?」
そうだよん。まだ、誰も答えてくれてないんだよね。
「実はその件について調べてみたことがあるのですが、正確な理由は分からなかったと記憶しています。例えば、チェスにも類似のルールがあり、『最上段に移動したポーンは、必ず他の駒に変化しないといけない』のですが、この理由もよく分かっていません。中国将棋のシャンチーでは、『最後まで前進しかできない駒がそもそもない』ので、このような局面を想定する必要がないのですね。世界最古の将棋と呼ばれるチャトランガについては、ルールが伝承されていないため、これも判然としません。面白いのは、公家の間で指されていたと言われる中将棋においては、このルールが存在せず、一段目の歩や香車を成らなくても、反則にはならないのです。そう考えると、中将棋と本将棋との間で、何らかの変遷が……」
むにゃむにゃ、何だか眠くなってきたよ。
ちょっとだけ寝るね。おやすみー。
【今日の宿題】
なし
《将棋用語解説》
○反則
特に将棋用語というわけではないが、将棋では「反則はその瞬間に負け」というルールがあり、これがチェス(西欧将棋)やシャンチー(中国将棋)とは異なっているのが特徴。チェスやシャンチーにおいては、「反則が発生した場合、局面を戻して、別の手を指す」というルールになっている。また、将棋では、サッカーなどとも異なり「一発アウト」なので、神経を使うところである。もっとも、友だちと指すときなどは、チェス式が採用されることも多い。なお、インターネットで指すときは、「そもそも反則ができない」ようにプログラムされているのが普通である(例:歩が一段目に移動したら、自動的に成る)。