と金、成香、成桂、成銀
また楽しい一週間が始まるよ。早速、部室へ行こうね。
「こんにちはぁ」
私が挨拶してドアを開けると、人がたくさんいた。
一番最初に目が合ったのは、大川先輩。
歩美ちゃんと冴島ちゃんもいるね。
「今日も遊びに来ました」
私はとりあえず、大川さんに声を掛けた。
上級生だけど、この人が一番、話し易いね。
歩美ちゃんは、何か機嫌が悪そう。もしかして、大会で負けたのかな?
そのへんは、あんまり訊かないでおこうね。
「木原さん、こんにちは。おめでとうございます」
ん? 何がおめでとうなのかな?
入室1万人目とか?
「駒をコンプリートしたみたいですね」
なーんだ、そのことか。
ちゃんとお礼を言っておかないとね。
「ありがとうございました」
駒を全部覚えたら、後は実戦だね。どんどん行こう。
ただ、その前に……。
「おーい、木原、宿題やってきたか?」
冴島ちゃんが、部室の奥で大きな声を出した。
「やってきたよー」
「じゃ、答え合わせだな。オレの前に座れ」
私は冴島ちゃんの席の前に座って、すぐに解答に取りかかる。
「まず、宿題その1は、こうだよ」
《桂香》
「正解だな。香車を下からじゃなくて、上から打つ」
だね。そこが盲点になってたよ。いつも下に置いてたもんね。
「宿題その2は、角金はできなくて、他はそれぞれ……」
《飛銀》
《金銀》
《銀香》
「こう」
「よし、これも正解だ。最後は?」
「宿題その3の方が、簡単だったかな。角角はできなくて、後はこうやって……」
《角銀》
《銀銀》
「パーフェクトだ。じゃ、後は大川先輩にバトンタッチするぜ」
「あれ? 冴島ちゃんは、忙しいの?」
「わりぃ、駒込と指す約束してるからな」
そっか、歩美ちゃんと戦うんだね。頑張ってね。
私は席を立って、大川先輩のところへ戻った。
「先輩、今日から実戦ですね」
私がそう言うと、先輩は少しだけ困ったような顔をした。
「まだ実戦は早いですね。覚えないといけないルールが、たくさんありますから」
あ、そうなんだ……。
じゃあ、順番にゆっくり覚えて行こうね。
「次は、何を教えてくれるんですか?」
「今日は、『成る』という概念を覚えましょう」
なる? 鳴る? 成る? 日本語は難しいね。
先輩は箱の中から、歩を一枚取り出した。
そして、裏返しにして見せる。
「駒の裏側に、文字が書いてあるのですが、気付いてましたか?」
……気付いてなかったかも。
確かに、何か書いてあるね。曲がりくねってるけど……。
「『と』って書いてありますね」
「その通りです。これは、『歩が出世した駒』を意味します。『と』あるいは『と金』と呼びます。単に『と』では聞き取り辛いので、差し当たり『と金』で統一しましょう」
出世? 将棋の世界にも、課長とか部長とかがいるのかな?
そんな話、聞いてないよ。
「そう難しい話ではありません。カタカナで言うと、パワーアップですね。マリオがきのこを食べた状態、とでも言うんでしょうか。テレビゲームでは、よくあるパターンです」
なるほどね、パワーアップするんだね。
「じゃあ、パワーアップアイテムがあるんですか?」
私が尋ねると、先輩は首を左右に振った。
「将棋では、アイテムを取ってパワーアップ、というわけではありません。ただ、その方法を説明する前に、これまで使ってきたフィールドについて、説明を加えましょう」
先輩は、盤の上を空っぽにして、それを私に指し示した。
「将棋のフィールドは、正確には将棋盤、あるいは単に、盤と言います。それ以外の呼び方は、あまりしないですね」
あ、ボードじゃないんだ。
いっつも、ボードって呼んでたよ。今度から直そうね。
「盤は9×9=81マスからできています。そして、横のマスを筋、縦のマスを段と呼びます。例えば……」
先輩は、王様を真ん中のちょっと左寄りに置いた。
「この王様は、6筋の五段目にいます」
「左から数えると、4筋じゃないですか?」
「あ、すみません、盤の端を見てください。数字が書いてありますよね?」
ん? ……ほんとだ。そっか、ここに書いてある数字が、筋と段なんだね。
筋は算用数字、段は漢数字で書かれてるね。紛らわしくないようにかな?
「横は6、縦は五だから、6筋の五段目なんですね」
「その通りです。では、少し練習してみましょう。私が指定した場所に、それぞれ特定の駒を置いてください」
大川先輩は、ホワイトボードに5つの問題を書いた。
1、5筋・九段の歩
2、8筋・七段の香
3、4筋・五段の桂馬
4、7筋・二段の銀
5、1筋・一段の金
「さあ、どうぞ」
にっこりと笑った先輩の前で、私は袖まくりをする。
「えーと、まずは歩がここで……」
私はホワイトボードと盤を見比べながら、駒を順番に置いて行った。
筋は横、段は縦。これさえ覚えれば、そんなに難しくないね。
「できたッ!」
「よくできました」
先輩はパチパチと手を叩いてくれた。
やったね。
喜ぶ私を他所に、先輩は部屋の奥へと引っ込む。
そして、別の盤を持って戻って来た。
「次は、フィールドの区分を説明します。こちらの盤を使いましょう」
テープで、3つに分けられてるね。
「木原さんから見て、この赤い部分を、敵陣と呼びます」
敵陣、つまり、敵の基地みたいなところだね。
「そして、こちらの青い部分を、自陣と呼びます」
「じじん?」
「『自分の陣地』と書いて、自陣です。日常生活では、あまり使わないですね」
あ、なるほどね、自陣なんだ。味方の基地だね。
「何にも色がついてないところは、何ですか?」
「そこは中立地帯です。特別な名称はありません」
そっか、自分の陣地でも敵の陣地でもないところだね。
でもこれって、駒のパワーアップと関係あるのかな?
なさそうだけど……。
「さて、実はこの敵陣と自陣が、パワーアップできるかできないかを決めるんですね」
あ、そうなんだ。ってことは、さっきの予測は間違いだね。
「どうすれば、パワーアップできるんですか?」
「少し複雑なので、ホワイトボードに書きましょう」
先輩は席を立って、ホワイトボードに向かう。
長々と、3つの文章を書いた。
1、中立地帯あるいは自陣から、敵陣へ駒が移動したとき、パワーアップできる。
2、敵陣の中を移動したとき、パワーアップできる。
3、敵陣から、中立地帯あるいは自陣へ駒が移動したとき、パワーアップできる。
水性マジックの蓋を閉めて、先輩はこちらに向き直る。
「まずは、1番目のルールを覚えましょう」
中立地帯あるいは自陣から敵陣へ駒が移動したとき、パワーアップ。
うん、覚えたよ。
要するに、何にもないところから赤いところへ、あるいは、青いところから赤いところへ、駒が移動すればいいんだね。
「パワーアップってことは、駒を裏返せばいいんですよね?」
だって、歩の裏側に、出世した形が書いてあるんだもんね。
それが一番簡単だよ。
「そうです。説明し忘れてましたね。これまでパワーアップと言って来ましたが、要は駒を裏返せばいいだけです。そして将棋では、この行為を、『成る』と呼びます。成長の成の字ですよ。このため、出世前の状態を『表』、出世後の状態を『裏』とも呼びます」
分かった。歩美ちゃんが先週、成らないでって言ってたのは、そのことなんだね。
「では早速、例を出してみましょう」
先輩は席に戻り、歩を5筋の四段目に置いた。
「これを成ってみてください」
えーと、中立地帯あるいは自陣から敵陣へ移動すると、成れるんだよね。
だから……。
「こうですね」
「はい、正解です。歩は前にひとつしか動けないから、これしかないですね」
だね。これは成る成らない以前に、こうとしか動けないね。
「では、少し難しくしましょう」
先輩は歩をたくさん取り出して、それを階段状に並べた。
うわ、何だか圧巻だね。
「このうち、1回動かすだけで成れる歩を、全て成ってください」
成れる歩を全て成る……。
ひとつずつ検討するよ。
中立地帯あるいは自陣から敵陣へ駒が移動したとき、パワーアップだから……。
「まず、さっきと同じで、4筋四段目の歩は、成れますよね」
「はい、正解です」
これよりも下の段にある歩は、敵陣に入れないから、成れないよね。
「他には……ないかな?」
私がそう言うと、先輩はホワイトボードを指し示す。
「そこで、2番目のルールです。『敵陣の中を移動したとき』も、成れますよ」
なるほどね、ここでルールが追加されるんだ。
敵陣の中を移動……敵陣の中を移動……。
あ、これとこれだね。
1筋一段目の歩は、そもそも動けないから、成れないね。可哀想。
「よくできました。次へ行きましょう」
「まだ3番目のルールが残ってますよ?」
私が尋ねると、大川さんはアッとなった。
忘れてたのかな?
「3番目のルールはですね……検討してみましょうか。あります?」
敵陣から中立地帯あるいは自陣へ駒が移動したとき、パワーアップする、だよね。
敵陣から中立地帯へ……自陣へ……。
私はしばらく考えた後、あることに気付いた。
「……ないですね」
大川先輩は、にっこりと笑う。
「そうなんです。歩はバックできないから、この現象は起きないんですよ」
なるほどね、敵陣から中立地帯へ戻るには、バックしないといけないんだね。
歩はバックできないから、この条件を絶対に満たさないよ。
「では、3番目のルールが適用可能な問題を出しましょう」
先輩は歩を全部戻して、今度は銀を取り出した。
「銀の裏側にも、出世した形が書かれています。成銀と言います」
わお、銀も出世できるんだね。もしかして、全部の駒が出世できるのかな?
先輩は、銀を5筋三段目に置いた。
「この銀を成れる箇所は、いくつあるでしょうか? 全て答えてください」
さっきと、問題が違うね。でも、理屈は同じだよ。まずは……。
「ルール1は、適用できないですよね」
「そうですね。既に敵陣の中にいますから」
「だから、ルール2から始めて……」
「この3つッ!」
「はい、正解です。他には、どうですか?」
他には……ルール2が適用できるのは、この3つだけだよね。
銀は真横に移動できないから、6筋三段目と4筋三段目には、成れないよ。
だから、可能性があるのは……。
「ルール3?」
「ルール3だと、どこに成れますか?」
敵陣から中立地帯あるいは自陣へ駒が移動したとき、パワーアップする。
つまり……。
「こことここッ!」
「よくできました。これで、ルール1から3まで、全て覚えましたね」
うん、そうだね。
でも、まだ肝心なところを教えてもらってないよ。
「ところで、この出世した駒は、どうやって動くんですか?」
まさか、出世する前と同じじゃないよね。それじゃ、意味がないよ。
大川先輩も、その質問を待ってたみたい。
「はい、いい質問です。出世した駒を一般的に、成駒と呼びますが、この成駒の動きには、3パターンしかありません。その前に、全ての成駒をお見せしましょう」
先輩はそう言って、普通の盤の上に、見本を作ってくれた。
「セットのうち、左が出世前、右が出世後です」
「金と王様が抜けてますよ?」
私の指摘に、大川先輩は手を合わせた。
「金と王様は、出世しません」
あ、金と王様は出世しないんだ……。何でだろ?
「出世しない理由は、後で説明しますね。まずは、それぞれの名前を確認しましょう」
先輩は、ホワイトボードの空いたところに、名前を書き込み始めた。
歩 → と金
香車 → 成香
桂馬 → 成桂
銀 → 成銀
角 → 馬
飛車 → 龍
「馬と龍は、本当は略称なんですが、普通はこれしか使いませんね」
「正式には、何て言うんですか?」
「龍馬と龍王です。両方に龍がついてて、紛らわしいんです」
そっか、それなら、馬と龍の方がいいね。
それにしても、何だか覚えるのが大変そうだね。
とりあえず、成香、成桂、成銀は比較的覚え易いかな。
元の駒+成るだから、そのまんまのネーミングだよね。
覚えなきゃいけないのは、と金、馬、龍か。龍って強そう。
「えっと……動きはそれぞれ、元の駒と違うんですよね?」
私は心配して、そう尋ねた。
これって、また6種類、動き方を覚えないといけないのかな?
だったら、全部で14種類もあることになっちゃうけど……。
私の不安を察知したのか、先輩は安心させるような笑顔を見せた。
「大丈夫です。実はですね、さきほどの分け方にも、既にヒントがあるんですよ」
そう言って先輩は、盤の左側を指差した。
「このグループの成駒は、全て金と同じ動きをします。つまり……」
「こうですね」
なーんだ、それなら簡単だね。
と金、成香、成桂、成銀は、金と同じ動き。覚えたよ。
「木原さん、大駒という言葉を勉強しましたか?」
大駒……覚えてるよッ!
「冴島ちゃんに教えてもらいました。飛車と角ですよね?」
「その通りです。そして、大駒と王様以外の駒を、小駒と呼びます」
こごま? ちっちゃい駒かな? それは初耳だよ。
「小駒については、『その成駒は全て金と同じ動きをする』というルールがあります」
小駒の成駒は、金と同じ動き……。
えーと、小駒は大駒と王様以外だから、金銀桂香歩でしょ。
金は出世しなくて、銀は成銀、桂馬は成桂、香車は成香、歩はと金……。
あ、ほんとだね。全部、金と同じ動きをするよ。
「そして、金が出世しないのは、このルールと関係があります。つまり、金は最初から金の動きをするので、それ以上は出世しても意味がない、ということですね」
なるほどね、最初から校長先生みたいなもんなんだ。
「王様が出世しないのは、何でですか?」
「それも単純で、王様は最初から一番偉いんです。取られたら負けですからね」
分かったよ、金と王様が出世しない理由が。
金は、小駒の中で一番偉いから、それ以上は出世できない。
王様は、全部の駒の中で一番偉いから、それ以上は出世できない。
出世コースがでたらめに決められてるわけじゃないんだね。
「馬と龍は、どうなんですか?」
「それについてはですね……」
うん。
「明日にしましょう」
あらら、今日はここまでか。
結構、時間が経ってるもんね。
「それでは、今日の宿題です」
先輩はホワイトボードを一回消して、新しくペンを走らせた。
(1)敵の王様と、味方の駒2枚を、盤の上へ好きに配置する(配置時は全て表)。
(2)味方の駒は、銀桂香歩の中から2枚選ぶ。同じ駒を2回選んでもOK。
(3)味方の駒が先に動く。
「このルールを守りながら、王様が次のターンで詰む状態を作ってください」
これは今までのルールと一緒……じゃないね。
ルール3が違うよ。敵の王様じゃなくて、こっちの駒が先に動けるんだね。
「えーと、すぐに王様を取れる形じゃないんですか?」
「違います。『次のターンで詰む状態になる』ようにしてください。最初から詰んだ状態ではないです」
ということは……例えば……。
「こうですか?」
「そうです。その形なら、『次のターンで詰む状態』になりますね。但し」
先輩はペンを置いて、再び手を合わせた。これ、癖なのかな?
「今日勉強したことを活かすために、『次のターンには、必ず駒を成る』こととします。ですから、木原さんが作った図で、左の銀を右斜め上にそのまま動かすのは禁止です」
銀を右斜め上にそのまま……それって……。
「これは、ダメってことですか?」
「はい、それはダメです。必ず、駒を成って詰ませてください」
そっか……あんまり単純じゃないね……。
ただ、この形でも……。
「じゃあ、これはいいんですね?」
私は左の銀を、5筋二段目に成った。
「正解です。それはルールに適った詰みですね」
やったー。私って才能あるね。
「では、5通りの駒の組み合わせと配置を、明日までに考えてください」
「はーい、頑張りまーす」
【今日の宿題】
以下の4つのルール、
(1)敵の王様と、味方の駒2枚を、盤の上へ好きに配置する(配置時は全て表)。
(2)味方の駒は、銀桂香歩の中から2枚選ぶ。同じ駒を2回選んでもOK。
(3)味方の駒が先に動く。
(4)そのとき、必ず駒を成る。
を前提として、(3)(4)の動作を行った時点で王様が詰んでいる状態を、5通り作りなさい。
混乱防止のため、さらに解答例をひとつ挙げておく。
〔解答例〕
《将棋用語講座》
○成る
現在敵陣にいる駒が、別の場所へ移動するとき、あるいは、
現在敵陣の外にいる駒が、敵陣へ移動するとき、駒を出世させることができる。
これを「成る」と言い、成った駒を「成駒」と言う。
但し、王様と金は、成ることができない(出世しない)。
成った駒を表に戻すことは、禁止されている(例:成銀→銀はできない)。
なお、駒台から駒を打つときは、移動ではないので、成ることはできない。