対面で指してみよう
今日は2012年6月3日、日曜日。
いつもなら遊びに行くところなんだけど、公民館なんだよね、ここ。理由は単純。将棋の大会があるからだよ。1年生だけが出られる、新人戦。
歩美ちゃん、円ちゃん、それに八千代ちゃんも来てるね。
「八千代ちゃんも、出るの?」
「いえ、私は観戦とお手伝いだけです。荷物番などありますので」
「そっか……」
日曜日にわざわざ来るなんて、熱心だね。
「そう言えば、この前の名人戦だけど……」
「あ、観ましたか? どうでした?」
「終盤は満席で、入れなくなっちゃった」
一般会員だからね。
プレミアム会員には、席を譲らないといけないんだよ。
「まあ、そうなりますよね。タイムシフトもありませんし……」
だね。どうしようもなかったね。
「ただ、日曜日にテレビで……」
「あ、知り合い発見ッ!」
いきなり声を掛けられて、私はびっくりした。
振り返ると、ショートカットの女の子が、ニヤニヤ顔でこっちを見ていた。
……誰だっけ?
「あれ? 覚えてない?」
「えーと……」
まずいね……思い出せ……たッ!
「甘田さん?」
甘田さんは、自分の頭をぺちぺちと叩く。
「そそ、覚えててくれたみたいだね」
藤花女学園の1年生だよね。セーラー服だし。
「甘田さんも出るの?」
「当たり前でしょ。優勝狙ってるからね」
甘田さんの発言に、後ろで咳払いが聞こえる。
「なぁにが優勝だ。1回戦でオレが凹ってやるよ」
円ちゃんはそう言って、親指を下に突き立てた。
た、他校に喧嘩売ってるのかな? やばくない?
私の心配とは裏腹に、甘田さんは嬉しそうに笑った。
「そういうのは、対戦成績を考慮してから言いなよ」
「オレは決勝戦の経験がある。おまえは凖決勝止まりだろ?」
「籤運が悪いからね」
「悪いのは、おまえの腹の具合だ」
これは……悪友って奴なのかな?
罵り合ってるように見えて、そうでもないみたいだね。
「トーナメント表は、まだ決まらないの?」
椅子に座った歩美ちゃんが、誰とはなしに尋ねた。
「今年は新入生が多いですからね。時間が掛かっているのかと」
と大川先輩。
さっき、番号籤を引いたんだよね。私は4番だったよ。
そろそろ、15分は経ってると思うんだけど……。
「えー、新人戦の組み合わせが決まりましたので、確認してください」
会場の前方で、男の人が声を上げた。
みんな、ぞろぞろと移動し始める。
「じゃ、見に行きましょ」
私たちは、歩美ちゃんを先頭に、ホワイトボードへと向かった。
「13人も出てるのか……多いな」
人混みの中で、誰かがそう呟いた。
「千駄と姫野が左右にバラけたな」
「決勝はほぼ決まりかもな……」
んー……よく分かんないね。
誰が誰か、全然知らないし。
「あらら、数江ちゃん、みっちーと当たってるんだ」
歩美ちゃんはそう言って、私の名前を指差した。
「……菅原って書いてあるけど?」
「下の名前が道真だから、みっちーよ。このへんじゃ有名」
ふーん……あれ?
菅原って、どっかで聞いたことがあるような……誰だっけ?
「対局数が多いので、すぐに始めたいと思います。着席してください」
運営の指示に、みんな従う。
私の対局テーブルは2番……。
あった、あった。テーブルに紙が貼ってあるね。
対戦相手の顔を見た私は、びっくりした。相手もびっくりする。
「おまえ……ゲーセンで会った女じゃねえか」
菅原くんはニット帽を被り直して、なんだか気まずそうな顔をした。
「道理で知らねえわけだ。名前を見たとき、誰かと思ったぜ」
それはこっちの台詞だよ。
ただ、八千代ちゃんに教えてもらった気もするね、この人の名前。
「とりあえず、早く座れよ」
私はそそくさと、椅子に腰を下ろす。
「おまえ、初心者じゃないのか?」
「大丈夫。駒組みくらいはできるよ」
最近は、部室でもネットでも、指してるからね。えっへん。
「まあ、いいけどよ……その方が楽ってもんだ」
あ、もう勝った気でいるね。油断大敵。
「対局ルールとかは、把握してんのか?」
「えーと……持ち時間30分で、それがなくなったら、一手60秒だよね?」
「そうだ、そしてその持ち時間は……」
菅原くんは、そばにある時計のようなものを指し示した。
「このチェスクロで計る」
「オッケー、それも大丈夫。指してから、ボタンを押せばいいんだよね?」
「指した手と同じ手で、だぞ。右手で指して左手で押すのは、ダメだ」
「了解」
それも、ちゃんと事前に教わったよ。
「じゃ、振り駒するぞ」
そう言って菅原くんは、3〜7筋の歩を集めた。
これも大川先輩から習ったね。歩を5枚放り投げて、表が3枚以上なら、放り投げた人が先手、2枚以下なら、放り投げた人が後手だよ。
菅原くんは適当に振って、パラリと盤上に放った。
「歩が1枚……俺が後手だな」
「えーと、チェスクロの位置は、後手が決めるんだよね? どっちにする?」
「おまえから向かって右にしてくれ」
……? 向かって右?
「左利きなの?」
「そうだ」
そっか……なるほどね。チェスクロは、指した手と同じ手で押さないといけないから、右利きの人は右に、左利きの人は左側に置かれた方が、有利なんだよね。有利って言っても、押し易いってだけだけど。
菅原くんが左利きなら、チェスクロは左が有利。ただこうなると、私の右側に置かれてるから、右利きの私にも有利。要するに、相殺されてるってこと。
準備を終えた会場は、しんと静まり返っていた。
うーん……何だか緊張してきたね。
「……では、対局を始めてください」
「よろしくお願いします」
みんな挨拶をして、対局が始まった。
菅原くんが、チェスクロをのボタンを押す。
いよいよ、カウントダウンだね。30分だよ。
とりあえず、7六歩と、角道を開けて……。
私は忘れないように、チェスクロのボタンを押す。
今度は、菅原くんの時間が減る番だ。
「おまえが何指すのか、知らないんだよなあ……」
だろうね。未知の存在だと思うし。
だんだん思い出してきたけど、菅原くんが中飛車使いだって、八千代ちゃんから聞いてるんだよね。だから、情報量では、私が有利かな。
「何でもいいから、とりあえず潰しにかかるぜ」
そう言って菅原くんは、3四歩と突いた。
6六歩と角筋を止めたにもかかわらず、5四歩が飛んでくる。
「あれ? 中飛車にするの?」
「聞いてないのか? 俺の得意戦法だぞ?」
「聞いたけど……」
相振りだと、中飛車は不利なんじゃなかったっけ?
もう、舐めプ状態なのかな? ……ありうるね。酷いなあ。
以下、7八銀、5二飛、6七銀、5五歩、7七角、6二玉、8八飛と、私は向かい飛車に振った。菅原くんは感心したように頷いてから、7二玉。
三間飛車じゃないから、4八玉でも安全だよね。4八玉、と。
「なんだ、完全な素人じゃねえのか」
わっはっは、数江ちゃんを甘く見てもらっちゃ困るよ。
みんなにいろいろと、教えてもらったもんね。
菅原くんは30秒ほど考えて、4二銀。3八玉、5三銀、2八玉、5四銀、3八銀と、美濃に囲うよ。これも、後手が中飛車だからできる技だね。金無双にする必要なし。
「既に俺が悪いな……ま、1回戦で消耗してもしゃーねーし」
菅原くんは、4五銀と出てきた。
攻めて来るみたいだね。私は5八金左と防御する。
5六歩、同歩、同銀、同銀、同飛、5七歩、5一飛。
ん? 5一に引くんだ……ネットでも、やられたことがあるかな。交換後に、深く引くんだよね、みんな。理由は、よく分からないけど。
私は8六歩と、飛車先の歩を伸ばす。
8二玉、8五歩、7二銀、8四歩、同歩、同飛、8三歩、8八飛。
速いね。私は、ちょっとずつ考えてるけど、菅原くんはノータイムが多いかな。
菅原くんは3二金と上がって、角を守ってきた。……攻めて来いってことかな?
どうしよう……ここまでは、かなり順調な気がするんだけど……。
……………………
……………………
…………………
………………
こっからの攻め方が、分かんないや。
4六歩としとこ。
9四歩、3六歩、1四歩、4七金、4四歩。
4四歩? ……何かな、これ? 角道が止まったよ。
じゃあ、こっちは角道を開けちゃおっと。6五歩。
「棋力詐欺でなきゃ、これでどうにかなるだろ」
菅原くんは両手の指を鳴らして、3三桂と跳ねてきた。
えぇ……何これ……。
4四角と取れるんだけど……取っても大丈夫だよね?
4一飛と回られても、7七角と戻ればいいし。4四同角、と。
私が歩をかすめ取ると、菅原くんは4五歩と打ってきた。
うにゅにゅ? 角のお尻に歩を打つの?
同歩で? ……あ、同桂が、次に5七桂成狙いなんだ。どうしよう。
……………………
……………………
…………………
………………
2二角成、同金、4六銀で受かるかな?
直感的に、無理攻めなんだよね、これ。
明らかに、私が初心者と見越しての、ごり押しだよ。
丁寧に受ければ、大丈夫なんじゃないかな?
同歩ッ!
「取る方か……やるな」
「うふふ、参った?」
「全部受け切れたら、な。同桂だ」
2二角成、同金、4六銀。
はい、がっちりがっちり。
私がドヤ顔していると、菅原くんはノータイムで7九角と打ってきた。
「……7八飛で死んでるよ?」
「じゃ、そうすればいいだろ」
……罠かな?
7八飛……あ、5七角成か。同銀、同桂成、同金、同飛成……私の駒得だね。
金銀と角桂交換だもん。
罠と見せかけて、9八飛と寄らせる作戦かも。引っかからないよ。7八飛ッ!
以下、5七角成、同銀、同桂成、同金、同飛成と、読み通りに局面が進んだ。
ここで、何を指すかだよね……いっぱいあるかな。
パッと見、3一角と打ちたいね。3二金、7五角成が、龍に当たるもん。
じゃ、こうしよ、と。3一角。
私が角を打つと、菅原くんは無視して、6七龍と寄ってきた。
あわわ、飛車当たりだね、逃げないと……4八飛かな? 次に飛車成。
私はその通りに寄った。すると、4七歩が飛んでくる。
飛車の頭を叩かれたね。同銀だと……5七銀かな?
それはダメだから、もう同飛って取っちゃおうね。飛車交換歓迎だよ。同飛。
「んー、ちいと舐め過ぎたか」
ほら、困ってるじゃん。
菅原くんは、まだ28分も残してる。舐めプ過ぎだよ。
それでも菅原くんは、即座に同龍。同銀、8八飛……あ、王手だ。
でも、こんなの簡単に止まるよ。3八銀、と。
8九飛成、2二角成。さらに駒得を拡大できたね。
今は……金得かな?
ほくほく顔の私の前で、4八歩が打たれた。
最後の歩で、金を叩いて来たね。何だろ?
私は考える。
……………………
……………………
…………………
………………
分かったよ。同金だと、3九銀があるんだね。
3九金と逃げるよ。
「なかなか間違わねえな。歩の罠は失敗だったか」
菅原くんは、ぶつくさ言いながら4六銀。
……………………
……………………
…………………
………………
ん、数江ちゃんセンサー反応。これは、悪手じゃないかな?
4一飛と打てば、攻めながら銀を取れるよ。
てやッ! 4一飛ッ!
私が飛車を打つと、その瞬間に4九歩成が指された。
4六飛成だと……3九とだね。次に銀か桂馬を取られることが確定しちゃって、損だよ。同金か同銀だけど……同銀は4七金と打たれて、銀をガードされちゃうね。だから、同金が正解かな。同金。
その瞬間、菅原くんは不敵な笑みを浮かべた。
「こいつが受けきれるか?」
え? 4七金?
……………………
……………………
…………………
………………
同銀、同銀成、同飛成で、鉄壁だよ。
この男子、私のこと、バカにし過ぎじゃないかな?
さっきから、攻められっぱなしなのは事実だけど……同銀ッ!
「同銀成とはしないぜッ!」
……………………
……………………
…………………
………………
詰めろだね。3九銀、1八玉、2八金。
4六銀だと3八金、1八玉、2九龍。
端歩を突いておけば良かったかも……あうあう……。
でも、これだって、3八金で受かってるよ。3八金。
「どんどん行くぜ」
桂馬捨て? 同桂で……あ、2九金。
同金は……3九銀、1八玉、2八金だね……。
放置だと、2九龍の一手詰み……。
私は真剣に考えた。
1分……2分……3分……受けるしかないね。3九金打かな?
2九桂成、同金。私が指した手とほぼ交差して、3七桂。
おかわり来ちゃったよ……また考えないと……。
3九金寄と、戻るのはどうかな? 2九金、1八玉、3九金……全然ダメだね。じゃあ、3七同金しか、ないかな? 同金、と。
「これは寄ったくせぇな」
「ふえ?」
私が顔を上げると、菅原くんは2九龍と切ってきた。
え? 龍を切るの?
……攻めが切れたんじゃないかな?
同玉に3七銀成。こんなの受かってるよ。
私は、駒台に手を伸ばす。
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……………………
…………………
………………
金駒がないね。
次に2八金の一手詰みだから……あれ? あれ?
受けがない? そんな……あるじゃん。2八角だね。4七成銀なら、同飛成で、今度こそ鉄壁だよ。足りなかったら、6六馬としようね。決まり、2八角。
「角を手放したか……俺の勝ちだな」
菅原くんは、4八銀と打った。
……………………
……………………
…………………
………………
3七角、同銀成、2八銀? 千日手になりそうだけど……。
私は腕組みをして、よーく考えた。千日手になるかな? 3七角、同銀成、2八銀、4八角、3七銀、同角成、2八銀、4八銀、3七銀、同銀成……なりそうだね。連続王手の千日手じゃないから、引き分け。
「これって、引き分けだと、どうなるの?」
私が尋ねると、菅原くんはきょとんとした。
「引き分け? ……持将棋のことか?」
「ううん、千日手」
「千日手? ……持ち時間そのままで、指し直しだぜ」
そっか、指し直しなんだね。
負けるよりは、ずっといいかな。王様は、私の方が危ないし。
3七角、と。
私が銀を取ると、菅原くんはようやく納得したみたい。
「ああ……3七成銀以下の千日手か……」
あれ? 気付いてなかったのかな?
「おまえ、これ見落としてないか?」
そう言って菅原くんは、金を盤上に置いた。
……………………
……………………
…………………
………………
何で気付かなかったんだろ……死んでるね……。
1八玉だと3七銀成だよ。2八玉は2九金打、1八玉、3七銀成で、ほぼ必至。1六歩と逃げ道を開けても、2八金、1七玉、2七金で詰みだもん。
私は粘って、1八玉と上がった。
3七銀成に2八飛と頑張る。
菅原くんは2九金打と詰めろを継続。同飛、同金……。
同玉は、2八金で詰みだね。
かと言って、受けが何もないよ。
「……負けました」
私は5分くらい考えて、投了を告げた。
「ありがとうございました……途中、何で王手掛けなかったんだ?」
王手? ……あったかな、そんな局面?
「7一銀とか?」
私の問いに、菅原くんは眉をひそめた。
「7四桂だろ?」
「7四桂? ……同歩で?」
「同歩はヤバいぞ。5五馬が王手かつ自陣に利いてるからな」
……あ、こんな手があるんだ。
全然見えてなかったよ。
「これがあるから、角の手放しを待ってたんだ。7四桂、9二玉、8二金、9三玉に、7五角と打つ筋が、ずっとあったからな。そのとき、4八か3九に攻め駒がいたら、そのまま抜かれちまうだろ?」
うにゅ……だったら、やっぱり無理攻めだったみたいだね。
私の受け間違いだよ。
「ま、4四歩〜3三桂〜4五歩なんざ、普通は成立しねえよ」
「分かっててやるって、ひどくない?」
「ひどくはねぇよ。相手が受けきれないと見たら攻める。当たり前だろ」
……そう言われると、言い返せないかな。
ゲームだもんね。
「どこが悪かったか、教えてくれる?」
「ん? 感想戦か? いいぜ。まだ他は、終わってないからな。まず……」
《将棋用語講座》
○チェスクロック
ボードゲームには、お互いの持ち時間を計るために、専用の時計がある。最初はチェス用に開発されたため、これをチェスクロックと言い、チェスクロと略す。高校や大学の将棋部は、ほとんどの場合、部費でこのチェスクロを常備している。ただ、1台1万円以上するので、取扱いには注意したい。将棋で最も有名なのは、「ザ・名人戦」と呼ばれるもの。グーグルで検索すると、画像を見ることができる。
場所:2012年度新人戦1回戦
先手:木原 数江
後手:菅原 道真
戦型:相振り飛車(先手向かい飛車vs後手ゴキゲン中飛車)
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △5四歩 ▲7八銀 △5二飛
▲6七銀 △5五歩 ▲7七角 △6二玉 ▲8八飛 △7二玉
▲4八玉 △4二銀 ▲3八玉 △5三銀 ▲2八玉 △5四銀
▲3八銀 △4五銀 ▲5八金左 △5六歩 ▲同 歩 △同 銀
▲同 銀 △同 飛 ▲5七歩 △5一飛 ▲8六歩 △8二玉
▲8五歩 △7二銀 ▲8四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8三歩
▲8八飛 △3二金 ▲4六歩 △9四歩 ▲3六歩 △1四歩
▲4七金 △4四歩 ▲6五歩 △3三桂 ▲4四角 △4五歩
▲同 歩 △同 桂 ▲2二角成 △同 金 ▲4六銀 △7九角
▲7八飛 △5七角成 ▲同 銀 △同桂成 ▲同 金 △同飛成
▲3一角 △6七龍 ▲4八飛 △4七歩 ▲同 飛 △同 龍
▲同 銀 △8八飛 ▲3八銀 △8九飛成 ▲2二角成 △4八歩
▲3九金 △4六銀 ▲4一飛 △4九歩成 ▲同 金 △4七金
▲同 銀 △4九龍 ▲3八金 △3七桂 ▲3九金打 △2九桂成
▲同 金 △3七桂 ▲同 金 △2九龍 ▲同 玉 △3七銀成
▲2八角 △4八銀 ▲3七角 △3九金 ▲1八玉 △3七銀成
▲2八飛 △2九金打 ▲同 飛 △同 金
まで100手で菅原の勝ち
 




