将棋観戦って何?
お昼休み、食堂でお盆を持った私は、歩美ちゃんと円ちゃんに遭遇した。声を掛けようとしたんだけど、ふたりともスマホで、何か観てたみたい。
「同飛はできないだろ。でなきゃ、ぶつけねえよ」
「それはメタ読みでしょ。具体的な手順は?」
「中住まいで、飛車の打ち込みができないからだと思うぞ?」
「……なるほど、同飛、8六歩のあとで、6二銀と上がれないわけか」
動画かな? 将棋の話に聞こえたけど……将棋アプリ?
私は声を掛けずに、クラスメイトの子と一緒に食事をした。
邪魔しちゃ悪いしね。ただ、ちょっと気になったかな。
放課後、私はそのことを、八千代ちゃんに話した。
「名人戦を観てたのでは?」
八千代ちゃんは、さも当たり前のように、そう答えた。
「めいじんせん? ……何それ?」
「7大タイトル戦のひとつです。最も格式のあるタイトルですね」
タイトル戦……意味は分かるけど、いまいちピンと来ないね。
「要するに、他人の将棋を観てたってこと?」
「ええ、そうだと思います。駒込さん、冴島さんレベルなら、少しくらいは検討もできるのではないでしょうか。観る専の私でも、たまにできますし」
……ダメだ、全然分からないね。
「そもそもさ、何で他人の将棋を観るの?」
「木原さんは、スポーツ観戦をしますか?」
スポーツ観戦……。
「日本代表が出る試合だけ観るかな。Wカップとか」
「では、実際にそのスポーツをしますか?」
「……しないね」
八千代ちゃんは眼鏡を直して、こくりと頷き返す。
「そういうことです。スポーツに限らずゲームでも、『自分がやるかどうか』と『他人がやるのを観るかどうか』は、全然関係がないのですよ。もちろん、ルールくらいは分かっていないと、観ていてもさっぱりだとは思いますが……」
だね。サッカーで手を使っちゃダメなのと、ポストにボールが入ったら得点なのは、私でも知ってるよ。他の細かいルールは、あんまり知らないけど。
「それに木原さんも、駒込さんたちの対局を、たまに観てるではないですか?」
「あれは、勉強してるんだよ」
強い人の将棋を観たら、何かヒントになるかもしれないしね。
「ま、観てて楽しいのも、事実だけどね。ポケモンの対戦動画も観るし」
「いずれにせよ、観ること自体がおかしくないのは、ご理解いただけましたか?」
……かな。
変わった趣味だと思ったけど、そうでもなかったね。
「でもさ、スマホでわざわざ観るものかな?」
「名人戦は、プロの最高峰の戦いです。仕事中にプロ野球を観てるおじさんがいるように、将棋を観てる人もいるくらいですよ」
「その名人戦って言うのが、プロのバトルフィールドなの?」
私が尋ねると、八千代ちゃんは部室のホワイトボードに、漢字を書き始めた。
名人戦
竜王戦
棋聖戦
王位戦
王座戦
棋王戦
王将戦
「これが、将棋界の7大タイトルです」
……7個もあるんだ。
どっちかって言うと、プロレスとかボクシングに近いのかな?
個人競技だしね。
「これはアレ? スポンサーが対戦組んで戦うの?」
「いえ、それは違います。日本将棋連盟というプロ団体が、選手団であると同時に、組織の運営を行っています。麻雀などと違い、複数の団体がバラバラに活動しているわけではありません。女流の方は、少し分裂しましたが……まあ、それは置いておき、この日本将棋連盟に所属する棋士が、トーナメントあるいはリーグ戦方式で勝ち上がり、挑戦者を決める仕組みになっています」
「アマチュアは、出られないの?」
「出られる棋戦もあります。例えば、竜王戦ですね。ただ、かつてアマチュアが挑戦者まで勝ち上がったことは、一度もありません」
そっか、そこは、すごく差があるわけだね。
プロはプロってことか。
「いつ頃やってるの? やっぱり、春から夏にかけて?」
「1年中やっています」
「オフシーズンは?」
「オフシーズンはないです。名人戦開催中は、他の対局をなるべくしない、という仕組みになっていますが、それはオフシーズンとは言えませんね」
「過労にならない?」
「過労になるのは、極一部の棋士だけです。1年間で2、30局くらいしか指さない人も、多いですよ。トーナメントが多いので、負けると即仕事がなくなります」
……それで食べていけるのかな?
1年間に30局って、1ヶ月に2〜3回しか対局がないんだけど。
10日に1回のペースだよ。
「それで成立してるの?」
「なんだかんだで、成立するようですね。スポンサーの多くは新聞社で、新聞に棋譜を提供するのが、将棋界のような時期が続いていました。現在では、他の企業もスポンサーについていますが、7大タイトル戦は、すべて新聞社です」
ふーん……あ、それで新聞に、将棋の欄があるんだね。
ちゃんと読んだことないけど、納得。
「どこで観れるの?」
「いろいろありますね。名人戦の場合は、朝日新聞社と毎日新聞社の共同ホームページで観るか、あるいはニコニコ動画でも観られます。裏技で、2ちゃんねるの将棋板にも、棋譜が転がっているかと」
「え? ニコニコ動画で観れるの?」
「告知があったはずですよ? 観ませんでしたか?」
……気付かなかったかな。
ニコニコ動画だと、ポケモン関連の動画しか、観ないんだよね。
トップページは、なんかよく知らない生放送の宣伝が多いし。
「ちょっと観てみますか」
「八千代ちゃん、ニコニコ会員なの?」
「プレミアム会員ですが、何か?」
……そっか。毎月500円払ってるんだね、偉いよ。
「私は、無料コンテンツしか観ないポリシーがあるからね」
「い、一応無料なのですが……ただ、一般では追い出されることが多いのです」
八千代ちゃんはスマホを取り出すと、人差し指で操作し始めた。
一般で追い出されるってことは、結構人気があるみたいだね。
「現在、ここまで進んでますね」
「……横歩取りかな?」
「おそらく。形からして、8四飛型だと思います」
そっか、8五飛じゃないんだね。
ただ、この局面を観ただけじゃ、私には分からないけど。
私はしばらく、盤面を見つめ続けた。
「……動かないよ。動画のトラブルじゃない?」
「もうすぐ封じ手ですから、考え中なのではないかと」
「ふうじて? ……何それ?」
「名人戦では、2日かけて将棋を指すのです。1日目の終わりに、次の日の第1手目を紙に書いて、相手に分からないように保管しておくわけですね。これを封じ手と言い、紙に書く行為を『封じる』と呼びます」
「え? 2日も考えるの? 1局に?」
「名人戦、竜王戦、王位戦、王将戦は、すべて1局2日制です。残りの棋聖戦、王座戦、棋王戦は、1日で完全に指し切ります。予選はすべて1日制ですね」
……そんなに考えることがあるのかな?
携帯ゲームの大会だと、1試合30分も掛かれば、長い方なんだけど。
「何で、紙に書くの? 変更可?」
「変更は不可です」
「寝る前に、もっといい手を思いついたら?」
そんなことになったら、後悔で眠れなくなると思うんだけど。
私が訝しがっていると、八千代ちゃんは先を続けた。
「それを防止するためです。タイトル戦では、お互いの選手に持ち時間が決められます。名人戦の場合は、一人9時間、合計18時間です。その持ち時間を使い切ったら、今度は一手60秒以内に指さねばなりません」
すごいね、18時間のタイトルマッチとか、聞いたことがないよ。
そのへんは、ボードゲームならではかな。
スポーツだと、へたばっちゃうから。
「で、それと紙に書くのが、何か関係あるの?」
「1日目の終わりに、紙に書かないで、その場で指したと仮定します。すると、相手はどうしますか?」
「……その夜、対応を考えるかな」
「そうです、それが問題なのです。さすがに、寝室で考えている時間を、測ることはできません。ですから、相手に分からないように紙に書き、かつそれは変更不可なのです」
……なるほどね、何となく、分かったかな。
「でもさ、紙に書いた方は、次の指し手を知ってるから、情報量が多くない?」
「そう考える棋士もいます。私の記憶違いでなければ、渡辺明プロが、そのような趣旨の発言をしたはずです。しかし、実際はどうでしょうか……関係ないという人もいますし、逆に『封じ手が正しかったかどうか気になって、眠れなくなるから嫌』という人もいますね」
へぇ、そのへんは個性が出る感じだね。
確かに、紙に書いて提出しちゃうと、変更不可だから、気になるかな。
割り切って眠れる人じゃないと、睡眠不足になりそう。
ところで、何の話だっけ? ……あ、観戦だね。
「でもさ、こんなにゆっくりな将棋観てたら、飽きて来ない?」
「もちろん、最初から最後までずっと観る人は、ほとんどいないですね。動画をつけたままにする人はいるかもしれませんが……よくあるのは、『終盤だけ観る』パターンです。だいたい、夜中の8時以降に決着がつきますし、終盤は持ち時間がなくなっているので、指し手も速いですから」
このへんも、スポーツとかなり違うかな。
サッカーのラスト5分だけとか、野球の9回裏だけ見る人は、いないよね、普通。
「日曜日の昼に、将棋の番組があるのをご存知ですか?」
あ、それ知ってるよ。ずっと気になってたんだよね。
「NHKでしょ?」
「そうです。このNHK杯は、収録済の映像を編集して、90分に収めてありますので、楽に観ることができます。一番お手軽な観戦方法ですね」
そっか、あれって、プロの対局なんだ。
どっかの将棋好きなおじさんが指してるのかと思ってたよ。
今度、観てみようかな。
「少しはお分かりいただけましたか?」
「うーん……ごめん、まだよく分からないかな」
私は、正直に答えた。
同級生同士、話を合わせても、仕方がないからね。
「24で指すようになれば、高段者の将棋を観るようになると思います。周りが何を指しているか、どんな戦法が勝ち易いか、なんとなく分かりますので。それに、24は早指しがメインなので、観ていて退屈することもありませんよ」
「そうそう、それで思い出したよ。24、ちゃんと登録できたよ」
「それは良かったですね。何級で登録しましたか?」
「15級にしたよ」
登録条件が『駒組ができる』だったからね。
「もう指しましたか?」
「んー、なかなか時間が取れないんだよね。指すとしたら、夜しかないし」
大学生とかなら、いくらでも時間があるんだろうけど、高校生だからね。
「うちも、パソコンを導入できればいいのですが、なかなか……」
だね。うちは公立だからか、あんまりお金がないっぽいよ。
「そのあたりは、私たちが上級生になってから検討しましょう。また明日」
「またね」
《将棋用語講座》
○タイトル戦
優勝者に特定の称号が送られ、次の年に防衛戦を行う形式の棋戦を、タイトル戦と言う。現在のタイトル戦は7つで、タイトルホルダーになることは、すべてのプロ棋士の目標でもあると言える。2日間に分けて戦う2日制(名人戦、竜王戦、王位戦、王将戦)と、1日で指し切る1日制(棋聖戦、王座戦、棋王戦)に分かれる。2000年には竜王戦をネットで観戦できるようになっており、実はネットへの進出が非常に早い分野であった(盤と駒を再現できるアプリがあれば十分だった、という理由もある)。
※駒込さんと冴島さんが観てた試合。
http://wiki.optus.nu/shogi/index.php?cmd=kif&cmds=display&kid=75265




