相振り飛車
「うーん……」
日曜日の午後、私はつま先立ちになって、ガラスケースの中を見つめていた。
「うーん……」
このデデンネ人形、欲しいな。
でも、すごく取りにくそう。
1000円……じゃ足りないかも。右から攻めれば……。
「うわッ!?」
私はバランスを崩して、後ろによろめいた。
誰かと背中がぶつかる。
「おい、気をつけろよ」
振り返ると、背の高い怖そうな男子が3人、私を睨んでいた。
あう……まずいかも……。
「何だおまえ、中学生か?」
「こ、高校生だよッ!」
私が怒ったように言うと、先頭の男子は顔をしかめた。
「あ? 人にぶつかっといて、何だその態度は?」
「ご、ごめんなさい……」
「あんまり舐めてると……」
「てめえら、何やってんだ?」
ドスの利いた声に、みんな振り返る。
対戦ゲーム台のそばに、ちっちゃい男の子が立っていた。
「何だ、ガキの出る幕じゃ……」
「天堂の菅原だぞ」
後ろにいた男子が、ぼそりと囁く。
すると、先頭の男子も顔色を変えた。舌打ちして、その場を去る。
「今度から気をつけろよ」
そう言い捨てて、3人組みはゲームセンターから出て行った。
……助かった。心臓がどきどきしてるよ。
「中学生がゲーセンはダメだろ。どこの生徒だ?」
ニット帽を被った男の子は、そう言って私をじろじろ眺め回した。
失礼だなあ、もう。
「私は高校生だよ」
「……マジか?」
「きみこそ、中学生じゃないの?」
「俺は高校1年だ……」
「……え? 同い年?」
私たちは気まずくなって、しばらくお見合い状態になった。
「と、とりあえず、ありがとう」
私がお礼を述べると、男の子はふんと鼻を鳴らした。
「クレーンゲームに齧りついてるから、そうなるんだぞ。ちゃんと周りを見ろ」
「……ごめん」
男の子は……菅原くんだっけ? 菅原くんは、対戦ゲームへと戻った。
「切れ負けてるじゃねえか!」
絶叫する菅原くん。
ゲームオーバーになっちゃった? 私は、背後から覗き込む。
「……え、将棋?」
私の喫驚に、菅原くんは振り返る。
「何だ、まだいたのか?」
「将棋の対戦ゲームなんてあるの?」
私が目を白黒させていると、菅原くんもちょっとびっくりしたような顔をする。
「将棋、知ってんのか?」
「うん……将棋部だからね」
「将棋部? ……大会で見かけた覚えがねえぞ?」
「高校から始めたんだよね」
私がそう言うと、菅原くんはまた鼻を鳴らした。
「ふん……そういうことか」
菅原くんはそれだけ言って、ゲームを再開した。
もの凄い早指し。一手2〜3秒で指してるんじゃないかな。
目が回るよ。
「……これ何?」
「あ? 将棋だろ?」
「そうじゃなくて、この戦法は?」
菅原くんは画面の方を向いたまま、めんどくさそうに答える。
「相振り飛車だよ」
「あいふりびしゃ……あッ」
私は、ずっと前に教えてもらったことを思い出した。
「なるほどね、これが相振り飛車なんだね」
「おまえ、ほんとに素人なんだな。……邪魔だからあっち行けよ」
がーん……邪魔者扱いされちゃった。
「と、とりあえず、ありがとね」
私はもう一度お礼を言って、ゲーセンをあとにした。
○
。
.
「ということがあったのだよ、八千代ちゃん」
私はラーメンを食べながら、箸を振り回す。
八千代ちゃんはサンドイッチを片手に、眼鏡を上げ下げした。
「それは何ですか? ノロけ話ですか?」
……どう解釈しても、ノロけ話じゃないと思うんだけど……ま、いっか。
私はシナチクを頬張りながら、先を続ける。
「でね、相振り飛車をやってないのを、思い出したんだよ」
「思い出したも何も、居飛車党ならば、相振りは必要ないですよ?」
うん、そこなんだよね……以前は、そう思ってたんだけど……。
「あのね、振り飛車にしようかと思うんだ」
「なるほど……居飛車は覚えきれない、と?」
ぎくッ……さすがは八千代ちゃんだね。お見通しみたい。
だってさ、居飛車は、難しいんだもん。歩美ちゃんと違って、将棋一筋になりたいわけじゃないし、楽しめれば、それでいいと思う。
「菅原くんに教えてもらえば良かったんじゃないですか?」
「あれ? ……菅原くん、知ってるの?」
「かなり有名な人ですよ。学生大会で優勝したこともある強豪です」
そっか……でも、訊けるような雰囲気じゃ、なかったんだよね。
あっち行けって言われちゃったし。
「とりあえず、教えてよ」
私が頼むと、八千代ちゃんはサンドイッチを置いて、駒を並べ始めた。
「相振り飛車というのは、『お互いが振り飛車にしている』形の総称です。したがって、向かい飛車vs向かい飛車、三間飛車vs四間飛車など、全て相振りに含まれます」
そこは、相居飛車と同じだね。
矢倉、角換わり、横歩、相掛かりは、全部相居飛車だよ。
「で、下位区分は?」
「その点は、相居飛車と違って、少し特殊です。具体的に言うと、プロの間ではほとんどが先手向かい飛車vs後手三間飛車です」
【先手向かい飛車vs後手三間飛車】
「あとは相向かい飛車や相三間が加わるくらいで、四間飛車と中飛車は、ほぼありません」
「え? 何で?」
普通の振り飛車だと、四間とか中飛車の方が、多いんじゃないかな。
「これは、将棋の基本的な理論から導き出せます。将棋は王様を詰ますゲームですから、主砲の飛車を、なるべく王様に向けて据えるのが常道。相振り飛車では、先手の王様が3筋あるいは2筋、後手の王様が7筋あるいは8筋に移動することが多いので、向かい飛車≧三間飛車>四間飛車>中飛車の順で有利です。要するに、王様を攻撃し易い順ですね」
なるほどね、ようやく理解できたよ。
王様が戦場から遠いほど有利で、逆に近いほど不利だもんね。
「だったら、先手が向かい飛車で、後手が三間飛車なのは?」
「このあたりはもう、プロの感覚ですね。個人的な意見になってしまいますが、初心者のうちは、向かい飛車よりも三間飛車の方が、指し易いと思います。桂頭を狙えますし、7七桂から6五桂あるいは8五桂と跳ねて、7筋を攻撃する順も明確。反対に、向かい飛車の攻めには、ちょっとコツが要ります」
どうなんだろ。そのへんは、指してみないと実感が湧かないかな。
「少し並べてみますか。相振り飛車は、序盤にハマる順がありますので。まず、7六歩、3四歩、6六歩と角筋を止めた瞬間に、3五歩」
「これが、非常に多い出だしです。先手の角道が止まっているので、後手は石田模様からの速攻を狙うわけですね」
ふんふん、相手が角道を止めたら、こっちは止める必要がないもんね。
先に位を取れるよ。
「以下、7八銀、3二飛、6七銀が重要な手順です。これを省いて、いきなり7七角、3二飛、8八飛とすると、3六歩、同歩、同飛、3七歩、6六飛、同角、同角」
「序盤から、微差ですが劣勢になります」
あらら、これはダメだね。
飛車取りと5七角成を、同時に受けられないよ。
6八飛打なら、8八角成、同銀、2二角、7七銀、6二玉かな。
「というわけで、さきほども説明した通り。7八銀〜6七銀を急ぎます。以下、6二玉と居玉を避け、7七角、7二玉、8八飛、4二銀。ここで4八玉は、若干危険です」
……? 普通の手に見えるけど……。
「どこが危険なの?」
「この瞬間、3六歩と突かれたとき、どうしますか?」
「3六歩? ……同歩で?」
「それには5五角があります」
「王様で飛車の横利きが消えたので、2八銀とできないのです。仕方がなく6五歩と突き、角交換を強要しますが、7七角成、同桂に5五角と打ち直し、6六角、同角、同銀、6七角と打たれてしまいます」
「後手の馬が確定して、先手不利ですね」
へぇ……凄い。危ない順が多いね。
石田流も過激だったし、それが影響してるのかな?
「正解は?」
私が尋ねると、八千代ちゃんは眼鏡を直した。
「昔はほぼ2八銀でしたが、最近は3八銀も多いですね」
「2八銀? ……そこに銀を上がるの?」
「相振り飛車というのは、昔からある割には、定跡が整備されていませんでした。昭和では相振り=力戦というイメージがあったわけですね。相振りが極一般的な戦法として認識されるようになったのは、平成に入ってからです」
ずいぶん、新しいね……他の戦法と比べて、だけど。
穴熊より新しいのは、ちょっとびっくりかな。
「そして、定跡が整備されていない頃は、この3六歩からの攻めがきついので、2八銀と上がり、以下、金無双という囲いに組むのが普通でした」
【金無双】
……なんか文鎮みたいな形だね。横一直線に並んでるだけだよ。
「堅いの?」
「全く堅くありません。大山康晴十五世名人などは、『金無双が嫌』という理由だけで、相振りを指さなかったほどです。棋理から言っても、2八の銀はいわゆる壁銀の形なので、良くありません」
「かべぎんって何?」
「銀が壁になって、王様の脱出口を塞いでいる状態です。このままでは、2八玉から脱出することが、できないわけですね」
……なるほどね、理解したよ。
「ってことは、悪いの?」
「いえ、必ずしも悪いわけではありません。普通の美濃などと比べると、少し指しにくいというだけです。それに、さきほども言った通り、3六歩〜5五角出や、1三桂〜2五桂の攻めがあるのですから、美濃より耐久性があったりもします。美濃囲いは、上からの攻めに弱いのですよ」
ふーん……いいのか悪いのか、よく分かんないね。
まあ、みんなが昔指してたんなら、そこまで悪くないのかな。
「で、最近は? 美濃にするの?」
「金無双の次に流行ったのは、矢倉です。というより、もともと金無双は、隙あらば矢倉にするという狙いがあったのです。……そううまくは行かないのですが、例えば3六歩に同歩とせず、3七歩成、同銀ともたれかかったり、自分から3六歩と突いて行きます」
「え? これ危なくない?」
「ええ、ちょっと危ないです。3六歩と打たせてくれないことも多いですし、2五桂がもろに直通しますので……ただ、矢倉囲いの長所は、上部からの攻めに強いこと。すんなり組めれば、その時点で優勢になります。完璧な矢倉にできなくても、すぐに潰れるということはないかと」
ふーん、そこは、バランスが取れてるんだね。
3五歩と伸ばされてから矢倉にするんだから、多少の危険は覚悟しないとね。
「じゃあ、やっぱり金無双でいいのかな?」
「まず美濃にして、それから矢倉というのも見かけます。手順にさえ気をつければ、3七歩成、同銀以下、矢倉になるのですよ。注意なのは、4六歩〜4七金を急ぐことでしょうか」
【美濃→矢倉の組み替え】
これも、3筋がちょっと危ないね。飛車が直通してるよ。
「2八玉の方が良くない?」
「2八玉は危ないです。1三桂〜2五桂〜3七桂成が王手になりますし、1四歩〜1五歩〜1七桂成という攻めも生じます。『相振りで美濃のときは一段玉』が基本ですね」
そっか、2八玉も、戦場に近付いてるんだね。
角換わりで入城しないのに似てるよ。
「少し戻しましょう。相振りでうっかりのパターン2は、四間飛車の場合です。初手から、7六歩、3四歩、6六歩、3五歩、6八飛、3二飛、2八銀、6二玉、4八玉と、普通の四間飛車に組むと、以下、3六歩、同歩、同飛、3七歩、3四飛、3八玉、7四飛」
「いきなり歩がピンチになります」
「7八飛で良くない?」
「そこで8四飛と寄ります」
……あ、8七飛成。
「以下、7七飛と無理に受けても、6六角の飛び出しでゲームセットです」
ふええ……ここまで奇麗に決まっちゃうんだ……。
これなら確かに、向かい飛車の方がいいね。四間にする必要がないよ。
「向かい飛車と三間飛車が多いのは、何となく分かったかな」
「ご理解いただけたようですね……ひとつだけ、注意を。『相振りでは中飛車が不利』という点を利用して、『先手が中飛車にした瞬間、相振りに持ち込む』戦法があります。具体的に言うと、初手5六歩に対する作戦ですね」
なるほどね、うまい考えだよ。
私は、ラーメンの汁をすする。
「しかし、です。これに対しては、さらにうまい返しがあるのですよ」
「うまい返し? ……何かな?」
「中飛車模様から、左へ王様を囲い、穴熊にするのです」
【左穴熊】
「これを左穴熊と言い、東大が開発した戦法です」
東大ってことは、レグスペと一緒だね。あれも東大式だよ。
「面白いね。振り飛車なのに、王様を左へ囲うんだ」
「これは、中飛車ならではの逆用です。四間や三間だと、飛車が邪魔で穴熊にできないのですよ」
ふんふん、それは、金銀の動きを考えれば分かるよ。
「これがあるので、『先手が中飛車にしたから相振りにして勝ち』というわけには、いかなくなりました。まあ、普通に居飛車穴熊にすればいいのですが……」
うーん、まさに穴熊は、振り飛車党の天敵だね。
藤井先生に師事しようかな、私も。
「ありがとね、八千代ちゃん」
「いえいえ、こちらこそ……早く食べなければ」
八千代ちゃんはそう言って、サンドイッチを食べ始めた。
……美味しそうだね。私も追加で買って来よう、と!
【今日の宿題】
ありません。戦法編は今回で終わりです。次回から観戦編に入ります。
《将棋用語講座》
○相振り飛車
お互いに振り飛車にする戦型を、相振り飛車と総称する。専門書で解説されることが多いのは、先手向かい飛車vs後手三間飛車である。これは、お互い振り飛車党の場合、7六歩、3四歩、6六歩の出だしが多いからである。四間飛車、中飛車は、左側の攻防がうまくいかないため、普通は採用しない。1995年に出版された杉本昌隆プロの『相振り革命』が先駆的な本であり、以後は定跡が整備され続けている。「振り飛車よりも相居飛車に近い」という意見もあるが、真偽は不明。




