矢倉(25手目を巡る攻防)
「木原ッ!」
「うわッ!」
私が飛び起きると、数学の桂先生が、こちらを睨んでいた。
あうあう……これは、やっちゃった……。
「授業中に寝たらいかんぞ」
「すみません……」
周りでクスクスと笑い声が聞こえる。
笑わなくたっていいよね。ブーッ。
「なんだ、家でゲームばっかりしとるのか?」
あ、バレてるね。
多分、休み時間にDSしてたの、見られてたかな。
没収されないようにしないと……。
コンパスで肩を叩きながら、桂先生は、教壇に戻って行った。
私は教科書を見る。……うわ、涎がついてる。最悪。
でもね、ゲームのせいじゃないんだよ。昼休みに、歩美ちゃんが難しい説明をするから、脳みそが疲れちゃったんだね。食堂で、ばったり出会って……。
○
。
.
「矢倉の25手目以降?」
歩美ちゃんは箸を止めて、私の顔を見つめてくる。
「そうだよ」
「何で、25手目以降限定なの?」
それはね……。
「新矢倉24手を習ったからだよ」
もうね、この先の返事は、見えてるんだよ、歩美ちゃん。
「……そう」
ほらね。でも、私は押すよ。
「で、25手目は、何を指せばいいの?」
「それが分かったら、名人になれるわよ」
……意味不明だね。歩美ちゃん、筋道立てて話そうよ。
「どういうこと?」
「25手目の最善手は何か、なんて、プロでも知らないわよ」
……そうなんだ。
「候補はあるんでしょ?」
歩美ちゃんはそばを啜り、お茶を飲んでから、こくりと頷いた。
「あるわよ」
「例えば?」
「一番多いのは、すぐに3七銀だと思うわ」
「ここから6四角、6八角、4三金右、7九玉、3一玉、8八玉、2二玉、4六銀として、以下、5三銀、3七桂、7三角、1六歩、1四歩、2六歩、8五歩、3八飛が一例かしら」
「他には、8五歩としないで、9四歩〜9五歩とする森内流。あるいは、8五歩からの反撃を放棄して、徹底的に受ける4二銀引型もあるわね」
【森内流】
【4二銀引型】
多いね……。
25手目を聞いただけなのに、もう3つ出て来たよ。
「4二銀引型で、6五歩と突いてるのは?」
「これは宮田新手と言って、宮田敦史プロ考案の、ちょっと深謀遠慮な手」
「意味は?」
「『わざと後手に手を渡して、形を少し崩させてから、攻撃』なんだけど、ちょっと難しいかしら。誤解を恐れずに言うと、6五歩のあとの後手は、どの駒を動かしても、あんまり形が良くない、ってことね。例えばこの図だと、8五歩と突かされてるから、9三桂〜8五桂とできないでしょ。こうなると、後手の攻めが難しくなるわよね」
攻めが難しいって言うか、手の意味が難しいよ。
多分、後手は、6五歩の前に理想型になってて、これ以上動かさない方がいい、ってことかもしれないね。パスできた方がいい局面もあるって、以前教わったし。
「何で後手は、8五桂にこだわるの? そんなに重要?」
「8五歩型に対しては、矢倉穴熊って言う、有力な戦法があるのよ」
【矢倉穴熊】
また穴熊が出て来たよ。この熊、どこにでも出没するから、危険だね。
「8五桂型なら、9六歩から端の猛攻ができるってわけ。ただ、8五歩型が悪いってわけでもないから、そこは注意してちょうだい。ラッキーとばかりにクマると、かえってぼこぼこにされることもあるから」
「穴熊をぼこぼこにできるの?」
「矢倉穴熊は、対抗型の居飛車穴熊ほど、優秀じゃないのよ。最初から8筋を圧迫されてるし、金銀を集める前に攻撃されちゃうから、1枚穴熊や裸穴熊になる可能性も高いわ。8八銀としない状態で戦闘が始まったら、かなりキツいわよ」
なるほどね、振り飛車と違って、相矢倉は、すぐに攻撃できるんだね。
「これは全部、3七銀型からの流れだよね? 25手目自体は?」
「それなら、3七銀の代わりに6八角と上がる森下システムとか、いきなり4六角とぶつける脇システム、あるいは、25手目以前から違う、藤井流早囲いがあるわよ」
【森下システム】
【脇システム】
【藤井流早囲い】
「……順番に説明してくれない?」
何が違うのか、さっぱり分からないよ。
歩美ちゃんは箸を置くと、お茶を啜りながら、最初の局面を指し示した。
「森下システムは、矢倉の中ではちょっと特殊な方針で、後手の指し手に応じて、態度を変える戦法」
「もうちょっと、分かり易く」
私がお願いすると、歩美ちゃんはしばらく考えて、それから唇を動かす。
「主流戦法の3七銀は、『次に4六銀〜3七桂〜3八飛として、すぐに攻撃するよ』っていう意思表示なのよね。これに対して森下システムは、『こっちはまず王様を囲うから、そちらが形を決めてください』という手。この説明なら、分かる?」
3七銀が攻撃の手って言うのは、分かるね。昨日、教わったから。
3七銀としないなら、後手番に主導権が渡るのも、何となく分かるかな。後手は、4六銀3七桂戦法を受けるために、いろいろ対応するんだもんね。5三銀とか、8五歩とか、あるいは9四歩〜9五歩とか。先手が4六銀〜3七桂戦法を放棄するなら、後手の方から先に攻めることもできるし、そうしないこともできるよ。
「うーん、何となく、分かったかな」
「そう、なら次に、脇システムを……」
「ちょっと待って。森下システムの先手は、何で先に攻撃しないの?」
先に攻撃できるなら、攻撃した方がいいんじゃないかな?
先制攻撃こそ勝利への道、って言うもんね。
「それは、ちょっと歴史的な話になっちゃうわね」
対抗型でも歴史の勉強は散々やったし、一応、聞いとこうか。
「詳しく」
「森下システムが流行った切っかけは、『後手に戦法を決めてもらって、それに有効な対策を繰り出した方が、勝率がいい』から。例えば、相手がグーを出してからパー、相手がパーを出してからチョキを出せば、簡単に勝てるでしょ?」
「それって、後出しだよね?」
「その後出し可能な状況を目指したのが、森下システム。例えば、基本図以下、後手が防御の姿勢を取ったら、4七銀型から攻めるわ」
【森下システム4七銀型】
「反対に、後手が攻撃的な棒銀を採用したら、5七銀からがっちり固めるの」
【森下システムvs後手棒銀】
「こんな風に、後出しじゃんけん方式を目指したのが、森下システムなわけね」
「それって、最強じゃない?」
じゃんけんで後出しできるなら、百戦百勝だよ。
私がそう思っていると、歩美ちゃんは人差し指を立てた。
「できたら、ね」
これは……できないってことだね。
欠陥があるのかな?
「後手に対策があるの?」
「森下システムオリジナル版には、欠陥があったのよ。それが、雀刺し」
すずめざし?
……雀を刺しちゃう戦法かな? 物騒だね。
「どういう戦法?」
「端に飛車を寄って、桂香角飛で総攻撃」
【森下システム本家vs雀刺し】
あわわ、攻め100%って感じだね。矢倉が中途半端なままで攻めてるよ。
「これでダメなの?」
「残念ながら、ダメなのよね。森下システムは3七銀を保留してるから、先に総攻撃されると、反撃不能になるのよ。それに、王様を8八に早く囲っちゃうから、藤井システムと同じで、『王様がわざわざ戦場に近付く』状態。そのまま潰れるわ」
……そっか、9筋が戦場になるときは、8八に王様がいたら、ダメだよね。
面白いな、対抗型の発想が、こういうところでも見られるなんて。
「というわけで森下システムは、『後出しじゃんけん』を目指したわけだけど、『じゃんけんせずに全力で殴ればOK』という理由で、一時的に消滅したわ」
一時的? 今、一時的って言ったね。
聞き逃さないよ。
「復活したの?」
「そう、森下プロの弟弟子の深浦プロが、対策を考えたの。その発想は、対藤井システムと本当に似てて、『9筋を攻められるなら、8八玉としないで速攻』作戦よ」
【深浦流森下システム】
「初対局では、残念ながら佐藤康光プロに負けちゃったけど、対策自体は成立してるから、その後も指されてるわ」
すごいね。
誰も指さなくなった戦法を復活させるって、何かかっこいいな。
「ただ、4六銀3七桂戦法に比べると、マイナーね」
「何で?」
「4六銀3七桂戦法が優秀で、森下システムを使う必要がなくなったから。将棋は、よほど変な攻めじゃない限り、攻めてる方が心理的に有利なゲーム。これは、プロでも変わらないわ。そもそも、『攻撃側は攻撃が失敗したら、防御に回ればいい』けど、『守備側は守備に失敗したら、即敗北』なんだから、みんな攻撃したがるわよね。木村一基プロみたいに、守る方が好きって人も、たまにいるけど、例外かな」
なるほどね、やっぱり先制攻撃は、勝利への道なんだよ。
がんがん攻めようね。
「とりあえず、森下システムは成立してる、ってことだけ覚えておいて。興味があったら、深浦流あたりを丹念に勉強すればいいから」
「了解」
「じゃあ、次は脇システムね」
そう言って歩美ちゃんは、盤面を変えた。
「脇謙二プロ愛用の脇システムは、すっごい定跡将棋」
「矢倉自体が、定跡将棋じゃない?」
「その中でも、特に定跡将棋よ。詰みまで研究されてる局面もあるくらい」
えぇ……詰みまでって、それゲームが終わってるよ。
こうなると、完全に暗記ゲーだね。
全部解明されてるわけじゃ、ないんだろうけど。
「ただこれは、1990年代前半の戦法で、単体ではあまり指されてないわ。脇システムが主に登場するのは、藤井流早囲いの局面よ」
【藤井流早囲い】
「ここから3一玉、7八玉、2二玉、6八金として、片矢倉に組むわ」
【片矢倉】
「片矢倉は通常の矢倉よりも、角の打ち込みに強くて、脇システムとの相性は抜群。この一連の手順を、藤井流と呼ぶの」
「藤井流? ……藤井システムの藤井さんじゃないよね?」
藤井さんは、振り飛車党だよね、ここまで見る限り。
「その藤井さんよ」
「……矢倉も指すの?」
「矢倉も指すようになった、ね。藤井システムが苦しくなってくると、振り飛車党自体が激減して、藤井プロも、居飛車を指さざるをえなくなったってわけ。で、いきなり発明したのが、この藤井流早囲いよ」
どんだけぇ……発明家になれば良かったんじゃないかな?
「藤井流早囲いは、開発段階でブレが大きいから、『これが早囲いの決定版』っていう手順はないけど、一例として、7六歩、3四歩、6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、5二金右、5八金右、3二銀、6七金、4四歩、7八銀、3一角、7九角、7四歩、2六歩、4三金、3六歩、6四角、4六角」
「これで部分的に、脇システムでしょ」
「へぇ、ムリヤリ矢倉みたいな進行なんだね」
「そうね。8四歩からじゃなくても、藤井流早囲いは成立するわ。ただ……」
「ただ?」
「勝率はあんまり良くないかも」
あらら、残念。
藤井さん、がんばだよ。
「このへんって、アマチュアだと、評価しにくいのよね。プロでは『一手早く指せるかどうか』が、死活問題になりかねないけど、級位者レベルじゃ、『一手損? で?』って感じだし、『早く囲える矢倉』の優秀性を、そこまで実感できないと思う」
強者ならではの悩みなんだね。
私は悩まなくていいかな。一手一手真剣に指してると、心が折れそう。
「はっきり言っちゃうと、数江ちゃんなら、まだそこまで暗記しなくていいと思うわ。羽生さんも、『初段までは終盤力で何とかなる』って言ってるし、まずは終盤力を鍛えないとね。矢倉だって、最初は見よう見真似でいいのよ」
そっか……まあ、どれだけ有利になっても、王様を詰まさないとダメなんだよね。そのへんは、駒落ちで十分実感したかな。将棋は、王様を詰ますゲーム。序盤で有利になったり、駒得をしたりするゲームじゃないよ。ここ重要。
「了解。頭もお腹もぱんぱんだし、そろそろ教室に戻ろうか」
「そうね、昼寝の時間にしましょう」
「……」
○
。
.
「こりゃッ! 木原ッ!」
「うわッ!」
しまった。また、うたた寝しちゃったよ。
将棋が夢でリピートするとか、病気だね、これ。
「放課後、職員室まで来い」
あうーん……それはないよ……。
でも、桂先生は将棋部の顧問だし、将棋の話で誤摩化しちゃおう、と。
数ちゃん、頭いい。
【今日の宿題】
次回は、矢倉急戦を扱います。
・矢倉3五歩早仕掛け
http://wiki.optus.nu/shogi/index.php?cmd=kif&cmds=display&kid=73271
・米長流急戦矢倉
http://wiki.optus.nu/shogi/index.php?cmd=kif&cmds=display&kid=9481
・阿久津流急戦矢倉
http://wiki.optus.nu/shogi/index.php?cmd=kif&cmds=display&kid=37425
・矢倉中飛車
http://wiki.optus.nu/shogi/index.php?cmd=kif&cmds=display&kid=75212
《将棋用語講座》
○矢倉早囲い(藤井流早囲い)
普通の矢倉よりも少ない手数で囲えるので、矢倉早囲いと言う。藤井プロが居飛車に新風を送り込む形で開発した、21世紀の戦法。だが、筆者の調査によれば、これは江戸時代に存在していた初期の矢倉戦法であり、実は藤井流の方が古い。現在の主流戦法が『遅囲い』なのである。このあたりは、『古棋探訪』にて扱う予定。『早○○』という名前は他にもあり、速攻に関するものと(4五歩早仕掛け、早繰り銀など)、囲いに関するものがある。矢倉早囲いと呼ぶのは、振り飛車に別の『早囲い』が存在するからである。