対抗型(居飛車穴熊)
その日、私は食堂で、八千代ちゃんと出会った。
「木原さんも、サンドイッチを買いに?」
「うん、この大盛りそばのトッピング」
「……そうですか」
その反応は何かな? まあ、別にいいけどね。
私はカツサンドを買って、八千代ちゃんと一緒に学食の隅に座る。
「いただきまぁす」
私はわさびとネギをそばつゆに入れて、ずるずるとそばを啜った。
ここの学食は、まあまあ美味しいんだよね。幸せ。
「最近は部室に出られないのですが……何かありましたか?」
「えっとね……何もないかな」
「なるほど……木原さんは、あいかわらず戦法の勉強を?」
だね。私は頷いて、もう一口そばを啜る。
「昨日は、藤井システムをやったよ」
「そういう順番ですか……対抗型からと言うことですね」
ってことだね。
対抗型は、居飛車vs振り飛車。
藤井システムは、四間飛車vs居飛車穴熊だもんね。
私はそんなことを考えながら、サンドイッチの包装を剥がす。
「……そう言えばさ、居飛車穴熊って、どんな戦法なの?」
私の質問に、八千代ちゃんは目を白黒させる。
「居飛車穴熊の前に、藤井システムをやったのですか?」
「そうだよ。えっとね……」
私は、自分が勉強した戦法を、順番に説明した。
すると、八千代ちゃんも納得したみたい。食べかけのタマゴサンドをテーブルの上に置いて、いつものように眼鏡を直し始めた。
「なるほど、急戦→藤井システムと来ているわけですか……それはそれで、アリだと思います。藤井システムを知らずに、振り飛車の棋譜を並べると、『なぜ端歩を早めに突くのか』『なぜ一直線に穴熊に囲わないのか』『なぜこの急戦が成立するのか』などを、理解できないことが多いので」
だね。私の疑問も、そこから始まってるよ。
「現代将棋を勉強する上で難しいのは、なぜこういう風に指すのか、と疑問に思ったとき、必ず『過去にこういう対策があって、ダメになったから』という、歴史的な知識が必要になることですね。これを追跡して行くのが、とても困難なのです」
うんうん、ひとりじゃ、できないよね。
参考書を買うか、他の人に教えてもらわないと無理だよ。
「次は、居飛車側から見て、穴熊とはどういう戦法か、を覚えないといけませんね」
「簡単に説明してくれるかな?」
「いいですよ……少々お待ちを……」
「あ、盤なら、私が持ってるよ」
いつもの、マグネット盤だね。私はお盆の横にそれを置いて、それからサンドイッチを一口頬張った。うん、これも美味しいね。カラシが効いてて。
「穴熊という戦法自体は、昔からあります。江戸時代には、既にあったのかもしれません。しかし、ここまで有力戦法になったのは、昭和50年代のことで、田中寅彦プロの貢献が大きいですね」
今度は、田中さんが出て来たね。
名字は普通だけど、下の名前が珍しいかな。
「その田中さんって言うのは、有名なの?」
「独創的な戦略から、『序盤のエジソン』という異名を取るプロで、居飛車穴熊と飛車先保留型の矢倉を普及したのは、この人です。藤井プロと並ぶ、戦後の革命児のひとりですね」
へぇ、かなり有名なんだね。
でないと、エジソンなんて渾名はつかないよ。
「少し予備知識を入れると、もともと穴熊は、金銀が全て左側に移動するため、バランスが悪い戦法だと思われていました。しかし、田中プロは従来のものを改良して、その欠点を払拭することに成功したわけです。こうなると、王様の堅さが影響して、振り飛車がほとんど勝てない状況になりました。振り飛車側も穴熊に組むなど、いろいろ試行錯誤をしますが、それでも藤井システムが誕生しなければ、四間飛車は消えていたかもしれません」
なるほどね、ここで登場するのが、救世主の藤井さんなんだね。
でもでも、今回は藤井システムの話じゃないよ。
「で、結局、居飛車穴熊って、どういう戦法なの?」
形は、何となく分かるよ。
王様をどんどん左に移動して、香車の下に隠れるんだよね。多分、9九の地点を洞穴に見立てて、穴熊って言うんだと思う。王様は、冬眠中の熊だね。
「百聞は一見に如かずですし、ひとつ並べてみますか。実は穴熊にも、新型と旧型があり、旧型は通常、7九金型穴熊のことを指します。つまり……」
「このような形ですね」
「んーと……金は3一にいるよ?」
「先後反転すれば、7九ですので、一括してそう呼びます」
そっか、じゃあ、そのまんまだね。
「ちなみにこれは、田中プロの実戦譜からの引用です。以下、3七桂、4三金、1六歩、8五歩、7七角、7四歩、6七銀、9四歩、9六歩、5一角、6六銀、8四角と進みました」
「対局は1977年12月10日ですので、かなり古い展開です」
そこは、私も感じられるかな。端歩を突くのがすごく遅いよ。
「この7九金型は、一見すると、自明のように思えます。というのは、7八金型ですと、8八の銀と連結していないからですね。連結していない金銀は、弱いので。例えば、このように一手変えた場合です」
【参考図】
そうだね。これはちょっと、弱そうかな。
後で8二飛とか打たれると、金を逃げないといけなくなるから。
「そもそも、居飛車穴熊の理想型は、4三金と上がらずに、5一金右〜4一金右〜3二金とした形です。つまり……」
【参考図】
「こうですね。このように、王様をガチガチに固めるのが初期の傾向だったのですが、振り飛車側も対策を練り始めます。それが本譜の、5六銀〜3七桂です」
「どういうこと?」
「無思慮に金を横ばいさせると、4五歩から一気に攻める算段です。特に、5一金右〜4一金右〜3二金右とした場合、7六の地点が完全に無防備ですので、そこを狙うわけです」
なるほどね、そこは角の頭だから、何にも利いてないよ。
「だから5二金右〜4三金なんだね」
「ご明察」
やったね。久々に正解したかな。
「ただ、この上部圧迫戦術は、プロの間ですぐに普及したわけではありません。そもそも、この棋譜で先手を持っている谷川さんは、アマチュアの強豪です。その後の棋譜の中にも、4枚穴熊に囲まれているものが散見されます」
「4枚穴熊?」
「金銀4枚すべてを囲いに回す穴熊です」
【参考図】
「こうなってしまうと、振り飛車側は、ほとんどお手上げですね」
だね。いきなり不利になっちゃうなんて、序盤は難しいよ。
「さて、『右金がなぜ7八ではなく6七へ行くようになったのか?』ということは、お分かりになられたかと思います。次に、『左金がなぜ7九ではなく7八へ行くようになったのか?』ということを説明しましょう」
「え? そうなの?」
「はい。現在では、7九金型穴熊よりも、7八金型穴熊の方が主流です。理由は、藤井システムですね」
またまた藤井さんの登場だよ。
ほんと、いつも名前が出るね。
「藤井システムの登場により、左金を7九に連結させる形では、上部からの猛攻に対処できなくなりました。そのため、左金もひとつ前に、つまり7八へ移動させることになります。藤井システム全盛期における穴熊は、舟囲いを経由して潜ります」
【参考図】
「上部から速攻されないよう、先にある程度囲っておいて、それから香車を上がるという戦略です。この形のメリットは、藤井システムでも手が出しにくいという点にありますが、デメリットとして、左金を7八で宙に浮かせないといけないのです」
ふんふん、そうだね。
あとで8八銀と上がったとき、7八の金には、紐がついてないよ。
囲いとしては、だいぶ弱くなっちゃってるかな。
「こうして、居飛車穴熊はしばらくの間、『右金は6七に、左金は7八に置き、不安定な形で戦う』ことを強いられていました。ところが2003年になって、松尾歩プロが、素晴らしいことに気付いたのです。『6七金+7八金の形でも、金銀を連結させることができる』と」
??? 意味が分からないね。
連結しないものは、連結しないよ。
「どうやって?」
「当時の棋譜を、途中まで並べてみましょう。初手から、7六歩、3四歩、2六歩、4四歩と、先手居飛車、後手振り飛車の構えでスタートし、4八銀、9四歩、5六歩、3二銀、6八玉、9五歩」
「2003年2月24日ですから、藤井システムの出だしですね」
だね。端攻めの構えだよ。
「以下、7八玉、4三銀、5八金右として、5九金右〜6九金右〜7八金右の理想型を放棄します。4二飛、5七銀。これで舟囲いが完成し、6二玉、7七角、7二玉、8八玉、8二玉、6六歩、4五歩、2五歩、3三角、6七金」
「右金を6七に回して、上部からの攻めに備えます」
うん、これも、さっきの説明通りだね。
6八金右〜7八金寄は、上から猛攻されちゃいそう。
途中の6八金右は、角引きの邪魔にもなってるしね。
「7二銀、7八金」
「ここで、7八金型になりました」
「えっと……8八銀としたら、やっぱり連結してないよね? 7八の金が無防備だよ?」
「ここからが、松尾プロの独創的な手順です。以下、4四銀、3六歩、5四歩、9八香、5二金左、9九玉、8四歩、8八銀、7四歩、5九角、8三銀に6八銀と引き、7二金に7九銀右」
「アッと言う間に、金銀が連結しました」
あわわ、ほんとだ。
これは凄いかも。5七の銀を引いて、7八の金を守るなんて。
「以下は説明と関係ないので、省略します。要するにですね、『7八金型の場合でも、5七の銀をどんどん引いて、3枚穴熊に発展できる』ことに、松尾プロは気付いたわけです。このアイデアにより、振り飛車側は、さらなる受難の時代を迎えることになります」
「何で?」
「構想が優秀過ぎたからです。松尾流に組まれた場合の居飛車勝率は、8割を超えると言われていました。こうなった時点で、振り飛車の負けなのです」
えぇ……じゃあ、振り飛車ダメじゃん……。
振り飛車側から見たら、勝率が2割切ってるってことだよね。
10回に1、2回しか勝てない戦法は、誰も使わないんじゃないかな。
「実際、この構えは、居飛車側から見て、完璧なのですよ。『金銀3枚で王様を囲う』ことにより、さきほどの田中流穴熊の欠点を、克服していますので」
そうだね。さっきの田中さんの穴熊は、金銀2枚だけだったもんね。
「とはいえ、振り飛車側もなんとか打開しようと模索し、ここまで完璧に組めることは、少なくなりました。でないと、プロは誰も、振り飛車を指さなくなったかもしれません」
こういうのは、盤の外の攻防だよね。
ある人がアイデアを出して、他の人が否定して、また他の人が作り直して……。
「でもさ、これって、どうやって攻めるの?」
銀を全部囲いに使っちゃってるから、攻められないんじゃないかな?
相手の攻撃を待つとか?
「そのあたりは、私の力量を超えていますので、参考書をご覧ください。ちなみに、最近の本で有名なのは、渡辺明プロの『四間飛車破り 居飛車穴熊編』です」
「部室にある?」
「ありますよ」
今日の放課後は、それでも読もうかな。
じゃ、あとはサンドイッチの残りを食べて、お昼休みは終わりッ!
【今日の宿題】
ありません。次回はゴキゲン中飛車を取り上げます。
・ゴキゲン中飛車
http://wiki.optus.nu/shogi/index.php?cmd=kif&cmds=display&kid=3877
・ゴキゲン中飛車超急戦
http://wiki.optus.nu/shogi/index.php?cmd=kif&cmds=display&kid=2468
・丸山ワクチン(2二角成〜9六歩型)
http://wiki.optus.nu/shogi/index.php?cmd=kif&cmds=display&kid=37398
・超速3七銀
http://live.shogi.or.jp/kiou/kifu/kiou110318.html
《将棋擁護講座》
○穴熊
王様を香車の後ろに隠し、金銀でガチガチに固める囲い、およびその囲いを採用した戦術のこと。これまで開発された囲いの中で、最も堅いと考えられている。当初は専ら、対振り飛車用であったが、現在では矢倉、相振り飛車などにも現れ、さらに振り飛車側もこれを多用するようになっており、アマチュア棋戦では特によく見られる。穴熊が他の囲いよりも優れている点として、「絶対に詰まない形になる瞬間が多い」ことが挙げられる。この状態をZと略す。
《追加情報》
本作は2012年5月なので、まだ発売されていませんが、阿部健治郎プロの『四間飛車激減の理由』も名著です。