香
昨日、コンビニでちっちゃな盤と駒を買ったよ。500円のやつ。
やっぱり盤と駒が手元にないと、よく分からないや。
頭の中じゃ、なかなかできないよね。
さて、今日は部室に誰がいるのかな?
「こんにちは」
私が部室のドアを開けると、歩美ちゃんと目があった。
「あら、来たんだ」
そりゃ来るよ。三日坊主はよくないからね。
「宿題、できた?」
「うん、今回はできたと思う」
昨日、歩美ちゃんと何回か駒を動かしたからね。
それがヒントになったよ。
「じゃ、答え合わせしましょ」
よーし、はりきっていこう。
私はボードの前に座って、宿題の図を再現する。
「まずは、私の番だね」
私はそう言って、銀を左斜め前に動かした。
歩美ちゃんは、昨日と同じように、王様を向かって右に逃げる。
そこからは、歩美ちゃんとふたりで共同作業だよ。
「そう、この手が見えたら、後は簡単よね」
と歩美ちゃん。銀を後ろに下がって、王様を包囲するんだよね。
この手を見つけるのに、10分くらいかかったのは内緒。
「正解ね。何回動かしたか、覚えてる?」
えーと、私、歩美ちゃん、私、歩美ちゃん、私……。
「11回かな?」
「それも正解」
「やったー」
私は万歳する。
だけど、歩美ちゃんはあんまり嬉しくなさそう。
というか、表情が全然変わらないね、この子。
「ちなみに、2手目にこう逃げると?」
歩美ちゃんは宿題の図を戻して、さっきとは違う逃げ方をした。
これは、昨日の夜、ちゃんと考えたよ。
「そのときは、こうする」
「じゃ、金駒はこれで卒業ね。香車に入りましょう」
歩美ちゃんは、箱の中から、スマートな駒を取り出した。
「これが香車」
変わった読み方だね。知らないと「こうしゃ」って読んじゃいそう。
「動き方は?」
「凄く単純よ」
歩美ちゃんは、香車をボードの一番下に置いて、それからおはじきを並べた。
んん? えっと、これは、どういう意味なのかな?
私には、単純じゃないよ。
「香車の動きは、『真っ直ぐ前に何マスでも動ける』よ」
「何マスでも? 1回で?」
「そう。例えば、1回でこんな風に……」
「一番端まで行ってもいいし、あるいは……」
「途中で止まってもいいの」
へえ、1回に何マスも動ける駒は、初めてだよ。
強いのかな? 弱いのかな?
「歩がパワーアップした感じだね」
「ええ、その認識は正しいわ。最初は、強化版の歩だと思っていいわよ」
「バックは?」
「そこも歩と同じで、バックは不可」
なるほどね、行ったっきりなんだ。
「何か問題出してくれない?」
チャレンジ精神旺盛な私に対して、歩美ちゃんはあいからわず冷静だった。
「ちょっと待って、まだ説明することがあるわ」
そう言って歩美ちゃんは、歩を一枚取り出すと、盤の上にそれを置く。
「さて、私の記憶が正しいなら、一度に何マスも動ける駒は、今日が初めてだと思うけど」
そうだね。他の駒は、1回につき、どこかへ1マスだったよ。
「うん、初めてだよ」
「じゃあ、このルールを説明する必要があるわ。『一度に複数のマスを移動できる駒は、他の駒を原則的に飛び越えられない』よ。ひとつだけ例外があるけど、それは保留」
……よく分かんないや。飛び越えられないって、どういう意味かな?
「例えば?」
「その例が、この局面よ。香車の進行方向に、歩がいるでしょ」
……いるね。さっきのルールだと、この歩は飛び越えられないんだね。
「じゃあ、これは反則ってこと?」
私はそう言って、香車をびゅんッと縦に動かした。
「そう、それは反則。この状態で香車が動けるのは……」
「赤いおはじきが置かれているところだけ。最大で4マスよ」
ふーん……結構、窮屈だね……。
あれ? だったら……。
「こうなったら、どうするの?」
私は歩を摘んで、それを後ろに下げた。
「いい質問ね。その場合、香車は全く動けないわ」
「え? 全然動けないの?」
「ルールに従えば、そうなるわ。ひとつ、駒は敵のものしか取れない。ひとつ、駒を飛び越すことはできない、そして、1マスに置ける駒は、1枚だけ。この3つが合わさって、香車は動けないということになるの」
味方の歩は取れない、飛び越せない、その上にも乗れない……。ほんとだ、この香車は動けないね。だったら、この歩は凄く邪魔。ない方がいいくらいだよ。
私がそんなことを考えていると、歩美ちゃんは駒を片付けた。
あれ? もうおしまい?
「今日の駒の動かし方は、香車だけにして、復習を兼ねたパズルをしましょう。これまで覚えた駒は、王様、歩、金、銀、香車でいいのね?」
そうだね。その5枚だね。
私は、首を縦に振った。
「王様を除いた4枚から、重複を許す形で任意に2枚選んだ場合、その組み合わせ数は?」
ん? ……組み合わせの問題か。こういうの、苦手なんだよね。
「重複してもいいってことは、同じ駒を選んでもいいの? 金金とか」
「いいわよ」
だったら、簡単かな。考え中……考え中……。
「10通りだね。金金、金銀、金香、金歩、銀銀、銀香、銀歩、香香、香歩、歩歩」
「正解。じゃ、クイズに移るわよ」
歩美ちゃんは席を立つと、ホワイトボードに水性ペンで何かを書き始めた。
(1)敵の王様と、味方の駒2枚を、盤の上へ好きに配置する。
(2)味方の駒は、金銀香歩の中から2枚選ぶ。同じ駒を2回選んでもOK。
(3)敵の王様が先に動く。
キュと音をさせて、最後の文字を書いた歩美ちゃんは、ペンを仕舞った。
そして、私に向き直る。
「問題。この3つのルールに従うとき、『2手目で必ず王様を捕まえられる駒の組み合わせと配置』を答えてちょうだい」
……問題が理解できないや。
「分かった?」
「えっとね、1から3のルールは分かったけど、最後のが分からなかったよ」
「じゃあ、例を出しましょう。一番簡単な金金から」
歩美ちゃんは席に戻ると、盤の上に駒を配置した。
あ、これは、大川先輩とやった形だね。
「ルール1に従って、王様と駒2枚を好きに配置するわ。味方の駒の種類は、ルール2に従って任意。今回は金2枚ね。ルール3で、敵の王様が先に動くことになってるから、まずは王様を動かさないといけないんだけど……」
「どこに動かしても、取られちゃうよ?」
私の指摘に、歩美ちゃんは人差し指を立てた。
「そういうこと。こういう『次のターンで王様が絶対に取られる状態』を『詰み』と呼んで、将棋ではこの時点で勝敗が決するの」
ああ、詰みって、そういうことだったんだ。昨日、歩美ちゃんが口にしてたよね。
あれれ? でも……。
「大川先輩は、『王様を取られたら負け』って言ってたよ」
私が質問すると、歩美ちゃんはちょっと困ったような顔をした。
「そっか……先輩はそう教えてるんだ……」
歩美ちゃんは顎に手を当てて、何かをぶつぶつ呟く。
「……じゃあ、そういうことにしときましょ。ひとまず、こう覚えてちょうだい。『自分の王様が次の相手のターンで絶対に取られる状態』を『詰み』と呼び、この状態が発生したらどうやっても負けだから、それ以上は指さない。OK?」
難しいね。ただ、さっきの金2枚が詰みなのは、明らかかな。
「何となく分かったよ」
「じゃ、パズルに戻りましょう。例をたくさん見た方が、理解し易いと思う」
そうだね。私は、ホワイトボードを再確認する。
(1)敵の王様と、味方の駒2枚を、盤の上へ好きに配置する。
(2)味方の駒は、金銀香歩の中から2枚選ぶ。同じ駒を2回選んでもOK。
(3)敵の王様が先に動く。
で、相手の王様を次のターンに絶対取れないといけないんだよね。
要するに、詰んでいる状態にすればいいんだ。
「次のターンってことは、3回以上動かして捕まえるパターンは、ダメなんだね?」
「それはダメ。あくまでも、敵→自分のターンで、片をつけてちょうだい」
面白そう。でも、簡単じゃないかな?
ひとつずつ、潰していくよ。
「えっと、さっきの形を応用すれば、まずこれができるよね」
《金銀》
《金香》
《金歩》
《銀銀》
「正解。早いわね。残りは5通りよ」
5通り……まだやってないのは……。
銀香、銀歩、香香、香歩、歩歩かな。
「銀と香車……銀と香車……」
あれれ? できないよ?
「これは、ダメなんだよね?」
私は確認のために、一応駒を配置した。
「それはダメね。こう逃げられるから」
歩美ちゃんは、王様を動かす。
うん……だよね……。詰んでないや。
銀はサイドがスカスカ。思い出したよ。
私はいろいろ試してみたけど、どうしてもできなかった。
これって、イジワルクイズで、最初からできないんじゃないかな?
「ねえ、正解はあるの?」
「あるわよ」
「そっか……」
私は納得して、また考え始めた。
1分……2分……。あうあう、分からない。
「ヒントちょうだい」
「いいわよ。ヒント、王様の置き場所が重要」
王様の置き場所……。
あ、そっか、王様はどこに置いてもいいんだよね。
ルール1が頭から抜けてたよ。
とりあえず、王様は端っこにいると、捕まり易いと思う。前回の宿題でも、王様は最後に隅っこでやられてるもんね。だから……。
「最初から隅っこに置くよ」
私が王様を打ち付けると、歩美ちゃんは頷いた。
「それは、いい発想ね」
でしょでしょ、ここから……。
ここから、どうするの? 解決しないよ。
私がまごまごしていると、歩美ちゃんは唇を開く。
「銀香は難しいかしら。じゃあ、香車2枚だと?」
香車2枚? ……そっちの方が難しくないかな?
私は銀を香車に替えて、盤を睨んだ。
………………あッ! 分かったッ!
「こうだね」
《香香》
「正解。次に王様がどこへ逃げても、香車で取れるわね」
凄い。香車って意外と強いね。ロケットみたいだよ。
「この形が分かったら、他のもできるんじゃない?」
うん、そんな気がしてきた。
「早速……」
取りかかろうとした私に、歩美ちゃんがストップをかけた。
「待って……今日は、ここまでにしてくれない?」
「ん? 何か用事があるの?」
「将棋の大会が近いから、帰って練習したいのよね」
へえ、大会とかあるんだ……。
私は、まだそういうレベルじゃないかな。
「頑張ってね。残りが宿題かな?」
「そうね、銀香、銀歩、香歩と……あ、先に言っときましょうか。歩2枚には、解答がないから、それは考えなくてもいいわ。本当は、できるかどうかも試してみて欲しかったけど、あんまり時間を取っちゃ悪いから」
了解。歩歩は捕まらないんだね。
じゃ、歩美ちゃん、大会頑張ってねえ。
【今日の宿題】
以下の3つのルール、
(1)敵の王様と、味方の駒2枚を、盤の上へ好きに配置する。
(2)味方の駒は、金銀香歩の中から2枚選ぶ。同じ駒を2回選んでもOK。
(3)敵の王様が先に動く。
を前提として、王様が詰んでいる状態を作りなさい。
既に解答が提示されているものについても、別パターンがあれば考えなさい。
〔既解〕
金金、金銀、金香、金歩、銀銀、香香
〔未解〕
銀香、銀歩、香歩
〔無解〕
歩歩
《将棋用語講座》
○詰み
詰みの厳密な定義は、実は存在しない。
日本将棋連盟発行の『将棋ガイドブック』によれば、以下の通り。
「一方の側が玉以外の駒の利きを敵玉の存在するマス目に合わせるような指し手、つまり玉に取りをかけることを“王手”といい、かけた側から見れば“王手をかける”という。王手をかけられた側が、その王手を次の一手で解除することが不可能になった状態、つまり次にどのように応接しても玉を取られてしまうことが防げない状態を“詰み”といい、玉側からみれば“詰まされた”という。」
しかし、本作では、まず初心者向けに、
相手がどのように対応しても、次のターンで必ず相手の王様を取ることができる状態。
と、簡潔に定義する。
これについては、「王様を詰まそう!」編で詳しく解説する予定。