居飛車と振り飛車(振り飛車編)
結局、昨日は帰るまで本を読んでたんだけど……。
全然分かんなかったね。こんなことで、大丈夫なのかな?
不安になってくるよ。
とりあえず部室に行こうね。
「来たよぉ」
私がドアを開けると……あれ? 八千代ちゃんしかいないね。
これは、いつものパターンだよ。
「みんな将棋教室?」
私が尋ねると、八千代ちゃんは本から顔を上げた。
もうちょっと早いタイミングで上げてくれてもいいんだけど。
「こんにちは、木原さん……他の人は、道場へ行きました」
そっか……予想通りだね。
「八千代ちゃんは、またお留守番?」
「いえ、木原さんが、戦法について尋ねてくると思いましたので」
八千代ちゃんは、私のことを気遣ってくれたんだね。
うるうる。それじゃ早速質問しようか。
「『羽生の頭脳』を、ぱらぱらめくってみたんだけど……」
「どうなりましたか?」
「全然分かんなかった」
あ? 八千代ちゃん、呆れたかな?
私の心配を他所に、八千代ちゃんは本をテーブルの上に置いた。
「最初は、そんなもんだと思います」
っと、予想と違う答えだね。
「でもさ、本を読んでも全然分かんなかったら、意味なくない?」
「そんなことはありません。学校の勉強でも、最初は意味が分からないものです。何度もやるうちに感覚が掴めてきて、分かるようになるわけですね」
うーん、そう言われると、そうかな。
英語とかも、最初は全然分かんないもんね。
カタカナ英語はたまに分かるけど、発音がおかしいって言われちゃうし。
「これから、どうすればいいのかな?」
「とりあえず、物真似から始めるのがいいと思います。ただそれは実戦になるので、駒込さんに聞いてください。私が教えられるのは、理論的なところだけですから」
八千代ちゃんくらい知識があれば、実戦も強そうだけどね。
知識量と強さは、あんまり関係ないのかな?
「それでは、木原さんが『羽生の頭脳』を流し読みしたという前提で、話を進めます。まずは、戦法を大きく2つに分けます。居飛車と振り飛車です」
いびしゃ、ふりびしゃ……本の中に、出て来たかな。
よくは分からなかったけど……。
八千代ちゃんはホワイトボードに、漢字を書いてくれた。
「居飛車と振り飛車は、飛車の動作によって決まります。つまり、『飛車を初期位置から動かさずに駒組みを進めるのが、居飛車。飛車を初期位置から動かして駒組みを進めるのが、振り飛車』です」
「……例えば?」
「いろいろ見てみましょう。まずは、居飛車の例です」
【居飛車A】
【居飛車B】
【居飛車C】
「Aでは先手のみが、B、Cではお互いが、それぞれ飛車を動かさずに駒組みを進めています。ちなみに、先手というのは、1番最初に駒を動かすプレイヤーで、後から駒を動かすプレイヤーは、後手と呼ばれます」
これは分かるね。「先手を打つ」とか、「後手に回る」って言うから。
「この3つは、『羽生の頭脳』で何となく見たよ」
「では、次に振り飛車の例を」
【振り飛車A】
【振り飛車B】
「Aでは先手のみが、Bではお互いが、それぞれ飛車を動かしていますね」
うんうん、これも分かるよ。
どっちも、飛車が初期位置から大幅に動いてるもんね。
「『飛車を動かすか、動かさないか』だから、二者択一なんだね」
「原則的には、そうなります。ただ、あまりにも普通の定跡からかけ離れた場合は、居飛車とも振り飛車とも呼ばずに、力戦と呼びます。『力の戦い』と書き、定跡に頼らない実力勝負という意味ですね。使用法は、『その他』とほとんど同じです」
ふぅん、その他扱いなんだ。
実力勝負がその他扱いっていうのも、何か変だけどね。
「オッケー、ここまでは分かったよ。……それで?」
「まず木原さんは、『飛車を動かすかどうか』を決める必要があります」
……あ、そっか、そうだよね。
飛車を動かして駒組みを進めるかどうかなんだから、どっちかしかないよ。
「どっちがいいの?」
「どっちでもいいです。居飛車の方がいいか振り飛車の方がいいか、は、高段者でない限り問題になりません。トッププロレベルでは、居飛車有利のような雰囲気ですが、アマチュアがそういうことを気に掛けても、仕方がないので」
一応、居飛車の方がいいんだ……じゃあ……。
「居飛車にしようかな」
「まあ、それは今すぐ決めなくてもいいです。お試しで、いろいろ指してください」
だね。試食はタダだし。
「さて、戦法を大まかに2分しましたので、さらに下位区分を設けます。今日は、振り飛車から始めたいと思います」
「あれ? 振り飛車からなの?」
私は居飛車にしたいから、居飛車の下位区分を説明して欲しいよ。
「振り飛車の下位区分の方が、圧倒的に分かり易いので」
ふぅん……それは、実際に見てみないと、分かんないかな。
「じゃ、よろ」
「振り飛車は、飛車の移動先で、名前が変わります。少々お待ちを」
わお、八千代ちゃん、盤を4つも持ち出したよ。
こんなにあったら、覚えきれないかも。
【中飛車】
【四間飛車】
【三間飛車】
【向かい飛車】
「この4つが、振り飛車4大戦法です」
「ちょっと時間が欲しいかな。じっくり見たいから」
「どうぞ」
……………………
……………………
…………………
………………
「何か、全体的に似てるね」
「もちろんです。振り飛車と言うからには、お互いに親近性があります。ただ、注意して欲しいのは、四間飛車が指せるから三間飛車も指せるというような、代替性はありません。どの戦法についても、別個に勉強する必要があります」
飛車の位置って、そんなに重要なのかな?
私には今のところ、全部同じに見えるけど。
「読み方は?」
「順番に、中飛車、四間飛車、三間飛車、向かい飛車です。名前の付け方は簡単で、一番上は飛車が真ん中にいるから、中飛車。2番目は左から4列目にいるから、四間飛車。3番目は左から3列目にいるから、三間飛車。4番目は、相手の飛車と向かい合ってるから、向かい飛車です」
なるほどね、これなら簡単に覚えられるね。
ひとつだけ気になったのは、6筋にいるのに四間飛車ってことかな。
筋のナンバーとは、関係ないみたいだね。
「後手でも、同じ?」
「同じです。これは、先手後手関係ありません」
そっか。じゃあ、振り飛車は、これでオッケーかな。
どうやって攻めるかとか、そういうのは全然分かんないけど。
「どこから仕掛けるの?」
「あ、ちょっと待ってください。その前に、大切なことを指摘しておきます。振り飛車の基本形は、この4つで、『羽生の頭脳』に載っているのも、確かこの4つだけのはずです。しかし、現在では、もっと新しいタイプが登場しています」
そう言えば、『羽生の頭脳』は、ちょっと古いって言ってたね。
情報をアップデートしておかないと、心配だよ。
「新しいタイプって?」
「まず、四間飛車の特殊なタイプとして、藤井システムが挙げられます」
「ふじいしすてむ?」
まさか、藤井さんが考えたシステムじゃないよね。
「どういう意味?」
「藤井猛プロが考えたシステムです」
……………………
……………………
…………………
………………
「単純だね」
「名前は単純ですが、システム内容はめちゃくちゃに複雑です。これだけで本が何冊も出ていますし、定跡の変遷も日進月歩でした」
そういう難解なのを考え出されると、困るんだけどな……ん?
「でした、って何?」
「最近は、プロでもアマでも、下火になっています。人気があるのはむしろ、これから説明する戦法ですね」
んー、藤井さんは、開発を止めちゃったのかな?
そのへんは、全然分かんないね。見当もつかないや。
「単純に説明すると、藤井システムって、どんな感じ?」
「それを一言で言い表すのは、難しいですね。これは対居飛車穴熊として考案されたので、先に居飛車をやってからでないと、把握し辛いと思います」
じゃ、後回しだね。先に行こうか。
「別のやつは?」
「近藤正和プロ考案の、ゴキゲン中飛車です」
【ゴキゲン中飛車】
「ごきげんって、ごきげん斜めとかのごきげんじゃないよね?」
「そうですよ」
……なんか、名前の付け方が変わってるね。
「普通の中飛車との違いが分かんないんだけど」
「ゴキゲン中飛車の特徴は、角道を開けたまま戦う、攻撃型の布陣です」
あ、ほんどだ、角道を開けたままだね。
他の振り飛車は、角道を全部封鎖してるよ。
「角道を開けたまま戦うのは、これだけ?」
「いえ、石田流もそうです。三間飛車の応用ですね」
【石田流】
「石田さんが考えた戦法ってこと?」
私が尋ねると、八千代ちゃんは驚いたように眼鏡を直した。
「よく分かりましたね」
分かるよ……さすがに……。
「石田検校という、盲目の棋士の考案です」
「盲目? ……あとで目が見えなくなったってこと?」
「いえ、将棋を指していた頃から、既に失明していました」
「将棋できないじゃん」
「目が見えなくても、将棋は指せるのです。とてつもないハンデですが」
えぇ……どうやって? 想像もつかないよ。
頭の中に盤を思い浮かべて、それだけでやるのかな?
ちょっと人間離れしてるね。
「他には?」
「角交換型四間飛車もあります。これには、江戸時代に流行った旧式と、現在になって急に着目された新式があります」
【旧式・角交換四間飛車】
【新式・角交換四間飛車】
「前者は奇襲戦法で、ほぼ死滅しています」
「あんまり良くないってこと?」
「そういうことになりますね」
そっか……だったら、使わない方がいいかな。
旧式の方は、候補から外しておこうね。
「ちなみに、新式の考案者は、やはり藤井プロです」
へぇ、その藤井さんって人は、凄いんだね。発明家か何か?
「まだある?」
「まだまだあります。三間飛車の応用として、中田功XP、2手目3二飛戦法が挙げられます」
【中田功XP】
【2手目3二飛車】
2手目3二飛車は、そのまんまだね。2手目に3二飛車だから。
「中田功XPって言うのは?」
「中田功プロ考案で、解説書が2002年、すなわちWhindows XPが発売された年と重なっていたことから名付けられました」
「なんかさ……変な名前ばっかりじゃない?」
「……人それぞれです」
そう言われると、困るんだよね。反論できないから。
八千代ちゃんも、これ以上は触れて欲しくなさそうだし、スルーするよ。
「最後に、ダイレクト向かい飛車をご紹介します」
【ダイレクト向かい飛車】
「どのへんがダイレクト?」
「角道を止めない場合、向かい飛車は、4二飛と一回停車して、それから2二に振ります。ダイレクト向かい飛車では、4二飛の停車を省いて、ダイレクトに2二飛と振ります」
「何で一回止まるの?」
止まってる方が、普通じゃない気がするよ。
「3三角成、同桂、6五角があるからです」
「従来はこれを恐れて、飛車を一時停車していたのですが、別に問題ないということを発見したのが、佐藤康光プロです」
なるほどね、こうやって、常識が覆るんだ。
「なんか、戦法を見てるだけでも、飽きないね」
「その通りです。私もコレクションしていますので」
こ、コレクションはしないかな……さすがに……。
「いろいろ眺めて、お気に入りの戦法を探してください」
「え? お気に入りかどうかでいいの?」
「最初はそうですよ。見た目がかっこいいとか、そんな人が多いです」
ふぅん……確かに、それ以外の判断材料がないよね。
「携帯カメラで撮って、持って帰ってもいい?」
「いいですよ。ネットで調べても、たくさん出ると思います」
私はパシャパシャ携帯で撮影すると、それをポケットに収めた。
「では、居飛車に移りましょう」
【今日の宿題】
振り飛車の戦法は、他にもたくさんあります。
Wikipediaなどをご参照ください。
《将棋用語講座》
○振り飛車
将棋2大戦法のひとつで、飛車を初期位置から動かして駒組みをするもの。江戸時代初期には既に指されていたが、その後衰退、ほぼ死滅した時期が続いた。しかし、戦前に大野源一がこれを復活させ、以後、プロ・アマを問わないメジャー戦法へと返り咲いた。後年の大山康晴が得意とした他、升田幸三の升田式石田流など、話題にこと欠かない。居飛車穴熊が登場してからは、苦戦を強いられており、藤井システムによって一時盛り返したが、現在ではまた苦難の時代を迎えている。今回紹介した新式角交換四間飛車は、打開の試みとして開発されたものである。




