平手の特徴
今日からハンデなし。平手戦だね。
二枚落ちをクリアするのに、追加で3日掛かっちゃったのは内緒。
「こんにちは」
私が部室のドアを開けると……あ、みんないるね。歩美ちゃんもいるし、宿題はちゃんとやってきたのかな? 触れないけど。
私が彼女の肩を叩くと、歩美ちゃんは本から顔を上げた。
「なんか用?」
「平手、平手」
私が催促すると、歩美ちゃんは、思い出したかのように一言。
「そうだったわね……そろそろ、自分で勉強してみない?」
えぇ……そんな……冷た過ぎるよ……。
「自分じゃ勉強できないよ」
「んー」
歩美ちゃんは、ぱたんと本を閉じて、私に向き直る。
「二枚落ちを卒業して平手ってことは、ハンデなし。ハンデなしってことは、自分で勉強できるようになったってことだから、今からは独り立ちしないとダメよ」
うーん、免許皆伝になっちゃった。
でも、ちょっと早過ぎないかな?
「もうちょっとだけ」
「そうね……じゃあ、平手の勉強法を覚えましょう」
だね。勉強法を教えてもらえれば、あとは自分でできるかな。
私がわくわくしながら待っていると、歩美ちゃんは平手の局面を作った。
うん、これだよ、これ。
駒がひとつも欠けてない、ビューティフルな初期状態。
「で、定跡は?」
「ないわ」
……え? 聞き間違いかな?
「ないの?」
「数江ちゃんが思ってるであろう定跡、つまり、どちらか一方が必ずよくなる手順は、ないわ。そんなものがあったら、誰も将棋なんか指さないでしょ」
……かな。
確かに、必勝法があるってことになっちゃうもんね。それに、戦力が同じなんだから、六枚落ちや二枚落ちみたいに、一方的にぼこぼこにできるとも、思えないよ。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「必勝にはならない定跡なら、たくさんあるわよ」
「必勝にならない定跡? ……どういうこと?」
「んー、そのへんは……」
歩美ちゃんは、室内を見回す。
あらためてみると、ここって物置き小屋だよね、半分。
「志保先輩」
歩美ちゃんが声を掛けたのは、大川先輩だった。
本棚の整理をしていた先輩は、にこりとこちらを振り返る。
「はい、何でしょうか?」
「私は円ちゃんと一局指すんで、数江ちゃんをお願いします」
「分かりました」
私がうんともすんとも言わないうちに、話は決まってしまった。
今日は、大川先輩なんだね。
ただ、大川先輩は、部の中だと弱いみたいだし、大丈夫かな?
私が心配する中、大川先輩は棚の整理を終えた。
「お待たせしました。……何の用件でしょうか?」
そうだよ。用件を言ってないよ。
歩美ちゃんは、うっかり屋さんだなあ。
「『必勝にならない定跡』って何ですか?」
私が尋ねると、先輩はきょとんと首を傾げた。
あれ? やっぱり知らないんじゃない?
「えーと……駒落ちの話ですか?」
「平手です」
「平手……あ、そういう。分かりました」
あ、よかった。知ってるんだね。私の言い方が悪かったかも。
ホッとする私の前で、大川先輩は一冊の本を取り出す。
眼鏡をかけた人が、表紙にドアップされてるね。誰だろ?
『羽生の頭脳』……はねなまって何かな? この人の名前?
「平手の場合は、こういう定跡書で勉強するのが基本です。駒落ちにも、有名な定跡書はあるのですが、本を読んで本格的に学ぶのは、平手からが多いかと」
本を読んで勉強……。なんだか、学校の授業みたいになってきたね。
「ちょっと見ても、いいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
私は本を受け取ると、ぱらぱらとめくった。
……………………
……………………
…………………
………………
全然分かんないや。
符号と図面と解説が延々と載ってるんだね。
まるで、数学の教科書みたいだよ。
「どうですか?」
大川先輩が、にこにこ顔で覗き込んでくる。
「……難しいです」
これじゃ、ひとりで勉強は無理かな。
解説のない手もあるし。
「最初から何ページも理解する必要は、ないんですよ。漫画ではありませんから、流し読みで頭に入るようなものではありません。プロなら、別かもしれませんが……」
「どうでしょうか。プロでも、定跡書が一目とは限らないのでは」
っと、八千代ちゃんの登場だね。
「八千代ちゃん、詳しいの?」
「……人並みには」
うそだぁ。そのへんの人よりも、絶対に詳しいよ。
八千代ちゃんが将棋マニアだって、知ってるんだから。
「ちょっと教えてくれる?」
八千代ちゃんは眼鏡を直しながら、こくりと頷いた。
「まずは定跡書の発展についてですが……江戸時代の家元、つまり当時のプロは、定跡書を家宝にして、人に見せませんでした。この風習を打ち破ったのが、大橋宗英ですね。宗英の書いた定跡書は、在野にも普及したわけです。ただ、全てが公開されたわけではなく、『大橋家家元将棋秘伝記』などのように、明治時代になってから発見されたものもあります」
ふんふん、なんか歴史の話になってきたね。
でも、歴史は好きだから、こういうのは聞いてて飽きないよ。
「開国後、実力名人制に移行してから最初の体系的な定跡書は、木村義雄の『将棋大観』ではないでしょうか。同じく名人になった大山康晴は、6歳のときにこの本を読んで勉強していたそうです。ちなみに、第80版まで出ているので、小説のベストセラー並みに売れたということですね」
なるほどね、印税でいっぱい儲かったんだろうね。
「それは、戦前の話?」
「そうです」
「で、その『将棋大観』っていうのを読めばいいの?」
私が尋ねると、八千代ちゃんは首を左右に振った。
「いえ、これは基本的に、駒落ちの定跡書です。当時は、駒落ちが非常に盛んでしたので。ただ、1928年版には、平手も載っていたのですが、これは入手困難です。1976年に再版されたときは、平手部分が削除されました」
「削除? 何で?」
「内容がアップデートされていないからです。現代では、違う定跡になっています」
そっか、だったら平手の定跡書には、なりようがないね。
定跡も進化してるって言ってたし、あんまり古過ぎるとダメかな。
「じゃあ、何がいいの?」
「もう少し、お待ちを。実はですね、ここから話が、複雑になるのです。昔は、『プロとアマの差が一番大きいのは、相撲と将棋』と言われたくらい、実力差がありました。その理由のひとつとして、アマチュア側に、あまり情報が流れてこなかったことがあります」
「え? でもさ、大橋さん……だっけ? その人が、定跡を公開したんでしょ?」
「しましたが、さきほども言った通り、全部ではありませんでした。このような『アマはプロの最新情報を知らなくてもいい』という風潮は、非常に長く続き、昭和をも支配します。昭和時代の定跡書を見ると、『推奨といいつつ、プロは絶対にやらない手順』がやたら登場してくるのも、このためです」
えぇ……それって、どうなのかな?
「それって、参考書としては、問題があるんじゃないかな?」
高校の参考書で嘘が書いてあったりしたら、大問題だよね。
私の質問に、八千代ちゃんは難しい顔をする。
「そのあたりは、あまりプロを責められないところもあります。プロは、執筆ではなく、将棋で生活費を稼いでいるわけですから、自分が考えた最新戦法を、自分の対局で使いたいわけですね。そうなるとどうしても、本には書きにくいのです。本に書くと、みんながそれを真似してしまうので。ただ、これ自体が、昭和までの考え方ですが」
なるほどね、要する、アイデアを隠しておきたいんだね。
「戦法に、特許とか著作権はないの?」
「ありません。将棋の戦法は、すぐにパクってもOKです」
ふーん……だったら、教えたくないかな。
他人が1回使うごとに100円とか、それならいいけど。
「しかし、平成の世に入ると、情報公開の革命が起きます。まず、島朗プロが、通称『島研』を立ち上げ、そこで奨励会員、つまりまだプロになっていなかった羽生善治、森内俊之、佐藤康光の3人に、秘蔵の研究を公開しました。これが将棋界におけるビッグバンの始まりです」
「その3人が、どうかしたの?」
「将来的にこの3人は全員、名人になります」
……ごめん、その説明、よく分かんないんだよね。
そもそも、プロがなんなのかも、あんまり理解してないし……。
「何かに喩えると?」
「喩えると、『あとでノーベル化学賞を受賞する3人が、中学時代、同じ化学部に所属していて、やっぱり有名な賞を受賞したことのある顧問の先生が、大学院レベルの講義をしていた』くらい凄いのです」
えぇ……それは……凄過ぎじゃないかな……。
っていうか、そこまでくると、偶然というか、幸運だよね。
「その島っていう人は、3人から授業料を取ってたの?」
「いえ、取っていません」
「じゃあ、ボランティアなんだ。……何でそんなことしたの?」
「……分かりません。島先生自身は、羽生vs渡辺竜王戦ドキュメンタリーのインタビューで、『上の世代に対する反発』のようなことを仰っていましたが……しかし、その代償は大きかったのです。この島研で力をつけた羽生さんは、島先生本人から、タイトルを奪うことになります。賞金額を鑑みるに、数千万円の損失です」
「す、数千万……」
すごい。それだけあったら、漫画を棚ごと買えるね。
「それでも、島先生のやったことには、大きな意味があったのです。私はこの献身を、非常に尊敬しています。そして将棋界は、ここから全く新しい時代に突入します。アマチュアに対する情報公開の先駆けになったのは、深浦康市プロの『これが最前線だ!』です。1999年に発売された本書は、大学生などが競って読んだと言われています。島先生も、自らの実戦経験をもとに書き上げた『島ノート』を2002年に出版。以後、『アマチュアもプロの最新情報を知っていて当たり前』な時代が訪れます。インターネットの普及も、これを後押ししました」
うーん、なんだか、ほんとに歴史の授業を聴いてるみたいだね。
ところで、何の話だったっけ? ……あ、定跡書の話だよ。
「で、何を読めばいいの?」
「それは……非常に難しい話です」
あらら、これはずっこけるね。
ちゃんと説明してもらうよ。
「何で難しいの?」
「実は、情報公開が進み過ぎた結果、情報過多になりつつあるのですよ。本も細分化され、『これさえ読めば大丈夫』という本は、なくなりました。昔なら、『将棋大観』を読んでいれば良かったのですが、今ではそれに代わる本がありません」
「さっきの『これが最前線だ!』じゃダメなの?」
「これは初心者ではなく、上級者向けの本です」
そうなんだ……っていうか、いきなりプロの最前線とか見ても、分かんないかも。
もっと、簡単なのが欲しいよね。
「実はこの……」
八千代ちゃんは、大川先輩が持っている本を指し示す。
「『羽生の頭脳』が一時、その役割を果たしていたのですが、今では古くなっています」
あ、この人が、羽生さんなんだ。
はねなまって読んでたよ。いずれにしても、珍しい名前だね。
「ってことは……いろんな戦法を一瞥できる、基本的な教科書がないってこと?」
「中身が最新の情報をケアしているものは、ありません。ですから、中身が古いと断った上で、『羽生の頭脳』を勧める人もいます。これは、全然間違いではないと思います。初心者のうちは、最新情報を知るよりも、概観の方が重要なので」
ふーん……そっか……じゃあ、この羽生さんの本を読もうかな。
「ちょっと見ていいですか?」
私が手を差し出すと、大川先輩は快く、本を見せてくれた。
んー、なんか、これだけで強くなった感じがするね。
『羽生の頭脳』……3? 3って何だろ? バージョン3かな?
「ここに3って書いてあるのは?」
「第3巻です」
あ、巻数ね。バージョンじゃなくて、ボリュームなんだ。
「……え? ってことは、1巻と2巻もあるの?」
「ありますよ。というか、5巻まであります」
そう言って八千代ちゃんは、棚を指し示した。
……ほ、ほんとだ。『羽生の頭脳』1、2、4、5って並んでるね。
「読み切れなくない?」
漫画ならいいけど、文字で5巻は多いよ。
八千代ちゃんもそのことを分かっているのか、こくりと頷いた。
「ですね。最初は、読んでもチンプンカンプンかと思います」
さ、さっきから、解決策が出て来ないんだけど……。
「安心してください。まず定跡書を読む前に、戦法の名前を覚えればいいのです。『羽生の頭脳』は、そういう戦法の名前を概観するのに最適です。私の記憶が間違いなければ、1巻が四間飛車、2巻がその他の振り飛車、3巻が矢倉、4巻が角換わりおよび相掛かり、5巻が横歩取りだったかと。これらの戦法はいずれも、21世紀に生き残っています。相掛かりのみ、かなり下火ですが」
「待って、それのどこが安心なの?」
数が減ってるどころか、逆に増えてるんだけど。
5冊しかないのに、戦法の名前が6個も出てきたよ。
「この全てをやる必要は、ないのです。例えば、木原さんが振り飛車を使うなら、矢倉、相掛かり、角換わり、横歩にはなりません。また、木原さんが振り飛車を使わないとしても、矢倉にするか角換わりにするか横歩にするかは、選択することができます。したがって、最初の頃は、2つか3つの戦法を覚えていれば、だいたい何とかなります。羽生先生が仰る通り、初段くらいまでは、終盤の方が圧倒的に重要なので。あ、初段って言うのは、道場初段であって、24初段ではないので、ご注意を」
えーと……うん、よく分からない。
ひとつだけ分かったのは、全部の定跡を覚えなくてもいいってことかな。
「とりあえず、『羽生の頭脳』の現代的意義は、そういう戦法名と形を、ワンシリーズでだいたい覚えられることだと思います。ぱらぱらとめくってみてください」
「了解」
禁帯出らしいから、ここで頑張って読もうね。
今日は読書タイム!
【今日の宿題】
ありません。次回から、戦法の概説が始まります^^
《将棋用語講座》
○定跡書
「どうすれば有利になるか?」「どうすれば不利になるか?」「こう指すと形勢は?」などの手順を解説した本を、定跡書と言う。定跡書であるから、基本的には、定跡+変化+解説の3つから成り立つ。戦前では『将棋大観』、戦後では『羽生の頭脳』が非常に有名で、後者はどこの将棋部に行っても置いてある必読書であった。『はぶず』と略される。なお、作中に登場する『羽生の頭脳』全5巻は、2010年発売の文庫版のことであり、1992年に出版されたときは10巻本であった。




