銀
さーて、今日も授業は終わったし、部室に直行するよ。
「こんにちはー」
私が元気よく挨拶すると、部屋の奥で大川先輩が顔を上げた。
「あ、木原さん、こんにちは」
「宿題やってきましたよ」
私がそう言うと、先輩は嬉しそうな顔で微笑んだ。
「では、答え合わせをしましょう」
私と先輩は、ボードを挟んで座る。
えーと、確か宿題は……。
これだね。早速やるよ。
私が駒を動かそうとすると、大川さんは先に口を開いた。
「とりあえず、何回動かしたか、教えてもらえませんか?」
ん? 動かした回数? ……あ、それも宿題だったね。
えーと、私、先輩、私、先輩、私……。
「……7回ッ!」
私が自信満々に答えると、先輩は少しだけ首を捻った。
……あれ、もしかして数え間違えたかな?
私、先輩、私、先輩、私、先輩、私……。やっぱり7回だよ、うん。
「では、実際に動かしてみましょうか」
「はーい」
私は右の金を摘んで、それを左斜め前に動かす。
先輩は王様を……。
「……あれ?」
「どうかしましたか?」
……これ、私が家で考えたのと違う。
「なんでここに逃げないんですか?」
私は先輩の王様に触れて、別の場所に置いた。
「それは、ベストな逃げ方ではないからです」
「でも、さっきの逃げ方でも、7回で捕まるような……」
「やってみますか?」
ちょ、ちょっと待って欲しいかな。
このパターンは、全然考えてなかったから……。
「ゆっくり考えてくださいね」
先輩はそう言って、隣にいる知らない女の子と話を始めた。
私はボードに顔を近付けて考え込む。
えーとね、昨日、家で考えてて分かったんだけど、王様は、端っこへ追い詰めた方がいいみたいなんだよね。だからこのパターンだと、左の方へ……。
「こうかな?」
私が音を立てて駒を動かすと、先輩はこっちを振り返った。
ニコッとして、王様を向かって左に動かす。
よし、これなら追い詰められそうだね。右の金を上がって……。
私が力強く駒を動かすと、先輩の顔から笑顔が消えた。
あれ? これって間違い?
「それはですね……」
先輩はそう言って、王様を向かって左斜め下に逃げた。
さっきの金を左に寄って……。
私が金をずらすと、先輩は王様を真っ直ぐこちらへと動かした。
今度は下の金を寄って……あれ? また王様を真っ直ぐ?
「……逃げられちゃった」
「そうですね。これは捕まりません。少なくとも、攻め方が最善ではないです」
私は、ボードを睨む。うーん、簡単だと思ったんだけど……。
「最初が間違ってるのかな……」
「いえ、途中までは合ってましたよ」
あ、途中までは合ってたんだ。どこまでかな?
……先輩の顔が曇ったときかな? だったら……ここ?
多分、この金の動かし方が間違ってたんだよね。
ひとつ前に戻して……。
「ええ、そこまでは合ってます」
やっぱりね。でも、ここからがさっぱりだよ。
私がうんうん唸っていると、ボードにいきなり影が差した。
顔を上げると、知らないおかっぱの女の子と目が合う。
部員かな? とりあえず挨拶しとこ。
「こんにちは」
「王様の脱出経路に先回りするのよ」
あ、無視されちゃった。
でも、これはアドバイスかな?
王様の脱出経路に先回り……あ、もしかして……。
「こう?」
「正解です。さすが駒込さん、教えるのが上手ですね」
見つけた私も褒めて、褒めて。……あ、まだ王様捕まえてないや。
私が次の手を考えていると、大川先輩は、横にいるおかっぱ頭の少女を見上げた。
「すみません、ちょっと用事があるので、後はお願いできませんか? 1年生同士、話もし易いと思いますし……」
おかっぱ頭の少女は、無表情に頷き返す。
「別にいいですけど」
あれ? 講師交代?
私が引き止める間もなく、大川先輩は部室を出て行った。
後には、おかっぱの少女と、私だけが残される。
「はじめまして、私は駒込歩美、1年A組よ、よろしく」
「私は木原数江。B組だよ。よろしく」
私たちは自己紹介を終えて、再び宿題に取りかかった。
この人、強いのかな? 何かオーラ出てるけど。
「私の番ね」
そう言って歩美ちゃんは、王様を一番隅っこに逃げた。
私は30秒ほど考えて、右の金を左斜め前に動かす。
「はい、詰みね。次、行きましょ」
え? 今、何て言った? つみ?
「まだ王様取ってないよ?」
私の質問に、歩美ちゃんは大きく目を見開く。
「あなた、将棋歴何ヶ月?」
「昨日始めたから、2日目」
私が正直に答えると、歩美ちゃんは一言。
「そう……」
うわーん、何か適当な返事されちゃったよ。
でも、王様を取ってないのは事実だからね。パスは禁止。動かしてもらわないと。
「じゃ、こうするわ」
歩美ちゃんは、王様を向かって右に戻した。
うん、これで必ず取れるよね。よいしょ。
「やったね、私の勝ちだよ」
つまり、お互いに最善を尽くしたときの最短経路は……。
こうだね。9回。7回じゃなかったよ。残念。
「相手のベストを考えるって、凄く難しいね。勉強になったよ」
「そうね……ところで、これって何の練習?」
えーとね……何だろ? 初心者だから、よく分からないや。
「……駒の動かし方かな?」
「なるほどね……全部覚えた?」
「……分かんない。覚えたのは……王様と歩と金かな」
私が答えると、歩美先輩は駒箱に手を伸ばした。
中身を漁って、1枚取り出す。
「だったら、次は銀ね」
「ぎん? ……シルバーの銀?」
「そうよ」
歩美ちゃんは、駒の表を私に見せる。
ほんとに銀だね。金とどう違うのかな?
「銀の動き方は、こうよ」
「……金に似てるね」
「ええ、金と銀は、金駒と言って、同じグループに属するから。但し、性能は全然違うわ。金は守備に、銀は攻撃に専ら役立つの」
……何だか、急に説明が難しくなったよ。
大川先輩の方が、初心者向きだったのかな?
「銀の動きは、初心者には一番難しいみたいだし、金と紛らわしいから覚え方を言っておくわね。『斜め後ろに動けないのが金、真っ直ぐ後ろと真横に動けないのが銀』よ。共通する部分と違う部分を色分けしたら、分かり易くなると思う」
そう言って歩美ちゃんは、赤いおはじきと青いおはじきを取り出した。
あ、なるほどね。前進するときは、金も銀も同じなんだ。で、左右か後ろに動くときは、金が行けるところには銀が行けなくて、銀が行けるところには金が行けない。
何となく、理解したよ。
「金と銀って、どっちが強いの?」
私の質問に、歩美ちゃんは難しそうな顔をした。
「……どっちが強いってことはないと思う」
「でも、金の方がたくさん動けるよね?」
銀は5ヶ所、金は6ヶ所だもん。その分だけ、金の方が強いんじゃないかな?
「そうかもしれないけど……パターンに依るわ。いくつか、調べてみましょう」
歩美ちゃんは、さらに歩を取り出し、それを王様の正面に置いた。
「この場合、王様は捕まる?」
うん、これは簡単だよ。
「金を、歩の前に移動させればいいんじゃないかな?」
「正解ね。だったら、これは?」
「但し、成らない前提で。成ったら銀じゃなくなるから」
「……ならない? ならないってなに?」
「……知らないなら、話が早いわ。今のは忘れて」
うん、何だか、私の知らないルールが、いっぱいあるみたいだね。
ひとつずつ覚えていくよ。
とりあえず、今はこのクイズに集中しないとね。
「……一緒じゃないかな……銀を歩の前に移動させて……あッ」
私は、喫驚を上げた。そして、こう付け加える。
「銀の横に逃げられちゃうや」
「そう、銀はサイドがスカスカなの。正面から押さえ込むときは、金の方が強いわ」
サイドががら空きじゃ、押さえ込めないもんね。納得した。
「じゃあ、銀の方が強い場合ってあるの?」
「そうね……例えば……」
歩美ちゃんは金を2枚取り出して、宿題に似た形に並べた。
「この形で、王様をすぐに捕まえられる?」
うーん、これは……。
「ちょっと難しいかな。上の金を左に動かして、王様を向かって下に移動して、さらに下の金を左に寄せても、捕まらないよね?」
私の確認に、歩美ちゃんも頷き返す。
「じゃあ、これは?」
……同じじゃないかな?
そもそも、銀を今日習ったばかりだから、どうすればいいのか分からないや。
「うーんとね……分かんない……」
「こうすると、どう?」
歩美ちゃんは、私が見守る中、3回連続で駒を動かした。
ん? ……あ、そっか。
「これって、次に王様がどこに逃げても、取られて終わりだよね?」
「その通りよ。そしてこの手順は、さっきの金2枚の形だと成立しないの」
つまり、この場合は、銀の方が強いってことだね。
だったら、状況に依るとしか言い様がないのかな?
「ま、今日はこれくらいかしらね。金と銀を覚えたら、第一関門クリアよ。この2枚の組み合わせだけで、かなり遊べるから。例えば、日本将棋連盟が昔作った、ごろごろ将棋っていうボードゲームには、歩と金と銀と王様しか登場しないの」
「ごろごろ将棋? ……どうぶつしょうぎのこと?」
どうぶつしょうぎは知ってるよ。
あれって、かわいいよね。ルールも簡単だし、凄く覚え易い。
だけど、歩美ちゃんは首を左右に振った。
「いいえ、違うわ。どうぶつ将棋は、女流棋士の北尾まどかさんの考案。ごろごろ将棋は、それよりもっと前に、イベントの出し物で考えられたものだけど、あまり普及しなかったみたいね。私もやってみたけど、初心者にはとっかかりにくいと思う」
ふーん……ネットで調べてみようかな……。
「じゃ、今日はここまで」
そう言って、歩美ちゃんは席を立とうとした。
私は慌てて袖を引っ張る。
「ん? 質問?」
「宿題出してよ、宿題」
「宿題? ……ああ、復習用のパズルね。いいわよ」
歩美ちゃんは1分ほど考えて、ボードに駒を配置した。
あれ? これって、昨日の宿題にそっくりだよ?
「さっきと答えが同じじゃないの?」
私が尋ねると、歩美ちゃんは、あいかわらず無表情に、唇を動かす。
「違うわよ。……少しだけやってみる?」
よーし、レッツ・チャレンジ!
私はさっきと同じように、右の駒を左斜め前に上がった。
歩美ちゃんも、同じように王様を向かって右に寄る。
やっぱり、最後まで同じなんじゃないかなあ?
ここで……えーと……。
前回は、左の駒を、真っ直ぐ左に寄ったんだよね。だから……。
「あれ? 銀は左に……」
「動けないわね。おさらい。『銀は真っ直ぐ後ろと真っ直ぐ横には動けない』」
そっか……じゃあ、前回の宿題とは違うね。
金と銀を交換したから、答えも変わっちゃうんだ。
よーし、今日も帰って解こうっと。
歩美ちゃん、バイバーイ。
【今日の宿題】
課題図において、プレイヤー同士が最善の動き方をした場合、何回駒を動かせば王様を捕まえることができるか、答えなさい。なお、金銀の側が、最初に駒を動かすものとする。
※「成る」はまだ習っていないので、銀は成れない。
《将棋用語講座》
○どうぶつしょうぎ
北尾まどか女流二段の考案した、将棋類似のゲーム。
将棋入門用としては最適だが、勝敗基準が本将棋と若干異なっている。
78手で後手必勝であることが、東京大学情報基盤センターの解析で判明するも、
手順を覚えることが困難なため、現在でも十分に遊ぶことができる。
○ごろごろ将棋
日本将棋連盟が90年代に作った簡易将棋。
ネットでも無料で遊ぶことができる。
http://shogitter.com/rule/96