六枚落ち(変化手順を読む)
お昼休み。学食は今日も混んでるね。
私が麺類のコーナーに並んでいると、見慣れた後ろ姿があった。
あれって、歩美ちゃんじゃないかな?
歩美ちゃんは私に気付かず、うどんを注文して列を離れた。
追いかけて脅かしちゃお。私はカレーうどんを頼んで、後を追う。
「……あれ? 見失っちゃった」
「何やってるの?」
「ひゃッ!」
私は危うく、お盆を落としそうになった。
セーフ。カレーうどんなんかぶちまけたら、卒業まで笑い者だよ。
「歩美ちゃん、脅かさないでよ」
「ごめんなさい」
それにしても、どこから現れたのかな。凄いステルス機能。
「一緒に食べよ」
「じゃ、そこ席がふたつ空いてるから」
私たちは窓際の席に座り、早速、箸を割った。
「いただきまーす」
ずるるる……うーん、美味しい。
カレーとうどん。この組み合わせを考えた人は、天才だね。
……そう言えば、あの六枚落ち定跡を考えたのは、誰なんだろ?
「ねえねえ、歩美ちゃん、六枚落ち定跡って、誰が考えたの?」
私が質問すると、歩美ちゃんは箸を止めた。
また八千代ちゃんに丸投げかな?
「……大橋宗英だったかしら?」
あ、答えが返ってきたよ。
「変わった名前の人だね」
「江戸時代の人だから」
「え? そんなに昔からあるの?」
「端を突破する作戦自体は、その時代からあるわ。ただ、現在の六枚落ち定跡は、木村義雄が完成させて、さらにいろんな人が改良したもの」
ふーん、定跡も進歩するんだね。まるで科学みたい。
「そう言えば、八千代ちゃんから、六枚落ち定跡を教えてもらったんでしょ?」
「ん、どこで聞いたの?」
「今朝、正門で会ったとき」
そっか、じゃあ、私が9筋突破と1筋突破を勉強したのは、知ってるんだね。
質問があるから、ちょっと訊いてみようかな。
私はプラスチックの盤駒を取り出して、5六歩の局面を作った
「ねえねえ、この手は、いい手?」
「1筋突破定跡で、5六歩? ……見たことないわね」
だろうね。
あの八千代ちゃんが知らなかったくらいだもん。
「ちょっと考えさせて」
歩美ちゃんは箸を置くと、盤面に集中し始めた。
てんぷらがふやけちゃうよ。
「……んー、これは、止まってる気がするわね」
「どうやって?」
「まず、3五歩と突いて……」
うにゅ、これは昨日、出て来なかったよ。
「意味は?」
「6六角、8二金、5七角に3四銀」
「さらに2二成香と攻めてきたら、3三金と上がるわ」
「これで、一応止まってるわね」
そっか……残念。
でも、「一応」ってのが気になるかな。
「一応って言うのは?」
私が尋ねると、歩美ちゃんは盤を見つめたまま答える。
「んー、例えばこのまま、2三成香、同金、8二龍があるわよね」
あ、ほんとだ。香車を捨てる代わりに、金を取れちゃったよ。
「これは、次に9三角成ともできるし、一応成功ね」
また「一応」だね。保留が多いな。
「一応成功じゃなくて、大成功じゃない?」
「そうとも言えないわ。例えば8二龍以下、2五銀、9三角成、3四玉」
「どんどん上に逃げて行って、ちょっと危ないわよ。入玉模様」
ん、また知らない単語が出てきたね。
「にゅうぎょくって何?」
「王様が敵陣の中に入ることよ」
……あ、入玉だね。分かったよ。
「入ると、どうなっちゃうの?」
「入ると、捕まえるのが難しくなるわ」
へえ、そうなんだ。ただ、どういう仕組みなのかは、イマイチ分からないね。
「例を挙げてくれない?」
「んー、入玉の例は、難しいわね。それはまた今度にしましょ。それに、私たちの駒落ち対局では、上手の王様が敵陣に入った時点で、勝ちでしょ」
……そう言えば、そうだったね。
先延ばしにされちゃったけど、ゆっくりやろうね。
「じゃあ、5六歩は良くないの?」
「良くないわけじゃないわ。3四玉の時点でも、まだ下手勝ちでしょうね。馬もできてるし、攻撃される心配がないから。ただ、こうするくらいなら、定跡通り、1四歩〜1三歩成で、いいと思うんだけど」
……そっか、そう言われると、そうだね。
昨日の1四歩〜1三歩成は、明確に下手がいいもんね。
「いずれにせよ、この5六歩〜6六角〜5七角は、面白いわ。角を攻めに参加させる着眼点はいいし、上手の反応もそこそこ難しいから」
やったね、褒められたよ。
じゃ、うどんの続きを食べよ。
私たちはそれから5分くらいずるずるして、うどんを食べ切った。
「ごちそうさまッ!」
足りないね。購買でパン買おうかな。
「歩美ちゃんは、もうお腹一杯?」
「……かな」
そっか、小食なんだね。
「ところで、八千代ちゃんは、どの程度まで深くやった?」
私が腰を上げようとしたところで、歩美ちゃんが尋ねてきた。
私は椅子にお尻をつける。
「深いって、何を?」
「定跡よ。変化もちゃんと勉強した?」
変化? ……チェンジのことだよね?
「チェンジ! チェンジ! イエス、ウィー、キャン!」
「……何それ?」
あ、滑ったね。
歩美ちゃんが大笑いしたの、見たことないや。
私の前では、くすりとしたことすらないかな。
笑わせたら100万円欲しいね。
「変化って何?」
「変化って言うのは、分岐のこと」
分岐……あ、分かった。最初から、そう言ってくれればいいのに。
これも将棋用語かな?
「分岐はやったよ」
「じゃあ、これも?」
歩美ちゃんは盤面を崩して、別の図を作った。
うん、やった……けど、この先はやってないね。
「えーと、言及はしたかな?」
「言及したじゃ、足りないわね。……どう指す?」
うーん、いきなり将棋が始まったね。パンは後にしようか。
考え中。
……………………
……………………
…………………
………………
「同角かな?」
「正解。普通の9筋突破定跡の場合、8四歩に同角じゃなくて9二成香だけど、8四歩早突き型は、同角でオッケーよ。理由は分かるかしら?」
理由はね……。
「ごめん、分かんない」
「じゃあ、何で取ったの?」
「勘」
……………………
……………………
…………………
………………
「そう」
うわーん、またこれだよ。
「とりあえず、王手だって言うのが、ひとつよね」
そうだね、それは分かるよ。5一に王様がいるから、8四角は王手。
普通の9筋突破定跡の場合は、8四歩の前に5二玉だよ。
「だから上手は、8三金とできないわ。ここで5二玉」
「さあ、どうする?」
どうするも何も、攻めるよ。そのための9五歩だし。
「9四歩ッ!」
私が歩を突くと、歩美ちゃんの眉毛がぴくりと動いた。
むむ、何かに反応してるね。
「同歩」
「同香ッ!」
「8三金」
……………………
……………………
…………………
………………
「負けました」
香車と角の、どっちかが助からないよ。しょぼん。
「これが、9筋突破定跡の有名な変化ね」
そっか、こういうのを、変化って言うんだね。
ただ、角が接近してる状態で8三金は、普通のバージョンでも出たかな。
単純に忘れてたよ。
「どうすれば良かった?」
「んー、とりあえず、9四歩と仕掛けずに、6六角と引くんじゃない?」
これは……先に逃げておいたのかな?
「でもさ、これって、次に8三金で、9四歩と突けなくなっちゃうよ?」
「それは仕方がないわね。どのみち9筋はすぐに突破できないから、角の安全を確保するのが先よ。ただ、8三金の前に、6四歩と突くわね」
うむむ、これは確か……。
「うっかり9四歩だと、同歩、同香、6五歩だっけ?」
「正解。やるわね」
どんなもんだい。やられっぱなしじゃないよ、さすがに。
「だから下手は?」
「5六歩」
角の逃げ道を確保するよ。これで6五歩には、5七角だね。
「それも正解。私はいよいよ、8三金ね」
うーん、9筋を守られちゃった。
「さて、次の手は?」
私は腕組みをして、考え込む。
9四歩は同歩で意味ないし……今さら1六歩は遅いし……。
お腹空いてきちゃった。
私が悩んでいると、歩美ちゃんが唇を動かす。
「んー、次の手は、ちょっと難しいかな」
難しいんだ。じゃあ……。
「9七香とかじゃないの?」
「……別にそれでもいいわよ」
あ、いいんだ。じゃあ、簡単だね。
「そう指すよ」
「4二銀」
「9八飛ッ!」
1筋突破定跡の、逆バージョンだよ。
これも応用のひとつだね。
「4一玉」
あ、逃げたね。逮捕しに行くよ。
「9四歩ッ!」
「同歩」
「同香ッ!」
「9三歩」
「同香成ッ!」
「同銀」
……………………
……………………
…………………
………………
「どうしたの?」
「か、角を切っちゃダメなんだよね?」
私がそう言うと、歩美ちゃんは首を傾げた。
「何で?」
「角と銀の交換は、こっちが損だからだよ」
昨日、八千代ちゃんに教えてもらったね。
交換レートは、角>銀。50円玉と100円玉の交換になっちゃう。
歩美ちゃんは合点がいったように首を振ると、銀を指差した。
「考え方自体は正しいけど、よく見て、同角成、同金、同飛成でしょ?」
「このときの交換状況は?」
交換状況? それはさっき言って……。
「あ……そっか」
「気付いた?」
「角香と金銀の交換だね」
角と銀の交換じゃないよ。全体を見ないとね。
「そういうこと。この交換は、数江ちゃんの香損かな」
えぇ? それは、どういう計算なの?
駒には値段がないから、正確には計算できないと思うんだけど……。
「何で?」
「角と金駒2枚の交換は、釣り合ってることが多いから」
……あ、そうなんだ、初めて知ったよ。
「それって、どうやったら分かるの?」
「んー、それは、将棋の歴史で、実証されてることかな」
統計みたいな感じかな? 足し算引き算をしてるわけじゃ、ないっぽいね。
歩美ちゃんの方が詳しいし、ここは従っておこっと。
「こういうのを2枚換えと言うから、覚えといて」
相手の駒2枚と換えるから、2枚換えだね。覚えたよ。
「というわけで、香損なんだけど、純粋な香損じゃなくて、龍を作るのと引き換えに捨てたわけだから、厳密に言うと『香損未満』かしら」
なるほどね、一応、対価は取れてるんだね。
「このまま続ける?」
「うん、その通りに指すよ。9三角成、同金、同飛成」
「5七角」
ふえぇ……角が王様の前に飛んで来たよ……。
「よ、4八銀かな?」
私は王様を守るため、銀を上がった。
「待って、それは9三角成で終わるわよ」
あうぅ……龍を取られちゃった……。
飛車に当たってたのを、見逃しちゃったよ。
「負けました」
「いいわ、戻しましょう」
歩美ちゃんは、待ったを認めてくれた。優しいね。
「とりあえず、龍を逃げないと行けないかな?」
「そうね。王様はまだ安全だから、受ける必要はないかも」
5七に角がいるだけで、詰めろでも何でもないもんね。
焦り過ぎたかな。うーん……あ、いい手、発見。
「龍を一番奥まで入るよ」
「なるほど、王手ね」
歩美ちゃんは事実確認をしてから、5一香車と打った。
まあ、受けるよね……次は……。
「なんか……だんだん難しくなってる気がする……」
「んー、そんなことはないんだけど、手掛かりが少ないからかしら」
というか、二歩禁止のルールが、凄い足枷なんだよね。
禁止じゃなかったら、6二歩〜6一歩成くらいで楽勝なのに。
「分かんないから、桂馬を跳ねるよ」
歩美ちゃん、微妙そうな顔してるね。
「ま……悪くはないか……8四角成は8二龍があるし……2四角成」
う、馬ができちゃった……ますます難しくなったよ……。
私がうんうん唸っていると、歩美ちゃんも「んー」と呻いた。
「ま、9七香〜9八飛は『香損未満で上手に馬ができそう』くらいでいいわ」
くらいでいいって言われても、こっちは真剣なんだよ。ぷんぷん。
……ん、そう言えば。
「さっき、『それでもいい』って言ったよね?」
「……言ったかもしれないわね」
「じゃあ、他に正解はあるの?」
「あるわよ」
歩美ちゃんはそう言って、局面を8三金まで戻した。
「8四歩早突き型の定跡は、ここで8六歩よ」
8六歩? ……1秒も考えなかったよ、こんなの。
「ま、これに初見で気付いたら、手合い違いだわ」
「てあいちがい?」
「実力と駒の落とし方が合ってないってこと。この8六歩に一発で気付ける人は、六枚落ちじゃなくて、もっと上のレベルで指せるってことね」
ああ、そういうことか。
私のレベルだと、これは全然見えなかったね。
「狙いは何?」
「順番に説明しましょ。まず、上手は4二銀と、王様の逃げ道を作るわよね」
そうだね、それはさっきもやってたよ。
「それから?」
「下手はそのまま、8五歩。上手は7三銀」
「7三銀は、8四歩の防止。それも分かるわね?」
8四歩の防止……7三銀じゃなくて5四歩なら、8四歩、7三金ってことかな?
でっていう?
「5四歩、8四歩、7三金で、どうするの?」
「その場合は、8八飛よ」
……変には思わないけど、その先が分からないよ。
「4一玉に8三歩成としても、同金で戻っちゃうよね?」
「先に9四歩、同歩、同香、9三歩、同香成、同銀を入れてから、8三歩成」
あ、金と銀、どっちかは絶対取れるよ。両方取れちゃう可能性もあり。
「これは終わってるね」
「そうだけど、8四香でどっきりしちゃうかな」
「飛車を逃げると8三金。うっかり同とは、同銀、同角、同金、同飛に9五角」
「これがどうかしたの?」
「王手飛車取りでしょ?」
……あッ。
「8六香と打っても、8四角、同香、8七飛。これは面倒なことになるわよ」
だね。桂馬と香車のどっちかは取られそうだし、龍ができちゃうよ。
「えーと、どうすれば良かったのかな?」
「8五歩だと思うわ」
ん? と金を見捨てちゃうの? せっかく作ったのに……。
「8三金だよね?」
「8四歩、同銀、8五歩、7三銀、8七香」
「2段ロケットが完成して、あとはどうやっても馬と龍を作れるわ」
うわ、ほんとだ。凄い強力だね。レーザービームみたいだよ。
「ちなみに、8五歩、7三銀を入れないですぐに8七香は、8五歩、同香、同銀、同飛、8四香、同角、同金、同飛に9五角」
「また王手飛車が炸裂して、8六香、8四角、同香、8七飛は大変ね。これは、最初の8五歩に同香のときもそう」
「この場面ですぐに同飛と取ると、8四歩、同と、同銀、同角、同金、同飛、9五角で面倒なことになるわ。8五歩に同香と取って来たら、冷静に8六歩。上手は8三金だけど、8五歩と香車を取って、8四歩、同歩、同銀、8五歩、7三銀、8七香」
「またまた2段ロケット完成で、8筋を安全に突破できるわ」
うーん、これも凄いね。いろんな罠が隠れてるよ。
いわゆる、初見殺しだね。
「さてと、8七香以下は、下手大優勢だから、7三銀に戻りましょう」
「下手はこれでも8八飛。4一玉の早逃げに、8四歩、同銀、同角、同金、同飛ね、これで8筋を突破できたわ」
「あれ? 結局、角と金銀の交換なの?」
さっきと一緒じゃないかな?
私が疑問に思っていると、歩美ちゃんは9九の香車を指差した。
「さっきは、この香車も取られてるでしょ。今回は純粋な2枚換えよ。私は香車を持ってないから、5七角、8一飛成に、5一香と打てなくて終わり」
……あ、そうだね、さっきは9筋を突破するために、香車を捨てたんだよね。だから香損だったんだけど、今回は角と金銀を交換だから、損得なし。
「分かったよ。9七香〜9八飛より、8六歩〜8五歩の方がいいね」
「オッケー、これが分かれば、後は早いわ。ただ、さっきの4一玉は、9筋突破のときと比較するために指しただけで、定跡は5四歩、8四歩、同銀、同角、同金、同飛、4四歩」
「次に4三玉からの脱出を目指すわ」
「……いろいろと複雑だね」
私は、素直な感想を漏らした。
これは覚えるのが大変かも。
と思ったけど、要するに、手の意味を覚えればいいんだよね。今日覚えたのは、「歩をどんどん突いて、そこへ飛車を回る」「角と金銀の2枚換えはバランスが取れている」「歩切れは狙い目」「角と何かを交換するときは、王手飛車に注意」かな。
「そろそろお昼休みも終わりだし、これくらいにしましょ。こういう風に、定跡から外れた変化を読むことも重要よ」
「了解」
じゃ、購買でパンを買おうね。
食べる時間がないから、餡パンにして、教科書の裏で食べよっと。
歩美ちゃん、また後で。
【今日の宿題】
ありません。六枚落ちには、実はまだ変化手順があり、有名どころでは、9筋突破定跡8四金型があります。手順は初手から、3二金、7六歩、7二金、6六角、8二銀、9六歩、7四歩、9五歩、6四歩、5六歩、7三金、9四歩、同歩、同香、8四金です。
これはかなり難しい変化なのですが、本作品は駒落ち解説ではないので、省略します。ご自分で検討してみてください。ちなみに、私がプロとの指導対局で指していただいたときは、この8四金型でした。
《将棋用語講座》
○変化手順
定跡の本筋ではないが、重要な分岐を、変化手順と言う。定跡書の多くは、定跡の本筋とその変化手順に対する解説から成る。但し、変化手順があまりにも多過ぎると、そもそもどの局面について考えていたのか分からなくなることもあり(特に矢倉で起こる)、先に本筋だけ考えるという手もある。本作品は、この手法を取り入れて、9筋突破定跡の本筋に関する章と、変化手順に関する章を分けたが、通常の定跡書では、並行して説明される。