六枚落ち(9筋突破定跡)
さぁて、今日からいよいよ「じょうせき」なるものを勉強するよ。
ちょっと暗記っぽくなってきたかな。頑張ろうね。
「こんち」
私が部室のドアを開けると……あれ? 歩美ちゃんがいない。
ひとり本を読んでいた八千代ちゃんが、顔を上げる。
このパターンは、どこかで経験したよ。
「あ、木原さん、こんにちは」
「他のみんなは? 将棋センター?」
「はい、ちょうど入れ違いで」
そっか……予想通りだね。
今日はお休みかな。でも、それは八千代ちゃんに悪いし。
「八千代ちゃん、六枚落ちの定跡って知ってる?」
私が尋ねると、八千代ちゃんは首を縦に振った。
「ええ、知ってますよ」
あ、知ってるんだ。
観る専だから、てっきり知らないかと思ったよ。
でも、よく考えたら、スポーツの観る専でも、ルールや戦術にやたら詳しい人がいるし、将棋も同じなのかな。八千代ちゃんが知ってるなら、八千代ちゃんでもいいね。
「教えてくれない?」
「いいですよ。どうぞ、そちらへ」
私が八千代ちゃんの前に座ると、盤の上では、将棋が指されていた。
だけど、相手がいないよね。
「一人将棋?」
「違います。これは棋譜並べです」
きふならべ? ……またよく分からない言葉だね。
「どういうこと?」
「他の人の将棋を再現するのです。……まあ、それも後々」
他の人が指した将棋を再現して、どうするんだろ?
私が首を捻る中、六枚落ちの初期配置が作られた。
「では、初手から行きましょう」
「あ、ちょっと待って。歩美ちゃんから宿題が出てて、初手から3二金、7六歩、7二金、6六角までは、一応知ってるんだよね」
この6六角の狙いを考えるのが、宿題だったよね。
「なるほど……そこまで知っているのですか……」
八千代ちゃんは感心したように言うと、眼鏡の位置を直した。
フレームが合ってないから、眼鏡屋で修理した方がいいよ。
「この6六角は、どういう意図か分かりますか?」
「それは分かるよ。放置なら、次に9三角成だよね?」
「正解です。というわけで、上手は当然、8二銀と上がります」
ふんふん、これも予習してきたよ。
「この先は、どうしたらいいと思いますか?」
うーん……昨日の夜、考えたんだけど……。
「よく分かんない。私だったら、3六歩と突くかな?」
私は、いつも歩美ちゃんと指している手を指した。
八千代ちゃんは、訝しそうにその手を見る。
「その手は……3筋を飛車で狙う作戦ですか?」
「そうそう、八千代ちゃん、いい勘してるね」
私の説明に、八千代ちゃんは納得してくれたみたい。
「なるほど、分かりました。それも一局ですね。悪くありません。が……」
「が?」
「その展開だと、6六角の意味がありませんよね?」
うん、そう。6六角なんてしないで、最初から3六歩でいいよ。
だから、この角が飛び出した意味は、不明。それが私の結論。
私が回答に窮する中、八千代ちゃんは9筋を指し示した。
「6六角は、9筋突破を狙った手です。その意図を継続します」
「9筋突破……どうやって?」
「9六歩と突くのです」
これは……えーと……。
「どういうこと?」
「少し考えてみましょう。例えば、ここで4二玉と上がって、9五歩、5四歩などと進めると、すかさず9四歩と仕掛けます」
いきなり開戦だね。八千代ちゃん、激しい。
「もちろん、同歩だよ」
「同香と走ります」
「これで、9筋は突破できました」
え? 突破? まだ早くない?
「9三歩だよ?」
「そのまま同香成です」
「……あ、そっか」
「そうなのです。同銀は同角成で、馬ができます」
だね。これは、突破してるね。3六歩の展開より、圧倒的に速いよ。
「凄い、いきなり端から突入できちゃうんだね。これが定跡?」
「定跡の一部ですが、上手の対応が正しくありません。あくまでも分岐です」
そっか。定跡って言うのは、基本的にいい手のことだって言ってたね。
これはいきなり端を撃破されてるから、本線じゃないんだね。
「どこが悪かったの?」
「4二玉〜5四歩が悠長なのです。正しくは、7四歩と応じます」
……これも分かんないや。何をやってるんだろう。
「この手の意味は?」
「この時点では、それほど意味をなしません。後で分かります」
後で、っていうのが多いね。その時点、その時点では、ダメなのかな?
「この手だけ解説は、できないの?」
「『他と連携させずに、この手だけ解説』は、無理です。できるかもしれませんが、相当難しいと思います。それは、野球やサッカーに喩えると、『ランナーの動きと関連づけずに送りバントを説明してくれ』とか、『他の選手の位置と関連づけずに、オフサイドを説明してくれ』と言っているのに等しいので」
うーん……確かにどっちも、できないかな。ランナーの動きが分からなきゃ、玉を手前に転がしてるだけだもんね。オフサイドも、他の選手の位置と絡めないと、説明不可能だよ。
「分かった。じゃあ、先に進めて」
「下手はさらに、9五歩と伸ばしますね」
これは理解できるよ。端を突破するために、歩を伸ばしてるんだよね。
「それから?」
「9五歩を見た上手は6四歩と突き、下手は5六歩と突きます」
うわーん、また分かんないよ。
「ごめん、さっきから、何をしてるの?」
「この6四歩と5六歩に関しては、すぐに分かります。まず、6四歩と突かれたあと、下手が5六歩と突かずに、いきなり9四歩と開戦したパターンを見ましょう」
「これですね」
うん、こっちの方が、首尾一貫してるよ。
9四歩と攻撃するために、9六歩〜9五歩と伸ばしたんだもん。
「同歩、同香、9三歩だよね?」
「いえ、同歩、同香、6五歩です」
うにゅ? 9筋をガードしなかったよ? これは……。
「あ、角当たり……」
「その通りです。6五歩は角当たりなので、9三香成なら同銀とせずに、6六歩。以下、8二成香、同金は、角香と銀の交換で、下手が大損しています」
相手との実力差を考えると、もう勝てないっぽいね。
でもでも。
「9三香成としないで、先に7七角と逃げるよ」
「それは9三歩で、香車が死にます」
……ほんとだ。香車が助からないね。
「んー、じゃあ、6六角って出たのが、良くないのかな?」
「いえ、そんなことはありません。そのための5六歩なのです」
「……どういうこと?」
「6四歩、5六歩、4二玉なら、9四歩、同歩、同香、6五歩に5七角」
「という風に、7筋ではなく5筋に逃げれば、香車は死なないわけです」
うわ、凄いッ! よく考えられてるねッ!
6四歩、5六歩は、そうやってお互いを牽制し合ってるんだ。
「というわけで、5六歩と突かれた場合は、6五歩と突きません」
「じゃあ、どうするの? 次こそ9四歩だよ」
「上手は5二玉と上がり、9四歩を待ち構えます」
ん? 9筋を受けないの? ……って、受ける手もないかな。
「じゃあ、9四歩だね」
「同歩、同香、8四歩です」
8四歩? またまた意味不明な手だよ。
「同角」
「一見そうしたくなるのですが……疑問手です」
「え? 何で? タダだよ?」
「8四歩、同角には、8三金と上がります」
「これが、8四歩タダ捨ての意味です」
……角と香車の、両方に当たってるね。
同時に助けるのは、無理だから……。
「5七角かな?」
「それはいい手ですね。1三角成を狙えるので」
ん? 1三角成? ……あ、ほんとだ。気付かなかったよ。てへ。
「じゃあ、2二銀と受けるね」
「いえ、受けずに9四金と、香車を取ってしまいます」
「え? 馬ができちゃうよ?」
「それは仕方がありません。駒落ち定跡では、もともと戦力差があるので、上手がどう上手く対応しても、ある程度は不利になってしまうのです。今回のケースでは、香得と馬を比較して、香得の方がマシという判断ですね」
なるほどね、歩美ちゃんも言ってたけど、上手は理論上、勝てないんだよね。実践で私が悪手を指すから、逆転しちゃうだけで。
「ここまでが定跡かな?」
「定跡は、8四角とせずに、9二香成ですね」
そっか、9三歩と守ってないから、いつでも成れるんだね。
うっかりしてたよ。
「上手は7三銀と逃げます」
「ここで、7四歩の意味が出てきます。この歩を突いていないと、9二香成に、7一銀と逃げるしかなく、8四角と出られてしまいます。7三銀は、銀を逃げるだけでなく、8四の歩をガードして、角を成れないようにしているわけですね」
うーん、これも凄いね。7四歩は、まさに深謀遠慮だよ。
「でもさ、そう進むんだったら、やっぱり8四歩、同角、8三金、5七角、9四金、1三角成で、馬を作った方が良くない? 今現在の進行だと、馬を作れないよ?」
「いえ、まだ先があります。7三銀に、9八飛と回るのです」
……あ、終わってるね。
「次に飛車成りを受けることができません。指すとすれば、4二銀、8一成香、5四歩、9二飛成、6三玉くらいですが、これは下手が優勢です」
だね。これは大優勢だよ。
「以上が、六枚落ち9筋突破定跡の、基本形です」
「わーい、勉強になったよ。ありがとね」
「どう致しまして……。但し、次の点には注意してください。駒落ちでは、上手の棋力が下手の棋力を上回っているわけですから、序盤や中盤で優勢になっても、終盤で一気に逆転されてしまうというケースが、多発します。そんなときでも、腐らずに精進することが肝要かと。そもそも将棋では、勝つことだけに意義があるわけでなく、一局一局、トレーニングのつもりで励んだ方がいいと思います。観る専の私が言うのも、何ですが」
うんうん、そうだね。間違っても、次に正解すれば、いいだけだもんね。
将棋はゲームだし、レベル上げのつもりで頑張ろう。
あと、ひとつだけ気になったのは……。
「基本形ってことは、応用形もあるの?」
学校の勉強でも、基本問題と応用問題があるよね。
「はい、あります。六枚落ち定跡と言えば、普通、この9筋突破定跡を意味しますが、1筋を突破する1筋突破定跡もあります。さらに、9筋突破定跡の中でも、初手から3二金、7六歩、7二金、6六角、8二銀、9六歩、7四歩、9五歩、8四歩と進む、8四歩早突き型定跡もあります。前者は、下手の応用形、後者は、上手の応用形です」
ふんふん、難しいね。分かったのは、1筋を攻めるか9筋を攻めるかは、下手の選択だから、下手の応用形で、8四歩を早く突くかどうかは、上手の選択だから、上手の応用形ってことかな。それ以外は、教えてもらわないと、見当がつかないや。
「この定跡っていうのは、どのくらいあるの? 10? 20?」
私が好奇心から尋ねると、八千代ちゃんは目を閉じた。
「部分的なものも加えると、千は軽く超えます」
えぇ……そんなにあるんだ……将棋止めようかな。
「ただですね。数学者が全ての公式を暗記したり、法律家が全ての法律を暗記したりしないように、プロでも全ての定跡を暗記している人は、いないはずです。それに、そういうことには、意味がありません」
意味がない? 何でかな?
「定跡って、基本的にいい手なんじゃないの?」
「そうですが、いくら千を超えるとは言え、発想は似通ったものが多いのです。例えば、こういう局面が現れたとします」
「木原さんのターンですが、どうしますか?」
んーと、これは……。
「6六角かな?」
これで、7二金としても、間に合わないよ。
「正解です。このとき、『4二玉、7六歩、6二銀ならば6六角』という手順を、定跡と呼ぶことも可能でしょう。しかし、こんなのは覚えなくていいのです。『端の守りが薄くなったら、6六角で破れる』という風に、まとめておけば足りるのですから」
……あ、そっか、理解したよ。
定跡って言っても、手を丸々暗記するんじゃなくて、狙いを覚えればいいんだね。そうすれば、何千、何万とあっても、似たもの同士をまとめられて、スムーズになるよ。
「こういうことは、学校の勉強でも言えると思います。2桁の掛け算をするのに、わざわざ99×99まで丸暗記する必要はないのです。九九を覚えて、それを2桁の掛け算に応用すればいいのですから。そもそも、丸暗記などしていたら、自然数だけでも無限にあって、頭がパンクします」
うーん、了解。八千代ちゃんの言う通りだね。
「ってことは、手それ自体よりも、手の意味を覚えた方がいいのかな?」
「その通りです。手の意味の数は、手の数に比べて、それほど多くありません。もちろん、百はゆうに超えると思いますが、パーフェクトを目指さなくてもいいのですよ」
うんうん、そうだね。
テレビゲームでも、敵の戦闘データを全部覚えないもんね。
ある程度まで覚えたら、あとは応用と勘で何とかなるし。
「じゃ、定跡覚えたし、六枚落ちやろうよ」
私が誘うと、八千代ちゃんは乗り気でない顔をする。
「私は観る専ですので」
えぇ……そこまでこだわらなくても……。
「それに、私に勝っても、卒業認定されないと思いますよ。やはり、駒込さんに勝たないと。最低でも、冴島さんクラスに教えてもらった方がいいです。私が教えられるのは、ルールと手筋、それに定跡くらいですね。あとは、棋界情報など」
んー、そっか。
確かに、誰が相手でもいいってわけじゃないんだよね。
上手は上級者のことだから、やっぱり師匠格の歩美ちゃんがいいかな。
「じゃあ、今日は定跡の続きをやろうよ。1筋突破の仕方を教えて」
「いいですよ。では、最初に戻りまして……」