対局時のマナー
わーい、ゴールデンウィークだよ。
よく5月病っていうけど、私はなったことないんだよね。
食欲の5月。遊んでお腹が空いたから、喫茶店で何か食べようね。
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あれ? こんなところに、喫茶店あったっけ?
『八一』の看板があるけど、読めないね。はちいち?
試食、試食。
私が扉を開けると、鈴の音が聞こえた。
カウンターには……わお、ダンディーなおじさまがいるね。
でも残念、私はおじさん趣味じゃないんだ。
「いらっしゃい」
席は……混んでるね。困ったな。
「すまないね、満員なんだよ。相席ならあるけど……」
そっか……残念……また来ようかな……。
いきなり相席すると、他のお客さんに悪いしね。
「また後で……」
私は踵を返して、出口へと向かう。
……ん? 今、何か見えたよ。将棋の本だったような……。
私はちらりと、窓際の席を見た。
……あ、ほんとに将棋の本だ。喫茶店で読んでる人、初めて見たかな。
でもね、それよりびっくりなのは、読んでる人がすっごい美人ッ! 黒髪ロングで、痩せ型の着物が似合いそうな人だね。指先も奇麗だよ。
何だか、大和撫子って言葉がぴったり。私にもぴったりだけど。
私がじろじろ見ていると、相手は本から顔を上げた。
あ……気まずい……。
「どうかなさいました?」
「あ……えっと……」
私がどぎまぎしていると、女の人は本の表紙を見せた。
「将棋に興味がおありで?」
興味は……うん、あるね。
「は、はい」
私が正直に答えると、彼女はうふふと笑った。
何か……怖いよ、この人。ほほえみの後ろに、邪悪なオーラが見える気がする。
「席がございませんのね。よろしければ、相席などいかが?」
相席……いいのかな?
この人、年齢がよく分からないし……お肌の年齢だけ見ると、高校生か大学生。
でも、そういう雰囲気でもないんだよね。もっと年上のような……。
「あら、お気に召しませんか?」
「あ……いえ……じゃあ、お邪魔します」
私が席につくと、さっきのマスターらしき人が注文を取りにきた。
ケーキセットにしよ、と。
女の人は、紅茶を飲んでるね。それも美味しそう。
「わたくし、姫野と申します。藤花女学園に通っておりますわ」
藤花女学園……ってことは、高校生だね。3年生かな。
「わ、私は木原です。駒桜の1年生」
私が自己紹介すると、姫野さんは少し驚いたみたい。
あ、もしかして、背が低いから、中学生だと思ってた? 失礼だなあ。
「まあ、でしたら、同学年ですのね」
え? 同学年? 1年生? ……に見えないよ。
私がびっくりしてると、姫野さんは先を続けた。
「中学生のとき、大会などではお見かけ致しませんでしたが……」
「最近始めたの」
私がそう言うと、姫野さんはにっこりと笑った。
「それはよろしいことですわ。趣味を嗜むに越したことは、ございませんので」
そうだね。RPGだけじゃなくて、格ゲーとかシミュレーションもできた方が、いろいろ楽しいもんね。ジャンルの幅は重要だよ。
「姫野さんは、甘田さんと友だち?」
姫野さんの眉が、ぴくりと動く。
「……甘田幸子さんですか?」
私は頷き返す。
「どちらでお知り合いに?」
「公園でエアギターしてたよ」
姫野さんは一瞬だけ目を細め、ちらりとサイドを見た。
な、何か舌打ちが聞こえた気がするけど、気のせいだよ……。
「甘田さんは、藤花の中でも、少々変わった方ですので……」
藤花の中っていうか、駒桜市の中でも変わってるよね。
あんまり触れて欲しくなさそうだから、止めとこうかな。
障らぬ神に祟りなし、だよ。
姫野さんもそれ以上は言わず、おしとやかに紅茶を飲んだ。
「駒の動かし方くらいは、もうお覚えですか?」
むッ! バカにしないで欲しいな。
「まだ実戦はしてないけど、速度計算くらいはできるよ」
私が言い返すと、姫野さんは意外そうな顔をした。
「それは失礼致しました。しかし、実戦は未経験なのですか?」
「まだ、マナーを教わってないの」
「マナーですか……それはまた難しい……」
「お待たせしました」
あ、マスター(?)が来たよ。
美味しそうなケーキだね。おっきな苺のショートッ!
「いただきまーす」
私は苺を頬張って、それからケーキのさきっちょを崩す。
……うーん、幸せ。
私がもぐもぐしていると、姫野さんはひとりで先を続けた。
「テーブルマナーなどもそうですが、マナーは一般に拘束力のない決まりごと。破ったからと言ってペナルティが発生するわけではありません。しかし、お互い気持ちよく指すには、きちんと守った方がよろしいものですわね」
うん、そうだね。マナー大事。
私は口の周りをクリームでべたべたにしながら、質問をする。
「でさ、将棋には、どんなマナーがあるの?」
猫背はダメとか、そんなのかな?
「そうですわね……いくらでもあると言えばあるのですが……」
いくらでもあるのは困るよ。覚え切れないし、堅苦しいからね。
ゲームは楽しまなくちゃ。
「とりあえず、黒に近いグレーなマナーを挙げてみましょう。まず、相手のミスを誘うために嘘の発言をするのは、マナー違反です。口三味線あるいは単に三味線と言い、ボードゲーム一般で嫌われる行為です」
三味線? 三味線って、楽器のことだよね?
「歌を歌っちゃダメってこと?」
私が尋ねると、姫野さんは「うふふ」と笑った。
あ、ちょっと呆れられちゃった感じ?
「対局中に歌を歌ってよいかどうかは、難しい問題ですわね。プロの中にも、浪花節を歌う方や、賛美歌を歌う人がいらっしゃいますので……ただ、普通は歌わない方がよろしいかと思います」
そうなんだ。
私はゲームをするとき、BGMに合わせて鼻歌を歌うタイプだけどね。
「三味線というのは、歌とは関係なく、偽の情報を流すことです。例えば……」
姫野さんはそう言うと、盤駒を鞄から取り出した。
うわ、凄い。この人も携帯してるんだね。
ただ、ちょっと狭いかな。姫野さんは、あんまり気にしてないみたいだけど。
「例えば、このような局面で……」
あ、これは分かるよ。
「9一の王様には詰めろがかかってて、9九の王様は安全だね」
「お見事です。さて、9一の王様の手番と仮定しましょう。どう致します?」
9一の王様のターン……速度で負けてるから……。
「9二金打と受けるよ」
「正解です。しかし、ここで9九の王様側が『詰まないなあ』と呟いたとしましょう。これを三味線と言うのです」
「詰まない? ……詰むよね?」
「ええ、ですから、偽の情報を流して、相手を油断させるわけです。相手が勘違いして8七金と詰めろをかけてくれば、8一飛成、同玉、8二金で勝ちです」
えぇ? それって、どうなの?
「それ、マナー違反じゃなくて、ルール違反じゃないの?」
私はコーヒーを啜りながら尋ねた。
うん、これも美味しいッ! 香りがすごくいいね。
「いいえ、ルール違反というのは、『違反した時点で勝敗が決する』もの。マナー違反は、そういう効果を持ちません。三味線で相手を騙したとしても、読みを間違ったのはあくまでも相手なのですから、基本的には自己責任ということになります」
ふーん……。
「でも、気分が悪いよね」
「ええ、マナー違反というのは、そういうものですわ。ゲーム内のペナルティはありませんが、『もうこの人とは指さない』などの、対人関係の悪化を招きます」
そうだね。そういうことされたら、その人とはもう将棋しないかな。
「じゃあ、対局中は、黙っておいた方がいいんだね」
私の確認に、姫野さんは難しい顔をする。
「そうとも言いきれませんわ。公式の大会などでは、対局中、私語禁止がマナーです。けれども、友人と指すときまで、堅苦しくする必要はありませんし、それに、ぼやきは許されることが多いと思います」
「ぼやき?」
「ぼやきというのは、『自分を罵る言動』のことです。例えば、さきほどの局面で、9一の王様側が『ああ、詰んでしまう』とか、あるいは『ああ、これは負けだ。弱いなあ』などと呟く行為です」
あ、なるほどね。私もゲームでよくするよ。
「『うわー、やられちゃった』とかも、ぼやき?」
「厳密な定義は存在しませんが、そうかと思います」
ふんふん、それくらいは許して欲しいよね。
「ただ、ぼやきにも限度があります。大声で叫んだり、延々とそれを繰り返すのは、やはりマナー違反なのではないでしょうか。将棋の世界では、プロでもあまりぼやかない風潮がありますので……囲碁では逆に、『死んだ方がいい』などと自嘲し続ける人もいらっしゃいますが……」
へえ、囲碁と将棋って、親戚みたいなものかと思ってたけど、違うんだね。
ただ、あんまり目の前でぶつぶつ言われると、確かに気になっちゃうかな。
「それと、当然のことながら、相手を中傷するのはマナー違反です。『バカ』などの直接的な罵言だけでなく、『弱いね』『時間の無駄だな』なども、全てこれに該当します」
うん、それは分かるよ。日常生活でも、そうだもんね。
思っても、心の中に仕舞っておこうね。
「言葉以外には、あるの?」
「そうですわね……例えば、貧乏揺すり、極端な前傾姿勢で盤を覆うなど、姿勢にも気をつけた方がよろしいかと思います。ただ、猫背や、体を軽く前後に揺する行為などは、普通は許容されますわ」
「体を揺する? 揺すってどうするの?」
「血行を良くするためらしいです。これは、医学的に証明されているとか」
そっか。対局中は体を動かさないから、血行が悪くなるんだね。
エコノミー症候群みたい。
「それと、もうひとつ。重要な点として、『持ち駒は、相手が見易いように置く』というマナーがあります。駒台がある場合は、駒台の上に揃え、駒台がない場合は、盤と胸元との間にできたスペースに、並べて置きます。これを手で隠したり、ドミノのように立てたり、散乱させたりするのは、全てマナー違反です」
「ルール違反じゃないの?」
「難しい質問ですね……。実のところ、『相手に持ち駒を質問されたとき、答える義務があるか』どうかは、明文化されていません。したがって、持ち駒を握り締めて、相手の視線から隠すのがルール違反、とは言い切れないと思います」
ん? それって、おかしくないかな?
ゲームに関連する情報を隠蔽してるよ?
「持ち駒が分からなくなったら?」
「それはありえません。相手の持ち駒は、盤の上になく、かつ自分が持っていない駒全てですから、持ち駒を隠されても、内訳は分かります。ただ、そのような確認を強制するのは、やはりマナー違反だと思います。かなり悪質な部類でしょう」
んー、なるほどね……でも、そのせいで負けちゃうこともあるんじゃないかな?
「納得がいかないような顔をしていらっしゃいますね。しかし、例えばこういう実話がございます。相手に桂馬があると自分の王様が詰む局面で、相手の駒台には、桂馬がありませんでした。そこで安心して詰めろをかけたところ、相手がきょろきょろし始め、机の下を覗き込んで『何だ、落ちてたか』と言い、それが桂馬だったというケースです」
「え? それ、どうなったの?」
「当然、桂馬を打たれて詰みですわ」
えぇ……それは……どうなんだろ……。
「それ、揉めなかったの?」
「多少は揉めましたが……けれども、これがルール違反とは、言いにくいのです。盤の上の桂馬の数と、自分が持っている桂馬の数を把握していれば、『桂馬が見えないところに隠れている』ことは分かるのですから……。それに、桂馬をわざと落としたのでなければ、相手が必ずしも悪いとは言えませんので」
うぅん……私だったら、微妙に怒るかな。抗議はするよ。
「とりあえず、『持ち駒はお互いに見やすいように置き、紛失などしない』ことが肝要かと思います。但し、『ポケットなどに余分な駒を隠して、対局中に取り出す』ことは、ルール違反ですので、発覚した瞬間に負けです」
「ん、どういう場合?」
「例えば、ゲームが始まる前に、別の箱から金を取り出してポケットに隠し、終盤で王様を詰ませるときに使う、などです。これは、『ゲームの内部でありえない動き』をしていることになりますから、マナー違反ではなくルール違反です。正確に言うと、『対局が始まった時点で存在しない駒を追加してはいけない』ということです」
なるほどね、5枚目の金を使った場合だね。
大富豪でも、ジョーカーを隠し持って使ったりしたら、ルール違反だよね。
「他には?」
「他に学生将棋などで守られているマナーとして、一度動かそうとした駒を戻したときは、一言『失礼しました』と謝るのが慣例となっております」
んーと、これもシチェーションがよく分からないね。
「例えば?」
「例えば、さきほどの局面で……」
「ここで、9九の王様の手番と致します。そこで最初、王様に触れて、それを8九へ移動させようとしたと仮定しましょう。つまり、詰みが見えなかったのです。ところが、それを指し終わる前に、8一飛成からの詰みに気付き、王様を9九に戻します。このような場合、一言『失礼しました』と言うのです」
ふむふむ、何となく分かったよ。
でも、何で謝る必要があるのかな?
「何に失礼してるの?」
「一度駒を動かそうとすると、相手は当然、『ああ、その駒を動かすんだ』と思います。そこで、いろいろ感情のブレが起きるわけですね。このケースだと、8一飛成から詰んでいるにもかかわらず、王様を動かそうとしたので、『しめしめ』と思うわけです。ところが、結局は王様を動かさず、飛車を成ってくる。これには誰でも、がっかりするのではありませんか」
なーるほどね。要するに、フェイントになってるからなんだね。
「チェスにおいては、『一度触った駒は、必ず動かす』というルールがあります。将棋では採用されておりませんが、意図するところは同じですわ」
私はクリームのついたフォークをぺろぺろ舐めながら、盤を見つめていた。
うーん、今日は美味しいケーキも食べれたし、大満足かな。
「姫野ちゃん、ありがとね」
私はそう言って、席を立とうとした。
「あら、もうよろしいのですか?」
「うん、ちょっと約束があるんだよね」
嘘じゃないよ。ほんとだよ。
え? 何の約束かって? それはヒミツ!
私が荷物をまとめると、姫野さんは、少しだけ残念そうな顔をする。
「そうですか……では、最後にひとつだけ。一番大切なマナーは、『マナーにうるさくしない』ことではないでしょうか……それでは、ごきげんよう」
【今日の宿題】
ありません。前回の宿題の答え合わせは、次回です。
いよいよ実戦編です^^
《将棋用語講座》
○対局マナー(三味線etc...)
ルール違反とマナー違反の大きな違いは、「ルール違反はその時点で負けになり、マナー違反はそうではない」という点にある。但し、重度のマナー違反については、失格や出禁(=「出入り禁止」の略。将棋道場などに入れなくなること)などの処置が下される可能性もある。これはネット将棋でも同様であり、悪質なプレイヤーはアクセス禁止になる(通称:アク禁)。また、全ての将棋に共通するルール(駒の動かし方など)以外に、特定の将棋道場や将棋大会で採用されるルールもあり、これにも注意が必要である(例:遅刻負け、退席負け、千日手2回でじゃんけん勝負など)。主催者がマナーをルールに格上げした場合は、その決定に従わなければならない。