二歩、打ち歩詰め、連続王手の千日手
放課後、私は盤を睨みながら、いろんなことを考えていた。
これだけ駒があったら、好きなことができるね。例えばこうやって……。
王様を守ってもいいし、あるいはこうやって……。
角と桂馬を動き易くしてもいいよね。
ただ、歩が何か邪魔な気がするんだよね。お互いに歩がなかったら、最初から角を交換したり、飛車を成ったりできるのにね。身動きがとれないよ。
ま、それは後で、歩美ちゃんたちから、いろいろ教えてもらおうね。
今日も部室に行くよ。
「こんにちはぁ」
私がドアを開けると、そこには……あれ? 八千代ちゃんだけ?
「あ、木原さん、こんにちは」
「こん。他のみんなは?」
私が尋ねると、八千代ちゃんは読んでいた本を閉じた。
「大会が近いので、近所の将棋センターに行きました」
「将棋センター?」
「はい、他の人と自由に指せる対局場です」
「何で?」
「練習ですよ」
……そりゃ、そうだね。練習しかないよね。
将棋センターで出会いはあんまりなさそうだし……。
「八千代ちゃんは、何でお留守番?」
「私は観る専ですから」
観る専……この言葉は、何となく分かるよ。スポーツでもいるもん。
自分はプレイしないで、他人のプレイを観て楽しむ人のこと。
「じゃあ、八千代ちゃんは、他の人の将棋を観るのが好きなんだね」
「そういうことです。……木原さんは、どうしますか?」
うーん……どうしようかな……。
宿題も別になかったし、帰ってもいいんだけど……。
「ねえ、そろそろ実戦らしいんだけど、何が残ってるの?」
「そうですね……今まで習ったのは何ですか?」
今まで習ったのは、駒の動かしたかと、寄せと、詰め将棋、それに……。
私は、4月のことを思い出しながら、順番にテーマを列挙した。
それを聞き終えた八千代ちゃんは、グッと眼鏡を直す。
「なるほど……実戦の準備は、ほぼ終えているのですね」
あ、やっぱり、そうなんだ。
今日から実戦に入ってもいいのかな?
「でも、歩美ちゃんは、まだだって言ってたよ。ルールとマナーが残ってるとか」
「ルールは大方教えましたが……確かに、いくつか残ってますね」
へぇ、全部じゃなかったんだね。数が多いなあ。
まあ、ポケモンの相性とかを覚える方が、よっぽど大変っぽいけど。
「何のルールが残ってるの?」
「私が思いつく限りでは、二歩、打ち歩詰め、連続王手の千日手ですね」
にふ……うちふづめ……連続王手の千日手……。
最後だけ、何となく分かったかな。漢字に変換はできるね。
「順番に説明してくれない?」
「ええ、喜んで……まずは、この局面を見てください」
速度計算でやったのと、似たような場面だね。
「今、お互いにどういう状況か分かりますか?」
「どっちから動くの?」
「両方のケースについて、考えてみてください」
なるほどね、その方が、頭の体操になるかな。
順番に考えるよ。
「まず、9九の王様が私とするね。その場合は、私の王様は詰めろで、相手の王様も詰めろだよ。だから、先に動ける方が勝ち」
私が状況の整理を終えると、八千代ちゃんは満足げに頷いた。
「素晴らしいです。かなり上達しましたね」
でしょでしょ。どんなもんだい。
「しかし、残念ながら間違っています」
……え?
「どこが?」
「木原さんが習っていないルールがあるのです。まず、相手の王様は、詰めろになっていません。状況整理としては、木原さんの王様だけが詰めろです」
「詰めろになっていない? 何で? 9二歩と打てば狭義の詰みだよ」
ほらね。
「それを『打ち歩詰め』と言い、ルール違反の反則負けになります」
ルール違反? これが?
「何で? 持ち駒の歩を打っただけだよ?」
私が抗議すると、八千代ちゃんは少し困ったような顔をした。
「これはルールマニアの間でよく話題になるのですが、なぜ打ち歩詰めがダメなのか、その理由はよく分かっていません。ただ、江戸時代の初期には確立されていたルールで、おそらくは『最下級の兵卒が突然王様の首を取るのはダメ』という、武士道精神的な根拠があるのではないかと、そう推測されています。実際、中将棋では、相手の王様を取るとき、『失礼します』と礼儀を尽くすマナーがあるので、あながち嘘とも言いきれないでしょう」
ちゅうしょうぎが何か分からないけど、要するに理由不明ってことだね。
「じゃあ、そう覚えるしかないね……」
「すみません、そうしてください。歩を打って詰めるから、打ち歩詰めです」
つまり、漢字で書くと打ち歩詰めだね。理解したよ。
「状況を整理し直すね。私の王様だけ詰めろ、相手の王様は、9三歩と打たれて、やっと詰めろになるよ。だから、相手の手番なら、相手の勝ち、私の手番なら私が受けて、相手の方が速度が速い、かな」
「そうですね。それが正しい速度計算です。……では、受けてください」
受けるよ。8九金で詰みだから、そこを守っちゃえば終わり。
こう。
私が誇らし気に顔を上げると、八千代ちゃんは難しい顔をする。
「やはりそう受けましたか……」
「いい手でしょ」
「残念ですが、それも反則負けです」
……え? これも?
「何で? 8九に歩を打っただけだよ」
もしかして、王様を隅っこに封印したら負けとか?
でも、そういう状況、今までもあったようななかったような……。
「今、8筋に、木原さん陣営の歩は、何枚ありますか?」
8筋に私の歩は……。
「2枚だね」
「それを二歩と言い、打ち歩詰めと同様に、反則です」
「ええ? 同じ筋に、歩が2枚あっちゃダメなの?」
「ダメです」
「何で?」
また理由なしじゃないよね? ちゃんと問いつめるよ。
「『同じ筋に歩を何枚も打てると、強過ぎるから』です」
「強過ぎる? ……歩だよ、歩。前に一個しか進めないんだよ?」
「確かに、これまでは寄せの練習でしたから、歩の強さがいまいち分からなかったかもしれません。しかし、『実戦において、歩は凄く強い』です。同じ筋に歩を2枚以上置くことができると、攻めも守りも大変なことになります」
うーん……これは実戦をしてないから、実感が湧かないね……。
八千代ちゃんもそう思ったのか、すぐに先を続けた。
「それは実戦で、おいおい分かってくるかと思います。ちなみに、『歩が2枚』と書いて二歩ですが、三歩でも四歩でも、反則です。ですから、『同じ陣営に属する歩が同じ筋に2枚以上現れた場合、その時点でその歩の所有者が負け』と覚えてください」
分かったよ。二歩だけど、複数って意味なんだね。了解。
「二歩の時点でルール違反ですから、三歩、四歩は、よほどのことがない限り、発生しません。要するに、お互いが二歩の反則を見逃したときだけですね」
うん、そういうことになるね。
「なるほどね。だから初期配置で、お互いの歩が1つの筋に1枚しかないんだ」
「ご明察。……では、二歩にならないように受けてください」
二歩にならないように……二歩にならないように……。
こうだね。
「正解です。では最後に、連続王手の千日手を……」
「ちょっと待って」
私は、八千代ちゃんの説明を制した。
「何でしょうか?」
「打ち歩詰めが禁止なのは分かったけど、打たないで指したときは?」
私は少し考えて、次のような局面を作った。
「ここで、私の番だと仮定するね。それで……」
「9三歩って置くよ。これは、詰めろ?」
「それは詰めろです。7八銀なら、9二歩成で詰みますので」
うん、それは分かるよ。問題は……。
「じゃあ、9二歩不成だと?」
これは、局面だけ見たら、打ち歩詰めと全く同じだよね?
「いい着眼点ですね。……それは、ルール違反ではありません」
「何で? 形は一緒じゃない?」
「『打ち』歩詰めですから、歩を打ったときだけがルール違反です。既に教わったように、持ち駒を盤の上に移動させるのが『打つ』、盤の上にある駒を移動させるのは『指す』ですから、これは打ち歩詰めに該当しません。ちなみに、木原さんが今作った図は、『突き歩詰め』と言い、『打ち歩詰めはNG、突き歩詰めはOK』なのです」
打ち歩詰めはNG……突き歩詰めはOK……。
ルール自体は分かったけど……。
「何でなのかな? 理由はないの?」
「先ほども言ったように、打ち歩詰めNGルールがなぜあるのか、詳しいことは分かっていません。ただ、私が推測するに、持ち駒というのは本来、捕虜のようなもので、捕虜になっていた最下級の兵卒が、戦場に現れた途端、元主人を斬るというのが、昔の人々の価値観に合わなかったのだと思います」
うーん……封建的だね……。
「まあ、私の推測に過ぎませんが……では、最後に、連続王手の千日手を」
「少し複雑ですが、これの状況整理をお願いします。木原さんのターンです」
えーと……駒がごちゃごちゃしてるけど……。
とりあえず、私の方は詰めろだよね。8八金打で狭義の詰みだから。
でもでも、今は私のターンだから、ちょっと余裕があるよ。8九金の前に相手の王様を詰ませちゃえば、それで勝ち。ただ、持ち駒がないんだよね……。
「……8五龍、8三玉、7四龍、9四玉、8五龍の繰り返しは、千日手?」
「そうですね、それは千日手です」
だよね。それは無効試合になっちゃうから……受けて……。
……………………
……………………
…………………
………………
あれ? 受からないよ?
9七歩は8八金打。
8四龍、同桂、8八角は8九金打、8九角は8八金打。
他に手に入りそうな駒はないし……必至だね、これ。
「もしかして、私の方が必至かな?」
「はい、それも正解です」
じゃあ、やることはひとつしかないね。
「8五龍、8三玉、7四龍、9四玉、8五龍以下、千日手にするよ」
無効試合だけど、負けるよりはマシだよね。
ところが八千代ちゃんは、意外な答えを返してきた。
「それは、木原さんの負けになります」
「え? 千日手は、無効試合だよね?」
「8五龍は、王手ですね?」
8五龍は王手……。
「うん、そうだよ」
「次の7四龍も、王手ですね?」
そうだね。私は頷き返す。
「ということは、8五龍〜7四龍は、連続王手ですね?」
「うん、だから、王手、逃げる、王手、逃げる、王手って、王手が続くよ。で?」
「それを連続王手の千日手と言い、攻撃側の負けという決まりになっています」
……えぇ、またよく分からないルールだね。
千日手が無効試合の例外なら、連続王手の千日手は、例外の例外だよ。複雑。
「何でそうなるの?」
「これも推測ですが、おそらく試合に早く決着をつけるためだと思います。連続王手の千日手が発生するのは、終盤。それまで何十分、何時間も続けてきた将棋が、いきなり連続王手の千日手で無効試合になると、気が萎えますので」
……精神論だね。いや、ちょっと違うかな。
確かに、ゲームを何時間も続けて、結果が「無効試合」は痛いよね。
「ってことは……私の負け?」
「理論的には、そうなります」
理論的には? どういうことかな?
「理論的じゃなかったら、勝ちはあるの?」
「実戦なら、8四龍と取りますね」
龍捨て?
「同桂だと?」
「6七角と打ちます」
あぅ……王手で金取り……。
「これで王手金取りですね。8三玉、7八角、5九飛、6九金」
「一応はガード成功です」
「じゃあ、8四龍には同玉が正解だね」
「その通りです。が、実戦なら待ったナシなので、これで混戦です」
そっかそっか、理論的にって言うのは「全部のパターンをちゃんと考えたら」という意味で、実戦だとなかなかそうはいかないから、こういう勝負ができるんだね。
「このような理論と実践の違いは、学校生活でもあると思います。例えば、数学の試験で、『第3問より第2問が難しく、配点が同じだから第3問からやる』とか、そういう場合ですね。理論的には、第2問にも第3問にも正解があり、どちらも解けるはずなのですが、制限時間内では別の理屈が当てはまるわけです」
ふむふむ、そうだね。私も、そういうのは良くするよ。
第2問を飛ばして、第3問も飛ばして、第4問も飛ばして第2問に戻るとかね。
「このようなルール違反を、将棋では『禁じ手』と呼びます」
きんじて……禁じ手かな?
「移動できない場所に移動するとか、香車を一番最後まで進めたのに成らないとか、駒を打つときに成った状態で打つとか、そういうのも?」
「はい、全て禁じ手です。要するに、ルール違反の手全部ですね」
了解。ってことは、禁じ手自体は、これまでも勉強してたんだね。
「今回は3つ説明しましたが、重要度は二歩>>>打ち歩詰め>連続王手の千日手です。特に二歩は、うっかりするといつでもやりがちなので、注意してください。打ち歩詰めと連続王手の千日手になる局面は、滅多に現れません」
なるほどね。シートベルトなし、スピード違反、信号無視の方が、他の細かい交通ルールよりも重要だもんね。違反にも、ランクがあるんだ。
「では、今日はこれまでにしますか。明日からゴールデンウィークですし」
「オッケー、じゃあ、宿題出してね」
私がせがむと、八千代ちゃんは眼鏡のつなぎ目を押し上げる。
「宿題ですか……今日勉強したことと、絡められればいいのですが……」
1分ほど考えて、八千代ちゃんはこくりと頷いた。
盤に向かい、駒を並べていく。
「この詰め将棋を解いてください」
あれれ、話が詰め将棋に戻ったね。
何でかな?
「今日のテーマと、関係あるの?」
「……少しやってみますか?」
……そうだね。不安だから、ちょっとやっておこうかな。
解けちゃうかもしれないけど。
「初手はどうします?」
詰め将棋は、王手の連続じゃないといけないんだよね。
王手する方法は、5通り。2一飛成、3二飛成、2一と、1二と、3二歩成。
「……3二歩成で一手詰みじゃない?」
「よく見てください。それは王手放置ですよ」
王手放置?
……あ、ほんとだ。9三飛で、王様を取られちゃうよ。
じゃあ、3二歩成はないね。
1二とも、同玉、3二飛成、2二歩で止まっちゃうから……。
「2一とかな?」
私はそう指した。
「1二玉ですね」
「3二飛成」
「2二歩と防ぎます」
2二と、同飛、同龍、同玉……あれ?
ダメだね。まともな王手がかからなくなったよ。
2一飛成は3三玉と逃げられちゃうし……ってことは……。
「ごめん、もう宿題解けちゃったかも」
「……正解は?」
私は、3二飛成と指した。
王手がこれしか残ってないんだよね。
「1一玉ですね」
えーと、3一龍は2一歩で止まっちゃうから……。
「1二歩だね」
これで狭義の……ん?
「……打ち歩詰めだね」
「そうですね。これは木原さんの負けです」
「詰め将棋でも、打ち歩詰めは禁止?」
「禁止です。二歩なども全てダメです」
……そっか。
「……ごめん、帰ってから、もう一度考えるね」
「どうぞ。あまり焦る必要はありませんから」
そうだね。
ここまでゆっくりやってきたし、これからもゆっくりやっていこうね。
焦りは禁物、と。
「じゃ、八千代ちゃん、ゴールデンウィークを楽しんでね。バイバイ」
【今日の宿題】
八千代ちゃんが出した詰め将棋を解きなさい。
《将棋用語講座》
○禁じ手
ルール違反の手のこと。移動できない場所へ駒を移動する、成れないところに成る、成らなければ成らないところで成らない、二歩を打つなど、様々なルール違反が考えられる。注意しなければならないのは、ルール違反全てが禁じ手ではない、ということである。禁じ手は指し手・打ち手に関連するルール違反であり、相手の持ち駒をこっそり盗むなどは、禁じ手とは呼ばない(もちろんルール違反である)。




