王、歩、金
私の名前は、木原数江。
駒桜市立高校に入学したばかりの、1年生だよ。よろしく。
中学生のときは帰宅部だったけど、高校はクラブ活動を頑張りたい。でもでも、練習がキツいのは嫌だし、できればインドアがいいなあ。そう思って、今日は将棋部に来てみました。
ちょっと怖かったけど、眼鏡を掛けたショートボブの優しそうな女子が出て来てくれて、ひと安心。いったい、どんなことは始まるのかな? 楽しみだね。
「というわけで、大川先輩、よろしくお願いしまーす」
「こちらこそ、よろしくお願いします。木原さんは、将棋について、どれくらい知識をお持ちですか?」
将棋については……えーとね……。
「おじさんがふたりでボードを挟んで、木の駒をちょこちょこ動かすゲーム!」
あれ? 先輩、何だか困ったような顔をしてるね。
私、変なこと言ったかな?
「確かに、それが将棋に対する一般的なイメージかもしれませんが……。それはさておき、将棋がどういうルールのゲームか、ご存知ですか?」
ルールは知らないなあ。どうすれば勝ちなのかも分かんないや。
私は首を左右に振った。
「では、そこから説明しましょう。将棋はズバリ、『相手が所有している王様を取ったら勝ち』というゲームです。細かいルールはたくさんありますが、最初に覚えるのは、このルールからですね」
「王様って何ですか? キング?」
「王様というのはですね……」
大川先輩はそう言って、箱から小さな駒を取り出した。
「これが、王様です」
「……王将って書いてありますけど?」
「それは正式名称です。普通は王様、王あるいは玉と呼びます。しばらくは、王様で固定することにしましょう」
ギョクっていうのがよく分かんないな。卵のことかな? ネギだくギョク!
「この王様を取れば、勝ちなんですか?」
「そうです」
ふーん……でも、どうやって? 先輩の手から奪えばいいのかな?
私が王様をしげしげと見つめていると、先輩はそれを盤の上に置いた。
「将棋では、駒をマス目の中に置きます。いわゆるフィールドですね。ひとつのマス目につき、置ける駒は1枚までです。駒の上に駒を重ねることはできません。さらに駒は、このフィールドの上を、マス目からマス目へしか移動できません。線の上とか、盤の外側へ出るのは反則です」
何だかサッカーみたいだね。ちょっと狭いけど。
「自由に動かしてもいいんですか?」
「あ、それはダメです。駒にはそれぞれ、決められた動き方があるんですよ。ちなみに、王様は、縦横斜めのいずれかのマスへ、1回につきひとつだけ移動できます。つまり……」
先輩は赤いおはじきを取り出して、王様をぐるりと囲う。
「おはじきの置かれている箇所が、王様の移動範囲ですね」
うーん、凄く足が遅いんだね、この王様は。
「では、木原さん、ちょっと動かしてみてください」
「どこへですか?」
「木原さんの好きなところでいいですよ。但し、ルールは守ってくださいね」
好きなところかあ……とりあえず、端っこへ行ってみよう。
私は王様を持つと、ぴょんぴょん跳ねて端っこへ移動させた。
「はい、よくできました」
えっへん。私は胸を張る。
でも、王様の捕まえ方を習ってないよね。どうすれば勝ちなのかな?
「どうやって王様を捕まえるんですか?」
「他の駒を使って捕まえます」
他の駒……? どこにあるのかな?
私が疑問に思っていると、先輩は新しい駒をひとつ取り出した。
「これは、『歩く』と書いて、歩と言います」
「王様とは違うんですか?」
「違います。歩は、一番下っ端の兵隊です。動き方は……」
ええッ!? 前に一個しか動けないの?
「バックできないんですか?」
「できません。ひたすら、前にひとつずつです」
えぇ……それって、すっごく弱いよ……。
「さて、この歩を使って、王様を取ってみましょう」
「どうやってですか?」
「将棋では、『自分の駒の移動先に敵の駒がいる場合、それを取る』ことができます」
駒の移動先に敵の駒がいるとき……あッ! 分かったよ。
「一歩、二歩、三歩、四歩ッ!」
わーい、取れちゃった。簡単だね。
「はい、正解です。歩は前にひとつしか動けませんから、4回目で王様を取れますね」
そうだね。ちょっと時間は掛かるけど、歩も役に立つんだ。
あれ? でも……。
「王様も動けるんですよね?」
私がそう尋ねると、先輩はしたり顔で頷いた。
「ええ、そうなんです。ですから今のは、王様が逃げない場合に限られます」
「お互いに、好きなときに動かしてもいいんですか?」
「ダメです。プレイヤーは、交互に指さないといけません。パスは禁止です」
交互に? だったら、さっきのは私が4回連続で動かしてるから、本当は反則になっちゃうんだね。ちょっとぬか喜びだったかな。
「今度は、交互に指してみましょう。王様は、私が動かします」
「はーい」
1、歩を前に出す。
2、王様が横に逃げる。
3、歩を前に出す。
4、王様が横に逃げる。
5、歩を前に出す。
6、王様が横に逃げる。
7、歩を前に……。
「あれ? ……王様がいない」
先輩は、ちょっと慰めるような顔をして頷いた。
「そうなんです。王様が横に逃げると、捕まらないんですね。斜めでも同じです」
うーん……やっぱり歩は弱いね。
もっと強い駒はないのかな?
「というわけで、歩はひとまず卒業です。次の駒に移りましょう」
先輩は箱の中から、歩よりもちょっと大きな駒を取り出した。
「これは、金といいます。お金と同じ漢字ですよ」
要するに、ゴールドだね。戦争にもお金が必要なのかな。
「金は、歩よりも多くの場所に移動できます。正確に言うと……」
凄いッ! こういうのを待ってたんだよッ!
でも、ちょっと動きが複雑だね。
「最初は覚えにくいと思いますが、ポイントは『斜め後ろに下がれない』です」
斜め後ろに下がれない……。あ、ほんとだ。
「じゃあ、今度こそ王様を捕まえまーす」
私と先輩は、交互に金と王様を動かした。
今度は横にも動けるから、簡単だよね。
1、金を真っ直ぐ前に動かす。
2、王様が向かって左に逃げる。
3、金を斜め左に動かす。
4、王様が向かって左に逃げる。
5、金を斜め左に動かす。
次で王様を取れるね。でも、今は先輩のターンだから、一回待たないと。
うきうきしながら待つ私の前で、先輩は金を持ち上げて、盤の外に置いた。
「……あれ?」
「残念。金を取られてしまいましたね」
先輩はそう言いながら、両手を合わせた。合掌。
私は混乱する。なんで金が、盤の外に移動したの? なんで?
……あ、そっか。私が先輩の駒を取れるんだから、先輩は私の駒を取れるよね。
単純明快。
「んー、もう一回ッ!」
私は金を取戻して、それをフィールドの中央に置いた。
タネが分かれば大丈夫。今度は取られないようにするよ。
金を動かして、王様が逃げて、金を動かして……。
……………………
……………………
…………………
………………
あれ? 捕まらないよ。やり方が悪いのかな?
「なかなか捕まりませんね」
先輩の一言に、私はじっとフィールドを睨んだ。
えーと、ちょっと整理するよ。
駒は、交互に動かさないといけない。
私は先輩の駒を取れるけど、先輩も私の駒を取れる。
王様と金は、1回につき1マスしか動けない。
「……あ、そっか」
「分かりましたか?」
うん、分かった。ちょっとイジワルだね、これ。
「金を王様に横付けすると、取られちゃう。でも、横付けしないと、王様を取れない」
「そうです。だから私の王様は、このままだと絶対に捕まらないんですね」
「……もっと強い駒はないんですか?」
私は金から指を離して、箱を覗き込んだ。
まだまだ知らない駒が一杯見えるよ。
だけど先輩は、それを取り出そうとはしなかった。
「金より強い駒はありますが、もう少し金だけで頑張ってみましょう。1枚では捕まりませんが、2枚だと、どうでしょうか?」
わお、金が2枚。強そう。
「では、王様を捕まえてみてください」
「1回に動かせる駒は、1枚だけなんですよね?」
「そうですね、でないと強過ぎます」
私は腕組みをして、2枚の金を睨んだ。
どっちから動かそうかなあ……。こっちかな? えいッ!
王様が左右に逃げたら、そのまま取れるよね。
斜めも取れるし……真っ直ぐなら……。
「金を取りますね」
先輩はそう言って、上の金を取った。
1枚は取られちゃったけど……。
「今度は、私の番ですよね?」
「はい、木原さんの番ですよ」
「だったら、こうして……」
私は王様を摘まみ上げて、それを盤の外に置いた。
「おめでとうございます。私の負けですね」
「やったー」
私は両手を挙げて万歳をする。いいよ、いいよー。
喜ぶ私の脳裏に、ちらりとある疑問が浮かんだ。
「……これって、正解はひとつしかないんですか?」
「……木原さんは、どう思いますか?」
うーん……何か、どうやっても勝てそうだけど……例えば……。
「こういうのは?」
私は最初の並びに戻して、それから左の金を真っ直ぐに上がった。
「横に逃げますね」
「左の金を寄って……」
「今度は、斜めに逃げます」
「もう一回、同じ金を寄って……」
先輩は王様を持ち上げて、また斜めに逃げた。
あれれ? 今度は捕まらないよ?
「これじゃダメなんだ……」
「永遠に逃げ回れるかどうかは分かりませんが、当面は無理そうですね」
「じゃあ、正解はひとつだけ……」
「とも限りませんよ?」
んん? 何だか意味深な発言だよ。
もうちょっと考えてみようか。
……………………
……………………
…………………
………………
あ、そっか。もうひとつみーつけたッ!
「こうですね」
「正解です。これも、金取りから王様取りで、木原さんの勝ちですね」
凄い。こんなシンプルな形でも、いろんなパターンがあるんだね。
「さて、説明したいことは山ほどあるのですが、今日はここまでにしましょう」
えぇ……せっかくノってきたのになぁ……。
私は指をくわえて、フィールドに視線を落とす。
「あまり一度に覚えても、すぐ忘れてしまいますからね。ひとつひとつ、丁寧に覚えて行きましょう」
数学の勉強と同じだね。中途半端に理解してると、いつか破綻しちゃうよ。
「では、せっかくですから、今日の宿題を出しましょう」
宿題? 将棋の宿題だよね?
心配する私の前で、先輩は駒を並び替えた。
「これが宿題です。金2枚が木原さん、王様が私。最初は木原さんから動かしてください。私の王様を捕まえたら勝ちなわけですが……さて、木原さんが最短で勝つ場合、何回駒を動かせばいいでしょうか? その数も答えてください」
最短で……。つまり、王様を捕まえるだけなら、何通りもあるってことかな?
「ひとつ重要な点を。王様を逃げるときも、最善の逃げ方を考えてください。相手のベストを考えるのも、将棋では非常に重要です。『こう逃げてくれれば勝てる』という自分に都合のいい考えを、業界用語で『勝手読み』と言いますから、注意してくださいね」
「はーい」
うーん、見た感じ、簡単そうだけど、何か引っかけがあるのかな?
早速、帰って解こうっと。
大川先輩、また明日ッ!
【今日の宿題】
最終図において、プレイヤー同士が最善の動き方をした場合、何回駒を動かせば王様を捕まえることができるか。ここで、「最善の動き方」とは、「王様は一番長く生き延びられるように動き、攻撃側は王様を一番早く捕まえられるように動く」ことを言う。なお、金2枚の側が、最初に駒を動かすものとする。
《将棋用語講座》
○勝手読み
相手の動きを、自分に有利な形でのみ想定すること。
将棋に限らず、日常生活全般で見られる現象である。
用例:
俺「次はストレートを投げてくるだろうから、全力で振ろう」
→変化球で三振。
俺「この問題は試験に出ないだろうから、勉強しないでおこう」
→見事に出題。しかも配点がデカイ。
俺「一発でツモるか裏が乗るだろうから、このリーチで逆転だな」
→一発でツモれないし裏も乗らない。
友人「そりゃ勝手読みだよ」