合い駒
日曜日の公園。お散歩日和のぽかぽかとした日に、私は苦悩していた。
腕組みをしたまま、膝の上に置いた盤面を睨み続ける。
「うーん……」
※将棋世界編集部「やさしいビギナー向け1手詰め」
『将棋世界』2014年3月号、222頁より。
これさあ……本当に1手詰め?
5手かかっちゃうんだけど……。
「とりあえず、これは詰むよね」
私はそう呟きながら、駒を動かしてみる。
4四角、2三歩、同飛成、2二歩、同龍の5手詰め。
歩合いじゃなくて、桂合いでも何でも同じ手順。
だけど「やさしいビギナー向け1手詰め」だから、1手詰めじゃないの?
タイトルが間違ってるのかな? それとも、引っ掛け問題?
そもそも、最後に持ち駒が余ってるから、おかしいんだよね。
「……1手じゃ詰まないね」
私はあれこれやってみた後、ギブアップした。
問題が間違ってるのかもしれないし、諦めよ。
明日、歩美ちゃんに確認すればいいよね。
じゃ、携帯ゲームでも……。
「ずんでで♪ ずんでで♪」
ん? 何の音かな?
「ばりばりばり♪ ぎゅいーん♪」
うわぁ……公園でひとりエアギターしてる人がいるよ……。
危ない人だね。場所を変えるよ。
私が腰を上げると、その人はこちらに猛スピードで近付いてきた。
逃げる間もなく、いきなり声をかけてくる。
「よッ! そこのお嬢さんッ!」
うわーん、変質者に絡まれちゃったッ!
誰か助け……あれ? この人、女子高生だよ?
よく見たらセーラー服だし……藤花女学園の人だね。
でもあそこって、お嬢様学校なはずなんだけど……。
「なになに、それって将棋? 将棋?」
少女はにやにや笑いながら、私が隠した将棋盤を覗き込む。
「そ、そうです……」
「やっぱりね。どこ中?」
どこ中? ……失礼だなあ。私は高校生だよ。
身長が150センチないからって、舐めてもらっちゃ困るよ。
「駒桜市立の1年生です」
私が高校生であることを明かすと、少女はびっくりしたらしい。
「あちゃ、同学年か、めんごめんご」
……この人、ほんとに女子高生だよね?
実はセーラー服マニアの変な人とかいうオチじゃ……。
私が不審がっていると、少女は親指を立てて自己紹介を始めた。
「あたしの名前は、甘田幸子、藤女の1年だよ」
……ほんとに女子高生かな。フルネームで名乗っちゃってるけど。
個人情報は、大事にしないとダメだよ。
「駒桜ってことは、冴島円ちゃん知ってる?」
「し、知ってる」
「そっかあ、彼女、中学の同級生なんだよね。まぶだちって奴?」
えぇ……円ちゃん、友だちは選ぼうよ……。
公園でエアギターする女子高生なんて、聞いたことないよ……。
「もしかして将棋部?」
「う、うん……始めたばかりだけど……」
「そっか、そっか、分からないことがあったら、あたしに訊きなさいッ!」
……さようなら。
と言いたいところだけど、ちょっと質問してみようかな。
ちゃんと解いて行きたいし。
「これ、1手で詰む?」
私は宿題の詰め将棋を、幸子ちゃんに見せた。
幸子ちゃんは数秒睨んだだけで、あっさりと口を開いた。
「4四角でしょ?」
「4四角? ……それは5手詰みだよ」
「???」
幸子ちゃんは、大げさに首を捻ってみせる。
あんまり強くないのかな? 実は初心者だったりして。
私は歩を持ち上げて、それを2三に打った。
「ほら、こうやって打てば……」
「ああ、それ、無駄合いだから」
「むだあい? むだあいって何?」
「むだあいって言うのは『取られる以外に意味のない無駄な合い駒』だよん」
取られる以外に意味のない、無駄な合い駒……。
2三歩なら、同飛成。取られる以外に、仕事をしてないね。
「えっと、無駄合いだと、どうなるの?」
「無駄合いは、詰め将棋だとノーカン。だから、4四角で終わりッ!」
うーん、そっか。だったら、1手詰みだね。
歩美ちゃんも、イジワルだなあ。1時間くらい考え込んじゃったよ。
「ありがと。これで解けたよ」
私はお礼を述べて、その場を去ろうとした。
すると幸子ちゃんは、手揉みをしながら私を引き止めた。
「他には? 他には?」
……うわ、友だち認定されちゃったかな、これ。
でも、悪い人じゃなさそうだし、もうちょっとくらいいいかな。
これも何かの縁だよね。悪縁じゃなきゃいいけど。
「無駄合いと無駄じゃない合い駒って、どう違うの?」
「難しい質問だねぇ。例で考えてみようか。そこのベンチでね?」
そうだね、立ち話も何だよね。さっきからジロジロ見られてるし。
私たちはベンチに移動すると、早速合い駒について考え始めた。
「とりあえず、無駄合いの条件を書き出すよ」
幸子ちゃんはそう言って、生徒手帖を取り出すと、何やら書き物を始めた。
1、遠距離の王手が掛かっている状態で、
2、その間に駒を打つ→取るという動作を行ったにもかかわらず、
3、その合い駒を取った駒の位置以外に、変化が生じていない。
……すっごい字が汚いね。内容も難しいかな。
「分かった?」
「……分かんない」
「じゃ、例を挙げていくよん。まずはこれッ!」
「9九香と打ちまーす」
幸子ちゃんは、楽しそうに香車をパチリと打った。
「さて、どう対応すればいいでしょうか? ちなみに、これは合い駒の練習だから、詰め将棋じゃないよ。むしろ、合い駒で王様を逃げる練習かな。王様サイドで考えてね」
なるほど、詰め将棋じゃなくて、逃げ将棋なんだね。
そんな言葉があるかどうか、知らないけど。
「ゆっくり考えるよ」
「どうぞ、どうぞ」
王手は掛かってるけど、単純に解除できるよね。
「王様を横に逃げるよ」
「正解。他には?」
他には……。
「8二玉って逃げるのもいいし、9二歩って打つのもいいよ」
9二歩は、合い駒だね。無駄じゃないよ。
「オケオケ、なかなかやるね。じゃあ、こうすると?」
幸子ちゃんは歩を持ち上げて、それを9七に打ち付けた。
え? 何これ? 意味が分からないよ。
「そんなの取っちゃうよ?」
幸子ちゃんは、びしりと親指を立てる。
「そう、これが無駄合いッ!」
……あ、そういうことか。確かに、無駄だよね、これ。
さっきの条件と比較してみようか。
1、遠距離の王手が掛かっている状態で、
2、その間に駒を打つ→取るという動作を行ったにもかかわらず、
3、その合い駒を取った駒の位置以外に、変化が生じていない。
まず、9九香の時点で王手が掛かったから、1の条件は充たしてるよ。
次に、駒を打つ(9七歩)→その駒を取る(同香)だから、2もオッケーだね。
最後に……3もオッケー。香車の位置以外に、何も変化が起きてないよ。
「分かったよ。さっきの3つの条件を、全部充たしてるね」
「その通り。じゃあ、これは?」
幸子ちゃんは、歩を9三に移動させる。
「これは無駄合い?」
「え? 無駄合いじゃないの?」
これも、そのまま取られちゃうよ。意味がないよね。
「ほんとに?」
幸子ちゃんは、にやにやと笑う。
うーん、分かり易く「間違い」って言ってるね。
ちょっと考えるよ。
……………………
……………………
…………………
………………
うん、やっぱり無駄合い。幸子ちゃんの笑いは、フェイントかな?
「無駄合いだと思う」
「じゃ、ちょっとやってみようか。9三歩にどうする?」
どうするって、やることはひとつしかないよ。えいッ!
「はい、取ったよ」
王様で取り返せないから、やっぱり無駄合いだよね。
「9三香成の状況は、9九香の状況と一緒?」
「うん、一緒」
「ほんとに? ほんとに?」
え、何が違うの? 突っ込みの押し売り強盗してるわけじゃないよね?
私は、もう一度盤面を見る。
「……あ、そっか」
私は喫驚した。これ、状況が一緒じゃないね。
「9三香成の瞬間は、王手が掛かってないよ」
「正解ッ! 9三香成としちゃうと、王手解除になるのよね」
うにゅにゅ……でもでも……。
「じゃあ、成らないよ」
私は9三香不成に置き換えた。
「それは、いい発想だね。だけどだけど」
幸子ちゃんは王手を避けて、8二玉と上がる。
「あ……香車取られそう……」
9一香成、9二香成には、どっちも同玉だね。
「歩で香車を守るね」
私は、香車のお尻に歩を打つ。9四歩だ。
「そこで王様を引くのが味良しッ!」
幸子ちゃんは、王様をまっすぐ後ろに引いた。
え? そこに逃げるの?
「あなたの番だよ。……と名前聞いてなかったね」
うーん、名乗った方がいいのかな?
本名教えるのは、怖いかも。
「……カズちゃんでいいよ」
私が渾名の方を教えると、幸子ちゃんはパンと手を叩いた。
「じゃ、カズちゃんの番だよ。どうする?」
どうするって言われても……歩は動けないから、香車を……。
「……あッ……香車が絶対に取られちゃう」
私が絶句すると、幸子ちゃんは嬉しそうに頷いた。
「そうなんだよね。9三歩、同香不成、8二玉、9四歩、8一玉で香車をゲット!」
「ってことは、9三歩も無駄合いじゃないの?」
「違うよ。9三歩は香車をゲットできる分、9二歩よりいいくらいかも」
そっかあ……これは目から鱗だね。
「んー、無駄合いかどうかって、チェックが難しいね」
「まあね。詰め将棋でも、『無駄合いかどうか』を判断させる問題があるくらいだし、簡単にはチェックできないよ。それも一興ってやつ?」
うん、確かに面白いかも。
「さーて、次いくよ」
幸子ちゃんは、駒の配置をがらりと変えた。
「これは、どう? 1一飛車を打った局面だけど」
うんと、1一飛車は王手だから、条件1は充たしてるね。
そして、合い駒をしないと、王様はそのまま取られちゃう。
持ち駒は金と銀だね。どっちを打とうかな……。
「銀合いするね」
私は8一銀と打った。
「正解。これは無駄合いじゃないね」
うん、これは無駄合いじゃないよ。同飛成、同玉、8二銀に、7二玉と逃げられるから。これが金だと、同飛成、同玉、8二金で詰みなんだよね。
「8一金なら、無駄合いなんだよね?」
「うーん、残念」
え? 残念? ……無駄合いじゃないってこと?
「でも、同飛成、同玉、8二金で詰みだよ」
「もっかい思い出して。無駄合いの条件に、『詰みが回避できない』ってある?」
……ないね。
「ってことは、詰むかどうかって、関係なかったりする?」
「そういうこと。王様が詰むかどうかと、無駄合いかどうかは、関係ないよん。条件1は王手が掛かっているかどうかだけで、詰むとは言ってないからね」
んーと、じゃあこれは、飛車の位置以外に、状況が変わってるのかな?
よく分からないけど……。
「飛車が龍になってるから、条件3を充たさないってこと?」
「あ、それはどうでもいいよ。成駒になっても、同一状況ね」
「じゃあ……1一飛の局面と8二金の局面の、どこが違うの?」
私が尋ねると、幸子ちゃんは指を1本立ててみせた。
「ひとつ、詰んだときの王様の位置が違うよね」
王様の位置……あ、ほんとだ。9一じゃなくて8一で詰んでるよ。
「ま、それ自体はあんまり重要じゃないかな。重要なのは、2番目。1一飛の王手が、8二金の王手に変わってるよね?」
1一飛の王手が、8二金の王手に……そうだね。
「分かってきたよ。これは同一状況じゃないんだね」
「そういうこと。同一状況の判断は難しいけど、無駄合いかどうかは普通、直感的に判断できるかな。例えば……」
「これが無駄合いなのは、一発で分かるよね?」
そうだね。これは明らかな無駄合いだよ。金をプレゼントしてるだけ。
「合い駒って面白いね。8一金だと詰むけど、8一銀なら詰まないんだもん」
「そそ、こういうのを『合い駒の選択』と言って、8一金を『間違った合い駒』、8一銀を『正しい合い駒』って言うから、覚えておくといいよん」
8一金は詰むから間違い、8一銀は詰まないから正しい、だね。
理解、理解。
「じゃ、あたし、そろそろ行くから」
そう言って幸子ちゃんは、ベンチから腰を上げようとした。
「幸子ちゃん、今日はありがとね。……そうだ、何かパズル出してよ」
私がせがむと、幸子ちゃんは嬉しそうに盤面を作り始める。
「じゃ、これを解いてちょ」
幸子ちゃんはそう言って、盤を返してくれた。そこには……。
「ルールはね、『連続王手で王様が詰むか』だよん。今は9九香を打ったとこ」
連続王手ってことは、王手が途切れたら負けだね。分かったよ。
「幸子ちゃん、ほんとありがとね」
「ま、そのうち大会で顔合わせると思うけど、とりまバーイ」
幸子ちゃんは再びエアギターの構えをして、「ぎゅんぎゅん」言いながらその場を去って行った。……周りの視線が痛いね。帰ろうかな。
【今日の宿題】
最後の図において、連続王手で王様が詰むかどうか、検討しなさい。なお、王様側が先に動くものとする。
《将棋用語講座》
○合い駒
遠距離攻撃の王手に対して、持ち駒を打ち、それを防ぐこと。実戦でも詰め将棋でも多用されるテクニックである。但し、遠距離攻撃の王手に対して持ち駒を打つということは、その合い駒を取りうるということであり、駒の種類を間違えると、とんでもないことになりかねない。普通は歩合いだが、それ以外の駒で受けることもままある。




