詰みの定義1(狭義の詰み)
昨日は宿題がなかったけど、1九角じゃなくて2八角の変化を考えたよ。
研究成果は秘密だけど、ひとつの局面でもいろんな攻防があるんだね。
将棋って、奥が深いかも。
今日からはちょっと別のことをするみたいだし、それも楽しみ。
「こんにちはッ!」
私が部室に入ると、歩美ちゃんと円ちゃんが、盤を挟んで対峙していた。
対戦してるのかな? ちょっと覗いてみるよ。
※青野照市「全棋士5手詰競作集」『将棋世界』1978年1月号付録収録。
あれ? これは対戦なのかな?
対戦してるときは、もっと駒が多かった気がするけど……。
よっぽど真剣に考えていたのか、ふたりが気付いたのは、しばらく経ってからだった。
「あら、数江ちゃん、来てたの」
歩美ちゃんは、言い方がいつも冷たいね。
でも、その裏にある優しさを、私は知っている。なーんちゃって。
「何してるの?」
「詰め将棋」
「つめしょうぎ?」
私はもう一度盤面を見る。
……詰むかどうか検討してるってことかな?
だったら、私がいつもやってるのと一緒だね。考えるよ。
……………………
……………………
…………………
………………
これって、すごく簡単じゃないかな?
「2六金って包囲すれば、すぐ捕まるんじゃない?」
私の指摘に、ふたりは?みたいな顔をした。
間違ったかな? もしかして、王様のターンだった?
「2六金は、王手じゃないだろ」
「おうて? おうてって何?」
私が尋ねると、円ちゃんは頭を掻いた。
「そっか、それはまだやってないのか。……王手ってのはな、『敵の駒の移動先に、王様がいる状態』のことだ」
敵の駒の移動先に、王様がいる状態……。
「取られる寸前ってこと?」
「そうだ。木原が指した局面は、王手じゃないだろ?」
円ちゃんはそう言って、2六金を置いた。
えーと、敵の駒の移動先に王様が……いない。
だからどうしたんだろう?
「別に、王手じゃなくてもよくない? 捕まえればいいんでしょ?」
円ちゃんは、違う違うと首を左右に振る。
「詰め将棋は、『王手の連続で追いかける』ってルールがあるんだ。だから、王手以外の手を指した時点で、ルール違反になるぞ」
へえ、そうなんだ。
詰め将棋っていうのは、特殊なルールのパズルなんだね。
私が今までやってきたのと、ちょっと違うかな。
「おい、駒込、これ本当に詰むんだろうな?」
「ええ、詰むわよ」
「図面の間違いじゃないのか? あるいは、持ち駒を忘れてるとか……」
「間違いないわ。今読んでも、ちゃんと詰むから」
冷静な歩美ちゃんに対して、円ちゃんは苛立たし気に椅子にもたれかかる。
「本当かぁ? 10分近く考えてるけど、詰まねえぞ」
「それはね、思考のエアポケットに突入してるからよ」
……うーん、円ちゃんが10分考えてできないんだ。
だったら、私じゃ無理かな。簡単に捕まりそうだけどね、これ。
「ま、ゆっくり考えてちょうだ。私も20分くらいかかったし」
歩美ちゃんはそう言って、今度は私の方へと向き直る。
「さてと、今日は私たち3人しかいないみたいだし、続きをやりましょう」
わーい、講師は歩美ちゃんだね。何が始まるんだろ。
「今日は、将棋用語を覚えてもらうわ。『寄せ』と『詰み』よ」
「『詰み』は、もう習ったよ」
「ちょっと待って。今日は『詰み』を再定義する日だから」
再定義? これまで使ってたのは、正確じゃないってことかな?
とりあえず、説明を待つよ。
「まずは、『寄せ』からよ、『寄せ』というのは、『相手の王様を捕まえるために行う動作一般』を意味するわ」
「んーと、勝つための手全部ってこと?」
「それは意味が広過ぎるわ。勝つためには、防御もするでしょ。でも、防御は『寄せ』とは言わないの。『相手の王様を捕まえるために指す攻撃の手』に限定してちょうだい」
相手の王様を捕まえるために指す攻撃の手……。
何となく分かったかも。
「歩美ちゃんがこれまでしてきたのは、『寄せ』の練習よ」
なるほどね。王様を捕まえる練習をしてきたね。いつも私が攻めてたし。
だから、寄せの練習なんだ。今度こそ、経験的に分かったかな。
「『寄せ』を行うことを、動詞で『寄せる』と言うわ。攻撃されてる側は、『寄せられる』ね。そして、実際に王様が捕まってしまうことを『寄る』と言うの。逆に、王様を捕まえられないことを『寄らない』と呼ぶわ」
ふんふん、動詞ひとつでも、いろんな言い方があるんだね。
これも慣れていこうね。
「数江ちゃんは、『寄せる』というのがどういうことか、感覚的に分かっていると思う。だから、深くは説明しないわ。問題は『詰み』よ」
「『詰み』って、『相手がどう対応しても、次のターンで相手の王様を絶対に取ることができる状態』じゃないの?」
私は、これまで勉強してきたことを復唱した。
「そう、ほぼ100%のケースで、その定義が通用するわ。ただ、例外があるの」
「例外? 例外って何?」
「これよ」
歩美ちゃんの作った図を、私はじっと見つめる。
あれれ? これって、最初の頃にやったやつじゃないかなあ?
「王様側のターン?」
「そうよ」
「じゃあ、詰んでるんだよね?」
だって、王様がどう動いても、絶対に取られちゃうもんね。
8一玉なら同歩成。
8二玉なら同銀成。
8三玉も同銀成。
絶対に捕まっちゃうから、定義に該当してるよ。
ところが歩美ちゃんは、首を左右に振った。
「これが詰みかどうかは、ルールの不備で明らかじゃないの」
「えぇ? ルールの不備? そんなことあるの?」
将棋って、大昔からあるんじゃないかな?
「何で決まってないの?」
「ま、そう急がないで。その前に、いくつか予備知識をつけときましょう。まず、『王様をわざと敵の駒の移動先に移動させるのは、反則』よ」
王様をわざと敵の駒の移動先に移動させるのは、反則……。
「例えば、これは反則?」
「そう、それは反則」
んん? だったら、この状態って……。
「どこに王様を動かしても、反則になっちゃうよ?」
見落としがないか確認する私に、歩美ちゃんは大きく頷いた。
「正解。この局面は、王様側に、反則以外の手が残されてないの。こういう状態を、チェスでは『ステイルメイト』と言って、引き分けのルールが確立されてるわ」
チェスは全然知らないけど、それなら将棋でも引き分けなんじゃないかな?
「じゃあ、将棋でも引き分けなんじゃないの?」
「将棋の場合は負けよ」
……わけが分からないよ。だったら、何が問題なんだろ。
「じゃあ、それでいいじゃん」
「待って、今問題にしてるのは、この局面で王様が負けかどうか、じゃなくて、この局面で王様が詰んでるかどうか、よ。より正確に言えば、チェスにおけるステイルメイトは、将棋における詰みに該当するかどうか、ね」
……あ、そっか、勘違いしてたよ。
王様側が負けなのは、確定してるんだね。
問題は、その負け方が、反則なのか、詰みなのかってことなんだ。
何となく、問題の所在が分かってきたよ。
「で、答えは?」
「さっきも言ったように、ルールがないの。だから不明」
……え?
「おかしくない? 何で誰も決めてないの?」
「んー、そもそも、誰が決めるのかっていう問題もあるし……それに、ステイルメイトが発生することは、将棋ではほぼありえないのよ」
「ほぼありえないって、どれくらいありえないの?」
「毎日10局ずつ、死ぬまで指し続けて1回も出現しないくらい」
……それって、発生しないと同義なんじゃないかな。
正確には違うんだろうけど……。
「何でそんなにレアなの?」
「理由は簡単。将棋には、持ち駒があるでしょ。王様を動かさずに、盤の上の他の駒を動かしたり、持ち駒を打ったりすれば、ステイルメイトは回避できる。要するに将棋では、『反則以外に手がない状態』が、ほぼ生まれないってこと」
うーん、難しいね。
このへんは、後でじっくり考えようか。
「だから、最初に覚えた定義でも、普通は問題ないんだけど、ルールマニアの八千代ちゃんもいるから、厳密に定義しておくわよ。『詰み』というのは、次の要件を満たした状態を指すものとするわ」
そう言いながら歩美ちゃんは、3つの項目をホワイトボードに書き出した。
1、王手がかかっており、
2、反則になる手を指さない限り、
3、その王手を解除する方法が存在しない。
「これが『詰み』よ」
ちょっと時間が欲しいな。手帳に書いておかないとね。
メモメモ……。
私はシャーペンの消しゴムで頭を掻きながら、メモ帳を見つめた。
「……例が欲しいかな」
私がお願いすると、歩美ちゃんはさっきの盤面をもう一度作った。
「これは『詰み』?」
えーと、これは王手がかかってないから……。
「詰みじゃないね。……あれ? じゃあ、ステイルメイトは詰みじゃないの?」
さっきと言ってることが違うよね。
ステイルメイトが詰みかどうかは、ルールが決まってないんじゃなかったかな。
「駒桜市内では、そうなってるわ」
「市内では? ……ローカルルール?」
「んー、それも難しい質問だけど……とりあえず、駒桜市内では、全ての公式戦において、ステイルメイトは詰みでないと決まってるの。ただ、別に身内ルールじゃなくて、日本将棋連盟発行の『将棋ガイドブック』にも、そういうニュアンスの記述があるから」
にほんしょうぎれんめいが何か分からないけど、本に書いてあるんだね。
じゃあ、とりあえずはそれでいいかな。
「分かったよ。とにかく、これは詰みじゃないんだね」
「そう、これは『王様側に反則しか残されていないから負け』ね。さて……」
歩美ちゃんは、駒箱から金を取り出し、それを王様の頭に置く。
「これはどう?」
これは、王手がかかって、反則以外に解除手段がないから……。
「詰みだね」
「正解。じゃあ……」
「これは? 王様側のターンだけど」
「えっと……王手がかかってないから、詰んでないよ」
「正解」
何となく分かってきたね。
「他には?」
「他には……そうねえ……」
歩美ちゃんはしばらく考えた後、パチリと指を鳴らした。
「こうしましょう。今までは、厳密じゃない方の定義でやってきたから、問題をひとつずつ見直すの」
そうだね。これまでは、ステイルメイトも、全部詰み扱いだったもんね。
「というわけで、問題。飛角金銀桂香歩の中から2枚選んで、好きな位置においた王様を捕まえるとき、ステイルメイトでしか捕まらない組み合わせは、何通りあるか。同じ種類の駒を2回選んでもいいけど、何ターンもかかるのはダメ。やってみて」
半分おさらいだね。順番にやっていこう。
最初に、全部の組み合わせを確認しようか。飛飛、飛角、飛金、飛銀、飛桂、飛香、飛歩、角角、角金、角銀、角桂、角香、角歩、金金、金銀、金桂、金香、金歩、銀銀、銀桂、銀香、銀歩、桂桂、桂香、桂歩、香香、香歩、歩歩の28通り。
順番に潰していくよ。
「まず、絶対に捕まらないのを言うよ。……歩歩、香歩、桂歩、角歩、桂桂、角角、角桂は、ステイルメイト云々と関係なく、捕まらないかな」
「そうね、その組み合わせは、どうやっても捕まらないわね」
「次は……簡単に詰ませることができるパターンを言うよ。金は全部。銀銀も、縦に並べれば詰むね。それから……香香、飛香、飛飛のロケットッ!」
《金金》
金飛、金角、金銀、金桂、金香、金歩、全部詰むよ。
「やっぱり、詰ませるときの金は最強だね」
私の得意げな発言に、歩美ちゃんは人差し指を立てた。
「そう、詰ますときは、金がもの凄く役に立つわ。この図のように、王様の頭に金が乗って詰んでいる状態を頭金と言って、詰みの典型例とされてるの」
他の駒は、王様の頭に置いても、逃げられる可能性があるね。
成ったら話は別だけど。成駒は、基本的に金と同じ動きができるもん。
《銀銀》
これも金金と同じ原理だね。金駒2枚で逃げ道封鎖。
「頭銀って言い方はないの?」
「それは聞かないわね。銀は頭に置いても、サイドに逃げられることが多いから」
なるほどね、じゃ次。
《香香》
飛車は香車の代わりになるから、飛香、飛飛も詰みッ!
「OK、残りは?」
残りを整理するよ。
……飛角、飛銀、飛桂、飛歩、角銀、角香、銀桂、銀香、銀歩、桂香の10通りだね。この中で、詰みを見落としてるのは……ないかな?
最後に、ステイルメイトを考えるよ。
「残りのステイルメイトを並べるね」
《飛角》
《飛銀》
《飛桂》
《飛歩》
《角銀》
《角香》
《銀桂》
《銀香》
《銀歩》
《桂香》
これで全部かな。よく考えたら、銀歩と桂香はもうやってたね。
「正解……」
やったー。
「と言いたいところだけど、ひとつ間違えてるわよ」
「……え? ほんと?」
私の確認に、歩美ちゃんはこくりと頷き返す。
……………………
……………………
…………………
………………
全部詰まないと思うけど、私、勘違いしてるのかな?
私がうんうん唸っていると、背後で大声がした。
「分かったぞッ!」
うわ、びっくりしたなあ。
振り返ると、円ちゃんが嬉しそうに鼻下をこすっていた。
「なるほどな、分かれば簡単だが、盲点になってたぜ」
詰め将棋が解けたのかな?
30分近く考えてたみたいだけど……。
「どうやら、円ちゃんも終わったみたいだし、今日はここまでにしましょう」
「答え合わせは?」
「それはね……」
うん。
「宿題」
【今日の宿題】
木原さんが最後に並べた10パターンのうち、間違いをひとつ見つけて、詰むように並べ替えなさい。なお、王様側が先に動くものとする。
《将棋用語講座》
○ステイルメイト
日本将棋連盟発行『将棋ガイドブック』より、「詰み」の定義を再掲。
「一方の側が玉以外の駒の利きを敵玉の存在するマス目に合わせるような指し手、つまり玉に取りをかけることを“王手”といい、かけた側から見れば“王手をかける”という。王手をかけられた側が、その王手を次の一手で解除することが不可能になった状態、つまり次にどのように応接しても玉を取られてしまうことが防げない状態を“詰み”といい、玉側からみれば“詰まされた”という。」
ステイルメイトが詰みかどうかは、愛棋家(特に変則詰め将棋作家)の間でも議論になることがあり、しばしば上記の説明が引用される。しかし、日本将棋連盟がステイルメイト除外の意図を持っていたかどうかは明らかでなく、決定打とは言えない。ネット上の議論を見る限りでは、「ステイルメイトは詰みでないと考えた方が、問題は少ない」とする見解が優勢に見える。いずれにせよ、実戦ではお目にかからない代物であろう。個人的に、将棋におけるステイルメイトは「自動パス」であり、パス禁止のルールに違反した反則であると解している。機会があれば、このあたりについても詳述したい。