持ち駒って何?
翌朝、いつもより早く登校した私は、八千代ちゃんの机に向かう。
八千代ちゃん、毎朝30分以上前に来てるって噂だったけど、ほんとだったんだ。
いつも本を読んでるタイプだし、ちょっと浮いてるかも。
「八千代ちゃん、おは」
私が話し掛けると、八千代ちゃんは顔を上げた。
何か本を読んでるね。雑誌かな?
……何か、将棋の駒が一杯書いてあるよ。もしかして、将棋の雑誌?
そんなのあるのかなあ?
「何でしょうか?」
「宿題やって来たよ。答え合わせしよ」
私は手にしたプラスチック盤を掲げてみせた。
八千代ちゃんは黙って頷くと、雑誌を鞄に仕舞う。
「では、銀歩の形からどうぞ」
八千代ちゃんに言われた通り、私は宿題の図を作った。
「私からですね。王様は動けませんので……」
八千代ちゃんは予想通り、歩を突いた。
「うんとね、次の手にずいぶん悩んだけど……結局……」
「こうだと思うんだよね」
銀を成らずに真っ直ぐ。
これを見つけるのに、5分くらいかかっちゃったよ。
出世しない方がいいときもあるんだね。成ると捕まらないよ。
「……正解です」
やったね。一応、最後まで指すよ。
条件を満たしている限り、好きなときに成れる。その応用だね。
1回目は成らないで、2回目に成るってわけ。
もちろん、歩成るでも正解だよね。
「次は、歩角ですね」
八千代ちゃんは、私の代わりに、宿題の図を作ってくれた。
「では、早速……」
私は、じっと盤面を睨む。
「……どうしましたか?」
「歩突きじゃないの?」
「なるほど……歩突きですか……」
八千代ちゃんは、じっとりと私を見上げる。
「ちなみに、歩突きだと詰みますか?」
「うん、詰んだよ」
「何回動かしましたか?」
私は両手の指を折り曲げる。
……全然足りないね。
「100回くらい動かした気がする」
私の返事に、八千代ちゃんはきょとんとした。
八千代ちゃんは眼鏡を外して、レンズを拭き始める。
「なるほど、それはおそらく……」
八千代ちゃんは眼鏡を掛け直して、駒を全部自分で動かし始めた。
「……と、このような感じで、じわじわ追い詰めるのでは?」
あ、それそれ。凄いね、八千代ちゃん。私の考えたことが分かるなんて。
「そうだよ。そうしたら、すっごい時間がかかったけど、最後は捕まったよ」
私の返事にもかかわらず、八千代ちゃんは渋い顔をした。
「うーん、どうでしょうか……持ち駒をまだ教わっていないので、捕まるかどうか自体、怪しいですし……それ以前に……」
八千代ちゃんはしばらく口をもごもご動かして、それから言葉を継いだ。
「それ以前に、2手目が間違っています」
2手目? えーと、2つ目の手だから……私の手かな?
「え? そうなの?」
「はい、戻してみましょう。私が歩を突いたと仮定します」
うんと、これで2手目が間違ってるってことは……。
「……角を成るのが間違い?」
「角を成ること自体は、間違いではありません」
だよね。だって、それ以外に手がないもんね。
ってことは、成る場所を間違ってるのかな?
「答えを聞きますか?」
「ちょっと待って、自分で考えるね」
……………………
……………………
…………………
………………
あ、そっか。私は、ポンと手を叩いた。
「ここに成ればいいんだね」
「……王様を逃げます」
「馬を寄るよ」
「王様をもう一度逃げます」
「歩を成るよ」
後は簡単だね。八千代ちゃんは歩を突いて、私は馬を寄る、
これで捕まってるよ。
「正解です。ポイントは、6筋一段目ではなく、三段目に成ると、馬を一手早く7筋三段目に移動させられるということです」
なるほどね、6筋一段目に成ったときは、一回7筋二段目に行かないといけないもんね。
「したがって、『初手歩突きで詰まない』というのは、誤答になります。『初手歩突きの場合は、6筋三段目に角を成って詰む』が正解です。しかし……」
八千代ちゃんは、もう一度、駒の配置を戻した。
そして、歩を突く代わりに、王様を動かす。
「こうすると、どうなるでしょうか?」
「んー、これも6筋三段目に角を……あッ」
私は口元を押さえる。
角は……成れないね。
「この状況で角を三段目に成ると、歩を取りますね」
「だね……だから……」
かと言って歩は動かせないし……。
「しょうがないから、一段目に成るよ」
「ここで改めて歩を突きます」
「馬を引くよ……」
うーん、でもこれって……。
だよね。こうなるよね。
「さて、ここから王様が詰むかどうかなのですが……難しいですね」
パターンが多過ぎるよね。
昨日の夜、寝る前に詰んだのも、逃げ方が変だったかもしれないし。
「龍だと余裕で詰むのですが、馬は隙き間があります。その隙き間を、と金で完全に塞ぐことは、できないんじゃないかと。パソコンで解析してみないと分かりませんが……とりあえずの解答として、『初手に歩突きは詰む。初手に王様を動かせば詰まない』ですね。王様を上がる意味は、6筋三段目の角成りを阻止して、強制的に一段目に成らせることです」
そっかあ……最初に王様を動かすんだね……。王様が歩に当たってるから、角は三段目じゃなくて一段目にしか成れないっていうトリックなんだ。
何か、惰性で歩を突いちゃったよ。反省。
私が感心していると、八千代ちゃんはコホンと咳払いをした。
「他には、何か?」
うーん、ネタを振ってくれそうにないし、自分で考えようか。
やっぱり、将棋の話がいいよね。八千代ちゃんの他の趣味とか、分かんないし。
「……昨日、持ち駒がどうこうとか言ってたよね? アレって何?」
「持ち駒というのは、『盤の外側に待機している戦力』のことです」
「盤の外側? 盤の外へ、駒は移動しちゃいけないんじゃないの?」
「もちろん、ダメです。しかし、ひとつだけ、駒を盤の外に置く方法があります」
そう言って八千代ちゃんは、説明を中断した。
自分で考えろってことなのかな?
でも、そんなの習わなかった気がするね。
「……分かんないや」
私が降参すると、八千代ちゃんは、盤の上に王様と金と香車を置いた。
「今、木原さんのターンだとしましょう。どの駒を取れますか?」
えーと、取れる駒は、ひとつしかないよね。
「香車で金を取るよ」
「そうですね。このままでは私の負けなので、王様で取り返します」
「さて、さきほど取られた金と香車は、どこへ行くのでしょうか?」
「どこって……それは盤の外側……」
そこまで言って、私はアッとなった。
「そっか、取られた駒は、盤の外側へ行くんだね」
やっと分かったよ。
駒は自分じゃ盤の外側に行けないけど、取られたら行けるんだね。
「でもさ、その金は、ゲームから外されるんでしょ?」
私がそう言うと、八千代ちゃんは大きく目を見開いた。
あれ? 私、変なこと言ったかな?
「いえ、将棋において、駒がゲームから排除されることはありません。少なくとも、ゲームが一旦始まれば、ありえないのです。駒をゲームから除外する場合は、始める前に話し合いで決める必要があります」
「え? じゃあ、その取られた金は何なの?」
私が目を白黒させる中、八千代ちゃんは金を摘んで、私に見せた。
「ですから、これが持ち駒なのです」
「???」
えっと、持ち駒は、盤の外側にある戦力なんだよね。
だけど……。
「その金は、どうやってゲームに参加するの? 外側から攻撃するの?」
「金をゲームに参加させたいときは、こうして……」
八千代ちゃんは、その金を盤の上にパシリと打った。
「盤に戻すのです」
……え? 盤に戻す?
そんな話、聞いてないよ。
「戻せるの?」
「戻せます。但し、『自分のターンのとき、盤の上にある駒を動かす代わりに』という条件付きです。持ち駒を盤に戻すか、それとも盤の上にある駒を動かすか。二者択一ですね。ちなみに、盤上の駒を動かすときは『指す』と言い、盤の外側にある駒を戻すときは『打つ』と言います。ビギナーの中には、両方を『打つ』と呼ぶ人もいますが、ルール的に間違いなので、注意してください」
えっと、びっくりしてて、説明をちゃんと聞いてなかったよ。
ごめんね。でも、ほんとにびっくりした。
「これって、どんな駒でもできるの?」
私の質問に、八千代ちゃんは頷き返す。
「王様以外の駒ならば、何でも」
あ、王様はダメなんだ。そりゃそうだよね。取られた時点で負けだもの。
「戻す場所は決まってるのかな?」
「いいえ、決まっていません。自由です」
「自由? ……好きなところにリサイクルしていいってこと?」
「そうです。もちろん、1マスにつき駒1枚のルールは守ってくださいね」
わお、それって凄くない?
「じゃあ、ここに打ってもいいの?」
私は金を持ち上げて、1筋一段目に置き直した。
「もちろん、OKですよ」
うわー、何かテンション上がってきたよ。
「凄いね、こんなことできたら、楽勝なんじゃない?」
「いえ、楽勝ではありません。持ち駒は、両方のプレイヤーが持っているのです。ですから攻撃だけでなく、防御に使うこともできます。例えば……」
「私も、さきほど取った香車を打つことができます」
あ、八千代ちゃんも、駒を打てるんだ。
そうだよね。でないと、フェアじゃないもんね。
「持ち駒に関しては、重要なルールが4つあります。ただ、その前に、フィールドを広げましょう」
八千代ちゃんは、机の左右にある文房具を片付けた。
うわー、一気に広くなったね。
「持ち駒は、盤の外に置かないといけません。そのためのスペースです。先手と書いてあるスペースが木原さん、後手と書いてあるスペースが私、ということになりますが、本来は1番最初に指す人を『先手』、そうでない人を『後手』と呼びます。さしあたり使わない駒は、全て駒箱に仕舞うのがマナーです。テーブルの上に置くと、持ち駒と紛らわしくなりますから」
野球でも、先攻後攻って言うもんね。
使わない駒を箱に仕舞うのも、理解したよ。
「先後の表記は、今は消しておきましょう。ちなみに、王様で成香を取った場面では、このように配置します」
私が金、八千代ちゃんが香車を持ってるんだね。このふたつが持ち駒。
「では、ルールの説明に移ります。第一に、『取られた駒は全て表に戻す』ことを求められます」
表に戻す。つまり……。
「成ってる駒は、元に戻るってこと?」
「はい、その通りです。例えば、こういう場合ですね」
「この場合、木原さんが取った成銀は、銀に戻り、私が取った成香は、香車に戻ります。この初期化は強制ですから、成ったまま使うと反則負けです」
あ、思い出したよ。確か大川先輩が、一度成った駒は戻せないけど、例外があるって言ってたね。きっとこれが、その例外だよ。
「第二に、『持ち駒を打つとき、盤上の駒はその打ち方に影響を与えない』です。より正確に言うと、『持ち駒を打つとき、その駒は盤の上を移動しておらず、指定されたマスの中に突然現れる』ですね」
「……どういうこと?」
「例えば、こういう局面があると仮定しましょう」
「このとき、5筋九段目の香車は、5筋五段目に移動できますか?」
「私のターンでいいんだよね?」
「はい、それで結構です」
えーとね、この場合は……。
「できないよ。『桂馬以外の駒は、他の駒を飛び越せない』からね」
「正解です。しかし、持ち駒の香車は……」
「このように、いきなり5筋五段目に打つことができます」
「へえ、でもこの香車、どうやってそこまで移動したの?」
四方八方を囲まれてるから、移動はできないはずだよね。
私の質問に、八千代ちゃんは眼鏡を直した。
考えるときの癖みたいだね、これ。
「それはさきほど説明した通り、『突然現れた』としか言いようがありません。持ち駒は盤の上を移動せず、指定先へいきなり登場することができるのです。そしてこの性質が、3番目のルールに直結します。すなわち、『持ち駒を打つときは、敵の駒を取れない』ということです」
持ち駒を打つときは、敵の駒を取れない……。
「例えば、こういうのはダメなのかな?」
「はい、それは反則負けになります」
「ルール自体は分かったけど、何でダメなの?」
2番目のルールと関係あるみたいだけど、繋がりが見えてこないや。
「木原さん、相手の駒を取るときの条件を覚えていますか?」
「条件? えーとね……『自分の駒の移動先に敵の駒がいる場合』だよ」
「その通りです。そしてここで、2番目のルールを思い出してください。『持ち駒を打つとき、駒は盤の上を移動していない』です」
ちょっと整理するよ。
駒を取れるのは、敵の駒が、自分の駒の移動先にいる場合。
持ち駒を打つときは、駒はそもそも移動していない。
「なるほどね、持ち駒は移動じゃなくてワープだから、条件を満たさないんだね」
八千代ちゃんは軽く頷くと、次の説明に取りかかる。
「4番目のルールも、2番目のルールからの論理的帰結です。『持ち駒を敵陣に打った瞬間には、それを成ることができない』。例えば、これは反則です」
持ち駒を敵陣に打った瞬間には、それを成ることができない……。
成るときのルールを、もう一度、思い出そうね。確か……。
1、中立地帯あるいは自陣から、敵陣へ駒が移動したとき、成ることができる。
2、敵陣の中を移動したとき、成ることができる。
3、敵陣から、中立地帯あるいは自陣へ駒が移動したとき、成ることができる。
まず、盤の外から敵陣へ駒を戻したときは、1でも3でもないよね。
問題は2だけど……。2は、敵陣の中を【移動した】ときだから、八千代ちゃんの説明が正しいなら、条件を満たさないよね。だって、持ち駒は移動してないもん。
「うん、何となく分かったよ。持ち駒は敵陣の中を移動してるわけじゃないから、成ることができないんだね。それ以外のパターンにも、当てはまらないよ」
「把握できたようですね。とりあえずは、この4つを覚えてください」
はーい。表にまとめておこうね。
私は手帳を取り出して、シャーペンでまとめを作る。
1、取られた駒は、全て表に戻る。
2、持ち駒は盤の上を移動しない。好きなマスへいきなり出現する。
3、移動しないから、持ち駒を打つときに他の駒を取ることはできない。
4、同じ理由で、持ち駒をいきなり成ることもできない。
できたッ!
新しいルールに見えるけど、実際に新しいのは1と2だけだね。
3と4は、2のルールと既存のルールから、自動的に導き出せるよ。
「じゃあ、早速、パズルを解こうよ。問題出して」
「では、いくつか持ち駒を使った例を……」
そのとき、チャイムが鳴った。
あらら、もうすぐホームルームの時間だよ。
だけど八千代ちゃんは、素早く駒を並べていく。
「暇なときに、この配置と持ち駒で詰ませる順を考えてください。最初は、木原さんから指すことができます。では、後ほど」
【今日の宿題】
最後の3つの図について、それぞれ王様が詰むかどうかを検討しなさい。なお、攻撃側が先に駒を動かす(あるいは打つ)ものとする。
※第3問は、敵の持ち駒に角がある。
《将棋用語講座》
○持ち駒
プレイヤーが盤の外側に所有している駒。原則的には、取った敵の駒が持ち駒になるが、パズルなどでは最初から与えられていることも多い。ちなみに、「盤上の駒は『指す』、持ち駒は『打つ』」というのは、将棋に限った話ではない。ボードゲームでは一般的に、「既にその場にあるものは『指す』、その場になく、新しく別の場所から持って来たものは『打つ』」という約束事がある。囲碁は、常に盤の外側から碁石を持って来るので「打つ」と言い、麻雀でも、何もない河に新しく牌を置くので、「打つ」と言う(「手の動かし方が打つように見えるかどうか」は、全く関係ない)。したがって、既に盤の上にある駒を「打つ」というのは、明らかに誤用である。
《執筆秘話》
上図は、個人的に会心作です。
初手玉上がり限定、歩突きからの6三角成限定がお気に入り。
ちなみに、私も途中まで、「歩突きで捕まらない」と思ってました^^;
6三角成で捕まるのに気付いたのは、執筆中です。