パズル
どこもかしこも、ピッタリ繋がってしまえればいいのに。
パズル
かれこれ、もう1時間は経ったと思う。膝までの短パンを履いているせいで、ふくらはぎ辺りがもろに畳の感触を受け、さすがにキツイ。あぐらを崩せば楽になるんだろうけど、目の前に佇む小さな背中が気になって、小心者の僕はそれすら出来ないでいた。
とにかく今は、下手に動かない方が良いハズだ。何せ相手は麻里だし、この状態で僕が何をしようとも、食って掛って来るに違いない。
足が痛いとかどうとか、そんな事に気をとられる前に、少しでも早く麻里の機嫌を元に戻す方法を考えよう。
とは言え、この1時間で既に手は尽してしまった。
まずは素直に謝ってみたけれど、そっぽを向いた背中が振り返る事は無かったし、何事も無かったかのようにお喋りを初めても、僕の馬鹿げた独り言に終わってしまった。
いつもは大抵、このどれかで麻里は笑い出すのに。今日はかなり手強い。
僕のそれらを見事に無視し続け、畳に敷かれた布団の上で座り込んだままピクリとも動かない麻里に、それならばと、僕は次の手段を考えついた。
「えーっと麻里ちゃん? そろそろこっち向いてくんない?」
自分でも鳥肌が立ちそうな猫なで声。壁に向かってふてくされているであろう麻里の横へ、引きつりながらも笑顔を作って擦り寄ってみた。
これはちょうど2日前ケンカした時、僅か10分で麻里を笑わせた方法だ。
あまりに気持ち悪い声だと自覚している為、出し惜しみしていたけれど、このまま何時間もこんな状態ではいられない。
しかし麻里はさらに顔を背け、例の通り言葉を発しない。
「……無視かコノヤロ」
お前はどうして欲しいんだよ! とうとう僕は、情けない恥ずかしさも手伝って、呆れ果ててしまった。 そんなこんなで、もう1時間もこんな状態だ。
そもそも、ケンカの理由は何だったっけ。いつもの如く、思い出せないくらいどうでも良い事だった気がする。
だいたい、いつもは仲直りできる方法が今日は通じないなんて、じゃあ僕はどうすれば良いんだ。
ただでさえ、麻里の気分屋な性格には手を焼いているのに。いい加減、許容範囲を越えている気がする。
あぁ。もう考える事すら面倒臭くなってきた。足も痛いんだ。麻里は布団の上だから解らないだろうけどさ。
「ゴメンって」
とりあえず。そんな感じで投げやりに言い捨てた僕の言葉に、1時間動かなかった背中が勢いよく振り返った。
「何なの、その言い方。 謝れば何だっていいと思ってんの?」
細い両眉の間に皺を作って、憎しみさえ映しそうな麻里の瞳が僕を睨みつけて離さない。 だけど僕だって、同じ瞳をしていると思う。
「じゃあどうして欲しいんだよ、お前」
素直に謝ったって、何を言ったって、無視したじゃないか。
黙り込む麻里を前に、僕は途方に暮れ、文字通り頭を抱えた。
自分の部屋なのに居心地が悪い。昔から畳が好きだし、フローリングは落ち着かないからと、家を建てる時に両親に頼んだ畳の部屋。その感触すら腹立たしく思えてきた。
さっきまでの険しい表情はどこへやったのか。麻里の瞼は伏せられて、その上で長い睫が繊細に震えている。
「こっちが泣きてぇよ」
思うだけに留まらず、丁寧に呆れ口調でそれを口にした。しまった、と掌で口を覆っても、もう遅い。
「顔も見たくない」
揺れる声でそう放たれると、古くなった畳が麻里の足音を乱暴に鳴らして僕の横を通り過ぎた。
僕はと言うと、それら全部が他人事みたいに思える中、心のどこかでホッと息をついていた。
雨が降っていた。玄関の扉を開けると、滝のように降り頻る見るからに冷たい雨が、僕の視界を遮った。
あれから数分してからようやく冷静になった僕は、麻里を追い掛けようと立ち上がり、そこらに散らかったジャケットを掴んで玄関までは来たが。行く手を阻むようなどしゃ降りの中へと、足を踏み出せない。
いや、雨が降っているなら尚更、麻里を迎えに行かなくちゃいけない。
もう一度思い直し、靴入れのラックに掛けてある傘に手を伸ばしたけど、それを掴む事も無く、指先から力が抜けていった。
顔も見たくないって言われたんだ。雨の中追い掛けて行ったって、また無視されるかもしれない。またあの瞳を向けられて、僕もまた、酷い事を言ってしまうかもしれない。
そろそろ、潮時なのかもしれない。
低く淀んだ空に影響されたのか、さっきよりも気分が重い。
トボトボ音がしそうな足取りで部屋に戻ると、万年床の布団に足を投げ出して座り壁にもたれかかった。
慌てていたにしても、短パンにジャケットって。我ながら格好悪いな。しかも雨にやる気を削がれるなんて、自分がバカバカしく思えてくる。
深い溜め息と共にうなだれると、左ふくらはぎの外側に奇妙な模様がある事に気付いた。
繊細な縫い目のような型が、デコボコになって肌に現れている。
畳の痕か。長時間も肌を押し付けていたんだから付いたっておかしくない。
手を伸ばしあててみる。少しヒリヒリして、何だか気持ち悪い。けれど、オウトツな痕形に沿って指を押し付けているとパズルをしているようで。そのうち肌がデコボコの部分に馴染んでいくと、妙にスッキリした。
何だかなぁ。僕と麻里もパズルみたいになれればいいのに。
ケンカをする度に、バラバラのピースを繋ぎ合わせて、そのうちどこもかしこもピッタリ繋がってしまえればいいのに。
だけど僕は、恐れてしまった。無視される事も、自分が麻里を傷つける事も。もう間違えるのは、ゴメンだったんだ。間違えてみないと、答えには辿り着けないのに。
ふくらはぎの模様が薄くなる。掌を握りしめ、遠くに聞こえる雨の音すら掻き消すように立ち上がった。今度はジーンズに履き替えて、どこかでずぶ濡れになっている麻里を想って襖に手を伸ばした時。
割れてしまいそうな音と共に、僕の手先から一ミリの距離で襖が勢い良く開かれた。
その衝撃に、荒々しい鼓動が身体中を駆け巡り、肩を強張らせた僕の前には、全身に水を纏った麻里が立っていた。寂しそうに歪ませたその顔は、涙と雨でぐちゃぐちゃだ。おまけに化粧も綺麗に流されてしまっている。
胸の辺りが痛くて、詰まるような声で、麻里、と僕が名を呼ぶより先に、彼女は震えるその身で倒れこんできた。
「何で追い掛けてこないのよバカ!」
強気な声色とは裏腹に、短い髪から滴り落ちそうな水滴さえも震えている。
僕はとうとう堪らなくなって、顎の辺りにある彼女の頭を撫でながら、ごめんな、と呟いた。
ジャケットもジーンズもお気に入りだったけど、それが濡れてしまう事に躊躇いなんて無かった。
水を含んだ服の上から、微かに甘い香りがする麻里の身体を抱き締める。彼女の左肩に顔を乗せ、その脇の下から右手を背中に回して、左腕を小さな頭に巻き付ける。
ほんの少しの隙間も惜しい程に、ピッタリくっついてやった。
「いたいしくるしいよ」
鼻が詰まったような柔らかいその声は、僕の腕の中で確かに笑っていて。気分屋の彼女が、誰よりも可愛い気がした。
そうか。今日は初めからこうすれば良かったのか。
結局、ケンカの原因が何だったのかは思い出せないし、次にケンカした時にもこの方法が通用するのかと言ったら、今までの事を考えるとそうは思えない。
全く。つくづく手を焼かせる女だ。ケンカをする度に、僕はあらゆる手段の中から、その時彼女が望んでいる答えを選び出さなきゃいけないんだから。
まぁいいさ。一度くらいは間違えてみないと、答えには辿りつけないんだし。
ピースは多ければ多いほど良いんだ。ピッタリ繋がった時の喜びも増える。
ピッタリくっついた身体から伝わる彼女の体温があまりに心地良くて、僕の頭の中は、そんな事をずっと繰り返していた。
「畳だとさぁ、雨の日とかジメジメしない?」
風邪をひくといけないからと、シャワーを浴びに行っていた麻里は、戻ってくるなりそう言った。僕が貸したシャツは、やっぱり少し大きくて。袖の所を何度も折っている。
「雨の匂いと混じって懐かしい匂いがするだろ?」
「そう? よくわかんないけど。何でそんなに畳が好きなんだろうね」
首を傾げる彼女に、僕は懲りもせずに畳の上であぐらをかいて、自慢気に答えてやった。
「畳を敷き詰めるとこ見た事あるか? パズルみたいなんだぜ。すごくシンプルなヤツだけど」
カーテンの隙間から、雨上がりの僅かな光が差し込むと、お日様みたいに麻里が笑った。
畳の縫い目に笑い声が染み込んでいく。今日の思い出も刻まれていく。繋ぎ合わさったピースがバラバラにならないように、僕はしっかり胸のパズルに埋め込んだ。
完