第七章 楽団:Pianist&Doll ~Part2~
紫の光彩を、講堂に飾られたヒヤシンスから連想して。薄い唇は高齢によって血色が悪いものの、自然に結ばれた微笑みから性格的な柔和さが、窺える。少しばかりダルさを感じながらも、足を引きずって歩く老婆を前にして仏頂面を構えているほど、俺は素行の悪い人間ではない。
重い扉を開けるシスターを手伝い、走り寄ってきたメイへと彼女を引き渡す。二人が長椅子に座ったのを見てから、俺は二人の前の席へ移動し、背もたれへと腰かけた。
「あらら、お行儀が悪いですよ。ワイセイ。」
「空いてるんだから、席に座りなよ…。」
シスターには窘められ、メイには呆れたような顔をされたが。別に何だっていい。数週間ぶりに出会う、寮母であり俺達の教師でもある彼女へ、早く話を進める様にと促せば、シスターが苦笑交じりに言葉を紡いだ。
「相変わらずですね。でも元気そうで何より。」
「そうですか。」
耳元で響き渡っていた音楽が遠くなる、月より光を賜った憧憬を。ガラスケースに閉じ込められた、橙色の喪失感を。指を透かして見ても漂うのは、目の前に居るドールが持つ創造性が重ねた gliss だけ。
音が消えたことには彼女も気づいたらしい、黄金色の瞳がすっと細められ、ピアニストの楽譜を探す様に視線が揺らいだ。
「二人がいつも通りで良かったわ。実は、次の公演日が決まってね…。」
「いつ頃ですか…?」
メイが不安そうに、俺の様子を見ながら言葉を奏でる。お互いに疲れがたまっていることを悟っているのだろう。灰に朽ちていく香が強くなり、ステンドグラスへ差し込む太陽の光すら、夕焼けに思えた。
「なるべく休暇の期間を延ばしてもらったのだけど…明後日には出発よ。ニューヨークで開催される仮面舞踏会にゲストとして、参加してほしいの。」
俺は立ち上がると、メイの隣へと腰かけた。力無く置かれていた彼女の手にそっと、自分自身の手を重ねる。二人の協奏を披露し、導き合う事は素晴らしく心が拍動する。俺の全身が音楽に、彼女を探り当てるのを感じる。しかし、それとこれとは話が別だ。
「最初に演奏をして、後は二人も舞踏会を楽しんで居ればいいと聞いているわ。恐らく…幾人かには話しかけられると思うけど…。」
「…でしょうね。」
「…。」
黙りこくった少女の方をチラリと見ながら、俺は深々と溜息を付いた。所詮が公演会など、社交の場だ。物珍しさに喋りかけてくる、紳士淑女に笑顔を振りまき、聞きたくもない話を聞く…。普通に行きたくねぇ…。
「仮面舞踏会って事は…私達も、仮面をつけるんですか?」
「付けた方が良いと思うわ、面倒な人には関わりたくないでしょうから。」
いっその事、俺達二人と視認できない程に変装し、仮面も近づきがたいド派手なものにしてやろうかと、鬱々と考えている俺の思考の横で、シスターが集合場所や時間なんかを伝えている。
聞く気力も起きない。後でメイに尋ねれば良いだろうと、適当な事を思案し、俺の精神安定のためにも帰ったら、彼女と一曲演奏でもしようかと考えた所で、シスターが思いもよらないことを言った。
「今回の公演会だけれど。Dollはメイだけじゃなくて、もう一人もサポート的な役割で付けさせることに決まったの。」
「…もう一人、ですか?」
「…今なんつったよ?」
思わず声を荒げてシスターを睨みそうになったが、メイにそっと手を握られて押し黙る。それでも、いささか圧を込めて、言葉を発すれば。シスターは困ったように、俺を見つめた。
「彼女以外は要らないというのでしょう?分かっているわ。あなた達は双子のPartnerだものね…。でも、一緒に演奏しろとまでは言わないわ。」
「…つまり?」
怒気をはらまぬよう抑えてはいるが、あわあわした様子のメイを見ていると限界だ。…多分、どちらかと言うと俺がキレないか心配なんだろうけど。
「基本的には、彼女の社会見学だと思ってくれればいいわ。余裕があればワイセイ。貴方にPianistとして、彼女と演奏して欲しい…。」
「余裕なんてない、無理だ。」
「…分かったわ。でもこれは決まった事だから、申し訳ないけれど。レルクが一緒に行く事だけは許して頂戴。まだPartnerも居ない、不安定な子なのよ…。」
なるほど。まずは経験を積ませてから、Partnerを選別するつもりらしい。現場に慣れさせようという所か…。
「別に付いてくる分には構わない。協奏は絶対にお断りですけどね。メイ、お前もそれでいいか?」
「うん…。」
何か聞きたげな様子…いや、不安なだけか?俺も絶賛ストレスの大波乱なので気持ちはよく分かる。二の腕の辺りをつつくと、むっとした顔で睨んできたので。そこまで思い悩んではさそうだと安心した。
「二人とも承諾してくれて、ありがとう。」
「…そのDollは…レルクだっけ?なんで俺達と一緒に?」
「貴方達だったら、乱暴な扱いをしないでしょう。未成熟なDollを、誰彼構わず任すのは危険だわ…。」
「確かに…。」
DollはPianistにとって、格好の餌となりかねない。事件級の犯罪を犯した奴であれば、さすがに捕まるが。基本的には人権を持たない、彼ら彼女らは、多少痛めつける程度であれば寧ろ、推奨されているくらいだ…。
それゆえに、Doll自体が圧倒的な芸術性を兼ね備えていたとしても、相手のPianistによって、人生は大きく左右されてしまう…。
「もう少しすれば彼女が来るはずよ。少し、お寝坊さんだから遅れてくるかもしれないけれど…。一度会ってみてはどうかしら?」
「分かりました…。」
そんな風に言われたら、俺だって鬼じゃない。黙って背もたれに背を預けて、天井を眺め出した自分を見て、隣にただずむ彼女が小さく微笑んだ。
仄かなユリの香と、再びBGMのように鳴り出す「月の光」。いつの間にか眠りについてしまいそうな、早朝の気配を感じて。俺は埃が煌めく、講堂の空間へ星の一粒をメロディとして、小節を区切ったのだった。