第六章 楽団:Pianist&Doll ~Part1~
朝の静けさを取り込み、美しい花々が色彩を揺らめかせている庭園では、小鳥達が楽しそうに唱を響かせる。春の様相を模した庭園に備え付けられた、音楽の神々が彫刻されている噴水。そこから、ほとばしる水滴は光を受けてキラキラと輝いていた。
まるで一枚の絵画を切り取ったような、最上級の情景。見る者を感嘆させる、素晴らしい庭園が其処には広がっていた。しかし、そんな光景を前にしても、早朝に叩き起こされたことによる眠気は強烈なまでに、俺の瞼を閉じさせようと呻いていた。
「寝ちゃダメ!頑張って講堂までは、歩いてよ。」
「無理…死ぬ。朝から収集とか…俺等は軍人じゃねえんだぞ。」
大理石で造られた薄暗い廊下をふらふらと歩く俺の背中を、立ち止まるなとでも言うようにメイがぐいぐい押してくる。ふわぁっと、大欠伸をしながら寝ぐせがついたままの髪を、申し訳程度に撫でつけていると、シスターの前では欠伸は我慢するように、彼女が注意してきた。
「仕方ないだろ…。俺は眠いんだよ。」
「だからと言って聖職者の前で、大欠伸はないでしょ…。」
PianistそしてDollを、音楽の世界へと導く教師であると共に、生活全般の面倒を見る寮母でもあるシスター。早朝、部屋に備え付けの電話機で、彼女からの呼び出しがあったのだった。
「こんな朝早くなくても良いだろうに…。どうせ、次の公演の話だろ?」
「やっぱり、そうなのかな?」
今までシスターからの呼び出しは、国内外の長期公演もしくは上流階級の貴人に招かれての演奏会の二択だった。どうせ、今回も似たような物だろう。長く伸びた、講堂まで続く静寂の満ちた廊下に、俺達二人の足音だけが響いていた。
この時間は心地よく、彼女と交わす会話は楽しいとさえ感じている。小説の舞台化のように、つつがなく過ぎ去るのは、観客を抹殺したグランドフィナーレ。しかし、メイと過ごせたはずの休日は、きっと今日明日辺りで終わってしまうのだろうと、そう考えた俺は溜息を付いたのだった。
「ようやく到着か…。」
その先が、まるで大聖堂かのように重たい扉を開けると、重低音のオルガンが響き、圧倒される世界観に埋め尽くされそうな、荘厳な音楽が轟いた。全ての音楽家は此処から産まれ、様々な指揮者がクラシック音楽を統べてきた…と言うと大げさだが、教会ともまた違う神聖さを伴った絵画だった。
「シスターさんは…いつもは祈っているけれど。何処に居るんだろう?」
「さあ。取りあえず、椅子に座って待っとけばいいんじゃねえの?」
「うーん…探さなくて大丈夫かな…。」
さすがに睡魔はもう襲ってこないが、シスターを探すほどの気力はない。俺は適当な木製の長椅子に腰かけると、隣に座るように彼女に促した。向こうから来いと言ってきたのだから、俺達が当人をわざわざ探す義理はないだろう。
燃え尽きた蝋燭から立ち上る煙と、透き通ったステンドグラス越しに此方を窺う、聖人達。前方には埋め尽くすほどの極彩色を持つ花々と、誰かの手によって音楽を奏で続ける古びたオルガンが置かれていた。
「Clair de lune(月の光)ドビュッシーの作品ね…。」
「誰が弾いてるのか…まるで、この世に存在する芸術総てを支配下に置いたような腕前だな。」
「うん…。」
このステージに最も必要と言える、強靭な精神力を携えた上で、曲本来の持つ儚さと純真な琥琥珀を散らした世界観。月光に涙を溢さないことへの、青少年が抱いた憧れ。深い胸の内を覗けば、情熱を持って奏でている。
俺が持つ楽章、腕前を持ってしても到底敵わない。もしも、この目の前で繰り広げられる世界観に匹敵するDollが居るのだとしたら…。
「ワイセイくん…?さっきから、ボーっと私の顔を見つめてるけど。」
「あ?…ああ。」
そこまで考えた所で、俺は思考の渦から戻ってきた。彼女の薄い黄金に輝く瞳は、いつもと変わらず俺を見つめている。その事に何故か、ほっと胸をなでおろした。
「もし、涎とか付いてたら。気兼ねなく言ってほしいんだけど…。」
「別に付いてないぞ。」
朝早くから呼び出されたために、結ばないまま波立たせている黒髪に、深い海を連想させる青系統のワンピースを着ていた。全体的に洗練された雰囲気の彼女が、自分の視線一つで身なりを気にする様子を見せる。その事実に、俺は自然と微笑みを浮かべていた。
「え…その笑顔はどういう意味なの?」
「理由なんてない、気にすんな。」
芸術と言う名の、天文学に精通する観測者へ与えられた独占欲。♭に言い換えれば、俺を超える「pianist」など幾らでも存在するのだ。
そんな思考を巡らせている自分に、訝しげな表情を浮かべた彼女が言葉を紡ごうとした、丁度その瞬間。タイミングを見計らったように、扉を開けて老齢なシスターが中へ入ってきた。
「はぁ…さっさと要件だけ聞いて帰るぞ。」
「そうだね…。」
一旦会話は終わりにして、二人して同じ音階の溜息を付く。運命には逆らえないと、シスターを出迎えるべく、俺達は立ち上がったのだった。