第102話 ネージュ
エンヴェルが馬の買取交渉を進めている間、リクレールとヴィクトワーレは飼育員たちと共に恐慌に陥った馬たちを落ち着かせようとしていたが、ここでエスペランサが牧場の隅にいた1頭の馬に着目していた。
『主様、購入する馬のことでございますが、あの個体などどうでしょう』
エスペランサが指し示す先には、先程の騒動の中でも我関せずとばかりに黙々と草を食み続ける黒色の毛並みを持つ馬がいた。
シルランティスほどの風格はないが、比較的体躯の大きな馬で、あちらが激しい「動」の存在であるなら、こちらは究極の「静」の体現者だ。
暴れ馬にも、叫ぶ人間にも、砂煙にも動じず――ひたすら草を食む姿に、リクレールはどこか惹かれるものを感じた。
「トワ姉、僕も気になる馬がいる。あの黒毛の子だ」
「へぇ……あれだけの騒ぎでも動じないなんて、おとなしい馬じゃない。私もいいと思うわ」
リクレールは改めて黒色の馬に近づいてゆっくりと首のあたりを撫でてみる。
馬の方は全く襲い掛かってくる気配はなかったが……一度だけ顔を持ち上げて、目だけリクレールの方を向むと、再び食事に没頭し始めた。
『勧めたわたくしが申し上げるのもなんでございますが、大人しいというより究極のマイペースなだけかもしれませんわ』
「僕もそんな気がしてきた。でも、そこもまた可愛いじゃない。うん、決めた。僕はこの馬にするよ。名前はそうだね……闇夜のような黒と、悠久の時を重ねたような存在感、クロノワールなんてどうかな!」
リクレールは自信満々に名前を発表したが、ヴィクトワーレはというとやや難しい顔をしていた。
「どうだろう……私はその名前はやめた方がいいと思う」
「え……カッコ悪かった?」
「そうじゃないの……ただ、その子は一見すると黒毛馬に見えるけど、葦毛よ。だから、いずれ全身が真っ白になるわ」
「何だって!?」
葦毛というのは、毛色が年齢と共に徐々に白くなっていく馬独特の肌のことだ。
なので、せっかく黒にちなんだ名前を付けても、将来的には名前に合わなくなる可能性が高い。
「よし、だったら名前は「ネージュ《雪》」にしよう。今はまだこの毛色だけど、いずれは雪が降り積もるように白くなっていくと思う」
『わたくしも主様の意見に賛同いたしますわ。単純ながらも、気品を損なわない響きがございます』
「今日から君の名前はネージュだ。よろしくね!」
リクレールはまるで新しい兄弟ができたかのように優しくネージュを撫でてやるが、この馬はやはり無関心に草を食べ続けた。
『せっかく主様が名付けてくださったというのに……まったく、堂々たるマイペースですわ』
ともあれ、牧場主にはネージュを購入する旨を伝えると、彼は喜んで売ってくれた。
意外なことに、ネージュに轡と鞍を取り付けてリクレールがまたがると、彼は草を食むのをやめて素直にリクレールが操る通りに動いた。
乗り心地も比較的よく、操縦性も抜群で、流石は貴族向けの軍用場を育成する牧場だけはあるとリクレールは改めて思ったのだった。
「リクレールも自分の馬を買ったのか! 黒毛か、お前の銀髪と毛並みのコントラストがよく似合ってるぜ!」
「ありがとうございますエンヴェル先輩。けど、この子は葦毛らしくって、少ししたら灰色くなっていくと思います……」
「ほー……よくそんなことがわかるもんだな。俺にはさっぱりだ!」
「エンヴェル先輩はもうその馬の乗り心地を試したんですか?」
「おうよ、こいつは凄いぜ! 速い癖によく曲がる、最高の相棒だ! 試しに王都の門まで競争しようぜっ!」
「あ、ちょっと!」
リクレールの言葉を聞き終わる前に、エンヴェルが馬に拍車をかけると、金色の馬体があっという間に加速してすぐに見えなくなった。
「すご…………あんな速さで疾走されたら、目が回りそう」
遠くなっていくエンヴェルの姿を茫然と眺める主をよそに、ネージュは道端に生えている花をもしゃもしゃと食べていたのであった。




