騒がしい朝のこと
赤いバラの花言葉は愛。確かな愛。僕たちの関係を表している。
今夜の月はブルームーン。楕円の窓から恥ずかしそうにこちらを覗き、僕たちの幸せに嫉妬しているんだ。
「君の瞳に乾杯」
黄金色のグラスを差し出せば、美しく愛らしい君の笑顔が手元にも映される。そして肝心の本人は今、僕の目の前にいる。
少しはにかんで恥じらい、肩をすくめながらグラスを向ける。二つのグラスがぶつかり鳴る音は、まさに祝福の鐘が鳴らされたかのよう。
春風に愛の花びらが舞い、僕と彼女はそれらに包まれた。
「いつも完璧ね。リュンヒン」
彼女はグラスを置きながら言った。華やかなドレスを着ていても所作や声色は控えめに。最初はクスクスと笑っていたが、だんだん可笑しく止まらなくなったようだ。
「でも相変わらずギザね」
「そうかい? 君の前では格好付けたいんだよ」
しかし彼女はそんな僕の発言が意外だったような反応を見せ、またしばらく笑いっぱなしになっている。
「格好良いと思ってやっているの?」
ここまでジェントルマンを決めていた僕でも、さすがに「えっ」と肩の力が抜けた。
「格好良く……ないの?」
愛の花びらが舞い、ブルームーンが見下ろす二人だけのテーブルだ。
シャンパングラスに彼女の名前が書かれている。愛おしく大好きな彼女の笑い声に触発されてか、ラベルから自力で浮かんで剥がれていた。
花びらもだ。下から上へ浮き上がり、星のチリとなって空に帰って行く。
ブルームーンは破れた風船のように流線を描いてどこかへ飛んで行った。グラスの中身はとうに空で、光線を浴びたかのようにグニャグニャになる。
いつまでもいつまでも笑っているだけで、僕の問いかけに何も答えない彼女の様子から、これが夢なんだってことに気付けたわけだ。
フッと意識がどこかに着地する。薄目を開けてみれば、ここは僕の寝室でいつものシーツの上。
カーテンが閉まった薄暗さもよくよく見慣れたもので少し安心感がある。
「はぁ……」
ひどい夢を見たような。でも君に会えて幸せだったような。
複雑な思いがしているけど、とりあえず起き上がって朝の光でも浴びてみようか。
厚手の赤カーテンを開けると早朝の空が広がった。
今日も暑くなりそうだ。それだけ思って僕は早々に支度を始めている。
公務に取り掛かる前に僕は人を待っていた。身支度ができて、朝食も済ませて、また部屋に戻ってきたというのに、ずいぶん時間が掛かっているみたいだ。
愛読書を窓辺で開きながら待っていると、きっとこういう時、気の短い僕の友人は怒り狂うんだろうな、なんて勝手に妄想して微笑したりした。
「リュンヒン様」
ノックと一緒に聞こえたのはバージルの声だ。
「中にいるよ」と伝えれば、扉が開いて身なりの整ったお爺さんが顔を見せる。
「遅くなって申し訳ございません。セシリア様のお誕生日プレゼントの手配が終わりました」
本はパタンと閉じて置き、僕は彼と一緒に向かうことにする。
「遅くなったのには理由があるのかい?」
「ええ。実は配達員が荷馬車をひっくり返してしまいまして……」
城の廊下の真ん中で僕は「ええ!?」と、声を響かせる。
「配達員は大丈夫なのかい!? 馬も大変だったろ?」
「幸い怪我人は出ておらず馬も無事でした。なんでも泥水に車輪がはまったか何かで事故になったそうでございます」
歩きながらバージルには大体の事故の場所を聞いた。その道路はまだ舗装工事が進んでいないということなんだろう。
「分かった。今日の午後に視察に行くって伝えておいてくれる?」
「……は? し、しかしリュンヒン様。午後はオルバノ様とカイロニア王国の食事会に参加しなくては」
焦っているこの執事を「静かに」と言って黙らせる。丁度いい。僕とバージルが歩いていた廊下は父と母の部屋のすぐ近くだ。
間も無くどこかの部屋から男女の声が聞こえてきた。まずは女性の声から。
「いい加減にして頂戴な! こんな大きな贈り物を貰っておいて無関係ですって!? なら一体どこの庶民が女神像の噴水なんて手に入れられるっていうのよ!」
次に男の声。
「私が知るものか! くじ引きか何かで当たったんだろう!? 物流が良くなれば噴水のひとつやふたつ庶民の手にも出回っている!」
「物流の話をしているんじゃないの! あなたがまた忍んで他の女のところに行ったのでしょう、と聞いているの! 話を逸らそうとしないで!」
「そうは言っていなかっただろう!!」……うんぬん。
言わずとも僕の両親の日常だ。また今日も母は、最愛の夫をその場に残して部屋を出て行ったみたい。
「……午後の予定はキャンセルだね」
僕は昨夜の夕食からそんな気配がしていた。
「そうですね。騎兵隊の方にリュンヒン様の視察の件を伝えておきます」
「母はこの後いつも通り中庭で悲観的になる。親友のメイドを向かわせて愚痴らせてあげて」
「かしこまりました」
夫婦喧嘩の仲裁よりも、僕は大事な用事を優先しなくては。
こちらです。と、案内されるのは多目的に使える部屋。扉を開けて入った途端、さまざまな花の香りが僕に襲いかかった。
良質な花束はひとつあれば十分だ。三十個近く部屋の中に閉じ込めておくと、香水のバケモノを生み出すらしい。
「窓を……開け……」
そして夏の乾いた風が通り抜ける。
香りの毒気にやられていたメイド達も正気を取り戻したようだ。
いよいよ僕にとって一大事のイベント準備が始まる。
だがしかし、部屋に入って一巡見回せば答えは決まっていた。
「ダメだね」
馬車をひっくり返してまで用意してもらって何だけど、そこに同情や惰性を挟むことは決して無い。
一例をあげればバラの花束。たとえ世にも珍しい黒バラを世界中からかき集めて束にしてあってもダメだ。
冠も宝石もドレスもぬいぐるみも、噴水だったとしても僕は頷けない。
「どの点がお気に召さないのでしょうか?」
全メイドの不安な表情を代表してバージルが聞いた。でも彼はよく僕のことを分かっている。さすが生まれてからずっと執事で居てくれているだけあった。
だけど今回は逆にそれがいけないんだ。
「セシリアからはサプライズが欲しいと言われているんだ。花も宝石も僕があげそうな品々じゃないか」
そう言うと、全員「確かに」と口から出た。
その後の発言は誰からも出ないみたいだけど。僕も同じで唸るばかり。
来年はセシリアとの正式な結婚式が待っている。そう考えたらこの関係での最後の誕生日プレゼントなんだ。絶対に感動するものにしたい。
とは言え、手紙も歌も送ってしまった。僕から用意できる最高のプレゼントは二人の未来……。
「……新居か」
「リュンヒン様。ご購入済みです」
独り言は聞かれていて、そうか……となる。これ以上の手は正直何も浮かんできそうにない。だったらもはや僕一人で生み出すのは無理だ。
「ちょっと他の人にも聞いてみるよ」
「ああっ、リュンヒン様! この花束たちはいかがしましょうか!」
「ひと束ずつ結婚式場に送ってあげてくれ」
部屋を出ても花の香りは廊下にまで漂った。
これぐらいにささやかな甘い香りなら、僕は深呼吸で吸い込んで鼻歌を歌う。




