第四話:銭湯
前回もご評価、いいね、お気に入り登録どうもありがとうございます!
また、誤字報告の方もありがとうございます。正直、結構見落としたり記述を誤っており、大変助かりました(;'∀')
拙い作者で恐縮ですが、今回も楽しんでいただけましたら幸いです。
ぼくと真水くんが第二副東京市庁舎のダンジョン・冒険者課で、今日のダンジョンでエンカウントした生息域外れのセイレーン達の事を報告し終えて外に出ると、既に傾いていた陽は完全に落ちて、第二副東京は普段とは違うもう一つの顔、夜の歓楽街としての姿を顕わにしていた。
この第二副東京は東京のベッドタウンの一つでありながら、それ自身が大きな歓楽街でもあるという一風変わった特徴を持っている。
その繁栄の歴史は四百年前のダンジョン開口期に遡り、江戸と呼ばれていた頃の東京から締め出された、ヤクザ者をはじめとした後ろ暗い商売をしていた人間が街道の関係で流れ着いて、そのままこの地に根を張ったのが始まりとされている。
そんなルーツを持つ街だからか、第二副東京の夜はある意味日中以上に賑やかだ。煌くライトに行き交う人々、酔いつぶれたサラリーマンを路肩に放り棄てて、更に更にと新しい人間をお酒と暴力と女の人が呑み込んでいく。結果、首都である東京から第二副東京へと流れて来る電車やバスもこの経済活動に釣られる様に途切れる事が無い。けれどその反面、夜間にこの街から出て行く人間が極端に少ないためか、上りの交通網は意外と早く店仕舞いを済ませてしまう傾向があった。つまり、何が言いたいのかというと、
「あ、終電出ちゃった……」
あと数時間で月曜日というこのタイミングで、ぼくはものの見事に帰宅への最終便を逃してしまったのだった。
市庁舎を出た直後の景色に、ふと嫌な予感がしてスマホを開いたぼくの眼に映ったのは、無機質な22:00の文字。電車自体はまだ残ってはいるけれど、仮に乗っても自宅がある第一副東京の前で便はストップしてしまう。そこからタクシーが拾えるかは……運次第かなあ。
「じゃあ、今日は僕の家に泊まってくか?」
どうしたものかと思案していると、横からぼくのスマホを覗き込んだ真水くんがそう言って、コテンと首を傾げた。
「良いの?」
「むしろ、なんでダメだと思うんだよ」
問い返したぼくに、真水くんは苦笑交じりに肩を竦める。
「前にザッさんがうちに泊まりに来てた時の布団とかもまだ残ってるから、寝る時はそれ使ってくれ。下着類とか洗面用具は後でコンビニとかで買ってもらう必要があるけど……」
そう言って、長い指を一つ二つと立てた真水くんが、ふとその動きを止めた。
ブラックオパール色の両目を見開いたその表情は、ぼくの経験上何かまずい事を思い出した時にする顔だった。
「真水くん、何かトラブルでもあったの?」
「うん……」
ぼくが尋ねると、真水くんは気まずそうに頬を掻いた。
「実は、少し前にうちの風呂が壊れちゃったんだよね……」
「あー……」
確か、真水くんの家のお風呂は年代物のバランス釜だったはずだ。
「やっぱ、まずいか?」
「まあ、ねえ」
ダンジョンで思いっきり身体を動かした上に、セイレーンの身体を触った翌日にシャワーも浴びずに出社は流石に……ねえ?
とはいえ、無いものは無い訳で。
(……そういえば)
最悪、水のシャワーで我慢するしかないかと考えていると、ぼくはふとある事を思い出した。
「ねえ、真水くんの家の近くってさ、確か小さな銭湯が無かったっけ?」
「ん? ……あー」
ぼくのうろ覚えの記憶に、真水くんもポンと手を打った。
「そういやあったな。普段家で済ませてっからすっかり忘れてたけど」
どうやら、ぼくの勘違いではなかったらしく、真水くんがコクコクと首肯する。
「そこに行ってみる?」
「そうだな」
ぼくの提案に、真水くんもコクリと同意する。
「僕も流石に今日は水のシャワーは遠慮したいし、たまには良いかもな」
「じゃ、決まりだね」
真水くんがニカッと笑ったのを確かめて、ぼくもパンッと手を打つ。
「お風呂とごはんはどっちを先にしようか?」
「風呂。流石にこの状態でメシは食欲減退も良い所だし」
そう言って、真水くんは汗で染みの出来たYシャツを摘まんで見せてきた。ん、了解。
「じゃあ、下着とかを買って来るから、ちょっと待ってて」
「おっけー」
真水くんがニカッと笑い、手をひらひらと振ったのを確かめて、ぼくは通り沿いにあったコンビニへと足を向けたのだった。
◆
真水くんの家の近所にある銭湯は、今ではドラマや映画などでしか見かける事の無いくらい王道でコテコテの"ザ・銭湯"だった。
唐草色の暖簾を潜ると更に二枚、"男"と"女"と書かれた藍と朱の暖簾があり、まるで、ここだけ第二副東京の喧騒から切り離されて、全く別の時間を生きている様な……そんな印象を受ける湯屋だった。
「ほー……」
真水くんもこの光景が珍しいらしく、所々歯抜けになった古い木製の靴箱の中心で、きょろきょろと狭い玄関口を見回している。
「真水くんも入ったのは初めてなんだっけ?」
「まあな」
コクコクと頷いた真水くんがシャンプーとボディソープの入った洗面器をコツコツと叩く。
「だから、ちょっと楽しみだったんだよな」
「そっか」
「おう」
頷いた真水くんは言葉通りに何処かわくわくとした足取りで、靴箱にスニーカーを入れて木目の浮いた札鍵を抜く。ぼくもその隣に革靴を収めて、同じく"い"と書かれた札鍵を取った。
藍染の暖簾を持ち上げて中に入ると、中央の番台で舟を漕いでいたお爺さんが眠たげな「960円……」という呟きと共に出迎えてきた。
「これでお願いします」
「ん。まいど……」
千円札を渡し、おつりに帰ってきた四枚の十円玉をポケットに入れて脱衣所に踏み入れる。胸程までの高さの小さなロッカーにはバンドのゴムが付いた鍵が刺さっている。
「……って、ちょっと待った」
その内の一つを開いて靴箱の鍵を入れ、服に手を掛けたところで、ぼくはふと手を止めた。
「? どうしたザッさん?」
隣を見ると、Tシャツという軽装だった真水くんが白い上半身を晒して不思議そうにコテンと首を傾げている。
広い脱衣所の中心でポツンと顕わになった真水くんの身体は相変わらず華奢で今にも壊れそうだった。
雪原を思わせる、血色を感じさせない肌に、薄い胸骨に薄っすらと浮いた肋骨。スッと窪んだお腹の中心で縦筋の線を経て綺麗なおへそに繋がっている。
細やかに実った胸元はふにょりと柔らかそう歪み、その先に桜色の蕾が息づいている。
全体的に儚げな日本人形を思わせる体躯に、何故かぼくの良く知る真水くんの所作が不自然なノイズとして宿っているのだった。
「取り合えず、何でこっちに来てるのさ」
一瞬、脳が混乱を来す様なその光景に少し考えつつも、一先ずぼくは一番最初に浮かんだ疑問をぶつけてみた。
「は? 何でって、何が何でだよ?」
ぼくの質問に、真水くんが訝る様にキュッと眉を顰める。えーと……
「こっちは男湯なんだけど?」
「知ってるぜ?」
「……」
「……」
そっか、知ってるのか……、
「一応ぼくは男なんだけど?」
「僕も男だ」
「……」
「……」
まあ、そうなんだけどさ。
(……どうしようか)
確かに、真水くんは真水くんの主張通り間違いなく男の子だし、ぼくの感覚としてもそうなんだけど、如何せん今の身体が身体だ。
(気持ちは分からないでもないんだけどさ……)
いくら身体が女の子になったからといって、即座に喜び勇んで女湯に突っ込めるかって言われたら、また別問題だしね。
自分の身体が男な上で許可を貰ったら、躊躇しないっていう人はそこそこ居るかもしれないけれど、無理矢理女の人の身体にされた上で女湯に入らなければいけないというのはこう、何て言うか、男としての沽券に関わるところがあるよね。
けど、気持ちが分かるからと言ってこのまま真水くんを見逃す訳にもいかないのもまた事実で、多少肉付きが薄く矮躯でも、今の真水くんの身体は間違いなく可愛らしい女の子なのだ。端的に言えば、他の人に見られたら十中八九ぼくの両手が後ろに回ってしまう。
(ただなあ……)
とはいえ、同じ男として真水くんの気持ちも痛い程分かるだけに、腕ずくという手は取りにくい。それに何より、
「む~~~~」
ぼくを見上げて来る真水くんの眼が次第に険しくなっており、明らかにその機嫌が急降下しているのだ。
こういう時の真水くんは意外と面倒臭い性格をしている。普段は何方かと言えば大雑把というか、さっぱりとした性格をしているのに、一度臍を曲げると梃子でも動かない頑固なところがあるからだ。その辺、周囲に流されがちなぼくとでバランスが取れてたのかもしれないけど、こうやって対峙すると中々どうして翻意させるのが難しい。
「真水くん」
「なんだよ、ザッさん」
むすっとした表情の真水くんが桜色の唇を尖らせる。……………、
「バレない様にだけ気をつけてよ?」
結局、色々と考えたぼくは真水くんの心情と比較して、自分の社会生命をベットすることにしたのだった。
「任せろ。ザッさんも僕の男らしさをとくと御覧じろってな!」
「視覚的にはどっからどう見ても女だっつの」
ぼくの突っ込みを前に、ようやく機嫌が直ったらしい真水くんはほんのりと膨らんだ薄い胸を見せ付ける様に張って、小さなおっぱいをふるふると震わせながらケラケラと笑ったのだった。
◆
「おー………」
曇りガラスを開けて、浴室を目の当たりにした真水くんは物珍しそうにクリッとした両目を見開いた。
「マジで映画のセットみたいだな、ザッさん」
「……そうだね」
こっちを振り向いてキラキラと両目を輝かせる真水くんに、ぼくは明後日の方を向いて相槌を打った。
「ザッさん?」
真水くんの声が訝る様に半音低くなる。多分、本人は気付いていないんだろうけど、ぼくからすると冗談抜きで一目瞭然なんだよなあ。
「それ」
一先ず、努めて真水くんの方を向かない様にしながら、ぼくは真水くんの身体を指差す。
雪原か、或いは石膏で出来た色素の薄い白い肌。ほんのりとした膨らみしか持たない胸元と唇同様桜色の頂点。肉薄で少し強く浮いた肋の印影と、真正面からくびれの分かるお腹に、無毛の鼠径部。
さっきは不意打ちと勢いで意識しなかったけど、こうやって改めて隣に立つとこう……ねえ?
「?」
そんな起伏に乏しく、それでいて幼さとは無縁の、自分の身体を見おろした真水くんは一瞬ハテナマークを浮かべる。けれど、直ぐに悪戯を思い付いた顔になり、ニマーッとその口角を持ち上げたのだった。
(あ、これ悪い事を思い付いた顔だ)
「なんだ、ザッさんも僕の身体に興味があったのか? まあ、僕とザッさんの仲だし? 特別にザッさんなら好きなだけ見てもいーんだぜ?」
ぼくの予想は当然ながら当たり、真水くんはそう言って、白いタオルを右肩に掛けたまま、左腰に手を当ててげらげらと豪快に笑う。と、言われてもね。
「仮に見て、反応してもしなくても、色々と男として大ダメージにならない?」
「それはそうだな」
ぼくが疑問を返すと、少し考える顔になった真水くんも同意するところがあったのか、真顔になってコクコクと頷いたのだった。
◆
一先ず、身体が冷えてもいけないしと、ぼくと真水くんは浴室に入りガラス戸を閉める。
中には一直線に並んだ蛇口と、ピラミッド状に重ねられた風呂桶。そして、その奥にはラベンダーか何かの入浴剤が使われているのか、紫色に染まった浴槽と、ブクブクと泡を立てるマッサージ機能付きの湯船が待っていた。
「よし「はい、ストップ」ん?」
先の入り口や脱衣所同様の映画セットの様な光景に、早速喜び勇んで湯船に向かおうとする真水くんの小さな肩を掴んで、その突撃に待ったを掛ける。
「ほら、あれ」
不思議そうに振り返った真水くんに、蒸気で炙られた水色のタイルに貼られて、一枚の白いパネルを指差して見せる。
「浴槽に浸かる前によくからだを洗いましょう……」
読み上げた真水くんに「ね?」と続けると、「そういえば、久しぶり過ぎて忘れてたな」と呟いた真水くんは、コクコクと頷いて一番手近なところにあった蛇口の前に腰を降ろし、肩に掛けていたタオルを鏡の上の電灯に乗せる様に引っ掛けて、銀色の蛇口に手を掛けたのだった。
ぼくも真水くんの隣に座り、同じくタオルを掛けて軽くシャワーの蛇口レバーを捻る。
「ん……」
キュッという音と同時にサーっと溢れ出す熱いお湯。その雫が肌を打つ熱と淡い感触に目を細めていると、たちまち立ち昇った白い湯気がぼくと真水くんとを包み込んでいく。
(ふぅ……)
ぱわぱらと降り注ぐ湯滴に、肌の上から筋肉、そして血管を揉み解される様な感覚。その温かさもあって、ジワリと良くなる血流を指先足先の末端で感じ取りながら、ぼくは少し目を開いた。
見れば、隣では胡坐をかいた真水くんが「わひゃーっ!」と変な声を上げながら、心底楽しそうに自分の黒髪をドバドバとシャンプーまみれにして、わちゃわちゃと手加減なしに泡立てている。
「ふむ……」
ぼくも、そんな真水くんに倣って、持ってきたシャンプーボトルから乳白色の液を搾り出す。
(ふぅ……)
軽く泡立ててから、髪と頭皮に馴染ませるように、指先でゆっくりと頭をマッサージすると、先のシャワーのぬくもりとは別の、じんわりとした快感が広がった。
多少ではあるものの、降りかかったセイレーンの体液と、滲み出た汗とが溶け出し、浮き出ていく感触に、久しぶりの戦闘が思いの外プレッシャーだった事を理解する。
次いで毛髪も洗い終え、一度泡を流すと、もう一度風呂桶にお湯を張って、二度三度と頭を流す。
「……」
「ひゃっはー!!」
軽い洗髪だけでも随分すっきりとしたのを感じながら隣を見ると、真水くんの小さな身体が全身泡に包まれて、もこもこの羊の様になっていた。……そりゃ、あれだけシャンプーぶっかけたらそうなるよね。
何故か妙なテンションになっている真水くんを横に、ぼくは続いてボディソープに手を伸ばす。少し多めに取った石鹸に、軽くお湯を含ませてゆっくりと泡を立てていく。先のシャンプーよりも心持ち固めできめ細かな泡を作り終えたら、それを鼻先から顔に宛がい、丹念にへばり付いた油分とアカとをこそげ落としていく。
やわやわと皮膚が引っ張られて、脂汗が浮いていくのを感じながら、ぼくは丹念に頬首筋と指を走らせる。考えてみれば、最近は割とオフィスと家の行き来ばっかりで、セイレーン討伐の様な激しい運動はおろか、ダンジョン踏破の様な軽い運動すら久し振りの事だった。
(もう少し、運動しなきゃなー……)
以前なら、軽い汗程度で済んでいた様な運動で滲み出た固い脂に内心で苦笑しながら、ぼくが今後の事も考えて、せめてもう少し運動をと思案していると、不意に隣から「よし、終わりっ!」という真水くんの声が浴室中に響いたのだった。
「え?」
その唐突な声に思わず振り向くと、先の言葉は聞き間違いではなかったらしく、もこもこの泡からの脱皮を終えた真水くんが仁王立ちになり、少しだけ血色の良くなった白い肌を晒しながら、ワシャワシャと絞ったタオルで長い髪の水気を拭っていた。
「? どーしたの、ザッさん?」
ぼくの視線に気付いたのか、振り返った真水くんが小首を傾げると、射干玉の黒髪をつつーっと滑り落ちた水滴が、タイルに出来た水溜まりに落ちてピチョンと小さな音を奏でた。
「んー……、何でもないよ?」
「何で疑問形なんだよ」
洗うの早いねって言うのもなんか変かなと思って鏡に向き直ると、隣の真水くんが「変なザッさん」と笑ったのが聞こえた。
その真水くんの言葉に軽く肩を竦めて返して、お湯を含ませたタオルにもう一度ボディソープを垂らす。
「っつぅ……」
そして、軽く泡を立ててから、いつもの習慣通りに左肩に手を伸ばした瞬間、捩った全身に走った痛みに、ぼくは思わず顔を顰めてしまった。
「大丈夫か、ザッさん?」
あまり大きな声を出したつもりは無かったんだけど、隣の真水くんにはしっかりと聞こえていたらしく、全身を拭い終えた真水くんが心配そうに屈んできた。いや、その体勢はまずいって。
「ん、へーき。ってて……」
真水くんに軽く返しながらタオルを滑らせるも、やっぱり走る痛みに難儀して、中々思う様に身体を洗えない。
「ん?」
と、ぼくがタオルの扱いに四苦八苦していると、不意に手に持っていたはずのタオルの感触が無くなり、代わりに背中にヒタリと触れる、柔らかな感触が広がった。
思わず振り返ると、そこにはぼくのタオルを持った真水くんが不機嫌そうな顔で唇を尖らせていた。
「真水くん?」
真水くんのその表情に思わず首を傾げると、ぷくっと頬を膨らませた真水くんが「借りるぜ、ザッさん」と言ったのだった。
「えっと?」
「ったく、筋肉痛が辛いなら言ってくれりゃ背中くらい流すっつの」
困惑するぼくを他所に、ブツブツと響く不服そうな真水くんの声。シャッ……シャッ……と鳴るタオルの音と共に、心地良い摩擦感がぼくの背中に広がった。
「えーっと、ここ最近の運動不足を昔の相棒に知られるのが恥ずかしかったから……とか?」
「なら、それに気付かずに最大出力でぶん回しちゃった僕は純粋なバカじゃん」
そう言って、真水くんがペシペシと後ろから頭を叩いてくる。痛い痛い。
「つーか、僕に隠したってしょうがないじゃんか。ザッさんの現役時代の事、一から十まで全部知ってんだぜ?」
「まあ、確かにそれはその通り」
っていうか、現役の頃って、大学にも一応通ってはいたけど、殆ど真水くんと過ごしてたからねえ。
「僕も次は気を付けるから、ザッさんも無駄に隠すなよ?」
「はいはい」
頷いて肩を竦めると、真水くんも納得したのかうんうんと背中越しの頷き返してきたのだった。
「んー……」
再びシャッ……シャッ……と響いた摩擦音の中で、不意に小さな呟きが漏れ出てきた。
「真水くん?」
振り返ると、ぼくの背中を何故かまじまじと眺めていたらしい真水くんが「ん? ああ」と呟いて、少し身を起こした。
「どうかしたの?」
そんな、見ても面白いものなんて無いと思うんだけど。
「いや、改めて見ると、確かに大分肉が落ちてるなって思ってさ」
「そうだね、体重もそこそこ落ちちゃったし」
「だよな」
ぼくが肩を竦めると、真水くんがコクリと頷く。
「っていうか、こうやって見ると、ザッさんも結構色々変わったよな」
妙に感慨深そうに呟く真水くんに「そう?」と首を傾げると、後ろの真水くんは「おう」と頷いた。
「真水くん程じゃな「よし、その喧嘩買ったぞ」痛い痛い」
ぼくがふざけると、ニィと悪い顔をした真水くんがワザと両手に力を込めてガッシガッシと背中を擦って来る。
「ごめんごめん。悪かったって」
「よし、僕の勝ちだな」
降参したぼくに真水くんが満足気に頷くのを見て、ぼくは軽く肩を竦める。
「……ま、五年も経ってるからね」
そして、改めて真水くんの言葉にそう返すと、真水くんは「それでもさ」と右眉を持ち上げた。
「っていうと?」
「現役時代のザッさんにあった一目で分かるヤバさが、完全になくなってたじゃん」
うん?
「え、ぼくって現役の頃そんな風に思われてたの?」
「あれ? 言ってなかったか?」
「うん、初耳」
これは本気で。
「こう、顔のパーツとかは結構普通というか、そこそこ整ってる感じなのに、表情のせいで滲み出るヤバさがあるっつーか……」
「ええ……」
中々な真水くんの言葉に、ぼくは思わずそう漏らした。
「それ、絶対話盛ってるでしょ」
鏡を見れば、雫と白靄の中に映るのは、何処にでも居る草臥れた雰囲気のやや若いサラリーマン。真水くんの言葉通り、顔のパーツはどこまでも普通で、それ以上の何かがあるって感じではない。
「いや、全然?」
けれど、ぼくの指摘に、真水くんはあっさりと首を横に振る。うーん……?
「ザッさんが就職したって聞いた時、どんなヤクザ企業かって思ったもん」
「マジでか」
本当にそれは知らなかった。
五年ぶりに初めて知った事実に少し驚いていると、「よっ」と言って真水くんが背中越しにシャワーヘッドへと手を伸ばし、キュッと蛇口を捻る。小さくて柔らかな真水くんの身体がぴとりとくっつき、仄かに膨らんだ胸がふにょんと潰れた感触がした。
「もちろん、ぼくはそれを含めて最高の相棒だって思ってるからな?」
シャーとぼくの背中を流しながら、鏡の中の真水くんがそう言って小さく肩を竦める。
「そう?」
「うん。だって、僕の"寄生"を受けて、あんなに平然としてられたのって、ザッさんのヤバさがあったからこそだって思ってるし」
そう言って、再びふにょりとくっついてシャワーを戻した真水くんが頷いた。
「じゃなきゃ、あんな過酷な探索を毎日こなして、ケロッとはしてられないだろ?」
そう言って、ニカッと笑った真水くんに、ぼくは軽く肩を竦めた。まあ、言われてみれば、確かにそうかもしれないかな。
「ってことで、ザッさんは今後も変な遠慮するなよ。僕とザッさんは相棒なんだからさ」
そう言って、ぴしゃりと背中を平手で打ってきた真水くんに、軽く「はいはい」と答えると、真水くんは「じゃ、入ろうぜ」と親指で紫色の湯船を指差したのだった。
◆
「「あ゛ぁ゛~~~~~~~~~~」」
身体を洗い終え、湯船に漬かったぼくと真水くんは、殆ど同時に身を震わせて声を漏らした。
湯船の壁面から噴き出す無数の気泡が、程好い強さで皮膚を叩き、その芯の筋肉の凝りを揉み解していく。
「くっ……はぁ~♪」
両手で掬い上げたお湯で顔を拭っていると、隣の真水くんが手を組んで肩甲骨から肘までをグッと伸ばした。
「こりゃ予想以上だな、ザッさん」
「だねえ」
ほぅ……と満足げに溜め息を吐いて目を細める真水くんに、僕も頷いて両目を瞑る。
風呂は命の洗濯と言うけれど、こうやって久し振りに浴槽に浸かってみると、そう言った人の気持ちも確かによく分かった。
「こんなに気持ちいいと、今まで来なかったのがもったいなかったかもな」
「そうだねえ」
現役で真水くんとコンビを組んでいた頃は一度も来たことが無かったくせに、パーティーを解散して何年もした後になって初めてその良さを知ることになるとはね。
少しだけ巡り合わせに面白さを感じていると、真水くんも同じ意見だったのか、くすくすと楽しげな笑みを漏らしたのだった。
「はぁ……」
「ふぅ……」
再びぼくと真水くんの溜め息が響き、二人同時に弛緩する。ダンジョンで張りつめていた空気が溶け出て、ぼくは無事に地上へと戻ってきたことを遅ればせながらに実感していた。
「本当はあいつとも、もっとこういう事をしたかったんだけどな……」
そんな穏やかな空気の湖面に、ポツリと零れた真水くんの呟きが波紋のように広がった。
「真水くん?」
その声に乗った、意外な程強い憂いと、それ以上の深い悔恨の色に、ぼくは思わず身を起こした。
「……」
見れば、真水くんも自分の口から漏れた言葉に驚いたのか、ブラックオパール色の両目を見開いて、普段より少しだけ色の濃くなった唇を押さえていた。
「「……」」
重なるぼくと真水くんの視線。
本当に、その言葉は意図していないものだったのだろう。思いがけず、心の柔らかなところを晒してしまった真水くんは、ハッとした表情とそれに続く無数の言葉を飲み込み、一言だけ「すまん……」と呟いていつもの様に頬を掻いたのだった。うーん……
「ぼくは別に気にしないけど?」
少し考えたけど、気にする理由がそもそも無いし。
そんな意図を込めて真水くんに伝えると、気まずげに身動ぎした真水くんは、それでも少しだけホッとした様子で頷いて、泡立つお湯の中にざぶりと顔の下半分を沈めてぶくぶくと口から泡を吐いたのだった。
再び広がる沈黙。けれど、さっきの純粋な弛緩とは違う、何処か気まずげなそれは、真水くんの「なあ、ザッさん……」という声が上がるまでの少しの間、続いていた。
ぱちゃりと音を立てて少しだけ顔を上げた真水くんは、少しだけ不安げにおずおずと口を開いた。
「なんだい?」
ぼくはそれに振り返らずに先を促した。
「僕、どうするのが正解だったのかな……」
少し躊躇いがちに言葉を探していた真水くんは、やがて窄む様な口調でポツリとそう呟いたのだった。
「ザッさんとのパーティーを解消してから、あいつとはザッさんと会ったのと同じ冒険者サークルで知り合ったんだ」
「うん」
「こう、滅茶苦茶美人って訳じゃなかったんだけどこう凛としててさ、あー……」
「?」
「後、尻と太腿のラインがムチムチでエロくてさ」
「真水くんはお尻派だもんね」
そういえば。
「おう。その分ザッさんの趣味には掠らなさそうだったけど」
「おっぱい小さかったんだ?」
「まあな」
苦笑交じりに、真水くんが小さな肩を竦める。
「後は家事はちょっと苦手だったんだけど、その分僕も家事とか色々と頑張ったんだよね。無駄遣いとかも止めて貯金もしたし……正直、本気で結婚も視野に入れてたからさ……」
「そっか……」
「うん」
コクリと頷いて、真水くんはまたブクブクと泡風呂に沈んでしまう。
「そうだね……」
そんな真水くんを横目に少しだけ考えるけど、ぼくが思い付く様な事は真水くん自身で考えついているだろう。ただ、強いて真水くんじゃなくてぼくが言えることがあるとしたら……、
「まず、真水くんがどうしていれば彼女さんと破局しなかったかは、ぼくには分からない。真水くんの彼女さんの事を何も知らないからね」
「うん」
「けど、真水くん自身の事はこれでもそれなりに知ってるつもりだから、言わせてもらうけど……多分、今が正解で良いんだと思うよ?」
「え……?」
ぼくが最終的に出した結論を伝えると、真水くんは全く考えていなかったのか、アーモンド形の両目をキョトンとした様に大きく見開いた。
「だって、もし仮に同じ状況になったとして、真水くんは彼女さんの事見捨てられた?」
「それは……」
「無理でしょ?」
口籠る真水くんに、ぼくは半ば以上確信をもって断言する。
「そういう時に、躊躇しないのが真水くんの良い所だからね」
「……その言い方だと、僕が単細胞みたいじゃんか」
ちゃぷりと湯船から顔を上げた真水くんが、ぷくりと頬を膨らませた。普段であれば血色の悪い頬がお湯の熱で少しだけ紅潮している。
「トラップの残留だって事故でしかないし。誰が悪いって訳じゃない以上、真水くんの"たられば"は彼女さんを助けるかどうかに集約されるんだしさ。そう考えると、何も起きなかったみたいな偶然を抜きにすれば、真水くんは彼女さん助けないでいたら絶対に今以上に後悔しているでしょ」
「……」
「それ以上は彼女さんの判断に委ねるしかない部分もあるんだろうけど、少なくとも真水くんにとって出来る限り最高の選択をしたって胸を張って良いんだと思うよ」
例えその結末が不幸であっても、何度考えても同じことをしている以上はね。
「ま、強いて言うなら真水くんのそういう良い所を大切にしてくれる人と付き合いましょうって事くらい?」
助ける、助けないの選択肢の一歩前ってなると、分岐点はそこだよね。
「僕が女になった後まで愛してくれる尻のでかい女とか見た事ねー」
「あはは」
確かに。
「始めからバイの女の人と付き合うとか?」
「それ、相当無茶言ってるって自覚あるか?」
「多少は」
ぼくが頷くと真水くんも調子が戻って来たのか、「コノヤロウ」と笑って立ち上がり、そしてザバザバと波を立てながら飛び掛かって来る。
「あーもう、この際あれだ、ザッさんが女になれよ。そして僕と付き合えって」
「え、絶対に嫌だけど」
「理由は?」
「だって真水くん、おっぱい小さいじゃん」
「はっはっは!」
「痛い痛い」
真水くんの細い腕と薄い胸の奥の胸骨に挟まれた上に、小さな拳をぐりぐりと押し付けられて、ぼくの頭蓋骨が地味に悲鳴を上げる。
そうして騒いでいるうちに、押し付けられた真水くんの薄いお腹からキュゥと時報の様に音が鳴った。
「「あ……」」
「……腹減ったし、そろそろ出るか?」
「そうだね」
真水くんに頷いて、ぼくも泡立つ湯船から立ち上がる。頭に乗せていたタオルを絞ると、湯気を吸ったタオルから、ジャバリと冷たくなったそれが滴り落ちた。
「ところで真水くん」
「あん? なんだよザッさん」
「流石にその見た目で股間にタオルをスパンてするのは止めておかない?」
「えー」
いつもの癖を窘めると、真水くんはやっぱり不服そうに口を尖らせたのだった。
ここまで読んでくださり、どうもありがとうございます。
アドバイス、ご指摘、ご評価、ご感想頂けましたら幸いですm(__)m