第三話:戦闘
前々回に引き続き、前回もご評価、いいね、お気に入り登録どうもありがとうございます!
とても嬉しく、励みになりました!
今回も楽しんでいただけましたら幸いです。
―セイレーンという言葉を耳にしたとき人は何を思い浮かべるだろうか?―
この問への答えは、ダンジョンに携わる人間と携わらない人間では大きく異なるとされている。
日常的にダンジョンに触れることのない人々は概ね美貌の女性、魚の下半身や大きな翼といった特徴を持つ、幻想的なそれを想起するだろう。
しかし、ある程度ダンジョンの深みに触れた人間であれば、想起するのは目の前のこれだ。
そのイメージを大雑把に伝えるのであれば、長い年月を藻の浮いた沼に沈められていたマネキン人形といったところだろうか?
これが本当のセイレーン……という訳ではない。
この異形のモンスターが幻想的な神話生物の名を持つのは、偏に発見当時の命名者のネーミングセンスに依るところが大きいだろう。
いくつかの符合が見られるとはいえ、これに神話の幻獣の名を宛がった人物は中々にイイ性格をしていたのだと思うが、同時にその符合点はセイレーンの危険性を端的に言い表してもいる。
「Ki………Ksi……………」
神話のセイレーンはその美しい歌で船乗り達を誘い海中へと引き摺り込むとされているが、このセイレーンもまた、"歌"と呼称される発声器官から放つ歯軋りのような奇声によって、人間の脳を狂わせる能力を持っているのだ。
しかも、モンスターにしては比較的知能も高いらしく、捕食や防衛といった生存本能的な理由ではなく、純粋な娯楽享楽のために気紛れで他の生物を湖沼に引き摺り込み、その苦しむ様を観察して"楽しむ"という嗜虐的ながらも文化的な生態が一部冒険者によって確認されてもいた。
ある意味で単純に強靭で強大なモンスターよりも遥かに厄介な存在の出現に、ぼくは咄嗟に真水くんを引き寄せると、荷物の類いを残したまま、近くの岩の影に身を隠したのだった。
「……」
そして、改めて岩陰から顔を出す。努めて音を立てないよう慎重に……。
(な、なあ、ザッさん。あれって……)
すると、ぼくの隣でピョコリと顔を出した真水くんが驚いた様子で大粒の両目を見開いた。
(やっぱり、セイレーンだよね?)
どうやらぼくの思い違いではないらしく、現役冒険者である真水くんの目から見ても、あのネチャネチャという音を立てて歩くモンスターは水生の中級モンスターで間違いない様だった。
僅かに困惑を見せる真水くんに、ぼくも同じ見解であることを伝えると、パチリと眼を瞬いた真水くんは「ザッさんもそう思うか」と呟いたのだった。
(あいつらの生息域って、ダンジョン中層以下だよな?)
(五年の間に生息域が大きく変わってない限りはね)
訝る真水くんに肩を竦めると、真水くんは「そんな話があったらもっと大々的にニュースになってるぞ」と口を尖らせた。
(はぐれか?)
(んー、どうだろ?)
ならば群れを追われたのかと首を傾げた真水くんだったけど、それにはぼくの方が首を傾げる。
(遠目だから断言はできないけど、怪我とかをしている様には見えないでしょ? ということは、あのセイレーンははぐれじゃなくて、普通に群れに属している可能性が高いと思うんだよね)
ぼくの見解に同意するところが大きいのか、真水くんも難しい顔をしながら「たしかにな……」と首肯した。
(ってことは斥候か?)
(の、可能性が高いと思うんだけど、そうなるとさっき言った生息域の変化が今まさに現在進行形で起こっているって事になるんだよね)
(……)
(……)
(大事じゃんか)
(だよね)
そこは真水くんの溜息に同意する。
群れを成して定住するモンスターがその拠点を大きく移すのは、モンスターの群れが肥大して生息域がキャパオーバーを起こしたか、より強大なモンスターの移動による玉突き事故が殆どだ。
前者の場合は生態系の異常に繋がり、後者に至っては原因自体が災害そのものレベルの可能性を孕んでいて、どちらにせよ碌でもない状況と言える。
(まあ、今の段階じゃ、あくまで推測でしかないけどね)
そう締めくくり、ぼくは真水くんに「で、どうする?」と判断を委ねる。
(取り合えずダンボウに報告だな)
(ま、妥当だね)
真水くんの至極真っ当な決断に、ぼくも同意する。実際、生態系の調査とかをぼく達だけで行うのは不可能だし、今日は装備の類も上層の探索しか想定していないものだ。そもそも、それはダンジョン・冒険者課の仕事だしね。で、
(その場合、今度は別の問題が出てくるんだよね)
(だよなー)
ぼくの視線を向けると、隣の真水くんが渋い顔になって天を仰いだ。この状況で、ぼくと真水くんの懸念は一致している。
((あれ、他に何匹居るんだろう))
「な?」と口角を持ち上げた真水くんに、「ね」とぼくも同意する。
第二副東京市庁ダンジョン・冒険者課、通称ダンボウはこの第二副東京のダンジョンおよび冒険者の実務的な統括管理を一手に行っている組織の名前だ。その権限はダンジョンの規模や冒険者の数に比例するように広く、そして強い。今回の様な本来の分布とは違う土地に現れたモンスターの調査なんかも当然、そのダンボウ課の管轄になる。
ただ、第二副東京市庁配下の組織である以上、当然ながら設備その他諸々は第二副東京市庁舎内に設置されている。つまり、ぼく達が報告を上げようとした場合、まずダンジョンから出る必要がある。で、目の前には斥候らしきセイレーン。その役割上、周囲への警戒心も強いらしく、頻りに辺りを伺いながらキーキーと喉を鳴らしている。もし、無策に突っ込んだ場合、確実に叫ばれて駆け付けた群れの仲間に取り囲まれるのが目に見えている。
かと言って、このまま息を潜めていて、後から周りに被害が出た場合は真水くんの冒険者としての評判に関わるし、斥候の合図で本隊がやって来てから発見されてしまえば、色んな意味で本末転倒だ。
そこまで思案したところで、ぼくは刀の鯉口を切った。
(仕掛けるんだな)
半ば予想していた様に、そして自身も決心した様に、真水くんが表情を引き締める。
(まあね)
ぼくも頷き返しながら、じっと件のセイレーンとの距離を伺った。
ぱっと見、9~10m。一息で行けるかはギリギリの所だけど、まあやってやれなくもない。
(死体の処理はどうする?)
(どうしようか?)
真水くんの確認にぼくも少し首を傾げた。この奇襲が成功した場合、セイレーンの死体の扱いについて、幾つか選択肢が出てくる。
一つ目は普通に死体を隠して逃げる方法だ。この場合、他のセイレーンが音信不通となった仲間を見付け出すまでの時間が、ぼく達にとっては逃走までの猶予期間となる。
二つ目はセイレーンの死体を切り刻み、なるべく惨たらしく、見せ付ける様に殺す方法。このパターンでは、仲間の惨殺死体に恐怖した後続がそのまま下層へと逃げ帰る可能性が生まれ、後にダンジョン・冒険者課が調査を行う際に時間的猶予が出来ることになる。
但し、これを行った場合、仲間を惨殺されたセイレーンが激昂し、遮二無二襲われる可能性まで生まれるのが難点だ。
最後は前二つの折衷案。あのセイレーンを一息で殺し、物陰に引きずり込んでから死体を切り刻む。多少手間ではあるものの、一つ目と二つ目の良いとこ取りであり、仮にセイレーンの群れが激発しても、逃げる余裕が生まれる。
「妥当なとこで三で良いんじゃね?」
「ぼくの手間は増えるんだけどね」
チラリとこちらを見上げて来る真水くんに肩を竦めると、真水くんは「頼りにしてるぜザッさん」とワザとっぽく言ってけらけらと笑った。
「まあ良いけど……ああ、そういえばもう一つ選択肢があるね」
頷きかけたところで、ふと"第四"の可能性に思い至り、少し動きを止める。
「つーと」
真水くんは想像がつかなかったらしく、不思議そうに小首を傾げた。
「ほら、ぼくが足止めをして、その間に真水くんが逃げっ!?」
話の途中で、真水くんの肘が脇腹に突き刺さった。
「次その提案したら、本気で怒るからな」
「いや、もう怒って「もう一発くらいたいか」うん、ぼくが悪かったよ。ごめんごめん」
小さな身体全体から怒気を発して拳を握った真水くんに、ぼくは直ぐに降参の意を込めて両手を上げる。それを確かめた真水くんは「分かりゃいいんだよ」と言って鼻を鳴らした。
そして、真水くんは小さな手を掲げる様にして、ぼくの顔を両手で掴んできた。
「真水くん?」
大粒の宝石の様な両目に浮かんだ真剣な眼差しに、ぼくは両手で固定された中で少しだけ首を傾げた。
「いつも通り、今まで通り。僕の命、ザッさんに預けるから。……頼んだぜ、ザッさん?」
そう言って、真水くんは五年前と同じ様に、男だった時と変わらない仕草で口角を釣り上げた。
(相変わらずだね、真水くんも)
そんな真水くんの表情を見て、ぼくは少しだけ懐かしい気持ちになった。
真水くんの能力は一度発動してしまえば文字通りぼくに命運を託して一蓮托生となってしまう。
「ん。おっけ」
それ故の第四の選択肢だったけど、この顔をした真水くんはもう引かないだろう。ぼくもこれ以上言うのも少し違うしね。それよりも言う事があるとしたら、
「じゃ、突っ込むけど、準備は良い?」
刀を握っての最後の確認だろう。
「六年前から、ずっと出来っぱなしだぜ」
不敵に笑った真水くんはきっぱりと言い切った。
◆
ぼくが鯉口を切った刀を片手に岩石から半歩下がると、後ろに立った真水くんの小さな掌が羽毛の様にぼくの両肩に降り積もった。
「始めるぜ?」
「ん」
真水くんの声に頷くと、両手に触れられた部分がじんわりと暖かくなり、その温もりが次第に全身に伝播する。
(きた……)
真水くんの"寄生"の前兆。その兆候に目を閉じると、直後に頭皮全体が微細な綿毛か何かでツプツプと刺し回された様な感覚に覆われる。
初めは擽ったい程度でしかなかったはずの感触が次第に鋭さを帯びていき、それは痒みを経て、ついには明確な"痛み"に辿り着く。
しかも、当初はあくまで頭皮の上の話でしかなかった"痛み"は次第に芯を持つようになり、それに伴って徐々に深み―ぼくの頭の中―へと浸透を始める。
「ん……」
そして、その"痛み"は頑丈なカルシウムの層を越えたて骨膜を突き破り、とうとうぼくの脳髄へと滴り落ちる。
本来痛みを感じないはずの脳味噌に、自分と他人の痛覚神経を無理矢理繋ぎ合わせ通電させられた様な痛みが走り、ぼくの中のぼくと他人の中の他人の境界線が無理矢理塗り潰されたような錯覚に陥った。
五年前を最後に久しく忘れていたその感覚が決められたルーティンを終えた頃……ぼくの脳髄からは"痛み"と共に感情という信号がストンと欠落した様に消え失せていたのだった。
(接続完了。……違和感とかは大丈夫か?)
直後、脳の芯で響く真水くんの声。一瞬前までぼくの背中に立っていたはずの真水くんの姿は既に無く、その存在は一片も余すことなく、ぼくの脳へと"寄生"し終えた事を理解する。
「……」
軽く手を握れば、その動きは脳髄で思い描いた仕様に寸分違わず追随する。
(ん。へーき。五年ぶりだけど相変わらず良好だね)
(そうか……)
起動、力、出力。その全てが理性という信号の支配下に置かれた事を確かめて、ぼくは思考だけで返事をする。すると、脳の奥からは何処かほっとした様な真水くんの声が返ってくる。
(じゃ、行くよ?)
頭の中の真水くんに一言だけ断って、ぼくは重心を少しだけ沈める。敵は巨岩の縁から見えるセイレーンが一匹。距離は10。狙いを定めれば、後は真水くんの号令で全てが始まる。
(カウント始めるぜ?)
脳内に真水くんの声が響き、両の眼球がセイレーンの身体を捉える。
(三!)
一瞬辺りを警戒し、何度となく身を翻すセイレーン。
(二!)
その瞬間、無機質で不気味な顔の下、意外に細い頸が顕わになる。
(一!)
その生首一点に目を細めながら、ぼくは爪先分程左足を引く。そして、
(……行ったれザッさん!!)
(ん)
真水くんの発破を皮切りに、ぼくは踏みしめた大地から目の前の巨岩とを蹴り、暗いダンジョンの中へと跳躍したのだった。
(後、7……)
タンッという乾いた音を背中越しに聞きながら、ぼくは自分の身をダンジョンの闇へと溶け込ませる。
(後、5……)
ぼくの跳躍が頂点に達し、その軌道が下降へと切り替わる。暗いダンジョンの闇が迷彩となったのか、はたまた単なる偶然か、獲物であるセイレーンがこちらを振り向いたものの、その視線は上を飛ぶぼくではなく、踏み台にしたばかりの巨岩の方へと向かっていた。
(後、3……)
俄かに警戒心を高めるセイレーン。身を強張らせ、頻りに「Ki、Ki……」と"歌"の引き金に指を掛けているのが見て取れる。
(けれど、もう遅い)
斥候に選ばれたという事は群れの中でも目端が利くか、臆病ということだろう。事実、目の前のセイレーンは先の音から一度として"歌"を唄う態勢を解いていない。だからこそ、その習性には利用するだけの価値が生まれる。
「Kiッ!?」
ぼくが蹴ったばかりの岩石に意識を取られた結果、セイレーンは後1mまで接近したぼくを視界に捉えておきながら、肉体の反応で半歩の遅れを取っていた。
「ふっ」
その半歩の隙に、ぼくは力任せに引き抜いた刀を叩き付ける。
見様見真似の抜刀術。けれど、真水くんの"寄生"によってブーストされた筋肉は、容易く目の前の醜悪なモンスターを絶命させるに足るだけの速度を生み出す。
ぶじゅりと、ぶよぶよの水魔の肉に沈み込む鍛造鋼。押し出された緑色の体液がぶしゅっと吹き出し、べちゃべちゃとぼくの顔を濡らす。ぼくの刀は止まらない。
ガチリと音がして、ゼリーの様な肉とは正反対の、固い背骨に切っ先が食い込む。ぼくの刀は止まらない。
グニッと伸びた脊髄が現れ、セイレーンの骨がゴリッと音を立てて外れる。ぼくの刀は止まらない。
背骨という主柱を失い、継ぎ接ぎほどの意味すら成さなくなった肉と皮がぶちぶちと引き千切れる。ぼくの刀は止まらない。
力任せの抜刀がモンスターの頭を薙ぎ払い、ぐちゃぐちゃになった断面からごぽりと鮮血と消化液が逆流して噴水となった所で、ぼくは振り切った刀を止めたのだった。
「……ふぅ」
べちゃりと音を立てて崩れ落ちるセイレーンの躯。びろんと伸びた首の皮一枚で繋がった頭が転がり、捻じれた筋がミョンとゴムの様にしなった。
「……」
念のため、手に掛けたセイレーンが完全に絶命したのを確かめて、次の作業に取り掛かる。
血振りをくれた刀を一旦鞘に戻して、筋肉を解すために右手を軽く振りながら、殺したセイレーンの脇に手を入れて、ゴプッ……ゴプッ……と体液が零れる死体を引き摺って行く。
言ってしまえば、隠蔽自体は子供騙し程度の意味しかないが、多少知能指数が高くてもモンスターが相手というのがポイントで、基本的に目も鼻も利かないセイレーンにはこの程度でも意外と効果が見込まれる。後は岩陰で死体を刻んでおけば、一段落かな……
(!? 待ったザッさん!! そいつの股になんかあるぞ!!!)
(うん?)
ぼくが次の工程を考えながら作業に取り掛かっていると、前頭葉の奥で真水くんキンッとした悲鳴が響いた。その声に即座に手を放して刀を抜くと、真水くんの言葉の示した先、絶命したセイレーンの股から、一本の紐の様な物が伸びていた。
(……)
その紐の先に繋がれていたのは、人の頭程度の大きさの球体だった。
目を凝らしてみれば、その球体の形状は所々が歪で、その色合いは少しだけ鮮やかながら殺したセイレーンの皮膚とよく似ていた。
ぼくは咄嗟に、その球に向けて切先を突き立てる。……けれど、その球体の運が勝ったのか、ぼくの刺突はほんの僅かに、球体の急所を外してしまっていた様子だった。
「Ki、KIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII!!!!!!」
直後、辺りに響いた金切り音の様な悲鳴。周囲の岩肌に反響を繰り返し、鼓膜どころか辺りの生物そのものを震わせる産声に、ぼくは即座に丸まった異物、セイレーンの胎児を真っ二つに斬捨てたのだった。
「KI」
流石に、二度目の斬撃は耐え切れなかったのだろう。母親と同じくこと切れたセイレーンの赤ん坊だったが、そんな事にかかずらっている余裕は今のぼく達には無くなっていた。
「Ki……」
「KIKI!」
「KI、Siiiiiii……」
「KiiiiIIIIIIIIII!!!!」
ぼくが振り返るのとほぼ同時にダンジョンの奥から響いて来る無数の異音。それは先の胎児の産声に呼応した、群れのセイレーンの声に間違いなかった。
「やっぱり、五年のブランクは大きかったね」
呟く間もなく溢れ出すニチャニチャという不快な粘音。それが無数に折り重なり、巨大な一匹のナメクジがのたくっている様な音を示しながら、ものの数秒もしないうちに幾匹かのセイレーン達が姿を見せる。もちろんそれは巨大な群れのほんの頭でしかなく、次いで頸、胴とが顕わになる様に、幾重ものセイレーンの隊列が折り重なっていく。どうやら、相当数が近くにコロニーを作っていたらしく、その数は一瞬で膨れ上がり、たちまちダンジョンの一通路という血管を梗塞するほどに満ち満ちる。
「ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!」
ニチャニチャ、ピチャピチャという体液が滴り粘液がべたつく音の中でギャッギャ、ゲッゲと猿の様に嘶くセイレーン達。そんなセイレーン達が奏でる不快な輪唱を切り裂く様に、一際鋭く大きな金切り音が通路内に反響した。
「「「「「……」」」」」
その音に、ピタリと大人しくなるセイレーン達。相変わらず続くベチャベチャという粘液の音だけがやけに大きくなる中で、セイレーン達の群れがパカリと割れて、中から一際長い髪と鋭い牙、そして大量の水藻を纏った皺の濃いセイレーンが姿を現したのだった。
(あれが"ボス"かな?)
(だろうな)
ぼくの確認に、脳の奥の真水くんがコクンと頷いたのが分かった。
真打の登場に、俄かに刀を握り直す中、その醜悪な顔をぼく達に向けてきたボスのセイレーンがニチャァと口角を持ち上げた。
「ゲッゲッゲ……」
そして漏れる下水の汚濁の様な鳴き声。通常の野生生物では中々有り得ない、理知的な色を見せるその鳴き声は、矮小かつ群れから外れた人間を心底見下した嘲笑に満ちていた。
(ま、そう見るよね)
実際、目の前のセイレーンからすれば、自分達よりも人数の少ない人間なんて、玩具を兼ねた餌が良い所だろう。
ここで一斉に"歌"を奏で始めれば、たちどころに人間は力を失い、自分達の成すがままになる。多少力の強い人間が居ようとも物の数ではない。自分達の群れが二三匹やられようとも、死ぬのは人間で呑み込むのが自分達だ。
事実として、毎年の様に中層に挑んだ冒険者がセイレーンの玩具となって、肚を膨らませた土左衛門に成り果てているのだから、あのセイレーンの"嗤い"は強ち的外れでもないだろう。
(真水くん)
(おう)
皺と年輪を刻んだ古セイレーンの、経験に裏打ちされた嘲りを前に、ぼくは刀を構えて再び大地を踏みしめる。
「ギギギギギ……!」
そんな、ぼくの姿を前に、そのセイレーンはいよいよもって嗜虐に満ちた笑みを深くする。
―それがどうした―
―たかが一匹の人間の分際で―
―この圧倒的な数の差を見ろ―
―多少群れは傷つくかもしれないが、直に這いつくばるのはお前だ―
―貴様も他の人間と同じ様に、我らの前に這いつくばらせて絶望のまま沼の奥底へと沈めてやる―
内心、どう考えているのかは分からない。というか、セイレーンの知能指数を考えれば、流石にここまで複雑な思考はしていないだろう。ただ、その醜悪な笑みを前にすれば、仮に人間程度の知能を持っていた場合、そんな意図を浮かべているのは簡単に読み取れた。
「ギッ!」
そんなセイレーンのボスが、号令と共にサッ右手を挙げる。その手を合図に、後ろに居たセイレーン達が一斉にガパリと口を開く。閉じていた時のそれに比べてやけに大きく姿を見せる口腔の中で鮫の様なのこぎり歯がギラリと顕わになる。
「ギッ」
そして、振り下ろされる"指揮者"の右腕。それは死刑執行への押印かはたまた振り下ろされるギロチンの刃か……。
「「「「「KIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII!!!!!」」」」」
そんな、群れの"指揮者"の号令を合図に、折り重なったセイレーン達が一斉に"歌"を奏で始めた。
その、脳を揺さぶる彼女らの"歌"が折り重なる様は宛ら聖歌隊による"斉唱"で、その醜悪な化け物による悍ましい"斉唱"は辺りの生物の神経の髄に響き、惑わし、たちどころに自分達へと隷属させて傅かせしめる。
「ギギッ」
そんな、汚濁に満ちた"聖歌"の中心で、"指揮者"である先のセイレーンがニマーッと両口端を持ち上げて、下弦の月を作ったのが見て取れた。その醜悪な白い三日月を前に、ぼくは抜刀をするも一旦刀を下げてじっと直立する。
「ギャッギャギャ」
果たして、ぼくの姿勢を前に、湖面に落ちて悶える飛蝗か蜘蛛の巣に絡めとられた羽虫が力尽きる様を想起でもしたのか、ボスセイレーンが斉唱する他のセイレーンに囲まれながら心底愉し気な声を漏らした。
「ギギャッ!」
そして、再び持ち上げられて水かきの付いた右手。長である"指揮者"の合図に、セイレーン達の"斉唱"が止み、洞窟内を震わせていた"歌"が薄靄の様に掻き消える。
ペチャリ……ペチャリ……と音を立てて、ゆっくりと歩み出る件の"指揮者"。その姿を囲みながら、"指揮者"に良く似た愉悦を浮かべるセイレーン達。これから始まる"宴"を想起してか、逸る気持ちを発散させるかのように、各々がそわそわとした様子で進み出る長の背中に視線を向けている。
ギギャッギギャッと急かす様な音に、一度振り向いた"指揮者"が「ギャッ!」と叫ぶ。その長の声を合図に、再び騒ぎ出したセイレーン。その奇声は先の統率された"斉唱"とは違う、己が欲望に満ちた、狂乱的な絶叫そのものだった。
人で言う所のやんややんやとした歓声の中心で、それが群れのボスの役割なのだろう。ぼくの前に立ったそのセイレーンは、グチャァと音を立てて、その大口と鋭利な歯を顕わにしたのだった。
初めの一口が一番美味しい……なんて、このセイレーン達もそう思っているのかもしれない。
無様で憐れな"はぐれ"人間を捕らえ、気ままに嬲るうちに、次第にそう学習していったのか。その古セイレーンの表情は常に喜悦に満ちていた。そう、
それは宛ら熟れて割れたザクロの様に身体が真っ二つにされたその瞬間まで、一片たりとも変わる事なく……
ベチャリと左右に崩れ落ちた粘性の体液に塗れた肉の塊。その中心を割り、天に向けられた剣の刃先を返しながら、ぼくは両断したセイレーンの"指揮者"の躯を見おろした。
先の"一口"の直前、返していた刃を振り上げて、股間から切り上げた人斬り包丁は思いの外するりとセイレーンの身を魚を三枚におろす様に切り裂いていた。
見れば、セイレーン達は何が起きたのか理解できていないらしく、一様に咆哮のままに口腔を晒し、唯々その場で立ち尽くしている。
(うん、好都合だね)
どうやら、不意打ちにした甲斐があったらしく、群れのセイレーン達の虚を突くことに成功したことに内心で頷きながら、ぼくは一先ず手近なセイレーンに斬り掛かる。
横薙ぎに一閃。一文字に走った軌跡に、スパンッと都合二匹のセイレーンの首が宙を舞う。どうやら、上手く骨と骨の間を走ったらしいことに満足しながら、ぼくは脳内で響いた「ザッさん、右に二匹!」という真水くんの声に従い、身を翻しながら袈裟懸けに一刀を振り下ろした。
「グゲッ!?」
ここでやっと上がったセイレーンの声。これを聞いて、漸く何匹かのセイレーン達が今の状況を理解して慌て始める。と、いっても、慌てたからといって出来ることが変わる訳でもない。腕力そのものは人並みのものしか持たないセイレーンにとって、信頼できる武器など一つしか無いのだ。
「Ki、KIKIKIIIII!!」
「KII!!!!」
「KISI!!!」
真正面に捉えたセイレーンが、大口を開けて"歌"を唄う。それに呼応した他のセイレーンもまた、仲間の姿を真似て三々五々、己の"歌"を囀り始める。
(真水くん)
そんな敵の頸に狙いを定めながら、ぼくは脳の中の真水くんに声を掛ける。
(オッケーザッさん!)
返事は直ぐに飛んできて、両手足の血管に血が巡り、身体が一瞬で脳信号に反応したのを理解する。
「ふっ」
軽く脱力を入れながら振りぬいた、再び横薙ぎの一撃。強く右前へと踏み込みながらのそれは、真水くんによる"コントロール"のお陰もあって、都合四匹のそれを疾走際に際に刎ね飛ばす。
「ゲ、ゲギャッ!?」
「ギギギッ!?」
一旦距離を開けて振り返れば、残されたセイレーン達が俄かに混乱の様相を呈していた。
「悪いけど、ぼくの"ここ"は既に真水くんが居るから、"そういうの"が割って入る隙間は欠片も残ってないんだ」
トントンと額をつつきながら伝えるも、当然言葉が伝わる訳もなく混乱を続けるセイレーンの群れ。ただ、それでも自分達の一番の武器が役に立たない事だけは理解したらしく、じりじりと後退しながら、窮鼠の如く身を屈めてぼくへと鋭い歯を剥き出しにする。
(破れかぶれの突貫……かな?)
(だろうな)
その姿に、セイレーン達の次の一手を仮定すると、脳内の真水くんが相槌を打った。そっか、やっぱりか……。
残されたセイレーンの群れを前にぼくと真水くんの意見が一致し、ぼくは次の段の構えを取る。と、いっても、状況が状況だけに取れる手段は殆ど限られている。そもそも、ぼくと真水くんのコンビでは元々取れる手段が少ないしね。
(筋肉痛とかが怖いから、これ以上はあんまりやりたくなかったんだけどね……)
(贅沢言うなよ。あの赤ん坊に気付くのが遅れた時点で僕達の負けなんだからな)
ぼやくぼくに真水くんが苦笑したのを感じながら、ぼくも軽く肩を竦め返す。ま、確かに現役だった頃のぼく達なら、あの赤ん坊の産声の前に、両断まで出来てただろうからね。……やれやれ。
(本当に鈍っちゃってるね)
我が事ながら。
(でも、生きて帰れたら儲けものだぜ?)
(ま、それはその通り)
一週間コースの筋肉痛も、生きていればこそってね。
(っつー訳で、本気でいくぜ?)
(ん。お願い)
脳内の真水くんに首肯を返すと、直後にドンッという巨大な鼓動にも似た衝撃が全身から四肢へと響き渡る。脊髄から伸びる神経という神経が太い血管の様に脈動し、信号を受け取った筋繊維一本一本がドクリとその命令に呼応をする。
まるで自分という人間が、たんぱく質の膜に内包された巨大な一個の軍隊の様になった奇妙な感覚を、何処か他所事として俯瞰して見ながら、ぼくは全身の筋肉達へと号令を掛ける。
(殺す)
ただシンプルな命令に従い、一歩踏み出す両足の筋繊維束。タンッという軽い音と共に、ぼく達という一匹の軍隊は、混乱するセイレーンの群れの一端へと真直ぐに噛み付いたのだった。
但し、今度の突貫ではセイレーンの群れは劇的な反応を見せた。
元より、自分達にとって最大の武器である"歌"が通用しない中で、この悍ましい水生生物の気は限界まで張り詰めていたのだろう。ほんの少し突けば破裂する様な、膨らみに膨らんだ風船のごときそれは、
「「「「「「「「「「GAIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII!?!?!?」」」」」」」」」」
ぼくの一刀を皮切りに、雪崩を打って逃亡を開始したのだった。
(ザッさん! 右2! 左1!)
(ん)
迎え撃つぼくは、真水くんの声に従い、即座に刀を繰る。
突貫の出鼻を切り裂き、都合三匹の首なし死体を作ると、群れの動きが僅かに鈍った。
「はっ」
その小さな隙に、ぼくは若干の距離を取って、セイレーンの群れを迎撃する態勢に入る。
元より、どんなモンスターが相手であれ、暴走する群れを根絶するのは現実的ではない。単純に群れ相手では撃ち漏らしが出るものだし、それ以上に勢いに呑まれるという理由もある。
けれど、ある程度数を削る事自体は意外と容易だ。こうやって、終始群れの端に纏わりついて、数を削り、無理に相手の包囲に飛び込まない事。いわば至近距離でのヒットアンドアウェイを繰り返すことで、群れというものの動きをある程度コントロールできるからだ。
いくらセイレーンであっても、命は惜しいらしい。まあ、これはある程度知能のあるモンスターなら当然の話ではあるけれど、相応に高い知能指数を持つモンスターでは特にそれが顕著だ。
「GAGI!?」
「KIKIKYA!!」
どういう事かと言うと、目の前のセイレーン達は誰が一番最初にぼくに噛み付くかで小さな諍いを始めたのだった。
こうなって来ると、頭である"指揮者"を失った、唯の沢山いるだけのセイレーンだ。そのいざこざはたちまち大きくなり、先の"斉唱"とは違う、純粋な"混沌"が辺りを満たす。
「……」
その混乱を観察しながら、ぼく達は慎重に次の獲物を吟味する。
この、好機とも言える内ゲバは出来る限り長持ちさせたいのが本音だ。ここで闇雲に斬りかかって、セイレーン達に我に返られるのが一番もったいない。故に、
(ザッさん。左!)
(おっけ)
群れの中で出来たペアやトリオ。その小さなコロニーの中で、塊から大きく逸れたものを狙い、ペアを纏めて切除する。
一組、また一組。こうして殺して回ることで、覚醒を伝播させず、低労力での駆逐に成功する。
「Gi!?」
「KIKA!?」
そして、初めの頃から約半分までに削れ、芯が剥き出しになった群れが、先程と同じく窮鼠の体勢となる。
(……潮時かな?)
その姿を認めながらぼくが首を傾げると、頭蓋の中の真水くんが「だな」と頷いた。
元々、完全な駆逐は無理がある。敵の混乱に漬け込む作戦にも限度があるし、無理をしない範囲でと考えれば最低限の仕事は果たしたはずだ。
「……」
そこまで打ち合わせたところで、ぼくは再び前進を行う。と、いっても、今度の前進は撤退。あくまでも逃げのための歩みだ。
数を半数へと減らし、再び固くなったセイレーンの群れを前に、"芯"ではなく"表皮"を削るように、その右舷を狙って、ぼくは左前へと接敵する。
「……」
努めてゆっくり、強いてゆったり。
重心を落として腰を据え、じっくりと盤面を塗り潰す様な前進に、セイレーンの群れは気色悪い腐蟲を避ける様にグチャリグチャリとその形を歪めて、ぼくと真水くんから逃げ惑う。けれども、多少の摩擦を経て、ぼく達との位置が入れ替わり、ぼくと真水くんが出口側、群れの方がダンジョン下層側へと立つと、無機質なはずのセイレーン達の表情に、にわかに安堵の空気が浮かんだのが見てとれた。
「Gi!!」
それは、撤退への合図だろうか? ほんの数秒前まで、ぼくと接敵していた最前線のセイレーンの声に釣られて、下層側のセイレーンが一匹、また一匹とダンジョン深部へと還って行く。
「……」
その姿を見送るぼくが、直立しつつも斬りかかってくる様子が無いと分かったのか、とうとうセイレーンの中団が丸ごと崩壊の様相を呈する。
ドタドタネチャネチャという水音を残して総崩れとなったセイレーンの群れ。ぼろぼろと歯抜けになった粘性の肉塊の中で、しかし、殿となっていた何匹かのセイレーンが、逃げ去る仲間を背に「キキッ」と威嚇の姿勢を見せてくる。
「ふっ」
その姿に、ぼくは即座に斬首の一刀を見舞った。
別に、敵意を持つことは良い。悪意、或いは害意を懐くのも勝手だ。けれど、勇気を見せられるのは困る。単純にそれで群れが奮い起ちかねないし、ぼく達が撤退に入った瞬間、後ろから切りつけられる可能性も格段に跳ね上がってしまう。
諸々の算段を元に、群れの最後尾でぼくと相対するセイレーンの首を断つと、最後の胆も潰れたセイレーンが、今度こそ一匹残らず脱兎となる。
「……ふぅ」
その姿を見送り、最後の一匹までもが姿を消したのを確かめて、ぼくは漸く肺に溜まった空気を吐き出したのだった。
「さてと……」
粘液まみれになった愛刀の鎬を拭い取り、改めて辺りを見回す。
(何匹くらいやったかな?)
(んー……ざっと三十くらい?)
目測での大雑把な数字を答えると、真水くんが「随分やったな」と少し驚いた様子で呟いた。本当にね。
(怪我とかは大丈夫か? ザッさん)
(外傷は平気。けど、筋肉痛が怖いかなあ)
肩を竦めながら、辺りのセイレーンの死体を一つ一つ確認していく。と、
(あ、一匹見っけ)
散乱した骸の中に、ごそごそと動きを見せるものが一つ。見れば、頸の無いセイレーンの死体の下で、押し潰された一匹のセイレーンが何とか逃げ出そうと藻掻いていたのだった。
(他のセイレーンに押し潰された口かな?)
セイレーンに限らずだけど、モンスターの群れを突き崩すと、時々こういう事が起きる。
こういう取り残しをそのままにすると、背中を向けた瞬間に襲われかねないから、こういう残心というか、点検は忘れないようにしないといけない。
「Gi!?」
もがいていたセイレーンの前に立つと、ぼくを見上げたセイレーンの無機質な目に明確な恐怖が浮かぶ。見た感じ、まだ藻の貼りが薄く、年若いセイレーンの様だった。
「GI、GIAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」
ぼくが刀を大上段に振りかぶった瞬間、セイレーンの口から騒音が響く。
それは、このセイレーンなりの虚勢だったのだろうか? それとも、心底からの恐怖に依る悲鳴だったのだろうか?
「しっ……」
「KIKE……」
断首した今となっては知る由もなかった。……まあ、生きてても興味が湧くかって言われると、また別問題だけどさ。
「これで最後かな?」
「だな!」
首を傾げるぼくの隣で、真水くんの弾んだ声が響いた。見れば、"寄生"を解いたらしく、蹄鉄の入ったブーツでちょんちょんとセイレーンの死体をつついている。
「ザッさんもお疲れ。大丈夫だったか?」
「ん、へーき……ってて」
小首を傾げた真水くんに頷くも、直後に走った痛みに、ぼくは思わず声を漏らす。
「あー、筋肉痛か?」
「うん。っとと、ありがと真水くん」
それを聞いて、気まずそうに寄り添ってきてくれた真水くんにお礼を言って、少しだけ身を預ける。
「すまん、ちょっとやり過ぎた」
「んーん。ぼくも想像以上に鈍ってたからね」
気まずそうに頬を掻く真水くんに、ぼくも肩を竦める。
「ったた……」
直後に走った痛みに思わず声をあげると、クックと笑った真水くんが「じゃ、おあいこだな」と頷いたのだった。
「しかし、まさかこんなリスタートになるなんてねえ……」
「本当にな」
ぼやいたぼくに、真水くんもコクコクと頷く。
「取り合えず、このまま帰ってダンボウに報告だね」
「だな」
頷いた真水くんに支えられながら、ぼく達は改めてダンジョンの改札に足を向ける。
中層から上層に上がってきたセイレーンの群れ。その影響がどう出るか、それはぼくにも真水くんにも、今の時点ではとんと見当がつかなかった。
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