蒸気駆動の義手が刻むは名も無き吸血鬼の墓碑銘
「目を開けていいよ、■■■」
馴染みのある少女の声が聞こえた。
俺は素直に従った。
ずっと目を閉じていたせいか、照明が眩しい。
白くなった視界の中、声の主が微笑んでいた。
長い金髪を三つ編みにして、背中へと垂らしている。
「出来たのか、ディア」
「うん。調整に手間取ってしまったけどね。待ってね、今動かすから」
少女――オブシディアン・ケイト・エドワーズは俺に右手を伸ばしてきた。
彼女は車椅子に座ったままだ。
か細い白い指が、俺の左腕の付け根付近に届く。
ストラップを掴んだと思った次の瞬間には、引っ張っていた。
「おい、いきなり」
俺の制止はそこで止まった。
息を呑んだ。
背中から届く小さな振動は何だ。
いや、頭では分かっている。
背中から腕に装着された超小型式駆動鎧装からだということは。
だが理解と実感は別物だ。
「腕が……動く」
呟き、両の腕を動かす。
もちろん失った腕と同じではない。
俺の視線の先、銀色の金属で覆われた腕がある。
特別な複合金属製の義手だ。
超硬度と精密性を兼ね添えた義手。
剣に代わる俺の武器。
「分かっていると思うけど、稼働時間は短いよ。冷却機関は付いてないからね」
「ああ」
ディアに答えつつ立ち上がる。
自分の声が震えていると分かった。
仕方あるまい。
ようやく手に入れた俺の腕だ。
吸血鬼に復讐を果たすための杭が――ここにある。
「すまない、ディア」
頭を下げた。
彼女には散々世話になったからだ。
両腕を失ってから、全ての身の回りのことをしてもらった。
いくら感謝しても足りない。
「いいよ、そんなことは。これを作る間、姫はずっと君と一緒にいられたもの」
返答しながら、彼女は一つ瞬きした。
黒曜石のような目が、すぅと俺に視線を合わせる。
「行くんだよね、君の目的のために」
「そのつもりだ」
短く答える。
軽く両の腕を構えた。
予想以上に滑らかに動く。
驚きと喜びに駆られ、左拳を空に放った。
ジャブを二発。
思った通りの軌道を描く。
「いい動きだな」
「当然でしょ。君の義手は姫の最高傑作だもの」
「恩に着る」
頷く。
ストラップを噛み、首を捻る。
始動同様、停止もまた滑らかだ。
束の間の動力は消え、俺の義手が止まる。
だらりと下がった義手は重い金属塊に過ぎない。
だが、それでも。
「腕だ。これが俺の腕だ」
ディアは何も言わなかった。
† † †
周囲の喧騒を無視し、真っ直ぐに進む。
人混みを回避する必要は無かった。
俺の姿を見るや、向こうが勝手に避けてくれるからだ。
「おい、あの男」
「吸血鬼に両腕を切断された」
「しばらく見なかったよな」
「しかしあれは何だ? 義手か?」
「あんまりじろじろ見るなよ、可哀想だろ」
小声で話したからといっても配慮にはならない。
感情がかさつき、小さく苛立つ。
その苛立ちを踏みつけながら、俺は歩く。
天井の瓦斯の灯火がゆらりと揺れ、俺の影を揺らめかせる。
すれたようなひなびたような空気が漂っている。
俺にとっては懐かしい、けれどもどこか遠い空気だ。
"よそう、今は余計なことは考えまい"
歩く。
歩きながら、ディアに呼ばれた名を思う。
■■■――俺の昔の名前。
もはや過去のものとなった俺の名前だ。
今の俺は違う。
俺の名はジョン・スミス。
ただの名無しの男に過ぎない。
気が付けば足を止めていた。
憶えのある扉が、俺の前にある。
手を伸ばす代わりに、ドアノブを蹴って開けた。
鍵などかかっているはずもない。
そのまま中に踏み込む。
「おおっと、何だい、やぶからぼうに。ノックくらいしたらどうだい」
「俺にそれを言うか、ゴブレット・ニュートン。今日から騎士団に復帰する。それを告げに来た」
部屋の主の軽口に、一応真面目に答えてやる。
ふむ、とだけ唸り、対面の男は俺と向き合った。
青みを帯びた髪を後ろに撫で付けてから、男――ゴブレットはまた「ふむ」と唸った。
厚ぼったい瞼の奥で、鋭く目が光った。
「その腕、ディアに作ってもらったそうだな。具合は?」
「今のところ良好だ。慣れる必要はあるがな」
「だろうな。いくらお前でも、いきなり義手を振るうのは無理だ」
そう言うと、ゴブレットは天井に目をやった。
両手は頭の後ろに回している。
しばらく待ったが、何も言わない。
焦れて口を開こうとした矢先だった。
「ジョン。三ヶ月待て。これは第七騎士隊隊長としての命令だ」
「三ヶ月? せっかく義手を手にしたのに、三ヶ月も待てというのか」
「そうだ」
有無を言わせない口調だった。
その口調の強さに、俺は反抗する気を失った。
ゴブレットは「お前のためだ、ジョン」と諭してくる。
キィ、と彼が座る椅子が軋んだ。
白っぽい埃が舞い、部屋の薄明かりに消えていく。
「その三ヶ月で、徹底的に義手に慣れろ。新たな重心が加わったんだ。体の使い方も異なる。戦術だって異なる。駆動鎧装の癖だって、お前知らないだろう」
「ディアに教わったが」
一応答えはしたが分かっている。
付け焼き刃の知識では無理だということは。
かつ頭で理解していたとしても、体が馴染んでいない。
俺の気持ちを察したのだろう。
ゴブレットの視線が義手へと向いた。
「習っただけでどうにかなるわけでもあるまい。慣れろ。日常生活を通して、義手をお前の体に馴染ませろ。駆動鎧装を起動させる時も、そうではない時もな。いいな、ジョン・スミス」
「分かった」
ゴブレットに答えながら。
心のどこかで俺は安堵する自分を認めた。
猛る戦闘意欲とは裏腹に、不安が潜んでいたからだ。
だが、それは問うまい。
俺がこの義手に慣れさえすれば、その時は。
インバネスを翻し、ゴブレットに背を向けた。
ここにはもう用は無い。
立ち去ろうとした時、声をかけられた。
「ジョン。お前には期待しているんだ」
「両の腕を無くした男にか?」
わざと自嘲気味に答えた。
ゴブレットは困ったような顔になった。
そのまま、溜め息を一つつく。
「そう卑屈になるなよ」
「事実を述べただけだ。安心しろ、犬死はしない。一匹でも多く、俺は吸血鬼を狩る」
「分かっているさ。無理だけはするなよ」
「無理をしてでも狩るさ。今の俺には」
言葉を切った。
視線を義手へと這わす。
チャキと金属が鳴り、俺の心を震わせた。
「――それしか生きる理由が無いのだからな」
そのまま部屋を出た。
ゴブレットは何か言っただろうか。
それとも何も言わなかっただろうか。
いや、それもどうでもいいことだ。
この決意が鈍ることはない。
ないはずだ。
砂のような想いを噛みながら、一人廊下を歩いた。
そのまま外へ出る。
見上げれば、灰色の雲が垂れ込めていた。
ここドルナクでは大抵こうだ。
蒸気を動力とした産業の発展のおかげで、経済的には潤った。
けれどもその反動がこれだ。
黒い煤が大気中に撒き散らされ、景観を台無しにしている。
上等区画はともかく、貧民街や産業区域はいつもどんよりしている。
視線を下げ、己の横をちらりと見やった。
路地裏の壁には赤銅色のパイプが這い、時折うっすらと白い蒸気を漏らしていた。
ドルナクでは主な動力を蒸気機関で賄っているため、お馴染みの光景だ。
それでも、人の営みはある。
街路を縫いながら、さり気なく辺りに目を配る。
日々の暮らしに澱みながらも、それでも人は生きている。
屋台からは、店主の呼び声が響く。
立ち止まる客がいれば、ここぞと呼び込んでいる。
狭い街路にもかかわらず、子供達が遊んでいる。
小汚い格好ながら、それでも笑顔を見せていた。
「平和、か」
無意識の内に呟いていた。
不意に立ち止まりそうになり、その誘惑を振り切った。
違う。こんなものは平和ではない。
この街のどこかにも、吸血鬼は潜んでいる。
人のふりをして、何食わぬ顔で混じっている。
奴らを狩り尽くさない限り、平和とは言えない。
俺の恨みも晴れはしない。
足を速めかけた時だった。
俺の足元に、ポゥンと丸いものが転がってきた。
小さな赤いゴムボールだ。
転がってきた方へ視線をやる。
五歳前後と思われる少女が立っていた。
顔のあちこちに煤をつけており、粗末な服はところどころ擦り切れていた。
じっとこちらを見ていた。
俺に気が付き、狼狽え、けれどもジリとボールへと近寄る。
ああ、そういうことか。
「返そう。あまり人のいる場所で遊ぶなよ」
左足で無造作にボールを蹴り、少女へ返す。
路面に二度バウンドしてから、ボールは主の掌に収まった。
「ありがとう……」と少女は頭を下げた。
無言で頷き、俺はその場を立ち去った。
小さな声だったなと、ふと思った。
† † †
腕を失うまでは、俺は剣を使っていた。
剣にも剣術にも、正直想うところはある。
もし腕があれば、やはり使いたい。
けれども、その想いが果たされることはない。
無いものをねだっても、俺に益することは無い。
だから止めた。
散々泣き、嘆いた末に、諦めの境地に至った。
――剣を使っていたのは過去の事だ。
自分に言い聞かせながら、俺は左腕を持ち上げる。
左腕の切断個所は、二の腕の半ばあたりだ。
つまり元の腕の名残が少しはある。
そこに義手を装着している。
ディアの作ってくれた最高傑作。
今の俺の腕。
――やるぞ。
首を捻り、口を左腕に近づけた。
義手からは細いストラップが伸びている。
歯で噛み締め、ぐいと引く。
雷電が走り、アクチュエータの動力が灯る。
義手を見ないまま、握り拳を作る。
五指を開く。
まだぎこちなさは残るものの、日々この新しい腕にも慣れてきている。
――俺は、吸血鬼を。
左足を半歩踏み出した。
そのまま左半身の構えを取る。
古い拳闘の型だ。
顔の前で拳を握ると、キシと金属が軋みを上げた。
低い気合いの声が喉から迸る。
この騎士団の訓練場には、俺の他には誰もいない。
夜半過ぎまで残る者など、いるはずもない。
小さくステップインして、まずは右の中段蹴りを。
腰から切るように蹴り、重さを足先へと伝える。
ガードされたと想定し、素早く蹴り足を引く。
着地と同時に、左の蹴り。
今度は下段へ。
ローキックだ。
吸血鬼相手では致命傷にはならないが、体勢は崩せる。
基本的な蹴りには自信がある。腕を失ってから、脚が武器になったからだ。
義手を装備したとはいえ、そこは変わらないだろう。
自分の戦法を再確認する。
と同時に、後方に跳ぶ。
――だが、やはり吸血鬼相手に蹴りだけでは。
闇の中に目をこらす。
仮染めの敵を俺の前に組み上げる。
吸血鬼となった男を想像していく。
年齢は三十歳前後。
体格は中肉中背。
戦技は特に無し。
多少荒ら事には慣れているとしようか。
どこにでもいるタイプだ。
スタンダードな縫合回復型を相手取るなら、これでいい。
傷口を意識することで、吸血鬼は再生能力を発現させる。
いくら最下位の縫合回復型でも、その再生能力は驚異だ。
スタミナも人間とは段違いである。
故に求められるは、一撃の重さ。
あるいは畳み掛けるがごとき連撃。
今の俺が求めるものは前者だ。
義手にその役を担わせる。
物は試しだ。
牽制の左上段蹴りを放つ。
かわされたと想定し、踏み込む。
いきなりの右ストレートを放つ。
義手が唸る。
アクチュエータが吼え、白い蒸気を噴き上げた。
どうか。これなら当たるか。
瞬間の思考を、疑念を振り払う。
左拳を握り、ジャブを二発放り込む。
鋭く小さく速く。
重い金属製の義手だけに、ジャブでも軽くはない。
――上下に散らして、そこから。
体が暖まってきた。
右の下段蹴りを放つ。
踏み込み、左のストレートを放つ。
いいぞ。
吸血鬼といっても、武術の達人は少ない。
これなら当たるはずだ。
だから、だからこそ。
回復力を上回る、最後の一撃が必要だ。
右の義手の機構を動かし、関節をロックする。
五指が揃い、鋭利な凶器と化した。
肘から指先までが金属の杭となった。
決め手として使えるだろう。
背筋を活かし、これを真っ直ぐにぶち込んだ。
闇の中、仮の組み手相手の胸に吸い込まれる。
吸血鬼の急所たる心臓を抉る……いや。
「これでは足りないか」
肩を落とし、俺は駆動鎧装を止めた。
ブシュウ……と白い蒸気を吐きながら、義手がだらりと落ちる。
僅かな残熱に顔をしかめつつ、自分の疑問を整理した。
あの貫手で、果たして心臓まで届くのか?
服が厚手で、そこそこ体格のいい相手だった場合、難しいのではないか?
ならば、普通の貫手では届かないなら。
何か別の工夫、あるいは発想が必要になる。
それさえ思いつけば、殺れる。
† † †
三ヶ月はあっという間に過ぎていった。
もっとも、この間に何も無かったわけではない。
時折吸血鬼は発生し、その度に騎士団から隊員が出動する。
討伐出来ることもあれば、出来ないこともある。
その度に、騎士団に犠牲者も出る。
入団希望者はそれなりにいるが、死亡者も多い。
一般人の犠牲者を減らすために、俺達――銀霊騎士団は戦っているのだ。
故に、常に死と隣り合わせと言われる。
「マッカラムが殺られたってよ」
「いい奴だったのにな、あいつ。今月になってからもう四人目かよ」
「仕方ないさ。覚悟の上だ」
ぽつぽつと、俺の耳にざわめきが届く。
だが心は動かない。軋まない。
同僚の死さえ、今の俺には些細なことに過ぎない。
日常茶飯事としてやり過ごしている。
無言のまま、視線を下へと落とす。
銅製のマグの端を噛み、ぐいともたげた。
こぼれぬように気をつけながら、中の茶を飲む。
手が使えないというのは不便なものだ。
飲み終わり、インバネスの襟元のジッパーへと歯を立てる。
中から財布を取り出し、これも歯で開けて支払いをする。
小銭の感触が口の端に残る。
この味に慣れることはあるのだろうか。
「器用ですね、旦那」
「口と足しか使えなければ、いやでもこうなる」
店主が声をかけてきた。
無愛想に答えながら、席を立った。
騎士団の中にあるパブだ。
酒精で卓はくすんでおり、年季を感じさせた。
こぼれたエールが重なり、この色合いを作ってきたのだろう。
あるいは騎士団の流した血の色合いなのか。
憂鬱な連想を振り払った時だった。
「ジョン、ジョン・スミスはいるか」
「ここにいるが」
パブの入り口の方を見る。
俺の名を呼んだ男が、ぐるりと顔を向けた。
近づき右手の紙を差し出してきた。
「隊長からだ」という言葉に、黙って頷く。
手が使えないため、手近の卓に置いてもらった。
一瞬で内容を読み取る。
「セヴォン区の六番地か。近いな。被害者は?」
「まだ確認されていない。自警団が取り囲んでいるらしいが」
「倒せるわけもなく、膠着状態か」
吸血鬼討伐の任務がついに来た。
この三ヶ月の成果を見せる時が来た。
指示書の最後には、ゴブレットの直筆のサインがある。
最後にそれだけ確かめ、パブを飛び出す。
「また来てくれよ、旦那」という店主の声が遠ざかっていく。
走りながら準備を整える。
口を使って、インバネスを肩口へ回した。
襟元の磁石が噛み合い、カチリと音を立てた。
よし、あとは憎悪だけでいい。
準備など、それだけでいい。
ギリ、と歯を噛み締め、俺はセヴォン区へとひた走った。
ものの十分とかからなかったと思う。
煤混じりの空気に顔をしかめつつ、俺は現場へと向かう。
不法投棄されたゴミを避けながら、可能な限り急ぐ。
時間がかかれば、既に逃走している恐れもある。
そうなれば捜索の必要がある。
だが、今回は二度手間は避けられたようだ。
「間に合ったか」
吸血鬼の所在はすぐに分かった。
人々がひしめいていたからだ。
騎士団の印章を見せ、道を開けてもらう。
断片的に聞こえてくる言葉から、情報を選り分けた。
残念ながら既に被害者は出てしまっているらしい。
そして吸血鬼は一人だけ。
そこまで分かった時、人混みが開けた。
路地の一角が急に広くなっている。
「あんた、その印章。騎士団の」
その場にいた男の一人から声をかけられた。
無言で頷き、見定めた。
身なりから判断するに、自警団の一員らしい。
短槍を構え、路地の隅っこへ向けている。
同じように、他の数人の男も武器を揃えていた。
その時には俺も気がついていた。
建物の壁がぶつかり、路地に影が寄っている。
その暗い空間から、異様な気配が漂ってきた。
ビチャ……と濁った音が滴った。
「く、くふふ。やれやれ、ようやく骨のありそうなのが来たなあ」
影の一部が膨らみ、人影がそこから這い出してきた。
人の形をしているのは分かる。
だが俺を睨む赤い目は人のものではありえない。
土気色の肌も同様だ。
吸血鬼だ、間違いない。
生前は恐らく四十歳手前といったところか。
やや脂肪はついているものの、体格はいい。
焦げ茶色の艶の無い髪を乱し、こちらに数歩近づいてきた。
「ずいぶんと余裕面だな。これから殺されるというのに」
「殺す? 吸血鬼の俺をか、騎士団の兄さん。無理だろ無理。ここは一つ、見なかったことにしてくれよ」
ニィ、と吸血鬼の口の端が上がった。
異様に尖った犬歯が覗き、粘ついた赤いものがそこに糸を引いていた。
その言葉から察するに、逃げようと思えば逃げられたのだろう。
自警団の連中がわらわら寄ってきたため、まともに相手どるのが面倒だったというところか。
傷が回復するとしても、多少時間もかかるしな。
どちらにせよ、俺にこいつを見逃す理由は無い。
「無理な話だな」と吐き捨てた時、視界の端に色調の異なる何かを捉えた。
鮮やかな赤色の丸いものが路地の片隅に転がっている。
あれはボールか。
小さな人間がその横に倒れ伏している。
細い首がありえない方向にねじ曲がっていた。
その視線は焦点が合っていない。
無意識に記憶の糸が手繰り寄せられた。
"返そう。あまり人のいる場所で遊ぶなよ"
"ありがとう……"
ああ、そうか。
あの時の子供だ。
三ヶ月前、ボールを拾い返してやった相手だ。
「……お前が殺ったのか」
「ああ? おう、そうともよ。手近にいる奴なら誰でも良かったのさ。たまたまこのガキが逃げ遅れたから、こいつにしたってわけだ。首にちょいと触れたら折れちまったよ」
そう言って、男は笑った。
得意気な響きにこちらの苛立ちが募る。
「せっかくだからゆっくり血をいただきたかったんだがなあ。そこの連中がディナーの邪魔をしてるってわけだよ。はは、兄ちゃんも邪魔する一人か」
これが吸血鬼だ。
そしてこれが、俺が滅さねばならない敵だ。
「そうか」
「ああ、って、おい」
もはや聞くことは無かった。
擦り切れ傷んだ感情でも、響くものが無いわけでは無い。
無言で間合いを詰める。
インバネスの襟を噛み、磁石留めを捻り外した。
両手が露わになる。
吸血鬼の男が一瞬目を剥いた。
「てめえ、その手は何だ」
答えてやる義理は無かった。
一気に間合いを潰し、足元へと滑り込む。
男は慌てて後退する。
馬鹿め、格好の標的だ。
たわめた膝を一気に伸ばし、右の上段蹴りを見舞う。
革長靴のつま先が弧を描き、横殴りに男のこめかみへと突き刺さった。
鈍い打撲音と共に、男の頭部が揺れる。
それでもまだ倒れはしない。
たたらを踏み、体勢を立て直している。
「ガ、畜生が! てめえ、俺を怒らせてただで済むと思ってんのか!」
「分かりやす過ぎて逆に笑える反応だな」
男が構えた。
それなりにさまになっている。
こめかみからは血が一筋流れている。
だが、構えている間にピタリと止まった。
一瞬では回復しない様子から、相手の格位を見定めた。
「縫合回復型か。ならば一人で事足りる」
「っんだと。はっ、武器も無い奴が!」
「あるさ。丁度いい、初披露といこうか」
恐怖が無いわけではない。
腕を失くしてからは初の吸血鬼戦だ。
だが、恐怖を塗り潰すだけの何かがある。
戦いへの昂ぶりが、吸血鬼への憎悪が、そして――名も知らぬ少女との一瞬のやり取りが、俺に左腕のストラップを噛ませた。
首を捻った時、赤いゴムボールがちらりと見えた。
路傍の記憶が頭を掠めた。
全ての感情と共に、俺は新たな武器を解き放つ。
雷電が流れ、義手に命を吹き込んだ。
疑似神経回路が覚醒する。
小型の油圧ポンプが肉の伸縮を再現する。
背中のアクチュエータが咆哮し、内部で圧縮された蒸気が腕へと流れた。
ジュ、ともジュウウともつかぬ音が響き、白い蒸気が義手の排出孔から吐き出される。
これだ。
これが剣を捨て名を捨てた、今の俺の武器であり全てだ。
両手を上げ、構えの内から相手を捉える。
睨みつける。
男が「それはまさか駆動鎧装……いや、だがそんな小型のものが!?」と呻いていた。
表情からは先程までの傲慢さが消え、微かに怯えが見て取れる。
「杭だ」
「何」
「これがお前らを滅ぼすための――杭だ」
ジャッ、とつま先で地面を噛み、間合いを潰した。
吸血鬼だといっても、この男の戦闘技術は高くはない。
街のごろつきレベルに過ぎないだろう。
ならば過度に恐れることもない。
先制の左ジャブを放つ。
これはガードされるが、男の上体が揺れた。
複合金属製の義手なのだ。
パンチの重さは素手とは段違いだろう。
そのまま次の攻撃へ。
左の下段蹴りを相手の右膝へと叩き下ろす。
斜め上からの一撃に、男が顔を歪めた。
だがまだ落ちない。
右拳を振るい反撃してきた。
「吸血鬼ならではか」
これを右手で払い、そのまま男の左側へと回り込む。
奴の赤い目がこちらを睨む。
縫合回復型とはいえ、人とはタフさが違う。
先程の膝へのダメージも、あらかた回復しているようだ。
右手の指先を揃え貫手とした。
吸血鬼を倒すには、急所への一撃が必要だ。
心臓、脳幹、あるいは首をぶち抜いての大量出血。
一気に意識を刈り取らない限り、奴らは回復能力を発動させる。
故に首筋を狙った。
だが。
「うおっ!?」
「浅いかっ」
身をよじり、間一髪回避された。
腐っても吸血鬼の端くれだ。
自分の急所への警戒は怠っていない。
浅く皮膚を削ったのみだ。
逆にカウンターで、右膝をぶち込んでくる。
これを同じく俺は左膝を上げて受け止める。
自壊もいとわぬ馬鹿力だが、足技ならば俺が上だ。
斜め下からぶつけることで、膝の衝撃を逸らした。
ここから組み技――駄目だ、間が悪い。
一度下がり、息を整える。
"勝てない相手ではない"
回復能力とスタミナは厄介ではある。
それでも総合的な戦闘力は俺の方が上だろう。
仕留めることは可能だ。
問題はただ一つ。
戦い方が制限されるという点だった。
「ちぃ、中々やりやがるな。だがなあ、ちまちまやってちゃ俺は倒せねえぜ」
男がにやりと口元を歪めた。
口の隙間から犬歯を覗かせ、せせら笑う。
嫌悪感は沸くが、言っていることは頷ける。
事実、貫手による出血もほぼ止まりかけていた。
ただの人間と吸血鬼では持久力が違い過ぎる。
粘り強く戦っても無理なのだ。
ダメージは俺だけに蓄積され、やがては負けてしまう。
駆動鎧装の可動時間という制約もある。
ならば、罠を仕掛けるしかない。
左手のガードを下げ、手のひらを上に向ける。
防御はがら空きとなった。
男が戸惑うように首を傾げる。
構わず、くいくいと人さし指を曲げた。
説明するまでもない挑発のポーズだ。
「どうした、来ないのか。たかだか武器も持たぬ人間に殴られ、自分からも仕掛けられないとは情けないな」
義手から僅かに熱を感じる。
もってあと一、二分が限界だ。
乗ってこいと願った。
乗ってくるだろうと予想していた。
俺と吸血鬼の視線が真っ向からぶつかる。
赤い瞳が禍々しい光を放つ。
「はは、馬鹿にしてくれんじゃねえか畜生があ!」
かかった。
一度軽くしゃがんでから、男はこちらへ跳んだ。
腱と筋肉の限界を超えた速度だ。
回復能力がある吸血鬼ならではの、自壊覚悟の特攻だった。
しかし俺はこれを予想していた。
こいつの戦闘経験は浅い。
特別な技が無いなら、一番効果的な攻撃はこれしかない。
その速度も凡そ予想通りだ。
これまでに戦った縫合回復型の範疇を出ない。
"かかった"
大きく振りかぶった構えから、吸血鬼が右拳を振るう。
確かに速度は大したものだ。
突進の勢いを乗せ、破壊力も相当だ。
だが素直過ぎる。
引きつけた上でかわす。
それだけではない。
この防御をそのまま攻撃に繋げてこそ意味がある。
上体を倒れ込ませ、仰け反って右拳をかわす。
鼻先を掠めるギリギリで見極めた。
男の右腕を両手で掴む。
同時に左足を、やや遅れて右足を踏み切った。
仰向けになりながら、敵の右腕を抱えて跳んだ形だ。
視界の隅に、男の間抜け面が映った。
「――浅はかだったな」
全力を込めた一撃だからこそ、動きが硬直する。
だからこそ、この大技を決める隙が生まれる。
相手の右肩の外から左足を回し、勢いのまま巻き付ける。
逃してたまるか。
左膝の裏で男の頭を後頭部からロックした。
一瞬遅れて、その顔面に右膝を斜め下から叩き込む。
グシャッと嫌な音が響く。
鼻が潰れたのは間違いない。
下手したら気道の一部も壊れただろう。
ドロリとした血が飛び散る。
だが、これで終わりじゃない。
これくらいなら自然回復するのが吸血鬼だ。
右膝への衝撃を堪え、俺は上体を全力で左へ捻った。
"ここで決める"
強烈な体の捻りに、男はたまらずうつ伏せに倒れ込む。
「ごあ……」と鈍い呻き声を上げながら、顔面から地面へ激突した。
ブシュ、とまた血が流れる。
口元辺りを切ったのだろう。
いける。
お互い地面にうつ伏せの体勢となっている。
俺は男の右腕をまだ離さない。
倒れ込む時に両手で極め、自分の左脇に抱え込んでいた。
この機会を逃してたまるか。
駆動鎧装の出力を上げると共に、膝で背中を抑えつけた。
身を起こし、間髪入れず一気に絞り上げる。
「おおおおお!」
「ガ、ガハァッ!?」
関節が完璧に決まれば、いくら吸血鬼でもダメージはある。
腱が切れ、筋肉も損傷する。
右肘は破壊した。
右肩の骨も恐らく一部砕けたはずだ。
痛みが限界を超えたのか、男の動きが数瞬止まった。
無防備に背を晒したまま、鈍い視線が地を彷徨う。
俺は右手を振り上げた。
チャンスだ。
「もらう」
右手の関節機構をロックする。
ガキリという鈍い音が響き、指先から肘までが金属の杭と化した。
ヂヂッと雷電が疾駆した。
背中のアクチュエータが、一気に蒸気圧を最高値まで高める。
異常に気がついたのか、男の体がビクンと跳ねた。
全体重をかけ、うつ伏せの相手を左手と膝で地面に押し付けた。
この技で確実に仕留める。
心臓をぶち抜いてやる。
回復の暇など与えん。
「《杭打ち》!」
真下へと打ち込んだ。
ただの貫手ではない。
圧縮蒸気を義手の推進力と化した必殺の一撃だ。
背中、腰の連動に、暴力的な加速度が上乗せされた。
複合金属製の義手は、狙い違わず吸血鬼の背中へと吸い込まれた。
背骨をへし折り、そのまま心臓を貫く。
「カ……!」と濁った叫びが聞こえる。
真っ赤な血が盛大に義手を濡らしていく。
堅い指先に伝わってくるのは、こいつの心臓の感触だ。
元の形が分からぬほどにめちゃくちゃに破壊したのは間違いない。
ゴボ、と男が一塊の血を吐き出す。
「お、おのれ……素手の、騎士にまさか……」
「死ね」
無造作に言い放ち、右手を奴の背中に更に押し込んだ。
それが止めになったのか、男は一度ぶるりと体を震わせた。
そしてそれきり動かなくなった。
右手を引き抜く。
ニの腕にぞっとしない感触が伝わってきた。
粘り気のある血糊を払う。
のろのろと体を起こす。
酷く重く感じるのは、久しぶりの戦闘のせいだろうか。
「済んだ。再銑礼と埋葬については、他の者がやる」
それだけ周囲に言い残し、動かなくなった吸血鬼から離れる。
吸血鬼は自らの名を失うため、墓が無い。
故に特殊な形式でその死は――再びの死と言うべきか――は弔われる。
大きく息を吐き、歩きだす。
来た時と同じく人混みが割れた。
幾人かの視線が俺の義手に注がれた。
チラ、とそちらを見ると慌てて視線を逸らした。
怯えが混じった表情を認め、何とも言えない気持ちになった。
彼らにとっては、俺も人ではない何かに見えるのかもしれない。
血の通わぬ金属の腕を持ち、素手で吸血鬼を屠る。
なるほど、化物と言われても仕方ないだろう。
だが……俺はそれでもいい。
一度だけ振り返った。
あの赤いボールの少女の遺体も回収され、白い布をかけられている。
微かに心に差し込んだ何かに蓋をして、その場を立ち去った。
煤混じりの風がインバネスの裾を揺らした。
† † †
おめでとう。単独で吸血鬼を屠ったんだね。
ああ。この義手のおかげだ。
役に立ったようで良かった。姫も嬉しいよ。
そうか。
それにしても、そうかあ。
蒸気圧縮を用いての貫手なのか。
まったく無茶な攻撃を考えるね。
済まん。
確実に致命傷を与えるには、それしか思いつかなかった。
ううん、いいんだよ。
君の役に立てることが、姫は嬉しいから。
君の復讐心に寄り添うことが、姫の願いだから。
だから心ゆくまで吸血鬼を殺していいよ。
駆動鎧装の整備は姫がやるからね。
恩に着る……ディア。
うん?
俺は。俺の杭は。奴に届くと思うか。
――届くまで止める気も無いんでしょ。
君のそういうところ、姫は好きだよ。
――そうだな。
俺から全てを奪った吸血鬼を殺すまでは、止まれない。
止まるつもりもないが、な。
Here is the end of this story.
And, you will read main story ―― John Smith " a striker of regret".
本編『悔打ちのジョン・スミス』https://ncode.syosetu.com/n4219ef
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