六
* * *
――花の匂いがする。
泥のような思考に沈んでいたレグルスは、穏やかな香りに誘われて顔を上げた。
「……ん」
「あ……ごめんなさい、起こしちゃった?」
「いや。俺、寝てた?」
ぼんやりと窓の外に目をやれば、既に日は落ち、空には半分ほど欠けた月が浮かんでいる。室内に視線を戻すと、古びた手燭を持ち、困り顔で微笑むリンがいた。
「そうなのかなって思ったんだけど、違ったの?」
手燭の上でゆらゆらと揺れる炎を見つめ、レグルスは首を傾げる。
寝ていたつもりはなかったのだが、帰宅していたらしいリンは既にローブを脱いでいて、レグルスの肩にはいつの間にかブランケットがかけられていた。実際、少しうとうとしていたのかもしれない。
向かい側に腰掛けたリンに小声で礼を言い、レグルスは大きく伸びをした。
無理な体勢で眠っていたせいか、体中痛いし胃も重い。
大きく吸い込んだ空気は穏やかな甘さで肺を満たし、身体の強張りがほぐれていく。目覚めに香ったものと同じ、花の香だ。
香りは夢ではなかったのかと、レグルスは目を瞬かせた。
「何の匂いだ?」
「これよ。あなた、なんだか疲れてるみたいだったから……お節介だったかしら」
手燭を軽く持ち上げて見せると、リンは「今日の売れ残りなんだけどね」と笑って付け加えた。
言われてみれば、確かに蝋燭の火の揺らめきに合わせて香りは近づいたり遠ざかったりを繰り返している。
考え事の最中ずっと感じていた重苦しさが、甘い香りに溶けだしていくような心地よさを覚え、レグルスはぼんやりと呟いた。
「……お前、蝋燭に魔法かけた?」
「違うわよ。作るとき、いろいろ練り込んでるだけ。魔法のかかった物なんて外で売るわけにはいかないでしょ。誰かを怖がらせたいわけじゃないんだもの」
ふうん、と吐息交じりに相槌を打って、レグルスは目を伏せる。
それきり何も言わないレグルスを見て、リンは躊躇いがちに問うた。
「納得できない? 家の中で魔法使うときだって、あなたに断ってから試すでしょ。一応、これでも気は遣ってるつもりだったんだけど……」
「……なら、これは?」
首に巻かれた「首輪」を摘み上げ、レグルスは顔をリンに向ける。
ゆっくりと首を振り、リンは落ち着いた様子で答えた。
「それは事故。わたしはあなたが塔にいることも知らなかったし。おまけに、ねずみにキスする人なんて、いると思わないでしょ?」
「……悪かったな、千年に一人の変人で」
寝ぼけてたんだよ、ときまり悪げに頬杖をついたレグルスを見て、リンはふっと笑みをこぼした。
半分ほどに減った蝋燭は、手燭から卓の上に場所を変え、相変わらずゆらゆらと温かな火を揺らしている。
長い息を吐き出して眼を閉じたレグルスは、気怠い気分の赴くまま、再び机に顔を伏せた。様子を窺っていたリンが、控え目に声をかける。
「寝ちゃった?」
「……起きてる」
「眠いならベッド行った方がいいわよ」
「まだ眠くない」
「……お父さま、具合はどうだって?」
レグルスの子供じみた抵抗を笑うでもなく叱るでもなく、リンはそっと問うた。
何となく彼女の顔を見て話せる気がしなくて、レグルスは俯いたまま呟く。
「さあ。でも、憎まれ口叩く元気はあるみたいだった」
「……そう」
リンはホッと表情を和ませたけれど、そんな彼女の様子にレグルスの心中はいよいよ複雑さを増し、すぐにでも詰め寄って真相を問い質したい気持ちと、彼女を信じていたいという気持ちが交互に顔を出す。
父の手紙は極短いものだったけれど、十分すぎるほどに衝撃的だった。
預言者殿にお返ししろというそっけない文面、そして封筒から滑り出てきた二輪の押し花が、閉じた目蓋の裏に浮かぶ。
白茶けた赤っぽい花の方にも、まだ新しそうな鮮やかな青色にも、見覚えがあった。色は違えど、それは確かにアクイレギアの花だったのだ。
リンのことは信じたい。
彼女が生まれたばかりの赤子に訳もなく預言を押し付け、無責任に去っていくとは思えない。
しかし、父の警告もまた、作り話だと一蹴するには真実味のあり過ぎるものだった。
「あのさあ、リン……」
と、話しかけたはいいものの迷いが勝って、レグルスは結局黙り込む。
首を傾げたリンに、何でもないと告げれば、今度は彼女がおずおずと口を開いた。
「あの……わたしね、お城に行こうと思うの」
「……は? 城に行く? お前が?」
意外な言葉にポカンとするレグルスを見て、リンは必死な様子で何度も頷く。
「そっ、そうなの! 王さまのご病気がね、わかんないんだけど、わたしなら治せるかもしれないって聞いて、だから、レグルスも帰って来てって言われてたし、わたしも用事ができたし、旅の間もあなたを守ってあげられるし、ね、一緒に行きましょう?」
息せき切ってそこまで言うと、リンはレグルスの手を引っ手繰るように掴む。
興奮冷めやらぬリンの様子を怪訝そうに見つめつつ、レグルスは首を傾げた。
「行くのはいいけど、何で急に?」
「何でって……あなたのお父さまのことじゃない。それ以外に理由がいるの?」
「いや、頭ん中お花畑かよ。捕まったらどうすんだ。助ける理由がなくても、助けない理由は盛り沢山じゃねえか、お前には」
リンの気持ちも分からないではないけれど、素直に賛成はしかねるというのが本音だった。何かと王にケチを付けたがる宗教界が、「王が魔女の助けを借りた」などという醜聞を放っておくとは思えないのだ。
父は些か不器用で、王にしては義理堅く実直な男だが、だからと言って甘くはない。
魔女への恩と王の立場との二択を迫られ、どちらを捨てるかなど自明だ。善意ばかりで世の中成り立つわけがない。
取り合おうともしないレグルスに、リンはがっかりしたのか、手を膝の上に引っ込めて俯いてしまった。
「……そんな言い方、……」
「え? お、おい……泣くなよ、俺はただ」
「泣かないし! 泣けないし! それに、わかってるわよ、危ないことくらい。でも、お父さまが元気になればあなたも元気が出るんじゃないかって思ったんだもの」
拗ねた声でそう言うと、リンは叱られた子供みたいにしゅんとして肩を落とす。
リンのこの表情が、レグルスは苦手だった。泣かないと分かっていても、大きな瞳が潤むと、苛めたようで気が咎めるのだ。
どう返したものかとリンの言葉を反芻していたレグルスは、はたと目を丸くする。
今、リンは何と言ったか。
父が元気になれば、レグルスも――何だって?
「……まさか、俺が喜ぶと思ったから?」
「……。いいわよもう。迷惑なんでしょ」
くるりと瞳だけを上向けて、リンは口を尖らせた。困ったことに肯定だ。
視線を泳がせ、レグルスは、痒くもないのに頭を掻いた。
「あー。……参ったな」
呟くと同時に、頬に熱が集まるのが分かる。気恥ずかしさとか、気付かなかったことへの申し訳なさとか、その他諸々のいろんな感情がレグルスの胸を行き交う。
今度こそ完全に返す言葉を失って、レグルスは勢いよく机に突っ伏した。
ごちん、と痛そうな音がしたけれど、もう痛みどころではない。
「ど、どうしたの? そんなに嫌? もしかしてお父さまとあんまり仲良くないの?」
「いや、違う。違うんだけど。何て言うか」
はあっと溜息を吐いて、レグルスは片手で口許を覆う。
ふにゃふにゃに緩んだ顔をどう誤魔化そうかといくら考えても、浮かれた脳みそは全く役に立ちそうになかった。
こそばゆい気持ちが運んでくる居心地の悪さが、どうにも嫌いじゃないから、いけないのだ。
こんな顔見られてたまるか、と両手で顔を隠して、レグルスは小声で言った。
「ごめん言い過ぎた。……普通に嬉しい。ありがとな」
「! ほんと? なんだ、よかったあ。余計なこと言っちゃったかと思ったじゃない」
明るい声でそう言ったリンが、パッと笑顔になったのは想像に難くない。
いつでも自分に正直な魔女アクイレギアは、嘘が下手というより、そもそも本心を隠すという選択肢を持たないのかもしれなかった。
しょうもない悪戯や悪巧みはできるのに、こういう時に限って、何もかも駄々漏れなのだ。それがリンの長所だが、心配なところでもある。
青白い顔に照れ笑いを浮かべたリンが、もじもじと指を弄びながら言う。
「わたしね、あなたが、生まれて初めてできたお友だちなの。仲良くなれてよかったと思ってる。だから何かの役に立てるなら嬉しいし……お城に帰っても、いつか契約がなくなっても、わたしのこと忘れないでね」
――随分と懐かれてしまったものだ。
とてもじゃないが御年三桁以上とは思えないその言葉に、レグルスは堪らず噴出した。
こうなると、何だかんだで弱いのはレグルスの方だ。十八年間当たらず触らずの距離感で他人と接してきたからか、馬鹿正直に好意で体当たりされることには未だ慣れない。
大体、隷属契約を反故にするまで、レグルスはリンに逆らえないのだ。何か裏があっての申し出ならば、有無を言わさず従わせればいい。どうにもこの魔女、悪と言うには無駄な部分が多すぎる。
せっかく警告してもらったところだけれど、彼女が「預言者」であっても、何だかどうでもいいような気すらしてきたと言ったら叱られるのだろうか。
笑い過ぎて浮いた涙を拭い、レグルスはやや乱暴にリンの頭を撫でる。
「お前、ほんと面白いなあ」
「おもっ……もう! 急に頭なでないでったら! 心臓に悪いでしょ!」
「良いも悪いも心臓ねえだろお前」
「……た、確かに」
じゃあこういう場合どう表現したらいいのかしら……と、難しい顔で考え始めたリンが可笑しくて、レグルスはまた笑う。リンと出会ってからというもの、笑う機会は確実に増えた。
仲良くなれて良かった、なんて、リンは幼子のようなことを言うけれど、それについてはお互い様だ。父を助けたいと言ってくれる気持ちも勿論だが、何より、真っ直ぐすぎる不器用な好意と、下手くそな友情が、無性に嬉しい。
ありがとう、ともう一度口にすると、リンはくすぐったそうに目を細めて頷いた。




