ひとつぎ[続・ときつぎ] (9)
「たっだいま~!」
インターホンを鳴らすのと同時にタカミが元気良く入ってきた。朝食後に軽く掃除していたところだった。
「百合華は?まだ寝てるの?」
俺の部屋のドアをそーっと開けながらタカミは聞いた。
「帰ったよ。当てが外れたか?」
「そっか、帰ったのか。じゃっ」
タカミに続いて部屋に入った俺を振り向き、抱き付いて熱いキスをしてきた。そのままベッドに誘われた。
「いきなりかよ。朝メシは食ったのか?」
「うん、幾多クン家から歩いてファミレス行って、現地解散よ」
明るく答えながら俺の服を脱がす。俺もタカミにキスしながら服を脱がせる。
「いきなりって事は昨夜は出来なかったのか?」
多少の期待も込めて聞いてみた。未経験だと初めは上手く出来ないものだ。突入前に暴発した、なんて事は良く有る話だ。
「ううん、したよ。彼は満足したみたいだけど私が中途半端だったから悶々としてたの。ワタルもその気って事は百合華としなかったのね。でもチューくらいはしたでしょ?少しくらい触った?それでムラムラしたままなのね」
「話は後だ!」
お互い下着姿にまで脱がせ終わって、タカミをベッドに押し倒した。
「あん、優しくしてね」
「何を今さら」
自分でもいつもよりちょっと乱暴なのは分かっている。百合華を触ってはいなかったが若い体が欲望を溜め込むには十分な刺激だった。夕べこのタカミのカラダを中途半端に弄んだ男への嫉妬心かもしれない。もしタカミが俺の嫉妬心を煽る目的で幾多とかいうヤツの好意を受け入れたのなら、そいつに少しだけ同情してあげたい気持ちになりそうだ。そしてタカミも自分自身の百合華に対するジェラシーをエネルギーに変換しているのなら、まるで普通では満足できない倦怠期のカップルみたいだ。
お互いの中途半端に溜まった欲望を解消して賢者の時間を荒い息の中で過ごしていた。日曜のまだ午前中、外には小さい子供も居るかもしれないのに、多少は気を使ったとは言え妖しい声を出していた事を反省していた。
「でっ、夕べは何時頃まで百合華は居たの?」
「時間的には夕方、もう暗くなってたから家まで送らされたよ。百合華のBプランにまんまと乗せられて晩ご飯をご馳走になって夜遅くに帰ってきたよ。あのプランはお前と一緒に考えたのか?」
「ううん、百合華に聞いた?たぶんワタルは落ちないから別角度からの戦略も考えておいた方が良いよってアドバイスしたけど、そんなプランだったのね」
「タカミはここに初めて来た時どんなだった?」
「ん?どんなって?」
「つまり、亘クンの親と初めて会って歓迎されたんだろ?どんな風に感じたの?」
「そうね、私、物心付いてすぐに母子家庭になったでしょ?今思うとそれなりに楽しかった。反抗期の時期はあまり話さなかったし、お母さんも忙しくて殺伐としてた。両親が普通に揃って居て家族の団欒を初めて味合わせてもらって、温かくてフッと気が緩んだね。こっちに来てからずっと気が張ってたからガチガチに凍ってた氷が溶かされるような感じだったな。感動って言えるのかな、ちょっと泣いちゃった」
上を向いて天井の先の空を見るような目でタカミは回顧した。
「ワタルも百合華ん家に行って感動しちゃったの?」
俺の方を向き直って優しい目でタカミは訊いた。
「俺もそうだけど亘クンがそんな感じだったよ。俺はもう一つ、弟の事を思い出してた。あいつも娘一人だから百合華の所みたいに幸せな家庭であって欲しいって思ったよ」
「そっか、今頃どうしてるんだろうね。ワタルの弟さんも、私のお母さんも。ま、考えたって仕方が無いよね」
タカミのお母さんの事はあっちの百合華、姐さんとしか呼んでなかったけど、彼女が帰りを待っていてくれているだろう。
「それで、百合華はどうするの?」
「どうすればいい?って訊いてもお前の答えは分かってるからな。ホントに期間限定で百合華は納得できるのかな?百合華のお父さんからも許可は出てる、っていうか`それで頼む´みたいな事言われたよ。なんか俺の事なんだけどみんなでよってたかって軌道修正されてる気分だよ」
「いいじゃない、それに乗っかっちゃえば。ワタルの大きな愛を4人でシェアするのよ。ちょっと違うか。真奈さんと琴乃さんにとってはワタルは二番手だけど、私と百合華にとってはワタルが一番よ」
「お前にとって俺が一番で幾多が二番手か?」
「敵意が丸出しだよ。一応年上なのに呼び捨てって。そうそう、保の初体験の顛末教えてあげる」
あまり聞きたくはないし、敵意は有っても恐らく他人に聞かせたくない恥ずかしいプライバシーだろうからタカミにベラベラ喋られたくないだろう。でもタカミを中途半端に悶々とさせた行為に少しだけ興味が有った。
「もうホントにド緊張よ。エッチなDVD見て予習したんだろうけど、女の裸をナマで見るのは初めてみたいで震えてたの。恐る恐る触ったりするもんだからくすぐったくて仕方なかったよ。私からちょっとしてあげたら呆気なく暴発。あっ、誰かさんもそうだったかな?」
「その記憶は封印しろ!」
「フフッ、まあそれからは落ち着いたみたいで予習したテクニックに走るから私がリードしてあげて、装着の仕方を教えてあげて、いよいよってなって私がちょっと良くなってきたらハイッ終了。点数を付けるとしたら20点ね」
「厳しいな。男としては同情するよ。初めから上手くいくワケないからな。ちなみに俺の点数は?」
「200点、と言いたいところだけど何点付けてもマイナス1点が付くよ」
「そのこころは?」
「極薄の物が間に挟まってる」
俺に覆い被さりながらキスしてきた。
「それは今夜に取っておこう。お昼食べてお前がバイト行って、帰ってきてからたっぷり199点で愛し合おう」
起き上がって下着を着けた。
「もう!そんな事言ったらまた悶々としちゃうじゃない!」
タカミが冬休みに入ったら半同棲生活を目論んでいたが、バイトが忙しくなりそうだ。クリスマスもサービス業だから関係ない。あっちのカレシとのデートもするだろうし、そんなに一緒には過ごせない。当分は少ない会える時間を充実させたい。
タカミと愛し合った2日後の火曜日、夕方家に帰ると玄関の所に女の人が立っているのが見えた。(誰だろう?)と早足で近付くとメガネを掛けた琴乃さんだった。久しぶりですぐには分からなかった。
「琴乃さん、どうしたの?」
「えへ、来ちゃった」
両手にコンビニの袋を持ってはにかんだように笑った。
「`来ちゃった´って、ずっと待ってたの?真奈さんの所に来れば良かったのに。寒いだろ、とりあえず中に入ろう」
家に入り、急いで暖房を点けた。
「ワタル、会いたかったよ~」
荷物をテーブルの上に置いて俺に抱きついてきた。
「どうしたの?何か有った?カレシと喧嘩でもしたの?」
琴乃さんは俺の胸におでこを擦り付けるように首を振った。
「そんなんじゃないの。ワタル、私を捨てないで!」
涙を浮かべた目で俺を見上げ、キスをせがんだ。それに応えると更に強く俺を抱き締めた。髪を撫でるとひんやりしていた。
「どういうこと?とりあえずお風呂に入って温まる?」
「タカミと真奈さんに聞いたよ。新しい人がハーレムに入るんだって?タカミはワタルとは別にカレシが出来て、それでもワタルとちゃんと付き合ってて、真奈さんは同じ所で仕事してていつでも出来るけど、私はワタルとはご無沙汰だから新しいコ入れて私を外すんじゃないの?」
「どういう風に聞いたかは知らないけど、そんなんじゃないよ。琴乃さんの事は大好きだから、カレシとうまくいってるのならそれで良いって思って・・・」
「違う!カレの事は大好きだけど、同じくらいワタルを愛してるの!長いこと会いに来なくてごめんなさい。これからはちゃんと会いに来るから、だからお願い、タカミや真奈さんや新しいコを愛するように私と居る時は私を愛して!」
さっきよりも激しいキスをしてきた。
「今日はいいの?」
一旦唇を離して確認した。いつも琴乃さんが来る時はアリバイの共犯関係のタカミから事前に連絡が有るのだが今日は何も聞いてない。
「カレにはタカミん家に泊まるって言ってあるよ。タカミにはさっきメールしといた。お弁当買ってきたんだけど、その前にお願い。初めての時みたいに普通にされたい」
「分かったよ。じゃあまず一緒にお風呂に入ろう。お風呂の中でもいいか?」
「うん、じゃあ脱がせて」
ついさっきまでとはうってかわって笑顔で上着を脱いだ。
「ちょっと胸、大きくなった?」
久しぶりに見る琴乃さんの裸体は微妙に変わっていた。
「分かる?さすがね。ちょっとは色っぽくなったでしょ?カレがね、一生懸命揉んでくれるの。私も努力してるよ。もうちょっとオンナのカラダになってからワタルに見せようと思ってたけど緊急事態だったからね。あっ、するときは『ワタルさん』だったよね。さあ、ワタルさん、このカラダを好きにしなさい」
「Sっ気が強くなってないか?」
風呂場で温まるどころかのぼせそうになってしまう。
琴乃さんの反応も俺の記憶とは少し違ってきていた。カレシと相当しているのだろう。俺にその資格は無いことは分かっているけど少しジェラシーを感じる。
「じゃあ琴乃さんは新メンバーを加えるのは良いんだね?」
「うん、いいよ。私と居る時は私を愛してくれるならね。ワタルは?まだ迷ってるって聞いたけど」
「ああ、迷ってるよ。俺なんかが百合華の人生の大事な部分に関わって良いのかなってね」
琴乃さんが買ってきてくれた弁当を食べて、今は2人とも裸でベッドに入っている。眠る前のピロートークタイム。
「相変わらずね。周りがみんな賛成してるのに1人だけ反対してるみたい。女子としてはその百合華ちゃんを応援したいな。タカミに大体の事は聞いたけどカワイイじゃない。彼女の初恋を受け入れてあげなさい」
「初めて年上らしい助言を聞いたな」
「言ったでしょ?ワタルに対して年相応の話ができる女になるって。これからは上から目線でものを言うよ」
「でもベッドでは?」
「何でもします。ワタルさん」
「よし、じゃあ・・」
「もう一回?」
「止めとくか?」
「イジワル。でもそんなワタルが好き」
この週末もタカミは俺と一晩過ごして翌日はバイトの後デートでそのまま泊まりになるそうだ。この先もこういうのが続くのかと思うと気が滅入る。あっちも同じ学生で時間があるのだから平日に会えばいいと思うし、タカミを見習ってバイトでもすればいいのにと思う。もう一人の学生の百合華はまた以前のように俺に日記のようなメールを送ってくるようになった。俺との関係が一歩進んだような形になって少し落ち着いたせいか、誘うような自撮り写真を送ってこなくなった。その百合華から週末のランチの誘いが来た。また百合華の家で、今度は彼女が作るそうだ。彼女の両親からも歓迎されているし、何より俺自身があの一家団欒の雰囲気を味わいたくて快く受けることにした。いくらなんでも昼間から妖しい空気にはならないだろう。それに許されているとは言え親が居る所の上の部屋でそんな事はできない。前の晩にタカミと愛し合うのだから欲望が暴発する事も無い。いずれそうなるかも知れないけどまだ踏ん切りがつかない。琴乃さんに受け入れるように言われたけど、できるだけ先伸ばしにしたい。どうすればいいか真奈さんに相談してみた。
「私にはワタルの考えが理解できないわ。下品な言い方をすれば、綺麗で可愛くてスタイルもいいオンナが股広げて待ってるんだからヤっちゃえばいいのよ」
「本当に下品だな。大体、真奈さんは百合華のメンバー入りに積極的だよな?俺はそっちが理解できないよ。例えタカミが他にオトコ作ったとしても」
「真面目な話するわよ。ワタルは『時間軸を移動してきた事』を知ってる私とタカミと琴乃ちゃん以外とはほとんど話してないでしょ?ここで暮らしていくんだからもっとノーマルの人と話さないと駄目よ。外国語を喋れるようになるには外国人と付き合えばいいって言うじゃない。それと同じよ」
言われて俺も気が付いた。俺が秘密を知らない百合華を受け入れたくないのはそんな面も心の中にあったかもしれない。
「ホントは楓ちゃんが良かったんだけど、あのコはワタルのお陰で自分の目標を見つけてそこに向かって行ってるからね。まああのコも将来メンバー入りするかも知れないけど」
「でもこのまま百合華と付き合ったらいつかはバレるんじゃないかな。この前もまだこの時代では使われてない言葉を言っちゃって焦ったよ」
「何て言ったの?」
「『ジドリ』って分かるか?」
「あれでしょ?放し飼いみたいに育てられた、ちょっとお高くて美味しい鶏肉でしょ?」
「それ以外は?」
「他に有るの?」
「自分で自分の写真を撮ることだよ。鏡に映したり、俺達が居た時代じゃあ『自撮り棒』って道具が有るんだよ」
「棒?棒をどうするの?」
「スマホはだいぶ前に説明しただろ?そのスマホに付けてまるで誰かに撮られた感じで写真を撮るんだよ。少しでも離して撮ったら顔が小さく見えるだろ?」
「おぉー!なるほど。画期的だね。今から作れば儲かるんじゃない?」
「確かにそうかもね。タカミとも話したことがあるんだけど、年号は俺達の前世より20年前なんだけど、いろんな事がちぐはぐなんだ。俺達の居た時代の20年前はこんなに携帯電話は普及してなかった。世間の流行とかに疎かったから俺自身もあやふやだけど、言葉もたぶん違うんだ。まだ使われてない言葉か既に死語になっているのか分からないからむやみに使えないんだよ。真奈さんはもうこっちに来て長いから分かってるんだろうけど、俺と話してて違和感は無い?」
「有るわよ。私はワタルの話の前後から類推して何となく理解してるけど、他の人だとたぶん分からないでしょうね」
「言ってくれよ。例えばどんなのが有った?」
「そうね、私が大学時代の友達と飲みに行くって言った時、`女子会か´って言ったの覚えてる?そんな言葉を初めて聞いてなるほどって思ったわ」
「そうだったか。ま、そんな感じで思わず口をついて出ちゃったら困るからね。百合華や百合華の両親なんかとは積極的に話したくないんだよ。でも良くしてくれるから甘えたい。タカミは亘クンの両親で経験してるから細かく相談したいけどあっちも忙しくなってるからなかなかできないんだよ」
「でもタカミは1人で乗りきったんでしょ?だったらワタルにもできるはずよ。まずはテレビとか見て世間の事を知ることね」
「そうだな。ありがとう真奈さん。相談できて良かったよ」
「じゃあ相談料を頂くわ」
「俺から取るのか?」
「ワタルからは」
真奈さんは俺をベッドに押し倒した。
「カラダで払ってもらうわ。琴乃ちゃんからも相談されたから2人分ね」
思えば真奈さんとも久しぶりだ。しばらくタカミとだけだったのに、重なる時は重なるものだ。
「久しぶりに見るとやっぱり真奈さんの胸は大きいな」
「もう、忘れたの?こういう時は呼び捨てにして。そして`愛してる´って言ってちょうだい。琴乃ちゃんにも言ったんでしょ?」
真奈さんの唇にキスしてから耳元で囁いた。
「マナ、愛してるよ」
待ちに待った週末。今週は琴乃さん、真奈さんと立て続けだったがタカミとは特別だ。明日にはまたタカミはアッチとだからその嫉妬心もあってたっぷりと愛し合った。
「今夜はいつも以上にステキだったよ。愛してるよ、ワタル」
余韻に浸りながら俺の腕の中で満足げな顔をして甘えるようなキスをしてきた。
「タカミも可愛かったよ」
俺もキスを返す。タカミとの愛し合った後の裸で密着してる時間が何よりも幸せだ。もうすっかり寒くなったのでこのまま裸で眠るわけにはいかない。いくら暖房を効かせていると言っても風邪をひいてしまう。まだ体が熱いうちにスエットの上下を着て、また布団に潜り込んで抱き合う。
「なあタカミ、ホントに百合華と付き合ってもいいのか?」
「あの2人にも相談したんでしょ?何かまだ引っ掛かる事でも有ったりするの?」
「真奈さんに言われて`なるほど´って思ったよ。タカミ、俺と喋ってて前世の言い方とか出てるか?」
「確かにちょくちょく有るね。私もワタルとだったら気が緩んで無意識にそのまま話してるけど、何も知らない人とだったら気を付けてるよ。亘クンと亘クンの親と話して慣れたけどね。初めは苦労したよ。だからワタルが不安なのは分かるよ。でもずっと私達、知ってる人としか話さないわけにはいかないじゃない?」
「そりゃそうだけど、百合華を利用してるようで申し訳ないよ」
「百合華を好きになれない?」
「いや、たぶん好きだよ。あのコの親も含めてね。だから騙してるみたいで気が引けるよ」
「何事もやってみないと答えが出ないじゃない。私だって保と付き合うのはチャレンジよ。でもリスクを取ってでも自分の世界を広げなきゃ、でしょ?真奈さんや琴乃さんにとってはワタルがセカンドパートナー。私にとっては保がセカンドパートナー。ワタルにとって百合華はセカンドになるのかな?期間限定だからファーストにすれば?」
「いや、俺にとってはファーストはお前だよ」
「うふっ、ありがとう。でも百合華と居る時は私に遠慮しないであのコをちゃんと愛してあげてね」
何か魔法をかけられてる気分だ。マジックショーの舞台に上げられた観客が、マジシャンに言われるがまま手伝わされて不思議な現象を体験させられて、ワケもわからず他の観客から万雷の拍手を浴びる。周囲からの大きな波に流されて百合華と付き合うのが規定路線のようになってしまっている。天邪鬼としてはその流れに抗いたいところだが、男として、オスとして、魅力的な百合華と一緒の時間を過ごしたい気持ちが勝ってしまう。
ファーストフードでアルバイトしているタカミはかなりの戦力として期待されているらしい。タカミ本人は「そんなこと無いよ」と謙遜するが、上司にあたる琴乃さんが言うのだから間違いない。昼食時の混雑に対応する為に午前中から出勤だ。俺は百合華にランチをご馳走になる為にタカミと一緒に家を出た。駅に着くと反対のホームに立ち、お互いを見ながらメールで会話する。普通の恋人同士の、あまり他人には見せられないような恥ずかしい内容をやり取りしているが、俺は百合華の家に行き、タカミはバイトの後は別カレとお泊まりデートが待っている。この異常な状況もやがて日常になってしまうのかと思うと、何とも言えない複雑な心境になる。体は離れていても心が深く繋がっているんだと言い聞かせて、ほぼ同時に到着した電車に乗り、反対方向に出発した。
駅に着くと、百合華が迎えに来ていた。改札を出るのが待ちきれない、とでも言わんばかりに笑顔で駆け寄ってくる。グレーの首まで隠れるニットのセーターの上に淡いピンクの大きめのジャケットを羽織り、下はカーキ色の長いスカートを履いている。顔が綺麗だと何を着てもオシャレに見える。ゼロ距離まで近付いて何かを待っているように俺を見上げる。
「まさかここでハグしろって言うのか?」
「えへっ、ごめ~ん。亘しか見えてなかった」
わざとなのか、照れて頭を掻く仕草をした。あざといくらいに可愛い。
「タカミと一緒に出たからちょっと早かったかな?」
「ううん、大丈夫。ブラブラしながら材料の買い物しよ」
この前百合華を送って来た時はもう暗くなってたから、明るいうちにこの街に来るのは退院した後に何度か通院して以来だ。あの頃はまだ頭の中がバタバタしていたし、タカミの後を付いて歩くだけだったから街の風景を見る余裕が無かった。自然と腕を組んできた百合華と並んで歩くと、休日の街並みに溶け込んでいく気がした。
軽く駅の周辺を案内されて、お昼前の賑わい始めたスーパーに入った。俺にとって買い物は日常だが百合華は経験が乏しいようでどれがいいかいろいろ相談される。頼られるのは気分が良く、自尊心がくすぐられる。
「ねえねえ、私達ってカップルに見られてるのかな?それとも若い夫婦かな?」
嬉しそうに腕を引き寄せながら感情がこぼれたような笑顔ではしゃいでる。この感じ・・・そう、前世でタカミとこんな風に買い物して、同じような事をタカミは言っていた。あの頃は俺は若くなかったけど、あの初々しさは今思い出しても甘酸っぱい。あの時のタカミと今の百合華がダブって見えた。
「そうそう、言うの忘れてたけど今日パパはイレギュラーに仕事になって居ないの。だからママと3人よ」
それは少々残念でもあるがちょっとときめく気持ちもある。百合華が心惹かれる吉富氏と俺との共通点をもう少し知っておきたかったのと、先週はあまり話せなかった小百合さんと話せる事だ。
「おかえり百合華、亘君いらっしゃい」
「ただいま、ママ」
「お邪魔します」
笑顔で迎え入れてくれた小百合さんにときめいてしまう。歳は恐らく40過ぎだと思うが、全然若く見える。見た目大人っぽい百合華と姉妹と言っても通用するんじゃないか?
「すぐに作るからリビングでママとお話してて」
「ゆっくりでいいわよ、あなた以外とおっちょこちょいなんだから。亘君とゆっくり話したいしね。先にお茶だけ入れるわね」
リビングの先週吉富氏と話した場所に座って待っていた。外の光がたっぷりと注ぐリビングは充分リラックスできる空間だ。小百合さんはお茶をテーブルに置き、ダイニングとの間の引き戸を閉めて俺の正面に座った。2人きりになると俄に緊張してきた。先週の吉富氏と相対した時とはまた違った緊張感だ。
「い、いただきます」
緊張してるのを誤魔化すように一口お茶を啜った。
「ふ~ん、なるほどね」
まだ何もいってないのに小百合さんはニヤニヤしながら俺の顔を見て一人で納得したような事を言った。
「百合華が惚れるのが分かる気がするな。見た目はまだまだ若いのにどことなく雰囲気が有るのよねぇ、亘君って。私がもう少し若かったら溺れちゃったかもね」
まったく予想外の発言だ。先週見た感じでは吉富氏と羨ましいくらい仲が良くて、2人とも他の人には目もくれないように見えていた。
「卒業式の日のモテ伝説は聞いたよ。それも分かるなぁ。高校生の女子なら憧れるよね。意外と年上からもモテるんじゃない?カノジョの他に年上の愛人が2~3人居そうね」
「い、いえいえ、そんなことは・・」
狼狽えるのを必死で隠した。小百合さんにときめいた事を少し後悔した。女の勘ってヤツか?
「はははっ、そんなわけ無いわよね。百合華に聞いた話だと貴美ちゃん、だっけ?そのカノジョに一途なんでしょ?でも若いうちにいろいろ経験するのもいいものよ」
この時間軸にはそういう、言わば乱れた関係に寛容な人が多い気がする。
「うちの人、2人の時は昌クンって呼んでるんだけど、昌クンは二回浮気したのよ。こんなベッピンさんの私と言う妻が居るのによ?失礼だと思わない?」
何だか酔っ払いの愚痴みたいになってきた。
「確かにそうですよね。あの、え~っと、何て呼べばいいですか?」
「ん?私の事?そうね、さすがに『おかあさん』とは呼べないわよね。『奥さん』も変だし、もし良かったら『小百合さん』って呼んでくれないかな?ね、呼んでみて」
「えっ?ああ、じゃあ、さ、小百合さん」
「ん~ん、グーッド!テンション上がってきちゃった。もう一回言って!今度は目を見て言って」
リクエストに応えて小百合さんの目を見つめた。
「小百合さん」
「ヤバーイ!マジで惚れちゃいそう」
本当に朝から呑んでるんじゃないだろうか?少々呆れるが満面の笑顔ではしゃぐ小百合さんが可愛くて萌える。見た目の印象とは全然違って、明るくて可愛らしくて、前世の四十過ぎのワタルの部分がざわつく。
「あのう、失礼ですけどおいくつなんですか?」
「えー、せっかく気持ちが若返ったのに現実に戻すの?まあいいか、小百合さんは42才ですよ」
あっちであのまま生きていれば同い年か。どおりで違和感無くときめいていたのか。
「さっき、旦那さんが浮気したって言ってましたけど、どうしてバレたんですか?」
「もう浮気を画策してるの?イケナイ人ね」
「いや、そんなんじゃなくて・・・」
「いくら隠そうとしても無駄よ。女の勘って侮れないわよ。どんなに普段通りにしててもちょっとした仕草とか目線の送り方とか微かな汗の匂いとかでも分かるのよ。愛していれば絶対よ」
少し真顔になって小百合さんは身を乗り出した。
「1回目はあのコがまだお腹に居る時だったわ。まあそれは我慢しなきゃいけない時期だったから1万歩譲って和解してあげた。2回目はあのコが4才の頃だったかな、あのコを寝かし付けてから問い詰めたの。まだアパート住まいだったから大きな声は出さないように昌クンを責めてたらあのコが起きてきたのね。腕を組んで仁王立ちの私と土下座する昌クンを見て、バッと昌クンの前に立ちはだかって両手を広げて`パパをいじめちゃダメ!´って涙目で言うのよ。その格好がたまらなく可愛くてね。娘に免じていろいろ条件を付けて許してあげたわ」
「条件って・・」
「あのコに聞かせられないからもう一度ちゃんと寝かせてから言ってやったの。もう二度としない事はもちろんだけど、ちゃんと私を愛する事と、私の浮気を2回は許す事よ」
確かに幼い娘には聞かせられない事かもしれないが、土下座される剣幕からしたら随分甘い裁定のような気がする。
「もし次に浮気したら別れる、とかですか?」
「そんな事は一度も考えた事無いわね。だって愛してるから。もう一回したらもっと愛してもらって、更に私の浮気が1回増えるのよ」
「じゃあ小百合さんも浮気を・・・」
「したこと無いわよ、一度もね。だから亘君が1回目。ねえ、ちょっとだけキスしてくれない?」
たぶん冗談だろうけどテーブルに手を付いて中腰になり、目を閉じて唇を突き出してゆっくり迫ってくる。
「出来たよー」
百合華が引き戸を開けた。せめてノックの一つでもしてくれれば態勢を立て直せたのに、この状況はいろいろマズい。
「ハァ、やると思った。冷めないうちに食べよ」
烈火のごとく怒るのではと思っていたが、百合華にしてみれば想定内の出来事だったみたいだ。
「ビックリした?冗談よ、冗談。1割くらいはね」
そう言って小百合さんは俺にウィンクしてダイニングに行った。百合華に見られなければあのままキスしていただろうか?
モヤモヤした気分のままテーブルに付いた。既に俺の指定席になっているかのように先週と同じ椅子に座った。当たり前のように百合華が隣に座る。ご飯と味噌汁とオムレツと野菜炒め。昼食のメニューとしては申し分ない。
「いただきます」
先週と同じく百合華と小百合さんは俺の感想待ちだ。ご飯は後にして百合華が作った物を一口ずつ食べた。少し味が薄い気がしたが、俺の勝手な先入観よりは数段美味しく出来ている。
「うん、美味しいよ」
「良かった」
ほんの少しのお世辞も含めて感想を言うと百合華は笑顔で可愛く手を叩く。
「どれどれ」
小百合さんも一口ずつ食べた。
「65点だね」
身内だとしても厳しい採点だ。
「えーっ?亘は美味しいって言ってくれたよー」
「私達だけなら100点だけどね。あなた、パパに合わせた味付けにしたでしょ?血圧高めだから薄味にね。若い亘君に食べさせるんならもっとしっかりした味にしないと。いい?男の心を掴むなら胃袋を掴まなきゃ。敵は料理が上手な貴美ちゃんでしょ?こんなんじゃ勝てないわよ」
タカミが敵にされているのは心外だが料理で男を攻略するのは昔から言われている事だ。
「亘君は前から料理やってたの?」
「いえ、タカミが家に来て僕の母親から教わって、そのタカミから教えてもらいながらなんとかやってます」
本当は前世での一人暮らしの経験を元にやっているが、もちろんそんな事は言えない。タカミも亘クンの母親に教わってるときは初心者のように演技してたらしいけど、前世では母親と二人暮らしで経験は豊富だ。俺の家に来た時は二人で料理してたし。
「亘はね、お掃除もちゃんとしてるの。洗濯物も綺麗に畳んでしまってあるし」
「じゃあ百合華はもっと頑張らなきゃね。私も一度遊びに行っていい?亘君がどんなベッドで寝てるか見てみたいわ」
「ママ!亘を誘惑しないで。私が先なんだから」
親子で順番を決めてもらっても困る。
「フフッ、じゃあ私に先を越されないように頑張んなさい」
こんな会話にターゲットにされている俺は入れない。この家庭は何もかもがオープン過ぎる。百合華は両親の営みの事を知っているし、親も隠そうとする気が無いみたいだし、まあ一人娘に対する一種の性教育のつもりなのだろう。俺に対して一割の冗談も含めた誘いをかける小百合さんは『肉食系』という言葉がピッタリ当てはまる。それでも浮気したことがないという自己申告を信用するなら、小百合さんなりに娘のファザコンからの脱却を後押しする為に煽っているのだろう。四十過ぎには見えない顔と体つきの小百合さんに誘われたら、男なら誰でも飛び付くだろう。俺も2人きりの時にさっきみたいに迫られたら誘惑に負けてしまうかもしれない。
その後、なんとか俺も参加できる話題で盛り上がり、楽しい昼食が終わった。
「さあさあ、後片付けはやっとくから2人でデザートでも食べに行ってらっしゃい」
「そう?じゃあお願いするね。亘、行こっか?」
「あ、ああ、どうもご馳走さまでした」
「百合華が作ったんだから百合華に言ってあげて。百合華、デザート食べたら亘君に料理でも教えてもらいなさい。ついでに泊めてもらいなさい。もし帰ってくるんだったらメールでもしてよ。連絡無しに帰ってきたら晩ご飯無いからね」
付き合ってもいない男の家に外泊を勧める親は居ないだろう。百合華もそんな気は無い・・と思いたい。
「どこか喫茶店でも行く?」
玄関を出て当たり前のように腕を絡めながら百合華は訊いた。
「そうだな、せっかくだから病院の方に行こうか」
「病院?ああ、亘が入院してた病院ね」
確かあの病院の近くにちょっと広い綺麗な公園が有ったはずだ。小春日和の土曜日、缶コーヒーでも飲みながらベンチに座ってるのもいいだろう。若者らしくないが百合華と落ち着いて話がしたかった。
大人の男なら女性の座る所にハンカチでも敷いてあげるのがマナーなのだろうけど生憎今日は持ち合わせていない。ベンチに座ると正面やや左に大手川総合病院が見える。俺が居た病室からこの公園は見えていたが、ここからはどの窓だったかは分からない。
「私ね、ちょっと後悔してたの」
「何を?」
「お見舞いに行っとけば良かったかなってね。意識は戻ってないけど奇跡的に命に関わるような怪我はしていないのは聞いてたから夏休みに入ったら行こうって思ってたの。様子を見てきてって頼まれてたしね」
「頼まれてた?誰に?」
「亘に秘かに思いを寄せていた2人にね。貴美から聞いてたでしょ?直接行って貴美と一緒になったら気不味いから同級生の男子にまったく興味が無い私が託されたのよ」
「でもお前が来ても、仮に目が覚めた時にお前だけが側に居てもどうにもなっていなかったって前に話しただろ?」
「そうよ、だからよ。早くに亘を見てたら好きにならなかったかもしれない。好きにならなかったらこんなに辛くて苦しくて切ない気持ちにならなかった。初めてパパ以外の男の人を好きになって、それ人にはちゃんとカノジョが居るなんて、どうしていいか分からなくなっちゃった」
百合華は俺の腕を抱き締めた。
「でもね、今はこうしてくっついてられる。貴美とも親友になれた。だから亘を好きになって良かった」
「百合華、今日はお前に言いたい事が有るんだ」
「ちょっと、なに?」
俺の肩にもたれかけていた顔を上げて不安いっぱいの表情で俺を見た。
「俺は百合華が好きだよ」
「えっ!あ、その、えっ?」
「但し2番目だ。1番はタカミだ。それはずっと変わらない」
「あ、うん、それは分かってるよ」
「今回お前の事で俺の周りの人達に相談したんだ。とは言っても例のメンバーだけどね。タカミも含めてみんなお前の味方だよ。それどころかお前の親までもがお前が俺とタカミの事情を知った上で後押ししてる。俺は天邪鬼だから、みんなの意見に乗っかるのは面白くない。だから俺の意思だ」
百合華は息を飲んで話を聞いている。
「タカミとはもちろん頻繁に会うし、あの2人は誘われればする事はする。そんな俺と、お前が大学を卒業するまでの間、恋人として付き合ってくれないか?」
見る間に百合華の目から涙が溢れた。
「ホ・・ホントに?」
「ああ、お前だけの俺じゃなくていいのなら」
もう声は出せないようで何度も大きく頷いた。百合華の体を抱き締めてキスしてあげたいところだが公衆の面前だ。肩を抱いて指で何度も頬をぬぐってあげた。まさか泣くとは思ってなかったからハンカチは持って来なかった。
何分か経ってようやく泣き止んだ百合華は幸せそうな顔で俺を見ている。俺も微笑み返しているが、心の中では自己嫌悪していた。俺はズルい。2番手のポジションだと言い、初めから浮気する事を宣言し、しかも期間限定という普通なら絶対に受け入れられない条件を提示しても、それでも百合華は受け入れるという確信をもって交際を申し込んだ。百合華の気持ちに突け込んで都合良く振り回そうとしているようなものだ。しかも天邪鬼と言いながら百合華の両親を含めた人達に後押しされたと言い訳している。こんなんじゃタカミやタカミの別カレの事をとやかく言う資格はない。
百合華を家まで送り届けた。もちろん小百合さんに連絡させてから。
「亘ん家に泊めてくれないの?」
「ああ、今日のところはこれまでにしよう」
こんな自分にイラついてる心境で泊める訳にはいかない。タカミも居ないし一人になりたかった。もう暗くなりかけて、周りに人が居ないことを確認してから軽くキスして駅に向かおうとした。
「あの・・付き合うってどうすればいいの?」
改めて訊かれると返事に困る。
「そうだな、今まで以上に連絡取り合って、会うときには堂々とすればいいんだよ」
「次はいつ会えるの?」
「いつでもって言いたいところだけど来週は忙しくなるみたいだから、また週末にでも会おうか?どうするかはメールで話し合おう」
「分かった。じゃあね」
「おやすみ」
「あっ、亘。あの・・ね、あ、あい・・・やっぱいいや、おやすみ!」
スキップをするように家の中に入っていった。もうパパさんも帰っているだろう。今日の事をどんな風に報告するのだろうか?